テトスへの手紙 2章 教えと信仰生活

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

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正しい模範 「テトスへの手紙」2章1〜10節

「しかし、あなたは、健全な教にかなうことを語りなさい。」
(「テトスへの手紙」2章1節、口語訳)

キリスト教信仰では常にキリスト信仰者の(話や言葉だけではなく)生きかたも問われるということをわきまえておく必要があります。それゆえにパウロは正しく教えるだけではなく正しい模範も示すようにとテトスに奨励しているのです(2章7節)。

「しかし、あなたは」という言葉からも汲み取れるように、テトスは1章の終わりで描写された異端の教師たちとは異なるやりかたで宣教活動を展開していかなければなりません。

「健全な教」は牧会書簡の扱っている中心的なテーマのひとつです(「テモテへの第一の手紙」1章10節および6章3節、「テモテへの第二の手紙」1章13節および4章3節、「テトスへの手紙」1章9節および2章8節)。

健全な教えにはいくつもの特徴があります。その教えには重要事項が一切欠けておらず、余分な部分が少しもなく、誤謬や破綻や不適当な点がまったくありません。

パウロはテトスに三種類の人間のグループに向けてそれぞれどのような助言をするべきか教えています。それらは老人たち(2章2節)、年老いた女たち(2章3〜5節)、若い男たち(2章6〜7節)です。若い女たちに対する直接的な助言はありませんが、彼らに正しい助言を与えるのは年老いた女たちの責任とされています(2章4節)。現代では男性が若い女性を教えることを禁じている教会があります。これは異性間の不適切な誘惑が生じるのを未然に防ぐためです。また一般的にみて男性は女性の抱えている問題について他の女性よりも理解が浅いということもあるでしょう。

「老人たちには自らを制し、謹厳で、慎み深くし、また、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように勧め、年老いた女たちにも、同じように、たち居ふるまいをうやうやしくし、人をそしったり大酒の奴隷になったりせず、良いことを教える者となるように、勧めなさい。そうすれば、彼女たちは、若い女たちに、夫を愛し、子供を愛し、慎み深く、純潔で、家事に努め、善良で、自分の夫に従順であるように教えることになり、したがって、神の言がそしりを受けないようになるであろう。」
(「テトスへの手紙」2章2〜5節、口語訳)

年老いた男たちに与えられている行動指針は「若い人たちのよい模範となりなさい」という言葉に集約できるでしょう。

年老いた女たちには他の人をそしるという悪癖があったようです。豊かな人生経験を過信すると他の人々に対して批判的になりすぎることも時には起こるものです。

年老いた男性や女性に対して等しく過度の飲酒を避けるように念を押しているのはやや意外ですが、このことからは過度の飲酒が当時でも深刻な問題であったことが伺われます(「テモテへの第一の手紙」3章2、11節も参照してください)。

人は大酒の虜になるだけではなく他の多くの物事の虜になってしまうこともあります。罪はいともたやすく人を取り囲み縛り付けることができるからです(「ローマの信徒への手紙」6章16〜17節も参照してください)。

「たち居ふるまいをうやうやしくし」はギリシア語では「ヒエロプレペイス」といい、「聖なる場所にふさわしい」という意味をもっています。例えば南ヨーロッパの教会に行く時にはそれにふさわしい服装に身を包むのが当然とされることが現代でもあります。これは聖なる場所(教会)に行く時には身だしなみによっても敬意を払わなければならないという意味です。聖なる場所(教会)に行くことは神様の御前に出ることでもあるからです。

「謹厳で、慎み深く」という特徴は牧会書簡では教会の僕である牧師への要求項目に含まれています(「テモテへの第一の手紙」2章4、8、11節、3章2節、また同手紙の2章2、9、15節も参考になります)。

上掲の箇所でパウロは女たちが教えるのを完全に禁じようとはしていません。ただし女性が教会の指導者や教師(牧師)として活動することにははっきり反対しています(「コリントの信徒への第一の手紙」14章33〜40節)。

