コリントの信徒への第二の手紙5章 天の御国への郷愁
朽ちるものから朽ちないものへの変化 「コリントの信徒への第二の手紙」5章1〜5節
パウロはこの短い箇所で、死者からの復活の際に生じるキリスト信仰者の根本的な変化について二つのイメージを用いています。
「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」5章1節、口語訳)
この節でパウロは「地上の幕屋が永遠の家に変わる」というイメージを描いています。それに対して、5章2〜5節では「着替える」というイメージが用いられています。
5章1節の「地上の幕屋」というイメージはパウロの手紙の最初の読者たちにとってはわかりやすい表現だったと思われますが、現代の私たちにはそれほど強く訴えかけてくるものではないでしょう。イスラエルでは今日でもなお放牧民を実際に目にする機会があります。彼らは家畜の群れ(多くの場合にはヤギ)に水を飲ませることができる場所に幕屋を建てます。そして、幕屋を畳んで他の場所に移動し新しい水のほとりに幕屋を建てるということを繰り返すのです。パウロは石造りの家や木造の家ではなく一時的に住むための住居を「幕屋」というイメージに込めていました。パウロは天幕造りをして生活の糧を得ていました(「使徒言行録」18章3節)。
新約聖書の他の箇所でもこれと同じイメージが用いられています。例えば、ペテロはこの世での自分の身体を「幕屋」と呼んでいます(「ペテロの第二の手紙」1章13節)。イエス様は御自分の身体を「神殿」に見立て、それを三日で建てることができると言っておられます(「ヨハネによる福音書」2章18〜22節)。これは明らかに死者からの復活を示唆しています。「ヘブライの信徒への手紙」9章11節でもイエス様は「手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋」(口語訳)という表現で御自身を指しておられます。
5章2〜5節での「古い服を脱ぎ捨てて新しい服を着る」というイメージは、パウロが「コリントの信徒への第一の手紙」15章35〜58節で述べているのとほぼ同じ内容です。その箇所でパウロは死者からの復活を「地に撒かれた種粒が死ぬことで新しい芽が出る」というイメージに比較しています。
「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。」
(「フィリピの信徒への手紙」3章20〜21節、口語訳)
このように私たちもまた死者からの復活において「キリストのかたち」に似たものに変えられるのです。
「この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」5章4節、口語訳)
この節で、どうしてパウロは「それを脱ごう」としないのでしょうか。死への恐怖のせいであるとは到底思えません。なぜなら、5章8節で彼は天の御国に入ることを切望しているからです。パウロはキリストがこの世に再び訪れる時が間近に迫っていることを希っていました。ですから「自分が死ぬ前にキリストの再臨は起きる」とパウロが考えていたことがその理由ではないでしょうか。次の箇所もそのことを示唆しています。
「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」
(「テサロニケの信徒への第一の手紙」4章16〜17節、口語訳)「わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」5章5節、口語訳)
この節にある「保証」という言葉は「手付金」とも訳せます(1章22節も参照のこと)。これら二つの言葉はあまり変わらないように見えるかもしれませんが、一つだけ大きな相違があります。「手付金」は売買契約で最終的に支払うべき総額の一部であるのに対して、ここでいう「保証」はそういうものではないという点です。支払いがすっかり済むと「保証」は持ち主に返却されます。聖霊様の賜物は単なる保証ではなく未来に関わる何らかの約束でもありません。それはすでに永遠の命の一部を構成しているものです。
天の御国への郷愁は?
