テモテへの第二の手紙 1章 救いの基盤となるもの 

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

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「愛する子テモテへ」 「テモテへの第二の手紙」1章1〜2節

「神の御旨により、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって立てられたキリスト・イエスの使徒パウロから、愛する子テモテへ。 父なる神とわたしたちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とが、あなたにあるように。」
(「テモテへの第二の手紙」1章1〜2節、口語訳)

この手紙のはじめの挨拶は「テモテへの第一の手紙」と「コリントの信徒への第一の手紙」のはじめの挨拶とよく似ています。

パウロは人生の終わりが近いことを知っていました(4章6〜7節)。しかし彼にとってそれは来るべき永遠のいのちへの移行を意味していました(1章1節のほかに「コリントの信徒への第二の手紙」5章1〜10節も参照してください)。

テモテはパウロにとって霊的・信仰的な意味での息子でした(1章2節)。パウロはテモテについて「コリントの信徒への第一の手紙」では次のように言っています。

「わたしがこのようなことを書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、むしろ、わたしの愛児としてさとすためである。たといあなたがたに、キリストにある養育掛が一万人あったとしても、父が多くあるのではない。キリスト・イエスにあって、福音によりあなたがたを生んだのは、わたしなのである。 」
(「コリントの信徒への第一の手紙」4章14〜15節、口語訳)

テモテはパウロがはじめてルステラを訪れた時にキリスト信仰者になったのでしょう(「使徒言行録」14章6〜7節)。次の引用箇所にあるように、パウロが第二次宣教旅行でふたたびルステラを訪れた時にはすでにテモテはキリスト信仰者になっていたからです。

「それから、彼(パウロ)はデルベに行き、次にルステラに行った。そこにテモテという名の弟子がいた。信者のユダヤ婦人を母とし、ギリシヤ人を父としており、ルステラとイコニオムの兄弟たちの間で、評判のよい人物であった。パウロはこのテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、まず彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることは、みんな知っていたからである。」
(「使徒言行録」16章1〜3節、口語訳)。

家族から受け継いだもの 「テモテへの第二の手紙」1章3〜5節

テモテの母と祖母はユダヤ人でした(「使徒言行録」16章1節)。ユダヤ人の母親を持つ者はユダヤ人とみなされますが、テモテの父は異邦人であったため、おそらく父親が死んでからようやくテモテは割礼を受けて正式にユダヤ人になることができたのだと思われます(「使徒言行録」16章3節)。

牧会書簡がパウロの死後書かれたと主張する人々はテモテの母と祖母に関する記述をその証拠として持ち出します。この手紙が書かれた時点ですでに三代にわたるキリスト信仰者の家系が存在していることがこの説の根拠とされます。しかしこの手紙が述べているのは当時一般的だったことについてではなく、あくまでもテモテの母と祖母についてです。さらに注目すべきなのは、パウロが1章3節で彼自身の先祖についても同じ神様を信じる人々とみなしているという点です。「真のユダヤ人」とは正しく信じている者、すなわち神様の遣わされるメシア(救い主)を待望している者であるとパウロは考えていたのです(「使徒言行録」24章14節および26章6節も参照してください)。

今日でもユダヤ人がキリスト信仰者になる時には自分のルーツを捨てるのではなく、逆に自分のルーツに帰還することを意味します。

「わたしは、日夜、祈の中で、絶えずあなたのことを思い出しては、きよい良心をもって先祖以来つかえている神に感謝している。」
(「テモテへの第二の手紙」1章3節、口語訳)

上掲の節だけでなく他の多くの手紙でもパウロは手紙の受け取り手たちの信仰について神様に感謝を捧げています(「ローマの信徒への手紙」1章8節、「コリントの信徒への第一の手紙」1章4節、「フィリピの信徒への手紙」1章3〜4節、「コロサイの信徒への手紙」1章3節、「テサロニケの信徒への第一の手紙」1章2節、「テサロニケの信徒への第二の手紙」1章3節)。

またパウロは自分でも実行しているようにテサロニケのキリスト信仰者たちにも絶えず祈ることを奨励しています(「テサロニケの信徒への第一の手紙」3章10節、5章17節)。

