ペテロの第二の手紙3章 主の日
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この第二の手紙をあなたがたに書きおくり 3章1〜2節
「愛する者たちよ。わたしは今この第二の手紙をあなたがたに書きおくり、これらの手紙によって記憶を呼び起し、あなたがたの純真な心を奮い立たせようとした。」
(「ペテロの第二の手紙」3章1節、口語訳)
「愛する者たちよ」(ギリシア語で「アガペートイ」)という呼びかけはこの3章では上の1節の他に8、14、17節でも繰り返されています。
上掲の節には「わたしは今この第二の手紙をあなたがたに書きおくり」とありますが、それでは「第一の手紙」は何だったのでしょうか。例えば次のような可能性が考えられます。
1)「第一の手紙」は「ペテロの第一の手紙」のことである。
しかしこれは内容的に当てはまりません。また「ペテロの第一の手紙」と「ペテロの第二の手紙」はそれぞれ別の受取手たちに宛てて書かれています(「ペテロの第一の手紙」1章1節〜2章12節と「ペテロの第二の手紙」1章16節を比較してください)。
2)「ペテロの第二の手紙」は三つの手紙から構成されている。2章は「ユダの手紙」の文章を少し書き換えたものである。そして元々は独立した手紙であった1章がまさにその「第一の手紙」である(一部の聖書学者たちによる仮説)。
しかしこの仮説と矛盾する点があります。「ペテロの第二の手紙」を構成する三つの各章では他の二つの章においてそれと対応する表現がしばしば用いられているということです(例えば3章2節と2章21節を比べてください)。ですから「ペテロの第二の手紙」は決して三つの独立した手紙の貼り合わせなどではなく、むしろ一体性を持つ一つの手紙であると考えられるのです。
3)「第一の手紙」はすでに散逸した手紙である。
ラオデキヤの教会に宛ててパウロが書いた手紙(「コロサイの信徒への手紙」4章16節)は消失しました。同様にパウロがコリントの信徒たちに宛てて書いた少なくとも二通の手紙もすでに失われています(「コリントの信徒への第一の手紙」5章9節、「コリントの信徒への第二の手紙」7章8節)。これらのことから考えても「第一の手紙」が消失した手紙である可能性は大いにあります。
「それは、聖なる預言者たちがあらかじめ語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた主なる救主の戒めとを、思い出させるためである。」
(「ペテロの第二の手紙」3章2節、口語訳)
この節で旧約聖書と使徒の教えが同等に扱われていることに注目してください。両者ともに私たち人間に対する神様からの語りかけだからです。
主の再臨がいくら待っても起きないのはなぜか? 3章3〜7節
今扱う箇所で描かれている異端教師たちはすでに前章に出てきたのと同じです(3章3節と2章2節を比べてください)。
「まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。」
(「ペテロの第二の手紙」3章3〜4節、口語訳)
ここで「あざける者たち」と呼ばれる異端者たちが教会の外部の者であったとはかぎりません。むしろ教会の内部の者だったという印象さえ受けます。彼らは教会内でいわば「新たな解釈に基づくキリスト教」を標榜していたことになります。
残念なことに、現代のいわゆる「科学的な」聖書学は上掲の箇所に代表されるような考え方を受け継いでいるとも言えます。「初代のキリスト信仰者たちが期待していたイエスの速やかな再臨は結局のところ実現しなかった」という認識が現在の批判的な聖書学の生まれるきっかけになったという主張さえあります。
「終りの時」とは聖霊降臨後の時のことであって、終わりの時を特徴づける新たな「期間」を意味しているものではありません(「使徒言行録」2章16〜17節、「テモテへの第一の手紙」4章1節(「後の時」)、「テモテへの第二の手紙」3章1〜7節、「ヘブライの信徒への手紙」1章2節、「ヤコブの手紙」5章3節)。
実は異端教師たちの出現それ自体が、イエス様が再臨するという予言がまさに実現しつつあることを示唆する証なのです。パウロもまたイエス様の再臨を否定する同種の異端との戦いを余儀なくされました(「コリントの信徒への第一の手紙」15章12〜23節、「テサロニケの信徒への第一の手紙」4章14〜18節、5章1〜3節)。すでに旧約聖書の時代にも預言者たちは彼らの予言したことが人々の期待通りに実現しなかった時に「お前たちは我々に偽りの約束をした」という厳しい批判を受けました(「イザヤ書」5章19節、「エレミヤ書」17章15節、「エゼキエル書」12章22節、「マラキ書」2章17節)。
