コリントの信徒への第二の手紙4章 土の器の中にある宝物

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

「コリントの信徒への第二の手紙」4章1〜6節 福音を宣べ伝える職務

4章1節でパウロは福音を宣べ伝えることが神様から与えられた使命であることを再度強調します。誰もこの使命を彼から奪い去ることはできません。この使命は神様から授かったものだからです。

福音宣教者たちは落胆してやる気を失なくしてしまう危険にさらされています(4章1節)。福音伝道という地道な種蒔きの作業を台無しにしようとサタンが常につけねらっており、伝道の成果が伝道者の期待を裏切って小規模になる場合がしばしばあるからです。このことについては例えばイエス様の「種蒔きの人のたとえ」(「マタイによる福音書」13章1〜9節)や「毒麦のたとえ」(「マタイによる福音書」13章24〜43節)を参照してください。

福音宣教者は私益を得るために伝道に従事するべきではありません。むしろ、この使命は神様からいただいたものであること、そして「ひとりがまき、ひとりが刈る」(「ヨハネによる福音書」4章37節、口語訳)結果になるかもしれないことを覚えておくべきです。

パウロは神様の真理についてその全容をはっきりと解き明かさなかったという批判を受けました(4章2節)。さらに、パウロが宣教した内容自体も未整理で不明瞭であった、と彼の敵対者たちは決めつけました。

おそらくパウロは旧約聖書の律法について十分に宣べ伝えなかったことを批判されたのだと思われます。あるいはまた、パウロの敵対者たちはパウロから秘密の知識(グノーシス)を彼らにこっそり教えることを要求したのではないか、という説も提案されています。パウロは自分が神様の御心に対して何も付け加えずまた何も取り除かず、ひたすら神様の御心のみを宣教してきたと断言します。

福音の宣教者は聴衆の期待に迎合して彼らの耳に心地よく響くような説教をするように要求されることがいつの時代にもあります。もちろん私たちは聞き手たちのことを十分に考慮して宣教してよいし、むしろそうすべきです。ただし、それによって福音のメッセージの内容が変質するようなことがあってはなりません。そのような福音の変質化は、例えば神学的な意見の衝突を避けるために懸案事項についてはあえて触れなかったり、聴衆に喜んでもらえるように彼らに合わせてキリスト教信仰の内容を変えたりすることによって生じます。

しかし、福音の宣教者は自分が伝えるメッセージについて自ら忠実であるべきです。注意深い聞き手は宣教者の偽善を容易に見抜きます。神様は純粋な福音に対してのみ忠実であられることを覚えておきましょう。真の福音とは異なる「福音」を宣伝する者は、誰であれ呪われるべき存在なのです。

「しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。」 (「ガラテアの信徒への手紙」1章8節、口語訳)

「人が律法の行いなしで信仰を通して救われる」という恵みの福音はキリスト教信仰の最大の真理です。しかし、この真理を人間の理性は決して理解することができません(4章3節)。神様の御霊なる聖霊様だけが御言葉を通してその真理を私たち人間に啓示してくださるのです。(「ヨハネによる福音書」3章5〜8節)

この世の時代を支配しているのは「この世の神」であるサタンです(4章4節)。

「それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。」
(「ルカによる福音書」4章5〜6節、口語訳)

サタンについてイエス様は「この世の君」(「ヨハネによる福音書」12章31節、14章30節、16章11節)という表現を用いています。それゆえ、パウロはこの世を「悪の世」(「ガラテアの信徒への手紙」1章4節)と呼んでいるのです。

このように見てくると純粋な意味で「無神論者」などは一人もいないことがわかります。全ての人には何かしら「神」がいるからです。宗教改革者マルティン・ルターは「大教理問答」で第一戒(「あなたは、他の神々を持ってはならない」)を次のように説明しています。

「今あなたがあなたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それがほんとうのあなたの神なのである」
(「一致信条書」よりマルティン・ルター「大教理問答」第1部 十戒)

「しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」4章5節、口語訳)

この節から分かるように、キリスト教の信仰の中心はイエス・キリストです。ですから、キリスト教の中の特定のグループを指導する人間が信徒たちの信仰の中心になってしまうとき、そのグループは異端に陥っていることになります。

