フィリピの信徒への手紙3章 後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばし
ゆっくり読むことの大切さ
パウロの手紙の文章は心に響きます。一見わかりやすいですが、深く考えてみると初読の時には気が付かなかった重要なことがいろいろ見えてくる文章でもあります。これはパウロの手紙の一般的な特徴であるとも言えます。
信仰の真実に関わるこのパウロの手紙の特徴はこの「フィリピの信徒への手紙」にも見られます。3章7節にある「益」と「損」という表現がその一例です。
神様なる聖霊様が私たちの中で御業を実現してくださるために、私たちはゆっくり時間をかけて聖書を読むべきです。その一つのやり方として、キリスト信仰者の中には常に御言葉に思いを巡らせるために聖句の暗記を心がけている人たちもいます。
「フィリピの信徒への手紙」3章1〜11節 行いによる義と信仰による義
この箇所を理解するためには「ガラテアの信徒への手紙」と「コリントの信徒への手紙」(第一と第二)の内容をよく知っていることが望ましいでしょう。ここで扱われているのは以前パウロがガラテアやコリントで遭遇したのと同じような問題であり、同じタイプの敵対者であるとほぼ断言できるからです。特に「ガラテアの信徒への手紙」でパウロはユダヤ主義者たちに対して大規模な反論を展開しています。ユダヤ主義者は人間が信仰によって神様に義とされることを認めようとせず、人間が律法(特に割礼)を実行することで自分の信仰を完全なものにしようとしました。
信仰による義と行いによる義をめぐる問題はパウロの時代だけのものではないことをここで強調しておきたいと思います。「律法に縛られない自由な福音」と「人間の行いによる自己正当化」との間の緊迫した戦いは教会の歴史を通じて絶え間なく続いてきたのです。私たちの生きている現代もこの点で例外ではありません。
「最後に、わたしの兄弟たちよ。主にあって喜びなさい。さきに書いたのと同じことをここで繰り返すが、それは、わたしには煩らわしいことではなく、あなたがたには安全なことになる。」
(「フィリピの信徒への手紙」3章1節、口語訳)
前述した問題が表面化したのは何もフィリピが最初ではなかったことが上節からわかります。「行いによる義」に対する戦いは私たちがこの世から栄光に満ちた永遠の世界に移る時が来るまで決して止むことがありません。このことを私たちは覚えておくべきでしょう。人は信仰によって義とされます。私たちが「信仰による義」を会得できるようになるのはひとえに神様からの大いなる賜物なのです。それに対して魂の敵(悪魔)は「信仰による義」を私たちから奪い去ろうと絶えずつけ狙っています。そしてガラテアやフィリピで起きたこの戦いは私たちの信仰生活でも起きているのです。
「あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい。」
(「フィリピの信徒への手紙」3章2節、口語訳)
この節にはパウロの敵対者たちの言葉遣いが反映しているものと思われます。ユダヤ人は異邦人(非ユダヤ人のこと)を「犬ども」と呼んでいました。犬はユダヤ人にとって宗教的な意味で汚れた動物でした。異邦人との関連で出てくる「犬」という言葉は「汚れている」という意味で用いられていることがよくあります。おそらくパウロの敵対者たちは無割礼のキリスト信仰者を異邦人すなわち汚れた者とみなしていたのでしょう(「使徒言行録」15章1〜2節、「ガラテアの信徒への手紙」1章6〜7節も参照してください)。
パウロは自らに向けられた非難をそのまま投げ返しました。パウロの批判者たちは割礼という行いを人間が救われる前提条件として要求することで神様の救いの御計画を無意味なものにしようとしたからです。パウロは彼らを「肉に割礼の傷をつけている人たち」と呼んでいます。これと関連して「ガラテアの信徒への手紙」5章12節では「あなたがたの煽動者どもは、自ら不具になるがよかろう。」とさえ言い放っています。律法によれば不具な者はユダヤ人の会堂の一員とはなれません(「レビ記」21章20節)。パウロはユダヤ主義者たちを神様の教会に属していない者とみなし、彼らは自ら不具になるのがお似合いだと強烈な皮肉を言ったのです。
「もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。」
(「フィリピの信徒への手紙」3章4節、口語訳)
