コリントの信徒への第一の手紙1章 争いの最中で

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

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あいさつ 1章1~9節

現代と同じく古典時代でも、手紙はある種の決まり文句にしたがって始められ、また終わりました。単純なのは、「AがBにあいさつを送ります」、あるいは、「A、Bに」というパターンです。ふつう手紙の終わりには、「お元気で」という短い言葉が添えられていました。古典時代には、手紙はたとえば次のように始まります、「使徒および長老たちから、異教から改宗した信仰の兄弟たちに、あいさつを送ります」(使徒言行録15章23~29節)。

手紙の中でパウロは、このような決まり文句を部分的に採用し、そこに独自の新しい表現も盛り込んでいます。今取り扱う「コリントの信徒への第一の手紙」でも、あいさつはふつうの手紙よりも長めです。大胆にもパウロは、自分のことを「神様の御心によるキリストの使徒」と名づけています。この手紙のもうひとりの差出人は、ソステネという人です。彼はもしかすると、アカヤの総督ガリオが冷ややかに見守る中、ユダヤ人から暴行を受けたコリントのユダヤ人会堂(シナゴーグ)の前の責任者であった人かもしれません(使徒言行録18章)。だとすると、パウロの以前の反対者(だったかもしれない)者がクリスチャンになり、今やパウロと一緒に仕事をしている、ということになります。

はじめのあいさつの中のいくつかの短い言葉は、大半の聖書の読者にはたやすく見過ごされてしまうようです。パウロはこの手紙を「神様の教会」に宛てて書いています。これは、「聖」なる人々、「キリスト・イエスが聖とされた」人々のことをさしています。
私たちは自分のことを「聖なる人」とはなかなか呼べないものです。「それは言いすぎだ」、と私たちは考えるのです。私たちはふつう自分のことを、まったくの悪人とも思いませんが、聖人だとも思えないのです。
パウロの言葉遣いは、「聖」とは何か、私たちに教えてくれます。もちろんパウロは、コリントの教会がどのような群れであるか、よく知っていました。彼らは互いに争い合い、ひどい罪の生活を送り、自分自身に与えられた恵みの賜物によって驕慢になっていました。にもかかわらず、パウロはコリントの教会を、「聖」と、「聖別されたもの」と、呼んでいるのです。それはなぜでしょうか。
聖には段階などはない、ということです。人は、聖であるか、あるいは、聖でないか、のどちらかです。もし人が聖でなければ、その人は神様の呪いの下にあります。もし人が聖ならば、その人は神様の呪いの下にはいません。教会の「聖」は教会員自身の聖ではなく、キリストが賜物として与えてくださった「聖」なのです。

手紙を書くときパウロは、はじめのあいさつの後、神様へ感謝を捧げます(「ローマの信徒への手紙」1章8~10節、「コリントの信徒への第二の手紙」1章3~4節、「フィリピの信徒への手紙」1章3~6節などを参照してください)。今もパウロは自分のスタイルを変えず、コリントの信徒たちのゆえに神様に感謝しています。この段階ではパウロは、教会の問題については何もふれず、知っていることをとりあえず脇に置いて、彼らを喜ばせることに専念します。パウロは、コリントの信徒たちが手紙の始まりの部分ですぐに耳をふさいでしまうような事態を避け、彼らに言うべきことがらを彼らがおわりまでちゃんと聞くことができるよう、努力しています。そのためにパウロは、礼儀正しく格調高く手紙を書き始め、教会に感謝しているのです。とりわけ、パウロはコリントの教会の豊かさを強調します。この教会の中には、他の教会よりも多くの特別な恵みの賜物があったからです。

教会の中の争い 1章10~17節

神様への賛美の後で、パウロはすぐに本題に入ります。コリントは争いが絶えない教会でした。パウロはコリントから来た教会員から今の教会の状態を聞いて知ったとは言っていません(16章15~18節)。そんなことをすれば、争いが減るどころか、いっそう悪化してしまうことでしょう。パウロは「クロエの家の者たち」から教会のことを聞いて知りました(1章11節)。クロエは当時の奴隷のふつうの名前でした。ですから、このクロエというクリスチャンの女性は比較的富裕な解放奴隷であった、と考えられます。確かなことはいえないにせよ、彼女はコリントには住んでいなかった、と推定することができます。パウロは教会外部の情報源を意図的に選出し、ここで提示しているわけです。「クロエの家の者たち」、すなわち奴隷たちがコリントを訪問したということは、パウロが当地の教会の状態についての情報を得た理由を説明するのに十分だったので、コリントの信徒たちは誰がパウロに告げ口したかについて互いに責め合う必要はありませんでした。それにまた、教会内での争いは外部の人間が訪問した際に気がつくほどあからさまなものだった、とも推定できるのです。

コリントの教会では、「自分はパウロにつく」、「自分はアポロに」、「自分はケファ(ペテロのこと)に」、「自分はキリストにつく」、と言い争う人たちが出てきました。パウロは、「教会内のこのような分派争いはまったく愚かなことであり、罪の結果に他ならない」、ということを示しました。クリスチャンの一致の根本にあるのは、皆がキリストと結び合わされるために洗礼を受けている、ということです。誰ひとり、パウロやペテロの名によって洗礼を受けてはいません。それゆえ誰も、教会を人間のリーダーに基づいて分けてはいけないのです。パウロは、自分がわずか数人のコリントの人に洗礼を授け、他の人たちには彼の協力者たちが洗礼を授けるようにしたことを、神様に感謝しています。もしもそうではなかったならば、クリスチャン同士の一致の基、洗礼さえも、コリントの教会をばらばらにする口実とされたことでしょう。