またこの節によれば、宣教者は「僕」(しもべ)です。ただしこの僕は聴衆の僕ではなく福音の僕です。ユダヤ教の大祭司たちを前にしてペテロは次のように信仰を証しました。

「これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、「人間に従うよりは、神に従うべきである。」」
(「使徒言行録」5章29節、口語訳)。

私たちは人々に正しく福音を宣教するとき、最善のやり方で彼らに仕えています。このことを自覚しておくのは大切です。

「「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」4章6節、口語訳)

この節によれば、光は物事の真の状態を明るみに出します。暗い部屋では手探りをすることで部屋の中に何があるかを確かめることができます。しかし、光をつけると部屋の中にあるものを実際に見ることができます。

神様の光が私たちの心の奥底を照射するとき、どのような真実が明らかにされるのでしょうか。その時、人間の心の中の暗闇の存在が示されます。

「だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」4章5節、口語訳)

光は暗闇に勝利します(「ヨハネの第一の手紙」5章4〜5節)。小さなロウソクであっても深い暗闇を退けることができます。たとえ私たちの心の暗闇が非常に深いものであったとしても、福音は最も深い暗闇よりも大きな光なのです。

「律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。」
(「ローマの信徒への手紙」5章20〜21節、口語訳)

「コリントの信徒への第二の手紙」4章7〜15節 外面と中身

「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」4章7節、口語訳)

福音は真の宝です(4章7節)。このことをイエス様も畑に隠してある宝の譬(「マタイによる福音書」13章44節)や高価な真珠の譬(「マタイによる福音書」13章45〜46節)を通して教えてくださいました。しかし、多くの人はその真の価値を理解していません。それがとてもみすぼらしい外見をしているからです。

人がとても熱心に追い求めていることが実は虚しいものであると判明する場合がしばしばあります。サタンは何かを慕い求める私たちの心を結局は満足させることがないような物事を私たちが追い求めるようにそそのかします。

どうして神様は福音の宝をみすぼらしい「土の器」である人間たちに隠されたのでしょうか。なぜ神様はキリスト信仰者を完全な存在にしてくださらないのでしょうか。自分自身の弱さに悩んでいたパウロに神様がくださった答えは「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(12章9節、口語訳)というものでした。仮にキリスト信仰者たちが完全な存在だったとしたら、人々は福音そのものではなく福音宣教者ばかりに関心を向けるようになってしまうのかもしれません。

「土」は人間を表すイメージとして聖書の他の箇所でも用いられています。神様は預言者エレミヤに陶器師の家に行くようにお命じになりました(「エレミヤ書」18章1〜17節)。それによって神様はエレミヤに神様の御手の中にある人間はちょうど陶器師の手中にある土のような存在であることを教えてくださいました。天地創造の出来事もこれと同じことを教えています。

「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」
(「創世記」2章7節、口語訳)

次の箇所にはパウロや他の福音宣教者たちが直面した4つの問題が記されています。

「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」4章8〜9節、口語訳)

それらすべての4つの問題の後には必ず「しかし(私たちは・・・)しない」(ギリシア語では「アッル・ウー(ク)」)という表現が続いています。神様には全てを変えることが可能です。私たちは物事を神様の視点からみることを学ぶべきです。私たちの目には絶望や失敗しか映らないところにも神様は希望や可能性を見ておられます。

パウロが宣教活動で直面した困難や不幸な出来事についての詳細な一覧表は11章23〜28節にあります。

上に引用した4章8〜9節はいわゆる「繁栄の神学」(あるいは「栄光の神学」)に真っ向から反対しています。神様は御自分の民が困難を避けることなくむしろ困難を通して天の御国に導かれていくように取り計らわれるのです。価値のない石炭も非常に強い圧力を受け続けることによって高価なダイヤモンドに変えられます。それと同じようにして神様は苦難を通してキリスト信仰者を訓育なさるのです。苦難は私たちを変えます。黒い石炭は光を放つことができません。しかし光り輝くダイヤモンドにはそれができます。数々の困難によって磨きをかけられたキリスト信仰者は自らの特別な優秀さを周囲に見せびらかすことなく、むしろ神様の栄光をそのまま反射するのです。

