テモテへの第二の手紙4章 忍耐の勧め

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

私は自分の仕事をやり遂げた 「テモテへの第二の手紙」4章1〜8節

今から扱う箇所はまるで遺言状のようです。自分に割り当てられた仕事を成し遂げた使徒パウロが福音宣教の責任を他の人たちに受け継がせる時がついに来たのです。

「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。」
(「テモテへの第二の手紙」4章2節、口語訳)

この節でパウロが「やりかたが良くても悪くても」ではなく「時が良くても悪くても」と言っていることには相応の理由があります。もしかしたらここでパウロはかつて彼の説教をさえぎった地方総督ペリクスの「きょうはこれで帰るがよい。また、よい機会を得たら、呼び出すことにする」(「使徒言行録」24章25節)という言葉を思い浮かべていたのかもしれません。福音を聞くための「よい機会」は悔い改めない人には決して訪れません。

「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。」
(「テモテへの第二の手紙」4章3〜4節、口語訳)

福音の宣教は時が経つとともに容易になるものではありません。むしろ逆です。人々は正しい教えを聞かずに済ませるために、彼らにとって都合の良いことを教える新しい教師たちをたえず探し求めるものだからです(「ヨハネによる福音書」9章4節も参考になります)。

しかしキリスト教信仰で宣べ伝えるべきなのは、人々が聞きたがっていることではなく神様が彼らに聴かせたいことです。

福音を聞かず信じもしない人の生活は何か別の教えによって満たされてしまいます(「マタイによる福音書」12章43〜45節)。「作り話」の危険についてパウロは以前すでに警告していました(「テモテへの第一の手紙」1章4節)。「作り話」はギリシア語で「ミュトス」といい「神話」という意味もあります。

「しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。」
(「テモテへの第二の手紙」4章5節、口語訳)

教会の責任者であるテモテは異端教師たちの人気の高さや聴衆たちの反対に惑わされることなく何が真理かを見極めて福音を宣教していかなければなりません。

「わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。」
(「テモテへの第二の手紙」4章6〜7節、口語訳)

今や死が間近に迫っていたパウロは「すでに自身を犠牲としてささげている」と言っています(旧約聖書の「民数記」15章や28章には「主への捧げ物」についての記述があります)。

信頼のおけるキリスト教の伝承によれば、パウロは剣で殺害されました。彼は信仰のゆえに自分の血を流したのです。

「今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。」
(「テモテへの第二の手紙」4章8節、口語訳)

「世を去るべき時」はパウロにとってキリストの御許に辿り着くこと(「フィリピの信徒への手紙」1章23節)や信仰の勝利の印である「義の冠」をいただくことを意味していました。

ここでもパウロはキリスト信仰者のこの世での信仰生活を運動競技にたとえています(「コリントの信徒への第一の手紙」9章24〜27節、「フィリピの信徒への手紙」3章12〜16節、「テモテへの第一の手紙」6章11〜12節、「テモテへの第二の手紙」2章5節)。

人間にとってこの世での生活がすべてではないこと、そしてこの人生の後にようやく目的地に辿り着けることをパウロはよくわかっていました(「使徒言行録」20章24節、「コリントの信徒への第二の手紙」5章1〜10節)。

パウロはローマ皇帝ネロが彼に有罪の死刑判決を言い渡すのを待つ身となっていました。パウロは神様から「キリストへの信仰のゆえに義とされた者」という宣言をすでに受けていましたが、信仰のうちに死んだ後ようやく義の栄冠と永遠の命を実際に神様からいただけるので、その時を待ち望んでいたのです。

具体的な指示 「テモテへの第二の手紙」4章9〜15節

「テモテへの第二の手紙」4章の終わりには17人の名前が挙げられています。

パウロはテモテができるだけ早く、遅くとも冬の到来する前までには彼のもとに来てくれることを望んでいました(4章9、21節、1章4節)。地中海のこの海域における当時の航海は11月の半ばから3月の初頭までは困難だったからです。

