テモテへの第一の手紙2章 キリスト教会に与える生き方の指針
「テモテへの第一の手紙」の2〜3章では、教会の礼拝はどのように行うべきであり、教会に仕える職員たちはどのような者でなければならないかについて様々な指示が与えられています。
すべての人は救いへと招かれている 「テモテへの第一の手紙」2章1〜7節
律法学者エズラの時代(紀元前400年の中頃)にユダヤ人たちはこの世の権力者たちのために祈るようになりました(「エズラ記」6章10節、7章23節)。預言者エレミヤはバビロニヤに囚人として連れて行かれたユダヤ人たちにバビロニヤのために祈るように奨励しました。
「わたしがあなたがたを捕え移させたところの町の平安を求め、そのために主に祈るがよい。その町が平安であれば、あなたがたも平安を得るからである。」
(「エレミヤ書」29章7節、口語訳)
パウロの時代のキリスト信仰者たちはこの世の権力者たちのために祈ることにためらいを感じていました。ローマ帝国では皇帝を神として崇める偶像礼拝が支配的だったからです。それに加えてローマ帝国はキリスト信仰者たちを迫害していたからです。「テモテへの第一の手紙」の書かれた時期の皇帝ネロ(在位期間は54〜68年)の迫害でパウロとペテロは殉教の死を遂げています。
「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。」
(「テモテへの第一の手紙」2章4節、口語訳)
しかし神様はすべての人が救われることを望んでおられるため、キリスト信仰者はすべての人のために、すなわち迫害者のためにも祈らなければなりません。
ある中国人キリスト信仰者が信仰のゆえに投獄されました。投獄や拷問から守ってくれない神様を信じる理由を拷問者が問いただすと、このキリスト信仰者は「もしそうでなければいったい誰があなたがたにキリストについて語ることができるのか」と答えたそうです。迫害にもかかわらずこのキリスト信仰者は神様がすべての人を、キリスト信仰者を拷問する者も含めて、救いへと招いておられるとわかっていたのです。
「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。」
(「テモテへの第一の手紙」2章5節、口語訳)
どうして神様はすべての人が救われることを望まれるのでしょうか。良い人々だけを御許に招くこともできるのではないでしょうか。ところが実際には「良い人々」は元々この地上に存在しないため、彼らを招こうとするのは意味がないのです。この問題の本質は聖書の啓示する神様こそが唯一の真の神であることに深い関わりがあります(「イザヤ書」44章6節、45章5、14、18、22節、46章9節)。人を救ってくれる他の神は存在しません。神様と人の間を仲介する存在もお一人しかいません。それはイエス・キリストです(「イザヤ書」42章8節、48章11節)。
「わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」8章6節、口語訳)
救われることを願うすべての人間は神様にお仕えするべきです(「イザヤ書」45章23節)。天の御国に通じる道はただ一つしかないからです。
「イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」
(「ヨハネによる福音書」14章6節、口語訳)「彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。」
(「ヨハネの第一の手紙」2章2節、口語訳)
もしも神様がイエス・キリストという救いの道に招いてくださらないなら、人間が救われる可能性はまったくありません。
しかしここで考えるべきことがあります。神様がすべての人の救いを望んでおられるということは、すべての人が救われるという意味でもあるのでしょうか。神様は全能であるため御自分の希望されることを常に実現なさるということになりはしませんか。なぜ神様が全員を救われないのか、私たち人間は完全には理解することができません。しかし聖書が明瞭に証しているように、残念ながら天国に入れない人々も出てきてしまうのです(「テモテへの第一の手紙」1章18〜19節、4章10節、「マタイによる福音書」23章37〜38節、「ルカによる福音書」7章30節、「ヨハネによる福音書」5章40節、「使徒言行録」7章51〜58節)。原則的にはすべての人が救われることはありえます。しかし一部の人々はそれを望まないのです。どうして神様は人が不信仰に留まる可能性をあえて残して、すべての人が是が非でも救われることを強制しようとはなさらないのでしょうか。この疑問への答えはこの世では与えられられないまま謎として残ります(「ローマの信徒への手紙」8章29節、「ペテロの第一の手紙」1章2節)。