さらに前掲の4章8〜9節は神様による御加護についても教えています。サタンによって操られた人々はパウロとその伝道活動を駄目にしようとあれこれ画策しました。しかし、神様がパウロを守り支えてくださいました。そのおかげでパウロは負かされることも潰されることもなく、彼の伝道の仕事も水泡に帰すことがありませんでした。キリスト教会の古い伝承によれば、パウロは背丈の低い地味な格好をしていました(ちなみにラテン語でパウロの名前と同じ綴りの形容詞paulusは「小さい」という意味です)。しかし、神様の助けによってパウロは大いなることを行なったのです。

「土の器」の譬の最も深い意味はゴルゴタの十字架で明らかにされました。

「同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。」
(「マタイによる福音書」27章38〜40節、口語訳)

イエス様は自らを低く弱い立場に置かれました。それは私たちイエス様を救い主と信じる者が永遠の命をいただくためでした。弱さをまとわれたイエス様は人類が救われるための礎であり、弱くされた福音宣教者は人類が救われるための手段として伝道するのです。

「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」4章10節、口語訳)

この節は、キリスト信仰者がまさしく「身体のよみがえり」を信じていることを示唆しています。この点については「コリントの信徒への第一の手紙」15章35〜58節に詳述されています。

「「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」4章13節、口語訳)

この節でパウロは「詩篇」116篇10節を引用しています。おそらくパウロは旧約聖書の引用をユダヤ人のラビ(ユダヤ教の教師)と同じようなやり方で行なっています。すなわち「詩篇」の一部分の引用によってその「詩篇」全体を指しているのです。この「詩篇」116篇は「主は困難の最中にある信仰者を助け出される」という内容のものです。私たちは自分ではすっかり困惑しています。しかし、神様から助けをいただけるのです。

「すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」4章15節、口語訳)

この節で再びパウロは福音伝道を行う僕の使命について語っています(4章5節と比較してください)。福音を伝える彼の仕事の目的は彼自身の名誉を高めたり資産を増やしたりすることではありません。その唯一の目標は福音を聴いたできるかぎりたくさんの新しい人が神様の御国の民となれるようにすることにあります。

「コリントの信徒への第二の手紙」4章16〜18節 死は「句点」ではなく「読点」です

キリスト教信仰の基本的な特質の一つとして「キリスト信仰者は天の御国で彼らを待っているその全てをすでにこの世で享受することはできない」ということを挙げることができます。

このことは「今すでに全部」や「今はまだ」という言葉で端的に表現できるでしょう。私たちは今すでに「神様のもの」になっています。しかし、この素晴らしい立場を完全に享受できるのは天の御国に入った後になります。

多くの一般の人はキリスト信仰者の個性や彼らの信仰の不安定さに対して必要以上に厳しい目を向けます。それでも、そのような脆い信仰でさえもがこの地上で人間に起こりうる最上のものであると断言できます。

無神論者は人生の終わりが近づく時に何の希望も見出すことができません。すべてはひたすら悪くなっていくばかりです。そしてついには幕を閉じるのです。無神論者は人生の終わりの後に続くようなものは何も得ることができません。

それとは全く対照的に、キリスト信仰者は人生の黄昏へと下降していくことが全く新しい局面への準備段階であることをしっかりと見据えています。たしかに死は人間にとって「最後の敵」です(「コリントの信徒への第一の手紙」15章26節)。しかし、それは来るべき永遠の命に入る門でもあります。この世における命も来るべき御国における命への準備なのです。

この世の人生での苦しみと来るべき永遠の命の栄光との重大さを比べる時、どちらに秤が傾くかは明らかです(4章17節)。

「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。」
(「ローマの信徒への手紙」8章18節、口語訳)

問題なのは「見えないこと」を見つめ続けることが私たち人間にとっては決して容易ではないという点です。聖書における「信仰」の最良の定義の一つは次のものです。

「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」11章1節、口語訳)

この信仰をいただいている者に対して聖書は次のように奨励しています。

「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」12章2節、口語訳)

物事を「永遠」の観点から見るように自らを訓練することは大切です。永遠の世界は「時間」というものが存在しない世界です(「ヨハネの黙示録」21章23〜25節)。

「なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」4章17節、口語訳)

この節を「患難こそが私たちに永遠の命を部分的にせよもたらしてくれる」というように理解するべきではありません。パウロが意味しているのは「キリスト信仰者に与えられる分(すなわち患難)を従容として受け入れることが救いをもたらす」ということです。信仰に関わる患難を回避することは信仰を捨てることであり、また永遠の命を失うことです。