テサロニケの信徒への第一の手紙4章1〜12節
4章1〜12節 キリスト信仰者はどのように生きていくべきでしょうか?
どの手紙でもパウロは、キリスト信仰者がどのように生きていくべきかについて語っています。人間が恵みのみにより信仰を通してイエス様のゆえに救われることを、彼は一切妥協することなく教えています。これは倫理的な教えを傍らに斥けるものではありません。キリスト信仰者は「神様の子ども」です。これはキリスト信仰者自身の行いの報酬なのではなく、主が恵みによりキリスト信仰者を「御自分のもの」として受け入れてくださったからにほかなりません。しかし、このことからは、キリスト信仰者なら好き勝手に生きてもよい、という結論はでてきません。神様が恵みにより私たちキリスト信仰者を「御自分の子ども」としてくださったがゆえに、私たちは自らの人生において神様の御心を実現することが許されているし、それが可能でもあるのです。パウロはテサロニケ滞在中すでに、教会がどのように生きていくべきかについて教えていました。今この手紙で彼はすでに与えた教えをおさらいしています。神様の聖なる御心が人間にとって十分親しみ深いものになることは決してありません。
パウロがテサロニケのキリスト信仰者たちに教えのおさらいをするのは、テサロニケ教会の中に神様の御心に反する生き方が眼に余るほどの状態だったからではありません。もしもそうであったとしたなら、パウロはこの手紙でこれほど優しく語りかけることもなかったことでしょう。おそらくテサロニケという都市の一般住民の生活ぶりが使徒の念頭にあったのではないでしょうか。このガイドブックのはじめに述べたように、この都市は大きな港湾都市でした。港町での人々の生活ぶりには神様の御心から大きく逸脱する点がしばしば見られました。周囲の人々の生活習慣からキリスト信仰者たちが距離をとることをパウロは望んでいます。キリスト信仰者たちは他の一般の人々とすっかり同じような生活を送るべきではありません。パウロの教えはきわめて実践的なものです。
3〜8節において使徒は、キリスト信仰者が行うべきではない事柄について語ります。まず、パウロは教会にモーセの第六戒「あなたは姦淫してはならない」を思い起こさせます。キリスト信仰者は性生活の領域において好き勝手な性的関係をもってはいけません。結婚は聖なるものであり、不倫によってそれを汚すことは許されません。使徒はこのことを結婚相手のいる人々に対してのみ訓戒しているのではありません。性的な乱行を伴うお祭り騒ぎは当時ごく普通に行われていました。テサロニケのキリスト信仰者たちはこのような乱行とははっきり距離を置くべきなのです。
「各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ち、」(4章4節、口語訳)とあるように、キリスト信仰者は自らの体を「聖なるもの」とみなすべきであり、それを罪に仕えるために用いるべきではありません。激しい欲望に心身が支配されないように注意しなければなりません。キリスト信仰者は非キリスト信仰者とは異なる生き方をするべきなのです。キリスト信仰者ではない人々は、活ける真の神様のことを知らないので、神様の御心の何たるかも無視しています。それに比して、キリスト信仰者たちは「神様の子ども」なので、自分の天の御父の戒めを忘れて生きることは許されません。
「また、このようなことで兄弟を踏みつけたり、だましたりしてはならない。前にもあなたがたにきびしく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて、報いをなさるからである。」(4章6節、口語訳)という聖句によってパウロは、(信仰の)兄弟姉妹に対して不当な犠牲を強いることを禁じています。これは金銭的な問題に関わる指示であるともとれます。貪欲のせいで正直さと兄弟愛が失われてしまうことはよくあることだからです。あるいはここでパウロが意味しているのが、法律を隠れ蓑にして他のキリスト信仰者たちに不当な損害を与えるような裁判沙汰であった可能性もあります。他のキリスト信仰者に不当な仕打ちを与える者たちは、神様から罰を受けます。この罰が下るのは、彼らがまだこの世で生きている間であることもあります。そうでなくとも、遅くても最後の裁きにおいてそれは必ず実現します。
「神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためである。」(4章7節、口語訳)と、使徒は今まで語ってきた事柄をまとめています。私たちキリスト信仰者は罪の中に生きていてはいけない、ということです。神様は私たちが「聖なる生活」を送るように望んでおられます。