「ハバクク書」は「定められたとき」について次のように記しています。
「主はわたしに答えて言われた、
「この幻を書き、
これを板の上に明らかにしるし、
走りながらも、これを読みうるようにせよ。
この幻はなお定められたときを待ち、
終りをさして急いでいる。それは偽りではない。
もしおそければ待っておれ。
それは必ず臨む。滞りはしない。
見よ、その魂の正しくない者は衰える。
しかし義人はその信仰によって生きる。」
(「ハバクク書」2章2〜4節、口語訳)
「ペテロの第二の手紙」の執筆時期は新約聖書の他の多くの書物の成立時期よりも遅かったと推定されることがあります。これは「「ペテロの第二の手紙」3章4節は初代のキリスト信仰者世代の死について語っている」という仮定に基づいています。しかし「先祖たちが眠りについてから」の「先祖たち」が使徒たちや他の初代のキリスト信仰者たちを指しているとはかぎりません。例えばユダヤ教の書物「バルクの黙示録」で「先祖たち」はアブラハム、イサク、ヤコブといった族長たちのことを指しています。「使徒言行録」3章13節も同様です(「ローマの信徒への手紙」9章5節や「ヘブライの信徒への手紙」1章1〜2節も参照してください)。また「ヨハネによる福音書」6章31節では「わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。」とあるように「先祖」は荒野で彷徨するイスラエルの民のことです。
さらに「すべてのものは天地創造の初めからそのままであって」(3章4節)という異端教師による講話の構成や、それに対するペテロの応答が旧約聖書の出来事を引き合いに出していることも、「ペテロの第二の手紙」のこの箇所の「先祖たち」が旧約聖書の聖徒たちを意味していることを示唆しています(3章5〜7節)。おそらく異端教師たちは「すべてが今まで通りに続いていく」と考えていたのです。彼らは旧約聖書について深くは理解していなかったようです。かつてノアの洪水という人類絶滅の危機があったことさえ忘れていたのですから。
「すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。」
(「ペテロの第二の手紙」3章5〜6節、口語訳)
かつて神様はこの世界を一度洪水で滅ぼされたことがあります。しかしその後、神様は同じような洪水はもう二度と起きないと約束してくださいました(「創世記」8章21節および9章11、15節、「イザヤ書」54章9節)。「ペテロの第二の手紙」によれば、今回の滅びは火によってもたらされます(3章10節)。このことは旧約聖書で繰り返し予言されてきました(「イザヤ書」34章8〜9節、66章15〜16節、「エゼキエル書」15章7節、「ダニエル書」7章9〜10節、「ミカ書」1章4節、「ゼパニヤ書」1章18節および3章8節)。
洗礼者ヨハネも火が世界を滅ぼすと予言しています(「マタイによる福音書」3章11〜12節)。同様なことをパウロや他の新約聖書の記述者たちも述べています(「コリントの信徒への第一の手紙」3章13節、「テサロニケの信徒への第二の手紙」1章7〜8節、「ヘブライの信徒への手紙」6章7〜8節および12章29節(「わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。」)、「ペテロの第一の手紙」1章7節、「ヨハネの黙示録」21章8節)。
歴史とは、ヒンズー教などの東方の宗教が教えているような際限なく循環する時間の流れではなく、神様がその始まりから終わりまでを導かれる直線的な時間の流れなのです。
天地創造は神様の言を通して実現しました(3章5節、「創世記」1章6、9、11、14、20、24、26節。また「詩篇」33篇6節、「ヨハネによる福音書」1章1〜3節、「ヘブライの信徒への手紙」11章3節も参考になります)。
「古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが」という3章5節の箇所は天地創造で水が互いに分たれた出来事を指しているものと思われます(「創世記」1章6〜10節)。
3章6節は原文のギリシア語だと「これらを通して」という言葉で始まっています。「これら」について、聖書の多くの英語訳はペテロが水を複数形で表しているという理解の上に訳しています。しかし「その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。」と書いてあるように、「これら」とは、水だけではなく、世界を裁く神様の御言葉のことも指していると考えられます。
神様の選ばれた終わりの時 3章8〜13節
「愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。」