「わたしは、あなたの涙をおぼえており、あなたに会って喜びで満たされたいと、切に願っている。」
(「テモテへの第二の手紙」1章4節、口語訳)

「涙」とはパウロがテモテをエフェソに残していった時に流した別れの涙のことだと思われます(「テモテへの第一の手紙」1章3節、「使徒言行録」20章37〜38節および21章13節)。

「また、あなたがいだいている偽りのない信仰を思い起している。この信仰は、まずあなたの祖母ロイスとあなたの母ユニケとに宿ったものであったが、今あなたにも宿っていると、わたしは確信している。」
(「テモテへの第二の手紙」1章5節、口語訳)

この節はテモテの信仰が揺らいでいたことを示唆するものでしょうか。それともテモテはキリスト教がユダヤ教の正統で純粋な「継承者」であることに確信がもてなかったのでしょうか。ともかくテモテはパウロの励ましを必要としていました。それも当然でした。テモテは異端教師たちやその他の問題を抱える教会を指導する立場にあったからです。

救いの歴史の連鎖を構成するものとして 「テモテへの第二の手紙」1章6〜14節

「こういうわけで、あなたに注意したい。わたしの按手によって内にいただいた神の賜物を、再び燃えたたせなさい。」
(「テモテへの第二の手紙」1章6節、口語訳)

福音を説教する教会の責任者(牧師)になる按手をパウロから受けた時にテモテがどのような「神の賜物」を授けられたのか私たちは知りません(「テモテへの第一の手紙」4章14節)。もしかしたらこの賜物は牧師職そのものを指していたのかもしれません。パウロは教会職を「恵みの賜物」とみなしていたからです(「ローマの信徒への手紙」12章6〜8節、「コリントの信徒への第一の手紙」12章4〜5節)。

ローマ・カトリック教会は上節などを根拠に牧師職が聖礼典(サクラメント)であるという教義的立場をとっています(「エフェソの信徒への手紙」4章7、11節も参照してください)。それに対して宗教改革者マルティン・ルターは聖礼典では神様の命じる御言葉に具体的な物質が結びついていなければならないと教えました。それゆえルターは牧師職ばかりか改悛さえも聖礼典として認めようとはしませんでした。彼が明確に聖礼典として認めたのは洗礼と聖餐の二つだけでした。御言葉は洗礼では水と聖餐ではパンやぶどう酒と分かちがたく結びついています。

「というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。」
(「テモテへの第二の手紙」1章7節、口語訳)

テモテは内向的な性格だったようです。パウロはコリントの信徒たちにテモテを軽んじないように忠告しています(「コリントの信徒への第一の手紙」16章10〜11節。また「テモテへの第一の手紙」4章12節も参考になります)。

「だから、あなたは、わたしたちの主のあかしをすることや、わたしが主の囚人であることを、決して恥ずかしく思ってはならない。むしろ、神の力にささえられて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい。」
(「テモテへの第二の手紙」1章8節、口語訳)

パウロは自分がテモテからも見捨てられるのではないかと危惧していたふしがあります(1章15節。また「ヨハネによる福音書」6章67節も参考になります)。異端教師たちが高い人気を誇る一方で、あくまでも正しい教えにこだわるパウロは教会員たちからも疎まれる存在だったのかもしれません。教会の長い歴史の中では大部分の教会が偽の信仰に陥りごく一部の少数派だけが正しい信仰に留まるという異常事態が発生したことがあります。300年代のアリウス派の異端や、とりわけ宗教改革以前のローマ・カトリック教会などがその典型的な事例です。

上掲の節にもあるようにパウロは福音を恥じませんでした(「ローマの信徒への手紙」1章16節、「コリントの信徒への第一の手紙」2章1〜10節)。

テモテも福音のゆえに苦しみを受けたことが上節からは伝わってきます。「ヘブライの信徒への手紙」13章23節はテモテも囚人となった経験があることを示唆しています。

パウロは囚人となることをキリストの証人の甘受すべき試練のうちのひとつとみなしていました(「エフェソの信徒への手紙」3章1節、4章1節、「フィレモンへの手紙」1節、9節)。しかしこの苦難も神様からのお助け(「神の力」)によってのみ耐え忍ぶことができるものです。