パウロはこの箇所で三度「すべての」という単語を用いています(2章1、4、6節)。さらに7節の「異邦人」という単語には「すべての異邦人」という意味合いがあります(「創世記」12章1〜3節を参照してください)。
またしてもキリスト教会にグノーシス主義の異端が入り込み、秘密の知識の重要性を強調しました。そしてごくわずかな選ばれし者たちのみがこの知識にあずかって救われることができるとされたのです。同様の対比はパウロが信仰の真理について述べている箇所にも見ることができます(2章4、7節)。本物の真理は神様の真理であって、グノーシス主義者の言う秘密の知識などではありません。
この世の良い権力者たちは福音を広めていくために役立つ場合があります。初期の教会の時代にローマ帝国には平和がありました。この「ローマの平和」(ラテン語でPax Romana)は福音宣教を広大な帝国の領域で展開することを容易にしました。戦争と動乱は福音宣教の妨げとなります。キリスト信仰者はこの世の権威のために祈らなければなりません(2章2節)。
戦争と動乱の場合とはちがって、一般的にキリスト信仰者への迫害は信仰者が増え広がっていくのを妨げることができませんでした。むしろ逆のことが起きたのです。ローマ帝国では皇帝コンスタンティヌス1世が300年代にキリスト教をローマ帝国の国教とするまでに約一千万人のキリスト信仰者が迫害によって殉教の死を遂げたと推定されています。歴史を通じて殉教者たちの流した血はキリスト教信仰が広がっていくきっかけとなってきました。私たちは二十世紀での共産主義諸国でのキリスト教迫害において同じ奇跡を目の当たりにしてきました。
ルター派の信仰は「この世の権威」と「信仰的な権威」という二つの権威についていわゆる「二王国論」を展開しました。この世の権威は法に基づいて機能しますが、信仰的な権威は福音に基づいて活動します。これら二つの権威は互いに混同してはいけません。一方が他方の領域に干渉すべきではありません。
「そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。」
(「テモテへの第一の手紙」2章1節、口語訳)
「まずは人々について神様に話をしなさい。その後で神様について彼らに話をしなさい」という古くからある良い助言は上節でパウロの与えている指示と調和するものです。
「それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。」
(「テモテへの第一の手紙」2章2節、口語訳)
「信心深さ」はギリシア語では「エウセベイア」と言って、牧会書簡では合計10回用いられています(「テモテへの第一の手紙」2章2節、3章16節、4章7、8節、6章3、5、6、11節、「テモテへの第二の手紙」3章5節、「テトスへの手紙」1章1節)。口語訳での翻訳は「信心」あるいは「信心深さ」になっています。牧会書簡以外の手紙でパウロはこの単語をまったく用いていません。
「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられたが、それは、定められた時になされたあかしにほかならない。」
(「テモテへの第一の手紙」2章5〜6節、口語訳)
これらの節でパウロは初期の教会の信仰告白あるいは礼拝式文を引用しています。
神様は唯一なので、信仰と洗礼もただ一つです(「エフェソの信徒への手紙」4章5節)。ただ一つの洗礼しかない以上、再度洗礼を授けたり受けたりすることは常に誤りです。古い歴史をもつキリスト教会では三位一体なる神様の御名すなわち御父、御子、御霊の御名によって洗礼を授けられた人に再び洗礼を授け直すことはしません。しかしキリスト教以外のやりかたで施行された「洗礼」を受けた人がキリスト教会の会員になる場合には、その人にキリスト教の洗礼を授けます。
ユダヤ人の信仰告白は次のように始まります。
「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。」
(「申命記」6章4節、口語訳)
イスラエルの民は神様のことを彼ら「イスラエルの神」にすぎないと考えるようになったのですが、実のところ神様は世の初めから常に唯一の神、すべての国民の神です(「創世記」12章3節、「出エジプト記」20章3節)。
「彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられたが、それは、定められた時になされたあかしにほかならない。」
(「テモテへの第一の手紙」2章6節、口語訳)
「あがない」とは誰か人あるいは人々が金銭と交換されたり自由の身にされたりすることを意味します。神様がキリストを死に渡されたのは人々が罪や死や悪魔から解放されて自由の身となれるようにするためでした。この出来事は神様が定められた時に起こりました(「ガラテアの信徒への手紙」4章4節、「テトスへの手紙」1章3節、「テモテへの第一の手紙」6章15節)。
