コリントの信徒への第一の手紙7章 クリスチャンの結婚
これから扱うコリントの信徒への第一の手紙の7章は、クリスチャンの結婚に関して、新約聖書の中でも最も大切な箇所です。特に夫婦は少なくとも年に一度は二人でこの箇所を読んで、話し合うべきでしょう。
パウロは経験豊かなカウンセラーとして教会にアドヴァイスを与えています。ここでの彼の態度は、攻撃的でも厳格でもなく、穏やかです。
パウロは結婚していたのでしょうか?
新約聖書の中心的な登場人物の人生について、私たちはあまりにも知らなすぎる、ということはこの章に関してもあてはまります。パウロが結婚していたのかどうか、知ることができればどんなに興味深かったことでしょうか。この7章でパウロ自身、「さして困難もなく結婚相手のいない生活を送ることができている」、と語っています。過去について彼は何も触れていません。ラビたちの間では、結婚は神様のお定めになったこととして教えられていました。「増えよ、地に満ちよ」という御言葉は、「神様のもの」である人々全員を拘束する戒めでした。それゆえ、ラビたちは戒めにしたがい、結婚するのを義務とみなしていました。おそらく使徒パウロもこの命令にしたがったことでしょう。後に妻が死んで、彼はやもめとなったのかもしれません。これについては何も確実なことが言えません。
結婚は神様の御心でしょうか? 7章1~7節
再びパウロは、コリントの信徒たちが前に手紙で彼に書き送っていたと思われる質問の内容に触れています。「結婚しないのが一番よい」と理解する人たちがいました。パウロの目には、これから起こるクリスチャンに対する迫害が見えていました(7章26節)。彼は「結婚していないこと」を価値のあるよいこととみなしています。そして、自分が結婚していないことを「神様が彼に許してくださった恵みの賜物」ととらえています。これはしかし、一般にも当てはまる規則ではありません。普通の場合はどうであるか、パウロは疑問の残らない仕方で説明しています。すなわち、人は皆それぞれ配偶者をもつべきなのです。こうすることで、いわゆる「放埓な性的関係への誘惑」が減ります。
短く、的確で、美しい文章を綴りながらパウロは話を続けます。この箇所は、クリスチャンの結婚倫理に関する大切な根拠のひとつとなっています。配偶者には互いに相手の性的な欲求をみたしあう義務があります。古典時代には理解しがたい瞠目すべきことは、パウロが夫と妻を平等な立場に置いていることです。妻の身体は彼女自身のものではなく、彼女の夫のものです。同様に、夫の身体も彼自身のものではなく、彼の妻のものです。これは、神様が創造された男と女がひとつの肉、ひとつの生き物になることの論理的な帰結でもあります。
パウロは片方の結婚相手が自分ひとりで勝手に決めて修道僧や修道女になる誓いを立てることを否定しています。そのようなことをしても、かえって自制を欠いた放縦な生活に流されてしまうだけです。もっとも、一定の期間を定めて双方が祈りに集中できるようにすることは、べつにかまいません。しかしその場合にも、二人がそろって一緒に決めるべきです。しかもこのような約束事は、パウロが「これくらいなら認めてもよいだろう」と考えているということなのであって、「こうしなければならない」という命令ではないのです。(大人の人間の)正常な状態は、結婚とそこで営まれる性生活です。
結婚するべきでしょうか? 7章8~9節
パウロは「未婚者と寡婦のこと」に話を戻します。彼が「結婚しないこと」に与えている高い評価が、ここで再び繰り返されます。今回は新約聖書の他の箇所も挙げられています。「結婚しないということ」は、神様の賜物や、神様が与えてくださっている使命でもありえます。ですから、あらゆる手段を尽くしてでも、この状態から解放されるべきだ、というわけではありません。それは「二流の生き方」などではまったくなく、深い敬意と高い評価に値することなのです。このように言うときにパウロはまた、「誰の上にも余計な重荷を背負わせないように」、とも警告しています。ある人にとって未婚が耐えられないほどの重荷である場合には、神様はその人が結婚するのを妨げたりはしません。
現代では、一人暮らしをしている人たちの性生活について、以前よりもオープンに話し合われるようになりました。そしてこれは、今が性に関することを強調しすぎる時代であり、性交を自制する意味をまったく理解しない時代だからでもあります。世界の歴史の中で現代ほど、セックスが話題の中心になっている社会は今までなかったことでしょう。そうなっている理由は、金と人間的な欲望との汚らわしい「同棲関係」にあります。広告は性的に人を篭絡する表現によって何でもかんでも売り物にしています。
とりわけ若い人たちにとって、これは大きな誘惑です。「人がどれだけ性的な冒険を経験したか、しなかったか」、がその人の価値を決めてしまうような風潮さえあります。このような時流に、私たちは一歩たりとも追従してはなりません。人間の価値は、その人の性や、性交する能力や、性的な魅力にあるのではありません。その基底にあるのは、神様の創造のみわざだけです。そのみわざのゆえに、人は皆それぞれ、かけがえのない、いとおしまれるべき存在なのです。