「キリスト信仰者はこの世での責任を取ろうとせず、来るべき永遠の命のことばかり慕い求めている」と主張する人たちは、カール・マルクスの有名な言葉「宗教は民衆にとって(あるいは民衆の)アヘンである」を引き合いに出すことがしばしばあります。
私たちキリスト信仰者には永遠の命が待っています。しかしこれは、私たちがこの世での命を軽んじてもよいという意味では決してありません。この世での命もまた神様からの賜物だからです。
しかしさらに愚かしい態度と言えるのは、この世での命のために来るべき永遠の命を捨ててしまうことです。
マルクスの考え方は「来るべき永遠の世などは存在しない」という思い込みに基づいています。しかし、もしも永遠の世界が存在するとしたら(聖書によればそれは存在します)、全ての物事は全く新しい価値体系の下にあることになります。
もしも人が天の御国への郷愁を持っていない場合にはどうなるのでしょうか。パウロにはそのような郷愁がありました。
「そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」5章2節、口語訳)。「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。そうなれば、わたしが再びあなたがたのところに行くので、あなたがたはわたしによってキリスト・イエスにある誇を増すことになろう。」
(「フィリピの信徒への手紙」1章21〜26節、口語訳)
パウロは神様によって選ばれ大きな使命を受けた人でした。パウロが天の御国への郷愁を持ちえた理由としては、彼には天の御国の素晴らしさをあらかじめ知る機会があったことが挙げられるでしょう。人間が普通は経験することができないような不思議な出来事をパウロは啓示によって経験したのです(12章1〜5節)。そのような経験のない私たちにとって、将来いただける嗣業とその至福とをパウロと同じように堅く信じることは必ずしも容易ではないでしょう。しかしここで特に重要なことは、天の御国を非常な熱心さと堅い決意をもって待ち続けることよりも、むしろ待つのを諦めないことであり、キリストを捨ててしまわないことでしょう。キリストに依頼む心がひどく弱ってしまう時もあるかもしれません。それでも、他の何かにではなくまさにキリストにこそ私たちの希望を置くことが大切なのです。
「コリントの信徒への第二の手紙」5章6〜10節 死は新たな可能性でもある
キリスト信仰者である私たちにとって、死が新たな可能性を与えるものでもあることを理解するのは大切です。死は単に「最後の敵」なのではなく、永遠の世界への入り口でもあります。この世に生き続けるかぎり人は神様と離れた状態に置かれています。もしもそれが永遠に続くようならば、それは地獄の状態がこの地上に現出することでもあります。
「だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」5章6節、口語訳)
キリスト信仰者は神様の約束に依拠して生きている民です(5章7節および「ヘブライの信徒への手紙」11章1節)。それには安全性に関わる視点も含まれています。誰であれ私たちからこの救いの約束を奪うことはできません。救いはゴルゴタの十字架ですでに完全に成し遂げられているからです。
「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」
(「ローマの信徒への手紙」8章32〜39節、口語訳)
仮に救いが私たち自身に依存するものだとしたら、私たちが救いを得るのに失敗することはありうるどころか全く確実であるとさえ言えます。しかし幸いなことに、神様がすでに救いの実現に成功しておられるのです。
「そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」5章9〜10節、口語訳)
上掲の箇所は誤解を受けやすいものです。「人は自らの行いによってこそ神様に義とされる」という主張の根拠として引き合いに出されるからです。しかし私たちは、自らのよい行いのおかげで救われるのではなく、よい行いをしていくために救われるのです。例えば「マタイによる福音書」25章37〜39、44節において、最後の裁きの際に救われる人々と地獄に落ちようとしている人々とがそれぞれ生前に自分が行った善行や行わなかった善行について主にどのような申し開きをしているか、注目してみてください。
人は皆、キリストが成し遂げられた「神様と人間との間の和解の御業」によってのみ救われることができます。しかし、ゴルゴタの丘で十字架にかかったイエス様の犠牲の死のうちに留まるかぎり確実に救われると信じている人もいれば、それを無視している人もいるのが現実です。
パウロは再びここで(彼自身も含めた)キリスト信仰者にはこの世においても自らの人生に対する責任があることを強調します(「ローマの信徒への手紙」6章15〜23節)。私たちの生き方が私たち自身の救いを妨げるものとなってはいけません。罪は「縄」のようなものであり、それによってサタンが私たちをイエス様から引き離して永遠の滅びへと連れ去ろうとします。また、私たちの生き方は隣り人の救いの妨げとなってもいけません。むしろ、私たちの生き方はイエス様に従うように隣り人を招くものであるべきなのです。イエス様が御自分に属する者たちに賜る祝福を、たとえごく些細なやり方であれ、私たちの生き方に実際に反映している時にそれは実現するのです。