パウロは多くの手紙において聖さについて語っています。ここで私たちは二つの点の間にある相違について注意を向けるべきでしょう。キリスト信仰者は今すでに完全に聖なる者である、とパウロは教えています。そうでなければ、完全な聖さを要求なさる神様に私たちが受け入れていただくことは不可能です。しかし一方では、自らの生活を鑑みるとき私たちが完全に聖なる者などではないのは明らかです。私たちがいただいている聖さとは、実はキリストの聖さなのです。私たちは洗礼を受けてイエス様を信じているときに、キリストの聖さを「自分のもの」とさせていただいています。それゆえに、私たちは神様の御目に聖なる者とされているのです。このことと相まって、パウロはもうひとつの聖さについても語っています。このもうひとつの聖さとは、私たちの生き方のことであり、自らの生活においてどれだけよく神様の御心が実現しているか、ということです。この聖さは私たちがこの世に生きている間には決して完全なものにはなりません。私たちは人生の終わりまでいろいろと欠点のある弱い存在だからです。そうではあるものの、私たちは自らの生活ができるかぎり聖くあるように、すなわち、神様の御心にかなうものであるように、と努力を続けます。
パウロは今まで述べてきた禁止事項を次のような厳かな警告で結びます。
「こういうわけであるから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、聖霊をあなたがたの心に賜わる神を拒むのである。」
(4章7節)
使徒の伝えた戒めを無視する者は、人間の戒めを拒むのではなく、神様の戒めを拒んでいることになります。神様の戒めを拒む者は、神様を拒むことになります。神様を拒む者は、聖霊様を拒むことになります。そして、聖霊様なしでは、誰一人キリスト信仰者であり続けることができません。
ただしここで、この警告に基づいて間違った結論を引き出したりしないように、気をつけましょう。ある個別の罪を犯してしまうキリスト信仰者が聖霊様を失ってしまう、ということをパウロはここで意味しているのではありません。パウロが神様から伝えるよう指示された一連の戒めに対して、意図的に背を向けるような態度に対して、この警告は発せられているのです。
9〜12節でパウロは、キリスト信仰者はどのように生きるべきかについての説明を続けます。今回の箇所では、どんなことをしてはいけないかについてではなく、何をしなければならないかについて、彼は語っています。パウロはテサロニケ教会が模範的に示している兄弟愛を話題にします。神様はテサロニケのキリスト信仰者たちに聖霊様を賜ったのです。愛が教会の中でどんどん広がっていくように、神様の御霊は働きかけられます。こうして神様御自身が教会を教えてくださるのです。信仰の兄弟姉妹に対する愛は自分が所属する教会だけにとどまるものではありません。テサロニケのキリスト信仰者たちは他の諸教会の教会員たちに対しても愛を示しています。テサロニケの信徒たちが何を行ったかについては、具体的には手紙に記されていません。パウロはただ一般的に愛を示すことについて語るにとどめています。この手紙の受け取り手たちには、このような説明で十分に意味が通じたからでしょう。彼らはパウロの言わんとすることを理解したのです。
パウロはテサロニケ教会についてよい証を与えましたが、それはこの教会が愛を示すことにおいて完全であったという意味ではありません。いつでも改善するべき点はいくらでも見つかるものです。この世において人間が完全な存在になることは決してありません。よりよい状態へと努力することは私たちが死ぬまで続いていきます。天の御国に入った時になってようやく、この不完全さが「完全に」消え去ることになります。
11節からわかるように、テサロニケ教会には自分で仕事をすることを軽んじる教会員たちがいたようです。教会の霊的な指導者として活動し、神様にお仕えする仕事に没頭するあまり、生活資金を稼ぐ時間さえなくなるほどまで完全に自分を捧げることは、ふつうの仕事をするよりもはるかに素晴らしいことだ、と思われがちです。そして、このような考え方をする人々もやはり食事や住居や衣服なしでは生活できないので、他の人たちが彼らのことを支えるのは当然である、といった具合に考える人がでてくるのです。しかし、パウロは、このようなキリスト教徒の生き方をやめさせたいのです。キリスト信仰者は自活しなければなりません。誰であれ他の人々に犠牲を払わせるような生活をしてはいけません。キリスト信仰者が日常の仕事を真摯に行っていくことほど価値のある生き方は他にはありません。
ただしここでも、パウロの教えを誤解するのは避けねばなりません。もしも老いや病や無職のために自活できない人がいるならば、当然その人は他の人々から助けを受ける権利があります。またパウロは、教会に霊的な仕事を専門的に行い、教会員たちから給料を受け取るような特定の教会員が存在してはいけない、とも教えていません。それどころか、「それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。」(「コリントの信徒への第一の手紙」9章14節)とパウロは明言しています。御言葉に仕える説教者の立場には誰でもが勝手に立てる、ということではありません。この特別な立場に立てるのは、神様と教会がこの御言葉の職務を行うために正式に招いた特定のキリスト信仰者たちだけなのです。