(「ペテロの第二の手紙」3章8節、口語訳)
終りの時に現れる「あざける者たち」(3章3節)はまたしても判断を誤りました。聖書によれば神様は時間の世界を超越した存在です(「詩篇」102篇28節(口語訳では27節)、「テモテへの第一の手紙」1章17節、「ヘブライの信徒への手紙」13章8節、「ヨハネの黙示録」1章4節)。それゆえ私たちはこの世の時間の尺度によって救いの歴史の計画の進展を測るべきではないのです。神様にとって「一日は千年のようであり、千年は一日のようである」からです。これは「あなたの目の前には千年も過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです。」という「詩篇」90篇4節と共通する視点であり、「終わりの時」の到来する時期は人間には算出できないものであることを示唆しています(「マルコによる福音書」13章32節)。
イエス様は弟子たちに次のように言っておられます。
「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。」
「使徒言行録」1章7節より、口語訳)
現代物理学は「時間」という概念について物質や空間とは無関係に独立して一様に流れていくものではなく物質や空間に束縛されているものであると教えています(相対性理論における「固有時」という考え方がその例です)。神様は物質に束縛されていないので、時間にも束縛されない存在です。神様の特質である「永遠」を正しく理解することは、時間と物質に束縛され続けている私たち人間には不可能なのです。
「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」
(「ペテロの第二の手紙」3章9節、口語訳)
ペテロの敵対者たちはイエス様の再臨がなかなか起きないことを神様の弱さの表れと受け止めました。しかしペテロはそれを否定し、神様が終わりの時の到来を遅らせているのは、それを思いのままに実現する力がないからではなく、人間たちに悔い改めのための時間的猶予を与えることを望んでおられるからであると説明しました。
人が自らの罪を悔いイエス様の死と復活のゆえに自分の罪も赦されたと信じて洗礼を受けることで永遠の救いのあずかれるようになる「恵みの時」は今も続いています。しかしそれもこの世の終わりの時までです。
上に説明したように、イエス様の再臨の時がなかなか訪れないことには深い意味があるのです(「ハバクク書」2章3〜4節)。
「「もうしばらくすれば、
きたるべきかたがお見えになる。
遅くなることはない。
わが義人は、信仰によって生きる。
もし信仰を捨てるなら、
わたしのたましいはこれを喜ばない」。
しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、
信仰に立って、いのちを得る者である。」
(「ヘブライの信徒への手紙」10章37〜39節、口語訳)。
教会にとって「世の終わり」を待つ時は伝道の仕事に励む時でもあります。教会は救いにあずかれるように人々を招き続けなければなりません(「マタイによる福音書」24章45〜51節)。
神様は私たちに対して「ながく忍耐しておられる」のです。それと同じことを旧約聖書の記述者たちもすでに教えています(「出エジプト記」34章6節、「民数記」14章18節、「エレミヤ書」15章15節、「ヨナ書」4章2節、口語訳)。
「しかし主よ、あなたはあわれみと恵みに富み、
怒りをおそくし、いつくしみと、まこととに
豊かな神でいらせられます。」
「詩篇」86篇15節、口語訳)
これと同じことを新約聖書も強調しています(「ローマの信徒への手紙」2章4節および9章22節、「ペテロの第一の手紙」3章18〜22節)。
ところで、もしも神様が「ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ること」、全ての人の救われることを望んでおられるのだとしたら(3章9節)、それは「全ての人が救われる」という意味になりはしないでしょうか。神様は御自分が望んでおられることを実行することができないのでしょうか。神様は人々を彼ら自身の意志に逆らってでも救うことができないのでしょうか。
ここで重要なのは、聖書の特定の箇所をその置かれた文脈から切り離して理解しようとするべきではないということです。上掲の3章9節もそれだけ取り出して解釈するのではなく、むしろ3章全体を構成する一部分として読むべきなのです。そのようにして読むとき、3章9節は3章7節の「不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時」という警告と合わせて理解されなければならないということがはっきりしてきます。