「あなたが来るときに、トロアスのカルポの所に残しておいた上着を持ってきてほしい。また書物も、特に、羊皮紙のを持ってきてもらいたい。」
(「テモテへの第二の手紙」4章13節、口語訳)

寒い冬が来る前に上着も手元にあったほうがよいとパウロが願ったのは当然でした。

ローマからエフェソまでの旅は約2週間かかりました。パウロからの手紙を受け取り次第すぐに出発した場合でもテモテがパウロのもとに到着するのは早くても1ヶ月後だったでしょう。

「デマスはこの世を愛し、わたしを捨ててテサロニケに行ってしまい、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行った。」
(「テモテへの第二の手紙」4章10節、口語訳)

デマスの顛末については盛んに議論されてきました。「この世を愛すること」という言い回しは後の時代には「殉教を回避すること」という意味をもつようになりましたが、これは必ずしも「信仰を捨てること」ではありません。おそらく自らの命を惜しんだデマスはパウロを置き去りにして故郷のテサロニケに帰ってしまったのでしょう(4章16節も参考になります)。西暦100年代に遡る伝説によれば、デマスは異端者ヘルモゲネの追従者になったとされています(ヘルモゲネについては1章15節に書かれています)。

以前のパウロの手紙(「コロサイの信徒への手紙」4章14節、「フィレモンへの手紙」24節)でデマスはルカなどと共にパウロの同労者のひとりとして名前が挙げられています。

上節の「クレスケンス」は私たちには知られていない人物です。彼についての記述は新約聖書ではこの箇所だけです。

上節の「ガラテヤ」は「ガリア」を意味しているとする仮説もあります。しかしガラテヤ人たちが元々はガリア出身であったことを考えると、ここは「ガラテヤ」のままで正しいと思われます。

「ダルマテヤ」はイルリコ(「ローマの信徒への手紙」15章19節)のことであり、現在のバルカン半島西部にあります。

テトスはクレタ島での伝道をやり遂げました。

「ただルカだけが、わたしのもとにいる。マルコを連れて、一緒にきなさい。彼はわたしの務のために役に立つから。」
(「テモテへの第二の手紙」4章11節、口語訳)

「ルカによる福音書」と「使徒言行録」を書き記したルカは「コロサイの信徒への手紙」4章14節(「愛する医者ルカ」)や「フィレモンへの手紙」24節にもその名が登場します。

パウロは第二次宣教旅行にマルコが同行することに反対しました。というのもマルコは第一次宣教旅行の途中でパウロ一行から離脱してしまったからです(「使徒言行録」15章38節)。マルコを同行させるかどうかで意見が対立したためにパウロとバルナバは以後別行動をとるようになります。しかしパウロとマルコの関係はこの手紙の書かれた時点では修復されていたようです。マルコは「コロサイの信徒への手紙」4章10節(「バルナバのいとこマルコ」)と「フィレモンへの手紙」24節でその名前が挙げられています。一度は壊れた関係を神様が修復してくださったおかげで、パウロとマルコはふたたび福音伝道の同僚になれました。

テキコはしばしばパウロの手紙の配達人の役目を引き受けました(「エフェソの信徒への手紙」6章21〜22節(「主にあって忠実に仕えている愛する兄弟テキコ」)、「コロサイの信徒への手紙」4章7〜8節、「テトスへの手紙」3章12節)。「テモテへの第二の手紙」もこのテキコがエフェソに配達したのではないかと推測されています。おそらくパウロはテキコをエフェソにテモテの「代理」として派遣することで、テモテがパウロに会いにローマまで訪ねて来れるようにしたかったのでしょう。

「あなたが来るときに、トロアスのカルポの所に残しておいた上着を持ってきてほしい。また書物も、特に、羊皮紙のを持ってきてもらいたい。」
(「テモテへの第二の手紙」4章13節、口語訳)

パウロはトロアスで捕まったのではないかという説が上節に基づいて提案されています。このように考えるとパウロの上着や高価な書物がトロアスに残されていた理由を説明できるからです。