「自由な性交」は誰のことも「自由」にはしないし、当事者の良心を強め励ますどころか、かえって逆の結果を招きます。神様の御言葉の教えは明瞭です。すなわち、「もしも一人で生きていくのが辛くなったならば、結婚しなければならない」、ということです。ルターによれば、よい結婚相手は主からいただくものなので、早くからこのことのために祈るべきなのです。
短い律法 7章10~11節
離婚について語るとき、パウロは自分自身の意見をあれこれ考えようとはしません。そのことについては、解釈の余地のない「主の御言葉」があり、それを彼はコリントの信徒たちに伝えています。配偶者を捨ててはいけません。しかし、もしもそうなってしまった場合には、ドアを開けたままにしておかなければなりません。これは、「死が夫婦を離れ離れにするまでは、新たに結婚してはいけない」、という意味です。この箇所を理解するために必要なのは、内容を理解する力だけです。離婚についての教えがイエス様の御言葉に基づいているのは、あきらかです(たとえば、「マルコによる福音書」10章11~12節、「マタイによる福音書」19章6節)。
私たちの生きている現代では、結婚制度は危機を迎えています。離婚も普通の出来事になってしまいました。どうしてこうなってしまったのでしょうか。せわしない生活リズムと使い捨ての消費社会が、家族のまとまりを保てなくする理由の一部であるのは確かです。一方では、神様の御言葉から故意に離脱する姿勢が、この件に関してとりわけ顕著に見られます。誰も離婚するために結婚したりはしませんが、「結婚の聖さ」は、それをお定めになったお方の聖さを知らない人々には、当たり前のことではなくなっています。まず第一に言っておくべきことは、「結婚は私たちの中にいる「古いアダム」を打ち砕くものだ」、ということです。今私は、「離婚しているか、していないか」を基準として、人々を罪人と罪人ではない人とに区別したいとは思いません。家族の体裁を保ち続けているどの家族の中でも、神様の御心に反した行いが、悔い悲しむ心もなく行われています。ぶつぶつ文句を言ったり、怒ったり、復讐したり、配偶者を自分の思い通りに拘束しようとしたり、「あなたは私を命令してはいけないぞ」と態度で示したりします。誰の結婚生活であっても、いつ爆発してもおかしくない「怒りのサイクル」を内蔵しているものです。結婚した時の幸福感がいつの間にか消えうせ、ついにはどちらも互いに見向きもしなくなる時が来ることがあります。そのようなときには、結婚生活の中で一番大切な「ごめんなさい」という言葉を用いて、二人で一緒にゴルゴタの十字架の御許に行き、主にも罪の赦しを乞い、また、主から罪の赦しをいただくことが、私たちにできる残された唯一のことです。そうする場合には、もはや誰も、「自分にはまったく落ち度がない」と思い込んで、(自分が完全になるために)自分の弱点を消去するための無謀な戦いをしようなどとはしなくなるでしょう。このやり方によってのみ、罪人たちは一緒に幸福に暮らすことができるのであり、皆の上に結婚の制定者からの祝福が安らかに留まり続けるのです。
特例事項 7章12~16節
ある特別なケースについては、パウロは話し合いの場で自分なりの意見を述べる用意があります。キリスト教が広まっていくにつれ、それは家庭に分裂を招くきっかけにもなりました。配偶者の片方が信仰の道に入り、もう片方は信じない、というケースが出てきたのです。そのような場合にはどうするべきなのでしょうか。今までの生活にさっさと見切りをつけ、配偶者を捨てるべきなのでしょうか。「決してそのようなことがあってはならない」、とパウロは言います、「一方(クリスチャンではない人)がもう片方(クリスチャン)を外に放り出さない限りは」。しかし、もしもこうなった場合には、どうすればよいのでしょう。そういう場合には、クリスチャンは「まったき良心」をもってこの(別居)状態を受け入れてよいのです。なぜなら、神様はクリスチャンを絶え間ない心の苦痛にではなく霊の平安へと招いてくださったからです。
14節は正確な意味がはっきりしません。ともかくその言わんとすることは、「神様の聖さは何らかの形で「神様のもの」である人を通して結婚相手にも伝わっていく」、ということです。それがどのような聖さであるのか、この節からはわかりません。ともかくも、神様が制定された結婚は、「神様のものである人」と「神様を無視している人」との間の結婚生活にも主の聖さをもたらすものとして理解されるべきでしょう。この節に基づいて、何か突飛な教義をひねりだすのは慎まなければなりません。教義というものは、意味がはっきりしている箇所に基づくものでなければならないからです。
基本的なルール 7章17~24節
パウロは結婚についての教えを、より広範囲な文脈に結び付けます。「各人、神様が与えてくださった役割にしたがって神様の御前で生きていくように」、というのです。もしも神様がある人を割礼を受けた者として招いてくださったのならば、その人はユダヤ人クリスチャンとして主にしたがっていきなさい。もしも神様がほかの人を割礼を受けていない者として招いてくださったならば、その人はクリスチャンになるために、まずユダヤ人になる(つまり割礼を受ける)必要はないのです。一番大切なのは、「どちらの人もキリストに属している」、ということです。