誰であれこの世に生きているかぎりは救われることは可能です。天国は誰に対しても開かれているからです。しかし神様に反抗し地獄に落ちる生き方を意図的に選んでしまう可能性も人には残されているのです。もしもある人が神様の恵み深い御意思に逆らってどうしても地獄(そこには神様がおられません)に行きたいというのなら、神様は天国に来るようにその人を強制したりはなさいません。
例えば次に引用する「エゼキエル書」33章11〜20節に書かれてあるように、これと同じ二つの選択肢が人間に与えられていることに注目しましょう。
「あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。人の子よ、あなたの民の人々に言え、義人の義は、彼が罪を犯す時には、彼を救わない。悪人の悪は、彼がその悪を離れる時、その悪のために倒れることはない。義人は彼が罪を犯す時、その義のために生きることはできない。わたしが義人に、彼は必ず生きると言っても、もし彼が自分の義をたのんで、罪を犯すなら、彼のすべての義は覚えられない。彼はみずから犯した罪のために死ぬ。また、わたしが悪人に『あなたは必ず死ぬ』と言っても、もし彼がその罪を離れ、公道と正義とを行うならば、すなわちその悪人が質物を返し、奪った物をもどし、命の定めに歩み、悪を行わないならば、彼は必ず生きる。決して死なない。彼の犯したすべての罪は彼に対して覚えられない。彼は公道と正義とを行ったのであるから、必ず生きる。あなたの民の人々は『主の道は公平でない』と言う。しかし彼らの道こそ公平でないのである。義人がその義を離れて、罪を犯すならば、彼はこれがために死ぬ。悪人がその悪を離れて、公道と正義とを行うならば、彼はこれによって生きる。それであるのに、あなたがたは『主の道は公平でない』と言う。イスラエルの家よ、わたしは各自のおこないにしたがって、あなたがたをさばく」。」
(「エゼキエル書」33章11〜20節、口語訳)
神様は全ての人間に対して「あなたを救いたい」と望んでおられます。しかし個々の人間が神様を捨てて地獄に落ちてしまう可能性も残されているのです。
同様に「テモテへの第一の手紙」でもその2章4節と1章18〜20節とを互いに結び付けて読まなければなりません。
「結局は全ての人が救われる」という教えは聖書の明確な御言葉に反しています。このような異端は自分に都合の良い特定の聖書の箇所をその文脈や他の聖書的な教えから切り離して濫用することで捏造されるものです。
「しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。」
(「ペテロの第二の手紙」2章10節、口語訳)
いわゆる共観福音書(「マタイによる福音書」、「マルコによる福音書」、「ルカによる福音書」)での「終わりの時」に関連する出来事について語られたとき、イエス様はこの世の終わりがあたかも夜の盗人のように突然やってくると指摘なさいました(「マタイによる福音書」24章42〜44節。また「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章2節、「ヨハネの黙示録」3章3節および16章15節も参考になります)。
旧約聖書でも「主の日」は神様による裁きの日を意味していました(「イザヤ書」2章6〜22節、「アモス書」5章18〜20節)。この日について神様は「もう時がない」(「ヨハネの黙示録」10章6節)と言っておられます。その時になると、もはや悔い改めのための時間的猶予が人に与えられることはなくなり、この世は神様から裁きを受けます。しかもこの裁きを回避することは誰にもできないのです。
上掲の最後の部分は口語訳では「焼きつくされるであろう」とありますが、新共同訳(1987年版)では「暴かれてしまいます」になっています。この翻訳のずれは底本のギリシア語版が依拠しているそれぞれの写本のちがいによるものです。原文の意味をとらえるのが難しいこの箇所について、前者では「万物が焼き尽くされる」という説明を与えるものとなっており、後者ではペテロが「最後の裁きの時に全てが暴露される」と言っていることになります(3章10節)。
「このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。」
(「ペテロの第二の手紙」3章11〜12節、口語訳)
神様による裁きが下されるのはこの世界に対してだけではありません。ですから、それは例えば「核戦争で地球が滅びる」という意味ではなく、むしろ万物、全宇宙に対する裁きなのです。