17節でパウロはコリントで争い合っている者たちを恥じ入らせるようなことがらに、話題を移します。すなわち、キリストの福音についてです。

理に反する十字架の説教 1章18~25節

パウロは、コリントの教会の紛争者のうちの誰が正しく誰が間違っているか、少なくともすぐにはっきり示そうとはしません。彼は「神様の福音」について語り始めます。この福音は人間の考えの及ばぬ遥か上方にあるため、福音を敬愛する者が福音をめぐって人間くさい喧嘩を始めるのはありえないことです。

キリストについての福音は、人間的な教えでも人間が捏造した教えでもありません。人に福音の宣教をゆだねることによって、神様は、「人間の賢さを無意味なものにする」という預言を成就なさいます(「イザヤ書」29章14節)。キリストの誕生、死、復活以前に、神様は御自分の偉大な知恵と義とを預言者に宣教させました。しかし、人々は福音に背を向け、神様を無視した生活を続けました。これに対する神様の答えは、御自分の知恵を受け入れなかった人間たちにまったく愚かな教えを与えることでした。それがキリストについての福音です。福音は人間的な理性の限界を超えるものです。ユダヤ人は大いなる奇跡を、ギリシア人は鉄壁の論理と深い知恵を要求します。人間の知恵はいつでも神様を隅に追いやるものです。にもかかわらず、神様は福音を皆に宣べ伝えるようになさいました。神様が信じるように召された者は福音を信じます。まさにこれは、神様の愚かさや弱さでさえも人間の最高の知恵とはまったく別格のものだ、ということをよく示しています。

注意深い読者なら腰を抜かしてしまうような表現をパウロはここで用いています。もしも主の使徒がこのように話さなければ、誰一人「神様の愚かさ」などという言葉を口にする勇気などは持ち合わせてはいないことでしょう。しかしパウロは、あえてこのように言うことによって、福音の核心を信じがたいほど深く探り当てているのです。

さまざまな信徒がいる教会の宝 1章26~30節

コリントの教会の例を見ると、「人間的な理性は神様の知恵を受け入れない」というパウロの言葉が本当だとわかります。権力者、哲学者、貴族などが大勢連れ立ってキリストの御許に集まってくるようなことはありませんでした。教会員の大半は貧しく学のない人たちでした。こうすることで神様は、世が高く評価するすべてのものを恥じ入らせたのです。世が軽蔑してきたタイプの人々が、キリストの中に自分たちの宝と知恵を見出したのでした。こうしてまた、エレミヤ書に語らせた、

「誇る者は、私を知っていることと、私が何を望んでいるかを知っていることを、誇りとしなさい」
(エレミヤ書9章24節をまとめた)

という神様の御言葉が成就したのでした。

ここでパウロの言葉に注目するべきでしょう。

「この方(イエス・キリスト)は神様により私たちにとって知恵、義、聖、贖いとなられました」(1章30節)。

この短い御言葉の中に、純粋で素晴らしい福音が隠されています。
キリストは神様の与えてくださった賜物を拒まない人たちにとって「知恵」です。またキリストは人々にとって「義」となられました。ルターはまさにこれに関連して「自分のものではない義」(ラテン語でjustitia aliena(ユースティティア アリエーナ)と言います)という言葉を用いているわけです。この言葉の意味は、「神様の御前において罪人を守ってくれるのは、その罪人自身の聖と完全さではなく、キリストの聖と完全さである」、ということです。「キリストが私たちにとって聖となられた」とパウロが言うとき、人間自身の「聖化」、つまり、「よりよい存在になることの大切さ」を強調するキリスト教のグループに対して、かなりの平手打ちを食わせていることになります。私たちの唯一の避けどころは、「キリストが私たちの聖でもあってくださっている」、ということです。「贖い」について語るとき、まずまちがいなくパウロの念頭にあったのは、「奴隷を買い取って自由にする」、ということでした。誰かが奴隷を買い取って自由にするのとまったく同じように、キリストは私たちを御自分のために御自分の血で買い取ってくださいました。このイメージが未来のことも指し示しているのは確かです。すなわち、最終的な贖いは最後の裁きの時に行われる、ということです。この裁きの座で、私たち罪人はキリストのゆえに神様の怒りから救い出されるのです。

このようにパウロは手紙を「愛する問題児の教会」に書き始めました。彼は問題を回避せず、すぐ手紙のはじめに取り上げています。この手紙でパウロは、コリントの信徒たちの頭を撫でるような真似をまったくしていません。にもかかわらずパウロは、教会の信徒たちのことを「神様に愛されている聖なる者」である、と言い切っています。このことについて、私たちにはきっとたくさん考えてみるべきことがあるでしょう。


聖書の引用箇所は以下の原語聖書から高木が翻訳しました。
Novum Testamentum Graece et Latine. (27. Auflage. 1994. Nestle-Aland. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)
Biblia Hebraica Stuttgartensia. (Dritte, verbesserte Auflage. 1987. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)