「そのために、わたしは立てられて宣教者、使徒となり(わたしは真実を言っている、偽ってはいない)、また異邦人に信仰と真理とを教える教師となったのである。」
(「テモテへの第一の手紙」2章7節、口語訳)
パウロは異邦人の使徒でした(「ローマの信徒への手紙」11章13節、「ガラテアの信徒への手紙」2章9節)。「異邦人」とはユダヤ人以外のあらゆる国民を指す言葉です。
「わたしは真実を言っている、偽ってはいない」という言い方による説得は「ローマの信徒への手紙」9章1節や「コリントの信徒への第二の手紙」11章31節にも見られます。
パウロは信仰の真理を教えました。これは人間の理性にとっては愚かなことですが(「コリントの信徒への第一の手紙」2章6〜8節)、それでもやはり唯一揺るぐことのない真理なのです(「マタイによる福音書」7章24〜27節、「テモテへの第一の手紙」3章15節、「テモテへの第二の手紙」2章18節、「ヘブライの信徒への手紙」10章26節)。
「そこでピラトはイエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」。」
(「ヨハネによる福音書」18章37節、口語訳)
教会における男性と女性 「テモテへの第一の手紙」2章8〜15節
「男は、怒ったり争ったりしないで、どんな場所でも、きよい手をあげて祈ってほしい。」
(「テモテへの第一の手紙」2章8節、口語訳)
聖書の教えや記述の中でどの部分が書かれた当時の文化や習慣に束縛され、どの部分があらゆる時代に有効なのかという難問があります。上掲の節はこの難問にかかわる典型的な箇所です。
現代の(男性)キリスト信仰者も手を挙げて祈るべきなのでしょうか。あるいはパウロによる祈りの奨励でさえ今ではもはや有効ではなくなっていて、当時の世界にのみ限定されるやりかたなのでしょうか。
「また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。」
(「テモテへの第一の手紙」2章9節、口語訳)
聖書の一部の内容はそれが書かれた当時の習慣や文化に由来するものであり、そのまま現代に適用するべきものではないのは明らかです。この例として女性が髪を編むことを挙げることができます。当時の娼婦は道具を使って編んだ髪型にしていることが一般的でした。上掲の節でパウロは女性が身を着飾りすぎることの弊害についてだけではなく、女性キリスト信仰者が服装によってあたかも自分が娼婦であるかのような誤解を他の人々に与えるべきではないということも述べていると思われます。
2章8節に戻ると、男性がきよい手を挙げることはたしかに当時特有の所作ですが、祈ることや怒ったり争ったりしないことは私たち現代人に対しても拘束力をもつ命令です。
2章9節では、女性が道具を使ってある種の髪型にすることはたしかに当時特有のやりかたですが、慎ましい身なりや適度な慎み深さは、2章10節の奨励が信仰について証しているのと同じように、現代のキリスト信仰者にも依然として当てはまる有効な指示です。
ユダヤ人は立って祈りました(「マルコによる福音書」11章25節、「ルカによる福音書」18章11、13節)。その時にはしばしば手を上に挙げて祈りました。しかし聖書は他の祈りの姿勢についても述べています。例えばひざまずいたり身を地面に投げ出したりする所作です(「ルカによる福音書」22章41節、「使徒言行録」20章36節、「エゼキエル書」2章1〜2節)。
神様の御前に出るより前に、仲たがいをしている隣り人と和解するよう、イエス様は奨励なさいました(「マタイによる福音書」5章23〜24節、「マルコによる福音書」11章25節)。
2章8節に基づいて言えることは、祈りを妨げるものが三つあるということです。それらは罪と怒りと疑いです。これらに悩まされているかぎり私たちは神様の御意思にしたがって祈ることができません。
2章8節の「きよい手」は祈るのにふさわしい態度である「きよい心」を表しているとも言えます。
2章9節の冒頭でパウロは女性たちにも祈ることを奨励していると理解することもできます。「コリントの信徒への第一の手紙」11章5節でパウロは教会の集まり(礼拝)で女性が預言することや祈ることについて明瞭に述べています。
「女性はどのように自身を着飾るべきなのか」という問題についてキリスト教会では歴史を通じて議論が続けられてきました。ある人々は2章9〜10節に基づいて化粧や装飾品の使用といった着飾ること一切を否定しようとしました。しかしここで思い起こすべきことがあります。「ヨハネの黙示録」で新しいエルサレムは晴れ着をまとった存在として描写されているということです。
「また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。」
(「ヨハネの黙示録」21章2節、口語訳)