奴隷であろうと自由人であろうと、未婚の賜物を受けた者であろうと、それを受けていない者であろうと、クリスチャンは皆、神様に反抗したりせずに、神様が与えてくださった役割の中に留まらなければなりません。奴隷である人にとっては、神様が与えてくださった自由(のすばらしさ)に比べれば、法的に自由になるために自分自身を買い取ることには、どれほどの意味があるというのでしょうか。少なくともこの御言葉が意味しているのは、「皆から注目されて賞賛の的になるために「高台」に上ろうとするのは、クリスチャンにふさわしい生き方ではない」、ということです。
パウロが21節で何を言わんとしているのか、はっきりとはわかりません。もっとも、この節のはじめの部分(「たとえあなたが自由の身になれるとしても」)の意味は明瞭です。しかし、その後の部分は二つの読み方があります。1)「だから、あなたは自分の役割をなおいっそう大切にしなさい」、という意味と、2)「あなたに与えられている機会を利用しなさい」、という意味です。ともあれ、パウロは人間の価値を社会的な地位によって判断したりはしない、ということは確かです。
むしろお好きなように! 7章25~40節
パウロは「未婚の若い女性とやもめ」のケースについて話し始めます。ここでは彼は、決して絶対的な命令を与えようとはしていません。そのかわり彼は、自分自身の意見を述べるに留めています。パウロの目には、クリスチャンに対する迫害がすでに映っていました。そして、それは本当にまもなく始まったのでした。要するに彼は、この世はいまや消えつつある、と見ていたのです。
自分の人生を考えるとき、このことをクリスチャンは念頭においておくべきです。自分が「天に属するもの」になったとき、クリスチャンにとって「地に属すること」はそれほど価値のないものになりました。「(来るべき)迫害のゆえに、クリスチャンは皆、今までと同じ立場や状態に留まるのが望ましい」、とパウロは考えました。もしも結婚しているならば、離婚するべきではないし、もしも未婚なら、結婚するべきではない、ということです。迫害のときには、家族をもつ者が一番悲しい目に遭うからです。ところが、こう言った後でパウロは自分の教えをすぐに引っ込めます。もしも誰かが花嫁と結婚したいと望むならば、パウロにはそれに反対する理由がありません。結婚するにせよ、しないにせよ、コリントの信徒たちはこのことに関しては正しく行動しています。なぜならば、これについては「主の命令」がないからです。大切なのは、すべてが「主にあって」なされることです。これは、配偶者が両方とも「主のもの」(信仰者)でなければならない、という意味であるのはほぼ確実です。
注目すべきは、この箇所でパウロが再婚をやもめに許可していることです。そして、再婚するかどうかは、やもめが自分で決めてよいのです。自分自身の意見として、パウロは、「やもめは結婚せずにいるほうがより幸福だ」、と言っています。しかし、彼はこう言うことで誰のことも束縛しようとは思っていません。
神様の賜物としての「異性」の存在
西洋の考え方の中には、ユダヤ的な考え方とギリシア的な考え方が互いに絡み合っています。そして、このことは私たちの視点を曇らせています。
ギリシア的な考え方(あるいは、その一般的な思潮)は、「異性が存在する」ことに対して非常に強く否定的な態度をとります。そして、自分とは異なる性に対して感じる魅力は「弱さ」であるとか「肉的」であるとみなされてきました。(性に関する)より正しいあり方は、「プラトニックに」、つまり自制して生きることでした。このように考える場合、結婚は多くの人にとっては「必要悪」であり、それゆえ「家庭生活」は一般の高い評価を受けるものではなかったのです。
今まで扱ってきた箇所には、性の問題に対する聖書の態度がとてもよく出ています。神様の創造のみわざの清々しい風が、旧約聖書の端々から私たちのほうへと吹いてきます。聖書は性と結婚について恥ずかしがることなく自然に美しく語っています。神様のお定めになった規則は明瞭で、創造のみわざに基づいています。それらは、美しいことがらが地獄のような破壊の力に変わったりしないように、私たちを保ち守るために与えられたものです。
フィンランド人の間では、これらふたつの考え方は互いに混ざり合っています。それゆえ、性の否定とキリスト教とがしばしばいっしょくたに扱われてしまうのです。しかし実際には、両者には何の関係もありません。このことについても、私たちは周囲を見回すよりも、聖書を読むべきなのです。
もうひとつのまったく別の問題は、神様の御心と御言葉がまったく足蹴にされている現状です。このような事態が他のケースについて起きているのですから、この問題(性)についても同じことが起こらないはずがありません。しかし、神様の御言葉を捨てる者は、「命の道」を捨てるのです。そして、自分の人生の責任を自分ですべて引き受けることになってしまいます。そのようなことにならないように、愛する天の御父様、私たちを守ってください!
聖書の引用箇所は以下の原語聖書から高木が翻訳しました。
Novum Testamentum Graece et Latine. (27. Auflage. 1994. Nestle-Aland. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)
Biblia Hebraica Stuttgartensia. (Dritte, verbesserte Auflage. 1987. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)