また上節は「テモテへの第二の手紙」がパウロ自身の書いた手紙である証拠でもあります。この手紙をずっと後にパウロ以外の誰かが書いたものと仮定すると、パウロの上着についてわざわざ手紙で言及した理由がわからなくなるからです。

当時の「書物」は安価なパピルスに記されるのが普通でした。重要事項のみ高価な羊皮紙に書き記されたのです。パウロの羊皮紙の書物に書かれていたのは旧約聖書の一部かあるいは全部だったのではないかとも推測されています。

「銅細工人のアレキサンデルが、わたしを大いに苦しめた。主はそのしわざに対して、彼に報いなさるだろう。」
(「テモテへの第二の手紙」4章14節、口語訳)

上節の「アレキサンデル」は「テモテへの第一の手紙」1章20節に出てくる同名の人物と同じ者かもしれません。しかしエフェソでの騒乱の際に発言したユダヤ人アレキサンデル(「使徒言行録」19章33〜34節)とは違う人物であったと思われます。

「主はそのしわざに対して、彼に報いなさるだろう」という言葉は、この件に関してテモテや教会が個人的にアレキサンデルに報復する必要はないし、またするべきでもなく、すべてを神様にお委ねするべきであるという意味です(「サムエル記下」3章39節も参考になります)。

「あなたも、彼を警戒しなさい。彼は、わたしたちの言うことに強く反対したのだから。」
(「テモテへの第二の手紙」4章15説、口語訳)

「自分を裏切ってローマ当局に引き渡したアレキサンデルに注意せよ」とパウロはここでテモテに警告しているという仮説もありますが、これは推測にすぎません。

ひとり取り残された使徒 「テモテへの第二の手紙」4章14〜18節

「わたしの第一回の弁明の際には、わたしに味方をする者はひとりもなく、みなわたしを捨てて行った。どうか、彼らが、そのために責められることがないように。」
(「テモテへの第二の手紙」4章16節、口語訳)

この節はローマでパウロの受けた最初の裁判と投獄(「使徒言行録」28章16、30〜31節)について述べているという解釈があります。それによると次の4章17節はパウロのエスパニヤ旅行での様子を描写していることになります。しかしこれが最も自然な解釈であるとは必ずしも言えません。

パウロの案件はローマ当局の取り調べを受けました。しかしローマ在住のキリスト信仰者たちはパウロを弁護しようとしませんでした。使徒教父文書の一つである「コリントの信徒への第一のクレメンスの手紙」(5章5節)からは、パウロが死刑判決を受けることになったのはローマのキリスト信仰者たちがパウロを積極的に弁護しなかったことも影響したらしいことが読み取れます(「(律法をめぐる)激しい諍いのためにパウロは忍耐によって勝利の冠を得た」)。この問題については「フィリピの信徒への手紙」1章15〜18節も参考になります。

しかしパウロはそのようなローマのキリスト信仰者たちのことを赦しました。パウロのこの姿勢にはイエス様の十字架の上での御言葉(「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」)に通じるものがあるのではないでしょうか(「ルカによる福音書」23章34節)。

「しかし、わたしが御言を余すところなく宣べ伝えて、すべての異邦人に聞かせるように、主はわたしを助け、力づけて下さった。そして、わたしは、ししの口から救い出されたのである。」
(「テモテへの第二の手紙」4章17節、口語訳)

今回の裁判でもパウロは自らの信仰について証しました(「使徒言行録」24章10〜21節および26章1〜32節。また「使徒言行録」23章11節および27章23〜24節も参考になります)。

パウロはローマ帝国の正規な国民であったため(「使徒言行録」22章25〜29節)、獅子の餌食として闘技場に投げ出されることはありませんでした。「わたしは、ししの口から救い出されたのである」は比喩であり、パウロがきわめて困難な状況から救い出されたことを表しています。なお「ペテロの第一の手紙」5章8節でサタンは「ほえたけるしし」と呼称されています。

「主はわたしを、すべての悪のわざから助け出し、天にある御国に救い入れて下さるであろう。栄光が永遠から永遠にわたって主にあるように、アァメン。」
(「テモテへの第二の手紙」4章18節、口語訳)