「テモテへの第一の手紙」2章9節にあるように、キリスト信仰者である女性の身支度を整える真のやりかたとは外面的なものではなく(「ペテロの第一の手紙」3章3〜4節)神様の御意思にしたがって生きることです。このことはもちろん男性にもあてはまります。とはいえ外面的な身支度を整えることを完全に無視してよいという意味でもありません。この節が強調しているのは、外面的な事柄が物事の中心的な主題にならないように気をつけなければならないということです。
「女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。むしろ、静かにしているべきである。なぜなら、アダムがさきに造られ、それからエバが造られたからである。またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。しかし、女が慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、子を産むことによって救われるであろう。」
(「テモテへの第一の手紙」2章11〜15節、口語訳)
ある聖書研究者たちは牧会書簡を書いたのがパウロではないことを示す十分な根拠として上掲の箇所を挙げます。パウロが女性に対してこれほどまで否定的な態度をとることはできないはずであると彼らは考えます。
その一方で、別の聖書研究者たちは上掲の箇所を引き合いに出してパウロを女性蔑視者と決めつけて断罪し、それを口実としてキリスト教の信仰と教えを捨ててしまいました。
上掲の箇所は新約聖書の中でも適切に理解するのが最も困難な箇所のうちのひとつです。例えばパウロは女性が「子を産むことによって救われる」と本当に考えていたのでしょうか。
1945年にエジプトで発見されたグノーシス主義の文書(ナグ・ハマディ文書)は当時の背景に基づいてこの箇所の理解に役立つ貴重な情報を提供してくれます。
スウェーデンの神学者Bo Giertzは牧会書簡の解説書でこの文書について次のように説明しています。
「これらの文書に基づいて以前よりもはるかに詳細なことがグノーシス主義についてわかってきた。グノーシス主義は他の諸宗教からの様々な要素をためらわずキリスト教の中に導入した当時の「世界教会主義」であった。グノーシス主義はユダヤ教からは聖書の人名や人間の創造と堕罪の物語を取り入れつつも旧約聖書の神信仰の内容をユダヤ教とはまったく異質なものに改変した。グノーシス主義によれば、真の神は名を持たない知られざる存在であり、人間には及びもつかない遠いところにその身を隠している。この真の神からより低次元の神的な存在が発出している。この存在は両性的な「母 = 父」あるいは女神として理解されている。この女神にはピスティス、ソフィア、エピノイア、バルベロといった多くの名が付与されている。万象の始原とされる「母」にまつわる創造神話には多くの異説がある。たいていの場合、この母は新しい神である創造神デミウルゴス(「ヤルダバオート」などと呼ばれる)を誤って産んでしまった存在と位置づけられている(グノーシス主義者たちは天界の諸力について仰々しい名を好んでつけた)。
いま最後に挙げた旧約聖書の神、デミウルゴスは不完全でしばしば悪の力として働く存在ととらえられている。悪の天使たちの助けによってこの神は人間の肉体を造ったが、それに命を与えることには失敗した。そこで女神が自らの光の力を人間の肉体に吹き込むことによってようやく人間に命が生じた。こうして最初の人間が生まれるが、それは「アンドロギューニ」すなわち同時に男でもあり女でもある両性的な存在である。ヤルダバオートとその悪の手下たちは女神の光の力を手に入れようとしてアダムの一部を切り取って女を造った。エバは天界の光の力からより大きなかけらを手に入れるが、デミウルゴスは彼女を誘惑することに成功する。デミウルゴスは性的な欲望を惹き起こしエバと婚姻関係を結ぶことになる。その後、死が入り込み、人間たちは死の隷属下におかれる。女神が人間たちの目を開いた結果、彼らは男と女に分かれ、いかなる不幸が起きたのか気づいてしまう。実はここに救いがある。聖書が罪への堕落と呼んでいるその瞬間にすでに解放は始まっている。解放する女神は知識の木の中に隠れ、蛇の口を借りて語りかけ、禁じられた実をエバに食べさせた。その結果、エバは理解力を得たのである。同じ神の力は人間たちの目を開くために働きかける。その結果、彼らは男と女の間の違いにはどのような不幸が含まれているかを見て、それを否定するようになる。それとともに彼らは結婚も性交も出産も否定するようになる。この時、彼らは男も女も存在しない原初の状態への旅をしているのだ。グノーシス主義者たちはマグダラのマリアを特に高く評価した。イエスは彼女を使徒の誰よりも愛した。彼女はイエスといつも一緒にいることを許されていた。使徒たちはそのことで機嫌を損ねたが、イエスは「私は彼女を男にするために彼女を導かなければならないのだ。自分自身を男へと変える女は皆、天の御国に入れるからである」と言った。ナグハマディ文書の中に含まれる「マリアの福音書」ではマグダラのマリアが使徒たちに主から得た啓示を教えている。アンデレはキリストが本当にそれらすべてのことを言ったのかどうか疑う。救い主は使徒たちにそれについて語らなかったため、ペテロは救い主が本当に彼女にそのようなことを個人的に話したのかどうかマリアを詰問し始める。しかしレビはペテロをたしなめてこう言う。「もしも救い主がマリアをそのように評価したのだとしたら、彼女を否定しようとするお前は何様のつもりだ」。こうしてマリアが正しいことが示される。