キリスト信仰者は信仰的に目を覚ましていなければなりません(「マタイによる福音書」25章13節、「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章6〜8節、「ペテロの第一の手紙」1章13〜16節)。信仰をもたない人々に対して、キリスト信仰者は自らの生き方を通して信仰者としての証をすることができます。
「神の日の到来」を早めることは、福音を全世界に宣べ伝えていくということと密接に関連しています。福音が全ての諸国民に宣べ伝えられた時になってようやく世の終わりが訪れるからです(「イザヤ書」62章10〜11節、「マタイによる福音書」24章14節(「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。」))。ただし、いつ主の日が到来して全てが終わるのかは神様御自身がお決めになることです(「ヨハネの黙示録」16章14節)。
人は主の日の到来を早めるために熱心に祈ることができます(「マタイによる福音書」6章10節(「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」)、「ルカによる福音書」18章7節、「コリントの信徒への第一の手紙」16章22節、「ヨハネの黙示録」6章10節および22章20節(「これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。」))。
「天体」はギリシア語で「ストイケイア」といい「元素」という意味もあります。この「天体」という訳の適切さを示唆している聖書の箇所としては「イザヤ書」34章4節を挙げることができます(「天の万象は衰え、もろもろの天は巻物のように巻かれ、その万象はぶどうの木から葉の落ちるように、いちじくの木から葉の落ちるように落ちる。」)。古典古代の世界観(自然哲学)においては例えば火、土、水、空気が世界を構成する「元素」(ストイケイア)とされました。しかし上掲の「ペテロの第二の手紙」の箇所の「天体」(ストイケイア)はそのような諸元素を意味する
ものではありません。なぜなら「その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう」とあるように、この世界は火に焼き尽くされ滅ぶことになると書いてあるからです。
「しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。」
(「ペテロの第二の手紙」3章13節、口語訳)
キリスト教信仰は神様が聖書を通して与えてくださった約束ではない何か別のものに依拠するものであってはなりません。人は理性に信頼しきってこの世を歩むと、誤った道に迷い込むほかなくなるからです(3章3〜5節を参照してください)。
神様は「御自分のものたち」のために新しい天と新しい地を創造することを旧約聖書で約束してくださいました(「イザヤ書」65章17節および66章2節)。新約聖書の「ヨハネの黙示録」21章1〜8節にはこの新天新地の到来が描写されています。
天の御国を支配しているのは神様の義であり、そこにはもはや罪が存在しません(「イザヤ書」45章8節)。「ダニエル書」は次のように述べています。
「あなたの民と、あなたの聖なる町については、七十週が定められています。これはとがを終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです。」
(「ダニエル書」9章24節、口語訳)。
キリスト信仰者として私たちはこの世の終わりが永遠の世界の始まりでもあることをしっかり覚えておくべきです。
聖書の中にある全てのことが容易に理解できるものとはかぎらない 3章14〜16節
「愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。」
(「ペテロの第二の手紙」3章14節、口語訳)
上節で「この日」と訳されているのはギリシア語原文では「これら」という言葉であり、前節の「義の住む新しい天と新しい地」を指しています。
ギリシア語で「待つ」という意味の動詞「プロスドカオー」が3章12、13、14節に繰り返されています。
「励みなさい」は行いを要求する律法的な言葉に聞こえるかもしれません。しかし次の引用箇所でのパウロのように、ペテロもまたキリスト信仰者としてこの世を生きていく人々を自分自身のことも含めて鼓舞しているのです。
「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」 (「フィリピの信徒への手紙」3章12〜14節、口語訳)。
天の御国に向けて「励みなさい」という言葉には「神様から受けた召しに対して忠実であり続けなさい」という意味も含まれています(「ペテロの第二の手紙」1章5、10節)。