この節の「肉」という言葉でパウロは何を意味しているのでしょうか。それを簡潔に説明するのは容易ではありません。ガイドブックの冒頭でも触れましたが、これは「信仰の奥義」のうちの一つであるとも言えます。強引に説明を試みようとするとこの言葉のもつ本来の意味内容が希薄になり、その一部が隠されてしまうことになるからです。
とはいえ「肉とは人間がもつ最も醜悪な面と最も素晴らしい面の両方全てのことである」と説明するならば、これはかなり的を得ているのではないかとも思われます。「肉」には私たちのもつ暗い側面すなわち罪深い自己ばかりではなく、私たちの美点としてこの世では称賛されるような側面もすべて含まれています。この点を踏まえておくのは大切です。まさにこの人間的な美点こそが神様の御意思の実現を妨げる最大の要因になることが現実ではしばしば起きているからです。幾多の宗教はその典型的な例であるとも言えます。宗教では人間が自分のもつ最善のものを神様に捧げようとする傾向が一般的に見られるからです。フィリピで起きた問題もちょうどこのことに関わるものでした。それは神様からの賜物だけでは満足できずそれを自らの善行によって補充しなければ気が済まないという人間存在に根ざした特質をめぐる問題です。
「肉」についてのもう一つの説明は「私たちのうちでキリストの御業に基づかないすべてのものは肉である」というものです。
このようにみてくると「肉」とは私たち人間の罪の性質あるいは存在そのもののみならず、それよりも広い意味を持った概念であることがわかります。この意味での「肉」には出自、受けた教育、考え方なども含まれています(3章5〜6節)。
「神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。」
(「フィリピの信徒への手紙」3章3節、口語訳)
肉の割礼はたんなる外面的な目印にすぎず、神様の御意思を尊重してキリストに従うこと、人間が神様との関係を内面的に深めることこそが大切であるとパウロはこの節で述べています。これらの例としては旧約聖書の預言者エレミヤ(「エレミヤ書」4章4節、31章31〜34節)や新約聖書のパウロ(「ローマの信徒への手紙」2章29節)を挙げることができます。
「わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。」
(「フィリピの信徒への手紙」3章5〜6節、口語訳)
上の箇所でパウロは自分自身について「ヘブル人の中のヘブル人」という言い方をしています。自分は各地方に離散したユダヤ人(いわゆるディアスポラのユダヤ人)とはちがって約束の地のユダヤ人であるとパウロは言いたいのです。「約束の地」とは旧約聖書で神様がイスラエルの民に与えると約束なさった土地のことです(「創世記」15章18〜21節)。パウロは本来の約束の地の外側にあるキリキヤのタルソで生れたユダヤ人(「使徒言行録」22章3節)でしたが、伝承によれば彼の両親はユダヤのギスカラ出身だったとされています。また、パウロの上記の発言は彼がヘブライ語(実際にはアラム語)を話せたことを意味していると解釈することもできます。この点でも彼は旧約聖書をギリシア語で読まざるをえなかった大多数のディアスポラのユダヤ人たちとは異なっていました。
ベニヤミン族は特別の敬意を受けていました。この部族の始祖にあたるベニヤミンはヤコブの12人の息子たちのうちでただ一人約束の地で生まれたからです。イスラエルの初代の王サウルはベニヤミン族出身でした。そしてイスラエルがソロモン王の死後、政治的混乱の中で正統な王権を継承したユダ族に忠実を貫いたのもベニヤミン族だけでした。
上掲の節でパウロは「律法の義については落ち度のない者」と自負しています。これは誇張だったのでしょうか。パリサイ派は「人間は律法を完全に実行することができる」と考えていました(「マルコによる福音書」10章20節)。そして人間が堕落して罪に染まった生き方をするのはその人自身の落ち度である以上、そのような罪人たちとは関わりを持たないようにするために距離を置こうとしたのです。「パリサイ人」には「自らを隔離する者」という意味があります。かつてパリサイ派であった頃の自分についてパウロは「律法の義については落ち度のない者」という「資格証明書」がもらえるくらい徹底していたという自負がありました。ところがこの「証明書」は人間から見れば目覚ましい成果ですが、神様から見ればごく些細なものにすぎなかったのです。
人は自分の救いについて確信をもつことができるのか?
「なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。」
(「フィリピの信徒への手紙」3章11節、口語訳)
この節でのパウロの発言は聖書の研究者たちを大いに悩ませてきました。パウロは自分が救われることに確信をもっていなかったということなのでしょうか。
この問題に対する答え方は二つあります。
まず、この発言は復活が「死人のうちからの」ものであることを強調しているという解釈です。それによるとパウロは自分が死ぬ前にキリストがこの世に戻って来られると考えていたことになります。自分がこの世で生きている間にキリストの再臨の時が来るのを待ち望むことは本心からキリストを救い主として信仰している人々のもつ顕著な特徴です。逆に、人間はキリスト再臨を待望しなくなるとキリストへの信仰も失ってしまうものなのです。
次に、パウロは誇り高ぶるのではなくへりくだろうとしたというのがもう一つの解釈の出発点になります。救いは神様の御手に完全に委ねられているものであるため、私たちは自分あるいは他の誰かの救いについて何も決めることができないということです。
宗教改革者マルティン・ルターはこれと少し似た考え方に基づき、天国において人間は次のような三つの驚くべきケースに遭遇することになるだろうと述べました。
1)私たちが天国での再会を全く期待していなかった人々が天国にたくさん来ていたという驚き
2)天国に確実に入れるであろうと私たちが予想していた多くの人々が天国にはいなかったという驚き
3)自分自身が天国にいるという最大の驚き
救いは奇跡であり神様からの賜物です。これは最後の時まで変わることがありません。私たちは「自分が救われるのは当前である」と考えるべきではありません。
ということは、人は救いの確信をもってはいけないことになるのでしょうか。そうではありません。人が救いの確信を持つことは可能なのです。パウロ自身「ローマの信徒への手紙」8章で「今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」(1節)と言っています。そして「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。」(35節)と問い、どのようなものも「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(39節)と結論しています。
聖書の明瞭で確実な教えによれば「キリストのもの」となっている人々は確実に救われます。そして彼らが救われるのは、彼らが自らの行いの報酬として救いを受け取るということではなく、まったくの恵みによるものです。私たちは自らの行いにではなく神様のくださった約束に依り頼みます。いかなるものも神様の約束を実現しないように妨げることはできません。このことは次の箇所の「益と損」という考え方にも関係しています。
「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。」
(「フィリピの信徒への手紙」3章7〜9節、口語訳)
キリストは私たちの人生において最高の価値を持つ最大の益です。残念ながらその一方では、パウロの歩んだ「行いによる救いから信仰による救いへ」という道を逆戻りしてしまい、キリストを捨て、救いの根拠を自らの行いに結びつけて考えるようになる危険も依然として残っています。そうなると私たちからは天国が奪い去られてしまいます。より正確に言えば、私たちのほうから天国を拒絶してしまうことになるのです。
パウロがキリスト教徒たちを迫害するためにダマスコへの道を進んでいた時に、キリストはパウロの生き方のそれまでの価値基準をすっかり変えてくださいました。ところでキリストによって私たちの生き方の価値基準も変わりましたか。キリストは私たちにとっても「すべて」となっているのでしょうか。
「フィリピの信徒への手紙」3章12〜16節 目的地に着いた時にようやく競争は終わる
パウロは他の手紙でもキリスト信仰者としての歩みを競争にたとえています。
「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」9章24〜27節、口語訳)。
アメリカの自動車レースには "To finish first, you have first to finish!" という英語の諺があるそうです。キリスト信仰者の間の競争においてもこれと同じ原則があてはまります。ゴールするまで競争を続ける者だけが「神の賞与」(3章14節)を受けることができるのです。
「一度新たに生まれて救われた者は命の書にその名が記され、その後は何をしようと何が起きようとその名が命の書から消されることはない」という誤った教えがキリスト教の歴史の中ではしばしば主張されてきました。
それに対してパウロはキリスト信仰者としてふさわしい聖なる生き方をすること、すなわち「聖化」の重要性を認めていました(3章18節を参照してください)。「どのように競い合うのか」ということは瑣末な問題ではありません。通常の競走では競技者たちが全力で走り抜くことが要求されます。たんなる趣味で走る者が真剣な競争で勝つことはできません。キリスト信仰者として歩む時にもそれと同じことが言えます。全力で取り組み、無駄なものを捨て去り、目標に集中することが要求されるのです。
「兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」
(「フィリピの信徒への手紙」3章13〜14節、口語訳)
キリスト教を信じるようになる以前に他の宗教を信奉する異邦人であったフィリピの信徒たちにとって、上節の教えは特に重要であったと思われます。過去の嫌な思い出を嘆いてばかりいると、せっかく神様がすでに用意してくださった素晴らしい現在や未来に対してきちんと向き合うことができなくなってしまいます。
「だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。」
(「フィリピの信徒への手紙」3章15節、口語訳)
人間がキリスト信仰者として成長していくために大切なのはその人が通う教会に余裕やゆとりがあることであると上節は私たちに教えています。すべての教会員が等しくキリスト信仰者として鍛錬された「全き人たち」であるとはかぎらないからです。
ここで「教義における誤謬は悪魔的なものだが、人生における錯誤は人間的なものである」というマルティン・ルターの教えを付け加えておくことにします。これは「間違った教義はそれを主張しているのがたとえ未熟なキリスト信仰者であったとしても決して容認するべきではない。その一方で、正しくキリストを信仰している者も人間的には人生の終わりまで不完全なままである」という意味です。
ところで、パウロは15節では「わたしたちの中で全き人たち」と言っているのに12〜13節では人が完全な者になることは不可能であると言っていますが、これは矛盾しているのではないでしょうか。
実はこれらの箇所でパウロは同じ言葉を二つの異なる意味で用いているのです。15節はキリストのうちにある存在としてのキリスト信仰者について述べています。キリストが救いのために必要なすべてを私たちに与えてくださったおかげでもはや何も足りないものがないという意味で私たちはすでに「完全」になっています。それに対して、12〜13節はキリスト信仰者の人生の歩みにおける人間的な不完全さについて述べているのです。
キリスト教信仰は同時に「今すでに」でもあり「今はまだ」でもあるものとして特徴づけることができます。キリストにおいて私たちは救いに必要なものすべてを「今すでに」いただいています。しかし私たちは天国への旅を「今はまだ」続けている途中であり、天国に入った後でようやくすべてのものを完全なかたちで所有することができるようになります。しかしこの世での人生の歩みにおいて私たちは終わりまで不完全なままなのです。
聖書は真理そのものについてだけではなく私たちが神様の啓示なさった真理にどのような態度を取るべきかについても語っています。このことを3章12〜16節は私たちに思い起こさせようとしています。
「フィリピの信徒への手紙」3章17〜21節 天国の御民としてこの世にいるということ
「兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。」
(「フィリピの信徒への手紙」3章17節、口語訳)
フィリピの信徒たちは誰に従っていくべきであるとパウロは願っているのでしょうか。従うべきお方は当然ながらパウロではなくキリストです。パウロはキリストに従う人々のうちの一人にすぎません(「コリントの信徒への第一の手紙」11章1節、「エフェソの信徒への手紙」5章25節も参考になります)。
仮にすべての人が私と同じように行動する場合、この世界はいったいどうなってしまうのでしょうか。はたしてそれは今よりも少しはましな世界になるのでしょうか、それともさらに邪悪な世界になってしまうのでしょうか。パウロと同じように「わたしにならう者となってほしい」(3章17節)と言い切ることが私たちにもできますか。
「わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。」
(「フィリピの信徒への手紙」3章18節、口語訳)
パウロは偽教師たちを容認しませんでした。そればかりか彼らに気をつけるようキリスト信仰者たちに警告しました。それでもパウロは偽教師たちに対して個人的に敵意を持ったり無視する態度を取ったりはしませんでした。むしろパウロは彼らの霊的に惨めな状態を深く悲しんだのです。「キリストの十字架に敵対して歩いている者」、永遠の滅びへの道を歩んでいる人々の不信仰な状態のことを、はたして現代のキリスト信仰者は真剣に心配しているでしょうか。海外で展開される伝道活動は外国がこの世的に発展するための社会事業に成り下がってはいないでしょうか。それとも福音宣教は今も昔と同様に、信仰のない人々がキリストへの信仰へと導かれ救われるようにすることを最終的な目標に据えているのでしょうか。
「誰に従うべきではないか」について知っていることは「誰に従うべきであるか」を見つけやすくします。キリスト教信仰を宣べ伝えるときには正しい道について教えるだけではなく間違った道について警告する必要もあります。
「彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。」
(「フィリピの信徒への手紙」3章19節、口語訳)
「腹」が自分の神になっている状態については次の二つの解釈を提示することができます。
1)この箇所はユダヤ人が食べてよいものとよくないものに関する食物規定に言及している。(ユダヤ教とイスラム教は今日でも食物に関する詳細な規定を設けている宗教です。それとは異なり、パウロは「コリントの信徒への第一の手紙」8章8節で「食物は、わたしたちを神に導くものではない。食べなくても損はないし、食べても益にはならない。」と述べています。)
2)この箇所は人間にとっての当時最も高次な目標とみなされていたある種の肉的な諸欲求に言及している。
「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。」
(「フィリピの信徒への手紙」3章20節、口語訳)
上節の「国籍」にはローマ帝国の植民都市について用いられたのと同じギリシア語(「ポリテウマ」)が用いられています。ローマ帝国の植民都市のひとつであったフィリピは「ギリシアにおけるローマのかけら」とでも呼べるような都市でした。それになぞらえていえば、キリスト信仰者は「この世における天国のかけら」であると言ってもよいかもしれません。