「神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって召して下さったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのではなく、神ご自身の計画に基き、また、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜わっていた恵み、そして今や、わたしたちの救主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵みによるのである。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである。」
(「テモテへの第二の手紙」1章9〜10節、口語訳)

神様の御国への聖なる招きと救いについて述べている上掲の箇所は当時の教会の洗礼式の式文の一部であったと考えられています。

救いはひとえに神様の恵みによるものであり、私たち人間の行いにはまったく関係がありません(1章9節)。ただ神様の恵みのゆえに私たちは神様の子どもとして救いにあずかるように招かれているのです(「ローマの信徒への手紙」3章28節、「エフェソの信徒への手紙」2章8〜9節、「テトスへの手紙」3章5節)。

これと同じことは神様がこの世の始まる前にすでに人間のための救いの歴史について決めておられたことにもうかがえます。人類を救われる神様の御計画は人が誰も何も行わないうちにすでに決められていたのです(「エフェソの信徒への手紙」1章4節、「ペテロの第一の手紙」1章20節)。

神様による選びは人間の理性では把握できませんが、聖書に忠実な教えなのです。宗教改革者マルティン・ルターは当時の高名な人文主義者エラスムスの「自由意志論」への反論として「奴隷的意志」という書物を著し、この難問と取り組みました。

神様からすれば、はじめの人間たちが罪に堕落したこと(「創世記」3章1〜19節)は予想外の出来事ではありませんでした。神様はあらかじめそのような事態を想定しておられたからです。全人類が罪へ堕落したために猛威を振るうようになった破滅の力はゴルゴタの十字架において無力化されました。十字架にかけられたキリストがすべての人のすべての罪のために身代わりに死んでくださったからです(「ヨハネの第一の手紙」2章2節)。イエス様は私たちを圧倒的な罪の力から解放して(「テモテへの第二の手紙」1章10節、「テトスへの手紙」1章4節、2章13節、3章6節)、暗闇から光へと救い出してくださいました(「テモテへの第一の手紙」1章1節、2章3節、4章10節、「テトスへの手紙」1章3節、2章10節、3章4節)。

罪の報酬は死です(「ローマの信徒への手紙」6章23節、「エフェソの信徒への手紙」2章1〜2節)。しかしキリストはサタンに対して勝利を収めることで私たちを「活ける者」としてくださいました。死はもはや「キリストのもの」を打ち負かすことができません(「ローマの信徒への手紙」8章38〜39節)。キリスト信仰者たちは(キリストが再臨する時にはすでにこの世を去っていたキリスト信仰者たちも含めて)たとえ肉体的に一旦は死ぬとしても永遠に死んだままにはならないし(「ヨハネによる福音書」11章25〜26節)、復活した後で今度は永遠に神様と離れ離れになってしまう「第二の死」を経験することもありません(「ヨハネの黙示録」2章11節)。

「わたしは、この福音のために立てられて、その宣教者、使徒、教師になった。」
(「テモテへの第二の手紙」1章11節、口語訳)

パウロは福音の宣教者としての召命を受けました。自分に課せられた福音伝道が終わりに近づいていたパウロはテモテに仕事を引き継ぎました(1章13〜14節)。キリスト信仰者は皆、福音を宣教していく召命を受けています。この使命は(礼拝で説教し聖礼典を施行するための特別職である)教会の牧師職にだけ与えられているものではありません。このことをマルティン・ルターはキリスト信仰者全員が一般的な意味での「牧者」であると言い表しました。

パウロは自分が囚人となっていることを恥じてはいません(1章12節)。それに対して、神様から受けた召命に対する不忠実な態度は恥ずべきものとみなされています(1章14節、「テモテへの第一の手紙」6章20節)。

救いの歴史についてのパウロの説明は次の五段階にまとめることができるでしょう(1章9〜10節)。

1)この世の始まる前に神様によって定められた人類の救いの計画
2)世の罪を帳消しにするためにキリストがこの世に人としてお生まれになる
3)神様からの招きを罪人たちに宣べ伝えなければならない
4)聖霊様がキリスト信仰者たちの内で働かれて彼らを聖なるものとなさる
5)キリスト信仰者は天国に着いた時にようやく完全なものとされ、罪と死の力に対する最終的な勝利を収める