12節においてパウロは、キリスト信仰者たちに高い目標を設定します。私たちが教会の「外部の人々に対して品位を保ち」、外部の人々も私たちが落ち度のない生活を送っていることを認めるようになる、という目標です。この節の最後でパウロは、「だれの世話にもならずに、生活できるであろう」、と言っています。やや奇妙に響くこの言葉も今までの説明に基づいて理解する必要があります。すなわち、キリスト信仰者は他の人々に軽々しく経済的に依存して生活するべきではない、ということです。
第4回目の集まりのために
「テサロニケの信徒への第一の手紙」4章1〜12節
パウロはテサロニケ教会が神様の御心に従って生活するように教えます。そして、守るべき単純な戒めを教会に思い起こさせます。他のキリスト信仰者たちや、教会に属していない人々に対して愛をもって接する態度が、このことに関する中心的なテーマとなります。
1)「不品行を慎む」(3節)というのは、私たちの時代においてはどのようなことを意味しているでしょうか。不品行、また神様の御心に反する生き方が目に余るような状況に対して、キリスト信仰者はどのような態度をとるべきなのでしょうか。
2)同棲を結婚と同じようなものとみなすことができるでしょうか。理由を明示して答えてください。
3)私たちは信仰の兄弟姉妹を冷遇しているのでしょうか。
もしも冷遇しているとするなら、どのようにしてでしょうか。
飢えに苦しんでいるキリスト信仰者たちは私たちの信仰の兄弟姉妹なのでしょうか。
そして、他のキリスト信仰者たちの場合はどうですか。
4)パウロの与えた信仰生活に関わる指示や命令は、「それらはパウロ個人の命令にすぎない」という主張によって捨て去られることがしばしばあります。
はたして、このようなことをしてもよいものでしょうか。
もしもこのような態度をとるならば、次にはどのような事態が生じてくるでしょうか。
5)「愛する力」を私たちはどこから得るのでしょうか。
愛を自分の内側から見つけることができますか。
6)日常の仕事は私たちにとって「光栄です」と胸を張れるものですか。
私たちがキリスト信仰者であることは、私たちの仕事への取り組み方にどのようにあらわれていますか。また、どのようにあらわれるべきものなのでしょうか。
7)キリストなしの生活を送っている人々に対して、私たちキリスト信仰者はどのような態度をとるべきなのでしょうか。
終わりのメッセージ
ルター派宗教改革の父マルティン・ルターが明らかに示したことですが、律法を強制することによってではなく、聖霊様がそのうちで働きかけてくださる福音の説教を通して、聖化は実現するものです。「コリントの信徒への第二の手紙」の第3章への序文としてルターは次のように書いています。
「福音の力を明示するために、聖パウロは福音を「御霊の職務」と呼んでいます。なぜなら、福音は人間の心の中で律法とはまったく異なる働きかけをするからです。福音は聖霊様と新しい心を与えます 。律法の説教によって恐ろしくなり落ち着きを失った人間は、今度は別の説教を聴くことになります。この説教は、もはや神様がその人から何を要求しているかについてではなく、神様がその人のために何をしてくださったかについて語りかけます。この説教はその人を、その人自身による行いにではなく、キリストの御許へと導いていきます。そして、神様がその御子のゆえにその人の罪を赦して御自分の子どものひとりとして受け入れてくださると確信するように、その人に命じます。もしも人がこのような説教を自らに受け入れて信じるならば、この説教はすみやかにその人の心に勇気と慰めを与えてくれます。そうすると、もはやその人は神様を避けることがなくなり、神様の御許に戻っていくようになります。なぜなら、その人は神様の御許において恵みと憐れみを見出したからです。これは、その人が神様に対して従順な態度をとるようになることからわかります。その人は心から神様に助けを叫び求め、神様を自分自身の神として敬うようになります。信仰と慰めが強まるにつれて、神様の戒めに忠実に従おうとする意志と愛も大きくなっていきます。神様が福音の宣教を重視なさる目的は、人が福音の意味を理解するように目を覚ましていて、神様の大いなる恵みと善き御業とを思い起こし、聖霊様がよりいっそう強く働きかけられるようにすることです。これらすべては、律法や人間の力や行いによるものではなく、聖霊様による新たな天からの力によるものです。この力は、人の心にキリストとその御業を刻印して、それを、単なる文字や文章などではなく、真の命と行いである書物とするのです」。
真の聖化とは、律法による裁きや強制の下に置かれる「奴隷の仕事」ではなく、子どものような自発的な従順さです。この従順さは、イエス様への信仰を通して神様から賜った御霊の実なのです。それゆえ、主はこう言われます。
「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」 (「ヨハネによる福音書」15章4〜5節、口語訳)
「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。」 (「マタイによる福音書」11章29〜30節、口語訳)
(Fredrik Gabriel Hedberg)