この節は「悪しき者からお救いください。」(「マタイによる福音書」6章13節)という主の祈りの一節を想起させます。

終わりの挨拶 「テモテへの第二の手紙」4章19〜22節

「プリスカとアクラとに、またオネシポロの家に、よろしく伝えてほしい。」
(「テモテへの第二の手紙」4章19節、口語訳)

プリスカとアクラはユダヤ人キリスト信仰者の夫婦でした。クラウデオ帝が首都ローマからユダヤ人を追放するよう命じたために彼らはローマを退去せざるを得なくなりました(「使徒言行録」18章2節)。コリントでパウロに出会い同僚となった彼らはパウロと共にエフェソに出発しそこに留まりました。しかしパウロはさらにエルサレムへと旅を続けました(「使徒言行録」18章18〜28節)。

パウロは「ローマの信徒への手紙」(16章3節)でプリスカとアクラに挨拶を送っています。その時点で彼らはローマに帰還していたのです。しかし「テモテへの第二の手紙」の書かれた時に彼らはふたたびエフェソにいました。パウロが「コリントの信徒への第一の手紙」をエフェソから書き送ったのはほぼ確実であり、その末尾には「アクラとプリスカとその家の教会から、主にあって心からよろしく。」(「コリントの信徒への第一の手紙」16章19節)とあるからです。

オネシポロは「テモテへの第二の手紙」のはじめのほうにもその名が挙げられています(「テモテへの第二の手紙」1章16〜18節)。

「エラストはコリントにとどまっており、トロピモは病気なので、ミレトに残してきた。」
(「テモテへの第二の手紙」4章20節、口語訳)

エラストはコリント市の会計係であり(「ローマの信徒への手紙」16章23節)パウロとテモテの同僚でもありました(「使徒言行録」19章22節)。

トロピモは小アジヤ出身であり(「使徒言行録」20章4節)、パウロの第三次伝道旅行に同行し、エルサレムまで一緒に来ています(「使徒言行録」21章29節)。ですからトロピモがミレトに残ったのはこの第三次伝道旅行の時ではなくもっと後になってからのことになります。

エフェソの港町であったミレトはエフェソの南方およそ80キロメートルのところにありました。

「冬になる前に、急いできてほしい。ユブロ、プデス、リノス、クラウデヤならびにすべての兄弟たちから、あなたによろしく。」
(「テモテへの第二の手紙」4章21節、口語訳)

当時、冬に帆船による航海は行われませんでした(「使徒言行録」27章12節および28章11節)。

プデスとクラウデヤはラテン名です。このことは「テモテへの第二の手紙」がローマで書かれたことを裏付けます。原語で見ると「ウス」(”us”)という語尾をもつ名前はラテン名であり「オス」(”os”)という語尾をもつ名前はギリシア名です。ギリシア語で「ユブロ」は「エウブーロス」といい「リノス」とともに「オス」という語尾をもつ名前になっています。

エイレナイオスとエウセビオスという二人の教父はペテロとパウロの殉教後ローマの教会長(ローマ・カトリックによれば法皇)になった最初の人物がリノスであったと伝えています。この名前は当時としては珍しいものではなかったのでこのリノスが21節のリノスと同一人物であるかどうかは何も言えません。

上掲の節はパウロがまったくの孤独ではなかったことを示しています。パウロにはまだ数人の信仰の兄弟姉妹がローマに残っていたのです(4章16節も参考になります)。

「主が、あなたの霊と共にいますように。恵みが、あなたがたと共にあるように。」
(「テモテへの第二の手紙」4章22節、口語訳)

手紙の末尾の挨拶は複数形で「あなたがた」宛になっています。この手紙は私的なものではなく一般に読まれることを想定して書かれていたのです。しかしこの手紙がテモテ宛に書かれたものでもあることは上節のはじめに単数形を用いて「主が、あなたの霊と共にいますように。」と書かれていることからわかります。

(おわり)