「コリントの信徒への第二の手紙」5章11〜15節 全世界の幸いなる救い
「このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。わたしたちのことは、神のみまえには明らかになっている。さらに、あなたがたの良心にも明らかになるようにと望む。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」5章11節、口語訳)
多くの人はこの節でパウロが「人間は神様に受け入れていただけないほど中途半端な存在であること」を強調していると解釈しています。しかし、事実はそれとは正反対です。パウロの敵対者たちによって捏造されたパウロのイメージとパウロ本人とが似ても似つかないことをパウロは言いたかったのです。もちろん神様は真実をご存知です。パウロはコリントの信徒たちも真実を直視できるように要望しています。次の引用箇所とも比較してみましょう。
「わたしたちは、あなたがたに対して、またもや自己推薦をしようとするのではない。ただわたしたちを誇る機会を、あなたがたに持たせ、心を誇るのではなくうわべだけを誇る人々に答えうるようにさせたいのである。もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」5章12〜13節、口語訳)
この箇所でパウロは自分が受けた批判に言及しています。その批判とは「自分で自分を推薦しているパウロは気が狂っている」というものです。「自己推薦」という表現はパウロが他の人からの推薦状を持っていなかったことを示唆しているものと思われます(3章1節)。パウロが「気が狂っている」というのは彼が異言を話せたことに関連づけて理解することもできますが、かたや「コリントの信徒への第一の手紙」14章28節はこの解釈に対する反証として読むこともできます。そこでパウロは、異言の解釈者が居合わせない時には公に異言で話すことを禁じているからです。次の箇所にも異言についてのパウロの考え方が表れています。
「わたしは、あなたがたのうちのだれよりも多く異言が語れることを、神に感謝する。しかし教会では、一万の言葉を異言で語るよりも、ほかの人たちをも教えるために、むしろ五つの言葉を知性によって語る方が願わしい。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」14章18〜19節、口語訳)
とはいえ、パウロが反対者たちに対抗してあえて強い表現で自己弁護に努めているという側面もここにはあるのかもしれません。
前掲の5章12節でパウロは、キリスト教信仰の核心が目に見えるものではないということに注目するようにコリントの信徒たちを促しています。推薦状も割礼も恵みの賜物も外面的な習慣もキリスト教信仰の核心ではありません。キリスト信仰者の最も重要な特質は信仰者自身の心の中から見出せます。それはキリストへの信仰です。
「兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」2章1〜5節、口語訳)
イエス・キリストへの信仰が人の心の中にあるかどうかを正しく評価できるのは神様だけです。そして、このことに神様が注目なさっているという点が非常に重要なのです。私たち人間は隣り人についてしばしば誤った評価を下すものです。それはある時は必要以上に否定的なものになるし、またある時は過剰に肯定的なものになったりもします。
「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」5章14〜15節、口語訳)
イエス様はゴルゴタの十字架で死なれたとき、すでに全世界の罪を帳消しにしてくださいました。このことは私たちの宣教師団体(フィンランド・ルーテル福音協会、フィンランド語のホームページhttps://www.sley.fi)では「全世界の幸いなる救い」と呼ばれとても大切にされている教えです。次の節も参照してください。
「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」15章3〜5節、口語訳)
この「全世界の幸いなる救い」という表現は不適当であり使用するべきではない、と主張する人も時々います。彼らによれば、この表現はすべての人々が救われるという誤解を招く恐れがあるからです。しかし、もしもキリストの贖いの御業の影響が及ぶ範囲を人間の側で限定し始めようとするなら、私たちは本来人間として行う権能も権利もないはずの事柄に不当に干渉することになります。実際に誤用するかあるいは誤用の危険があるからといって、そのために正しい使用までも妨げるべきではありません。たしかに全ての人間の全ての罪はイエス様の十字架の死によってすでに帳消しにされています。しかし、このイエス様の贖いの御業が「自分の罪」のためでもあったことを認めようとしない人は永遠の滅びへと落ちていくことになるのです。
罪はすでに帳消しにされています。それゆえに、キリスト信仰者は勝者の側に立って生活し、生涯を通じて罪と戦っていかなければなりません(「ローマの信徒への手紙」6章)。キリストは私たちをサタンから勝ち取ってくださったのです。そのおかげで、私たちは神様の御国に属する者とされています。ですから、私たちは天の御国にふさわしい生き方をしていくべきなのです。
「コリントの信徒への第二の手紙」5章16〜21節 イエス様とは何者か?
「それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」5章16節、口語訳)
この節をめぐって議論が戦わされている問題があります。イエス様がこの世で伝道なさっていた時にパウロはすでにイエス様のことを知っていたかどうか、という問題です。パウロは「ガラテアの信徒への手紙」1章12〜16節において、自分の伝え広めている教えは人間から受けたものではないと言っています。だからと言って、イエス様がこの世で生きておられた時すでにパウロがイエス様を個人的に知っていたとはかぎりません。神様はイエス様がパウロにダマスコへの道の途中で現れるようになさったとパウロは証言しています。しかしこれも、パウロがそれ以前にイエス様と会ったことがなかったという意味であるともかぎりません(「使徒言行録」9章5節も参照してください)。この世で生きておられた時のイエス様のことをパウロがどれほどよく知っていたかという問題には明確な答えが出せないのです。
興味深い箇所は「使徒言行録」20章35節です。そこでパウロは福音書からは見つからないイエス様の言葉を引用しています。それは「受けるよりは与える方が、さいわいである」(口語訳)という言葉です。しかしこれもまた、パウロが福音書には含まれなかったキリスト教の伝承を引用したということにすぎません。ですから、パウロがこれらの言葉を直接イエス様の口から聞いたという意味では必ずしもありません。
上記の「コリントの信徒への第二の手紙」5章16節でパウロが示唆しているのは、ダマスコへの旅の途中での不思議な経験をする以前にパウロはイエス様のことを人間的な側面からのみ知っていたということです。しかし、イエス様が真の神であると同時に真の人でもあることを私たちが正しく知るようになるのは、ひとえに神様の御霊である聖霊様の働きのおかげなのです。以下に述べるキリスト教信仰の最も重要な一連の真理は今日でもなお人間の理性に全く反するものです。私たちはこのことを踏まえておく必要があります。それらの真理とは、イエス様が処女マリアからお生まれになったこと、イエス様が十字架の死によって全世界の全ての人の全ての罪を帳消しにしてくださったこと、イエス様が死者の中から復活なさったこと、イエス様がこの世の終わりにこの世に再び来られることです。
聖書を神様の御言葉としてではなく単なる歴史的文献として批判的に解釈する人たちはこの5章16節に関連して「歴史的に実在したイエスという人物はパウロにとって意味のない存在だった」と主張しています。「パウロはキリスト教信仰を自己流に理解し、それを発展させたのだから、パウロの思想は歴史的イエスと何の関係もない」という論法です。
しかし、パウロはここでそのようなことを言いたいのではありません。彼が強調しているのは、人間の理性ではイエス様の御業の真の意味を理解することができないということです。パウロはダマスコへの旅の途上でイエス様と不思議な出会い方をする前にも「歴史的イエス」すなわち歴史の中で実際に生きておられたイエス様について聞き知ってはいました。歴史的イエスが十字架刑に処されたのは、当時の彼にはイエスがメシアではありえないことの証拠でした(「ガラテアの信徒への手紙」3章13節)。回心前のパウロの抱えていた本当の問題は彼が歴史的イエスを聞き知っていたことではなく、むしろイエス様の贖いの御業の真価を知らなかったことです(このことについては「ヨハネによる福音書」20章30〜31節も参考になります)。今ここでパウロが手紙の読者にわかってもらいたいことは「地上で活動していた時の歴史的イエスを実際に知っていたのは誰か」ということではありません。このことを重視したのはむしろファリサイ人たちやユダヤ属州総督ピラトのほうでした。「聖霊様によって掲示された真のイエス様の本質を知っているのは誰か」ということこそが重要な問題なのです。反対者のパウロ批判は、イエス様が十字架刑に処される前にパウロがイエス様の弟子ではなかったことに関わっていたと思われます。パウロの敵対者たちはパウロとはちがって元来の使徒たちからの推薦状を携えていたものと推測されます。
5章の終わりの数節にはキリスト教信仰の根本的な真理が最も簡潔な形で表明されています。そこには福音の核心が述べられています。キリストが十字架で死なれたのは罪深い全人類がキリストへの信仰を通して永遠の命をいただけるようになるためでした。私たちキリスト信仰者はこの福音を全世界の全ての人に宣べ伝えるために召されているのです。