パウロは妻が夫を愛するように勧めただけではなく、夫が妻を愛するようにも勧めています。

「夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。」
(「エフェソの信徒への手紙」5章25節、口語訳)。

「自分の夫に従順である」というのは「自分の夫の下にいる」という意味です。自らを相手の下に置くという「従順さ」は今日では誰もやりたがらない生きかたです。しかし社会全体は秩序正しい従属関係に基づいて成り立っています。これが変わらない現実です。現代でも会社組織では上司は上司であり部下は部下という役割が各人に与えられています。

自分がキリスト信仰者として実際にどのように生きているかということはキリスト信仰者ではない人々に対してとりわけ大切な信仰の証となります。キリストについての話を聞く興味や余裕のない人は大勢います。しかしキリスト信仰者たちの生きかたは、それに感銘を受けた人々がイエス様の御許に導かれるほどの強い印象を与える信仰の証ともなりえます(2章10節、「ペテロの第一の手紙」3章1〜2節も参照してください)。

「若い男にも、同じく、万事につけ慎み深くあるように、勧めなさい。」
(「テトスへの手紙」2章6節、口語訳)

若者たちは熱心なあまりに改革を急ぎすぎたり従来の伝統なやりかたを批判したり軽視したりする場合があります。この傾向を踏まえ、例えばオーストラリアのルーテル教会では新人の教会職員は少なくともその教会で一年間過ごした上でなければ教会を大きく変革するようなことをやり始めてはいけないという慣例がありました。

「あなた自身を良いわざの模範として示し、人を教える場合には、清廉と謹厳とをもってし、」
(「テトスへの手紙」2章7節、口語訳)

現代では教会以外の実社会での指導者の養成教育においても指導者自身が率先して模範を示すことで指導力を発揮することの重要性が強調されています。パウロもまたテモテに次のような指導者教育の指針を与えています。

「あなたは、年が若いために人に軽んじられてはならない。むしろ、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい。」
(「テモテへの第一の手紙」4章12節、口語訳)。

戦争経験のある退役軍人たちを対象にして「自分の上官についてどう思うか」という調査をしたところ、最前線で部下たちと一緒に戦った上官は尊敬を受け、後方の拠点から命令するだけだった上官は批判を受けるという結果が出ました。

「奴隷には、万事につけその主人に服従して、喜ばれるようになり、反抗をせず、盗みをせず、どこまでも心をこめた真実を示すようにと、勧めなさい。」
(「テトスへの手紙」2章9〜10節、口語訳)

奴隷が主人に対して服従することを要求したためにパウロは批判されてきました。パウロはむしろ奴隷制の廃止を要求するべきではなかったのかという批判です。たしかにキリスト教は西欧諸国において奴隷制を最終的に廃絶するという根本的な社会的変化を実現させました。しかし当時のローマ帝国全体が奴隷制に基づいて構築された社会体制であったということを私たちは思い出すべきです。もしもパウロの時代に奴隷制を突然廃止したならば、帝国全土にわたって大規模な社会問題が起きて、ほぼ確実にローマ社会全体が成り立たなくなったことでしょう。例えば現代に生きる私たちも納税義務の廃止を要求することはできます。というのは税金の一部は私たちが承認できないようなことのためにも使用されるからです。しかしもしも納税を廃止したりすれば、従来税金で賄われてきた好ましくない事業にだけではなく良い事業のほうにも、たんなる経済的損失にとどまらないきわめて大規模な悪影響が及ぶことになるでしょう。

奴隷たちがキリスト信仰者として生活することは彼らの主人たちに対する信仰の証にもなりました(「コロサイの信徒への手紙」3章17節も参考になります)。キリスト信仰者となって生きかたが変わった奴隷たちの信仰が主人たちにとって魅力的で興味深いものに映って「自分たちも同じ信仰の道に入ろうか」と考えさせるきっかけにもなったことでしょう。