忠実な友と不忠実な友 「テモテへの第二の手紙」1章15〜18節

「あなたの知っているように、アジヤにいる者たちは、皆わたしから離れて行った。その中には、フゲロとヘルモゲネもいる。どうか、主が、オネシポロの家にあわれみをたれて下さるように。彼はたびたび、わたしを慰めてくれ、またわたしの鎖を恥とも思わないで、ローマに着いた時には、熱心にわたしを捜しまわった末、尋ね出してくれたのである。どうか、主がかの日に、あわれみを彼に賜わるように。――彼がエペソで、どれほどわたしに仕えてくれたかは、だれよりもあなたがよく知っている。」
(「テモテへの第二の手紙」1章15〜18節、口語訳)

エフェソはアジヤ州の州都でした。この箇所でパウロは自分の教会ではなく手紙の受け取り手たちの教会の状況について述べています。

パウロは「皆わたしから離れて行った」と書いていますが、これは誇張でしょう。エフェソには少なくともオネシポロの家族がいましたし(1章16節、4章19節)、テモテはパウロに対して忠実を貫いたからです。

エフェソとローマの間でパウロの近況についての情報が共有されていたことに注目しましょう。現代よりもはるかに時間がかかったものの、ローマ帝国は当時の社会としては高度に発達した情報化社会だったとも言えます。

フゲロとヘルモゲネ(1章15節)について私たちは何も知りません。パウロがここで彼らの名前を挙げたのは、少なくとも彼らは忠実でいてくれるだろうとパウロが期待していたことのあらわれかもしれません。

アジヤに住んでいる者は、ユダヤ人もギリシヤ人も皆、パウロの宣教した主の福音を聞く機会がありました(「使徒言行録」19章10節)。にもかかわらず、エフェソの信徒たちは使徒パウロを裏切り失望させました。パウロは第三次伝道旅行の際にキリスト信仰から離反する者たちが出てくることを予見していました(「使徒言行録」20章28〜29節)。残念ながらその通りになってしまったのです。

オネシポロ(1章16節)はエフェソの商人だったようです。彼はローマに旅行した時にパウロの投獄されている牢屋を捜し当てました。

パウロが最初にローマで投獄された時(「使徒言行録」28章30〜31節)とは異なり、今回のパウロの投獄は鎖に繋がれる過酷なものでした(2章9節。また「エフェソの信徒への手紙」6章20節も参考になります)。

この手紙が書かれた時点でオネシポロがすでに死んでいたかどうかは不明です。ローマ・カトリック教会は死者たちのために祈ることの聖書的な根拠として例えば上掲の1章18節(「どうか、主がかの日に、あわれみを彼に賜わるように。――彼がエペソで、どれほどわたしに仕えてくれたかは、だれよりもあなたがよく知っている。」)を挙げています。オネシポロがすでに死んでいたと解釈する場合にはパウロはこの節で死者のために祈ったことになります。死者のために祈ってよいかどうかという質問を受けた宗教改革者マルティン・ルターは「一度か二度なら祈ってもかまわないが、その後は主に死者をお委ねしなさい!」と答えました。

オネシポロがパウロに仕えた(1章18節)のはパウロの第三次伝道旅行の時か、あるいはパウロが出獄後にエフェソを訪問した時のことであったと思われます(「テモテへの第一の手紙」1章3節)。

この世における福音伝道は極めて困難な状況に追い込まれることがあります(「ルカによる福音書」18章8節が参考になります)。しかし神様は福音がこの世から完全に消滅することを決して容認なさいません。キリストに従うようになった人々も含め人間全員を惑わすためにサタンはあらゆる手段を講じます(「コリントの信徒への第二の手紙」11章14節、「ペテロの第一の手紙」5章8節)。ですから私たちは神様の敵対者(サタン)の力を軽視することなく戦うために神様からの支えを祈り願うべきなのです。

「そして、あなたにゆだねられている尊いものを、わたしたちの内に宿っている聖霊によって守りなさい。」
(「テモテへの第二の手紙」1章14節、口語訳)