すでに述べてきたようなグノーシス主義の世界観には多くの異説があるが、互いに共通している部分もある。天界のエピノイア = ピスティス = ソフィアあるいは他の何らかの名で呼ばれる存在が、この悪の世界に新しい人間たちがこれ以上生まれてこなくてもよいようにするために、偽りの創造神や結婚や子どもの出産から解放されるように人間たちを教育することを主な目的として活動しているという点である。このような啓蒙を受けた女たちは「母 = 父」の種子である。彼らは男に対しても女に対しても権威ある者として登場し、彼らに真理を教えることができる。
このような世界観によって形作られる思想的な背景に照らし合わせるとパウロの意図することが浮き彫りになってくる。グノーシス主義者たちはイエスが創造の秩序を破壊して男性を支配下におく権能を女性に授けたと主張した。それに対してパウロはキリストの使徒としてこの主張を容認できないと返答しているのである。「男の上に立ったりすること」という時、パウロはごくまれな単語(ギリシア語で「テンテオー」)を用いているが、実はこれはグノーシス主義者たちが使用していた専門用語なのである。この単語は無条件の権威を手中に収めることと、反論を一切許さない権威によって法を制定することを意味している。キリスト信仰者たちはそのような権威が実際に存在することを知っている。しかしそのような権威は神様にしかない。
神様の御言葉を神様御自身からいただいた使命に基づいて教会に宣べ伝える時、福音宣教者はこの権威を有している。最初期の教会では使徒たち、預言者たち、正しい御言葉の僕たちはこの権威に基づいて宣教できることが知られていた。しかしグノーシス主義者たちは女たちも同じようにできると主張しているのである。それに対してパウロはそれが神様の御意思ではないことを示している。女は教師として皆の前に現れて「男の上に立ったりすること」をするべきではない。これは妻が夫の上に立ってはいけないという意味ではなく、礼拝における秩序にかかわる問題である。前掲の「テモテへの第一の手紙」2章11〜15節の内容は、神様のお遣わしになった教師また指導者として礼拝で皆の前に立つことを示唆していると理解されるべきである。「静かにしている」(ギリシア語では「エン・ヘーシュキアー」)とは「静かに聴く」ということであり、ここでは礼拝で教えを聴くことを意味している。「ヘーシュキアー」は沈黙、静けさ、聴くことを意味する。」
(Bo Giertzの本からの引用はここまでです)
上掲の「テモテへの第一の手紙」2章11〜15節に書いてあることはすべて、エフェソのグノーシス主義者たちに対するパウロの「原始的な反応」にすぎず、現代のキリスト信仰者たちには何の重みも持たないと考えるべきなのでしょうか。
ここで第一に想起すべきことは、新約聖書と旧約聖書に含まれるすべての文書はそれぞれ特定の歴史的な状況の中で生まれたということです。文書に歴史的な背景があるからといって、その文書の教えそのものを捨ててもかまわないということにはなりません。
第二に、パウロのすべての手紙が私たちの生きる現代まで保存されてきたわけではないということを思い起こす必要があります。例えばコリントの教会宛の二通の手紙は消失してしまいました(「コリントの信徒への第一の手紙」5章9節、「コリントの信徒への第二の手紙」2章4節)。またラオデキヤの教会に送られた手紙も残っていません(「コロサイの信徒への手紙」4章16節)。聖霊様のお導きにより、パウロの多くの手紙のうちの一部分だけが私たちの時代にまで保存されてきたのです。まさしくこれらの保存されてきた手紙たちを通して神様は私たちに話しかけることを望んでおられるのです。
「神は無秩序の神ではなく、平和の神である。
聖徒たちのすべての教会で行われているように、婦人たちは教会では黙っていなければならない。彼らは語ることが許されていない。だから、律法も命じているように、服従すべきである。もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい。教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことである。それとも、神の言はあなたがたのところから出たのか。あるいは、あなたがただけにきたのか。