「今すでに」と「まだ今ではなく」 「テトスへの手紙」2章11〜15節

「すべての人を救う神の恵みが現れた。そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。あなたは、権威をもってこれらのことを語り、勧め、また責めなさい。だれにも軽んじられてはならない。」
(「テトスへの手紙」2章11〜15節、口語訳)

上掲の箇所で「現れた」や「出現」という言葉が二つの異なる意味で用いられていることに注目しましょう。第一の意味はイエス様がこの世に人としてお生まれになったということであり(2章11節)、第二の意味はイエス様がこの世の終わる時に裁きを下す王として再びこの世に戻って来られるということです(2章13節)。ちなみに聖書ギリシア語で「出現」は「エピファニア」といい、教会暦における1月6日の「顕現主日」の名称でもあります。この主日には神様の栄光が人々の只中に出現したことを覚えて感謝します。

キリスト信仰者は常に二つの方向に心を馳せていなければなりません。第一の方向にはイエス様のゴルゴタでの十字架の死があります。これは私たちの信仰の基盤となります。第二の方向にはキリストの再臨とこの世の終わりがあります。これは私たちの信仰の成就であり、信仰者はそれを待ち続けます。

キリスト信仰者たちは今この時のことを忘れ、過去や未来にばかり囚われて生きているという批判を受けることがよくあります。もしもキリスト信仰者が本当にそのように生きているのだとしたら、たしかにそのような生きかたは聖書の教えに従ったものではありません。上掲の箇所でもパウロはキリスト信仰者が「良いわざ」を全力で行っていくように奨励しています。もちろんこれは過去や未来ではなく今ここで行われていくものです。

「神の恵み」がすべての良いわざを行うことの基盤となっていることに注目しましょう(「エフェソの信徒への手紙」2章10節、「フィリピの信徒への手紙」2章13節も参考になります)。人間それ自体は神様の律法を遵守できない罪深い存在です。罪深い人間が不法なことではなく良いわざを行えるようにするのは神様の恵みだけです。神様の恵みは私たちを日々教育し鍛錬してくれます。この教育には二つの側面があります。それは「すべての不法からあがない出して、良いわざに熱心」にすることです。自分を無にするだけではうまくいきません。それによって生じた空洞はいつも何か他のもので満たされてしまうものだからです。それゆえ、不法からあがない出された人はそれに続いて良いわざを熱心に追求していかなければなりません(「マタイによる福音書」12章43〜45節を参照してください)。

キリスト信仰者たちはいつの時代もキリストの再臨(「栄光の出現」)を待ち続けてきました。この重要な課題について人々はともすると極論に走ってしまう場合があります。テサロニケの信徒宛にパウロが書いた二通の手紙にその具体例があります。第一の手紙でパウロがキリストの再臨に備えるように勧めたためもあり、テサロニケの信徒たちはキリストの再臨をあまりにも性急に待望するようになってしまいました。それでパウロは第二の手紙では彼らの気持ちを落ち着かせるような書きかたをしています。

「大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現」という表現の原文は「わたしたちの大いなる神、救主キリスト・イエスの栄光の出現」と訳すこともできます。後者の訳ではイエス様が神様であることを新約聖書で最もはっきりと直接的に表現されています。

「良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない」という表現は旧約聖書ではイスラエルの神様が選ばれた民を想起させます。キリスト信仰者たちは新しいイスラエルであり(「ガラテアの信徒への手紙」6章16節)、「神様のもの」であり、選びの民なのです。

「だれにも軽んじられてはならない」という表現はテモテと同じくテトスもまた若者であったことを示唆しているものと解釈されてきました(「テモテへの第一の手紙」4章12節)。しかし重要なのは年齢や経験や学歴ではなく、教会を教導する牧師として正しく健全なキリスト教信仰の教えをしっかり守り伝えていく意思があるかどうかという点です(2章1節)。