もしある人が、自分は預言者か霊の人であると思っているなら、わたしがあなたがたに書いていることは、主の命令だと認めるべきである。もしそれを無視する者があれば、その人もまた無視される。
わたしの兄弟たちよ。このようなわけだから、預言することを熱心に求めなさい。また、異言を語ることを妨げてはならない。しかし、すべてのことを適宜に、かつ秩序を正して行うがよい。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」14章33〜40節、口語訳)
神様からいただいた権能に基づいてパウロは上掲の箇所で女性が教会の集まり(礼拝)で教えることを禁じています。パウロのこの見解は意味的に曖昧なものではなく、エフェソ教会に特有の状況や問題に制限されるものではないと言うことができます。しかしこれが今日のキリスト信仰者たちにも規範となるものであることを認めようとしない人々が現代には大勢います。
女性牧師制をめぐる諸問題は聖書とその教えの規範性の問題にほかならないことに注目してください。もしも聖書の教えをある箇所について捨ててもよいと考えるのならば、他の箇所についても聖書の教えを捨てることが妨げなくできるようになってしまいます。
「女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。」
(「テモテへの第一の手紙」2章11節、口語訳)
「パウロは女性が教える権利について否定的な態度をとるのをユダヤ教から学んだ」という主張がなされることもあります。しかしユダヤ教は女性に対してパウロよりもはるかに厳しい態度を取っています。エルサレム・タルムードでは、女にトーラーを教えるくらいならトーラーを燃やしてしまったほうがよいとさえ言われています(「トーラー」とは律法のことであり旧約聖書の最初の五つの文書を指します)。それに対してイエス様やパウロは女性たちにも聖書を教えました。また女性がキリスト教について他の人に個人的に教えることについてパウロはまったく反対していません(「使徒言行録」18章26節、「テモテへの第一の手紙」5章10節、「テモテへの第二の手紙」1章5節、3章15節、「テトスへの手紙」2章3〜5節、「ペテロの第一の手紙」3章1節)。これは教える相手が男性であってもそうです。しかしパウロは女性が教会の教師(牧師)として教えることは容認しなかったのです。
上掲の節にある「従順」も現代では評判がよくない考え方ですが、社会全体(例えば会社、軍隊、政府など)は依然として基本的に上司と部下の関係性に基づいて構成されています(「コリントの信徒への第一の手紙」14章40節)。
男性はまず自分がキリストの下に立たなければなりません(「エフェソの信徒への手紙」5章21〜25節)。それからようやく男性は女性が下に立つことを期待できるのです。男性は暴君や独裁者であってはなりません。男性は自分がキリストの下に立つ覚悟がどの程度あるかに応じて女性が自分の下に立つことを期待できるとも言えるでしょう(「「テトスへの手紙」2章4〜5節も参考になります)。
エフェソはディアナあるいはアルテミス崇拝の中心地でした(「使徒言行録」19章34節)。グノーシス主義はギリシア人の異邦の諸宗教からも影響を受けていました。
グノーシス主義では蛇とエバは真理の教師でした。そして女たちが教会を指導していました。子どもを産むことは罪とみなされました(これらの主張と次の聖書の箇所を比較してください。「テモテへの第一の手紙」2章15節、4章3節、5章14節)
「またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。」
(「テモテへの第一の手紙」2章14節、口語訳)
エバがサタンの悪巧みに誘惑されたことをパウロはこの節で強調しています(「コリントの信徒への第二の手紙」11章3節も参照してください)。エバではなくアダムが長子であり最初の人間でした。神様御自身がこの世界に特定の秩序を設定なさったのです。人間が勝手にそれを変更することは許されません。
「しかし、女が慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、子を産むことによって救われるであろう。」
(「テモテへの第一の手紙」2章15節、口語訳)
翻訳によってはこの節の「子」をイエス様に当てはめています。しかしこのような解釈にはかなりの無理があります。信仰を通して人は義とされることをどうしてパウロがこのようにヴェールに包むようにして語っているのかという疑問が出てきます。特に、パウロがここでグノーシス主義の「秘密の知識」を喧伝している者たちを相手に戦っていることを考えると、このような解釈はなおのこと不自然に思われます。