「しみもなく」と「きずもなく」というのは互いに類似した意味をもつ言葉です(「フィリピの信徒への手紙」2章15節、「ヤコブの手紙」1章27節も参照してください)。旧約聖書には神様に犠牲を捧げる儀式が出てきますが、そのための犠牲の動物たちはしみもなくきずもない清いものでなければなりませんでした(「出エジプト記」29章1節、「レビ記」1章3、10節)。また「ペテロの第一の手紙」1章19節でペテロはイエス様のことを「きずも、しみもない小羊のようなキリスト」と呼んでいます(なおギリシア語原文では「ペテロの第二の手紙」3章14節と「ペテロの第一の手紙」1章19節の両方で同じ二つの単語がほぼ同じ形で用いられています)。
人はイエス様を救い主として信仰するようになると、その結果として神様との平和にあずかるようにもなります(「ローマの信徒への手紙」5章1節。また「ペテロの第二の手紙」1章2節も参照してください)。
「また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。」
(「ペテロの第二の手紙」3章15節、口語訳)
私たちの主なる神様の忍耐強い寛容さのおかげで救いが私たちにもたらされるのです。今でもなお神様は人類に自らの罪深さを悔い改める恵みの機会を与えてくださっています(3章9節)。
「彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。」
(「ペテロの第二の手紙」3章16節、口語訳)
この節でペテロはパウロの手紙たちを旧約聖書の書物と同等なものとして扱っています。このことは「ペテロの第二の手紙」の執筆時期が聖書の他の諸書に比べて遅かった証拠のひとつとされる場合もあります。しかしパウロも自分の書いた手紙たちを神様から読者への啓示とみなしていたことをここで思い起こしましょう(「ローマの信徒への手紙」1章1節、「ガラテアの信徒への手紙」1章1節。また「ペテロの第二の手紙」1章21節も参照してください)。使徒たちによるイエス様に関する証言の数々は、キリスト教信仰が始まって以来、一貫して旧約聖書の書物に比肩するものとみなされてきたのです(「ルカによる福音書」1章1〜4を参照してください)。
かりに「ペテロの第二の手紙」を書いたのがペテロ本人ではなくペテロの弟子の誰かであったとすると、その弟子は3章16節で「自分の師匠であるペテロはパウロの手紙に書いてある内容について全ては理解していなかった」というようなペテロ批判を展開していることになります。しかしこれはさすがに無理な解釈です。むしろここではペテロ本人がパウロの手紙について感想を述べていると考えるほうがはるかに自然です。
「無学で心の定まらない者たち」とは確かな信仰の基盤に欠けている人々のことです(次節の3章17節も参照してください)。彼らは根拠のない希望を抱いているというより、キリスト教信仰の基本事項について全く無知であるかわかっていないかのどちらかです(2章14節も参照してください)。
聖書を読む時にたんに誤解してしまうことと意図的に曲解することとの間には大きなちがいがあるということを上掲の3章16節から学びましょう。今日にいたるまで聖書を故意に曲解する多くの人々は「自分こそは聖書を唯一の正しいやりかたで理解している」といった主張をくりかえしてきました。
パウロはこの世に生きている間でもすでにひどい誤解を受けたり曲解されたりしていました(「ローマの信徒への手紙」3章5、8節および6章1、15節)。しかもキリスト教信仰の最も重要な教義についてもです。これは「ヤコブの手紙」が行いを伴わないキリスト教信仰を否定したために生じた神学的な論争や誤解とも通底する問題でした(「ヤコブの手紙」2章14〜26節)。
3章15節がパウロのどの手紙のことを具体的に指しているのかははっきりしません。たとえば「エフェソの信徒への手紙」は「ペテロの第二の手紙」と同じ地方にある教会に宛てて送られた手紙です。そして「ペテロの第二の手紙」3章18節と同様に「エフェソの信徒への手紙」2章21節および4章15節にはキリストにあって成長することの大切さが述べられています。しかし忍耐の重要性については「エフェソの信徒への手紙」4章2節で一度言及されているだけです。
キリストの中に留まりなさい 3章17〜18節
「愛する者たちよ。それだから、あなたがたはかねてから心がけているように、非道の者の惑わしに誘い込まれて、あなたがた自身の確信を失うことのないように心がけなさい。」
(「ペテロの第二の手紙」3章17節、口語訳)
この節は「ペテロの第二の手紙」全体を通して伝えたいメッセージを短くまとめたものであり、とりわけ2〜3章で扱った「異端教師に気をつけよ」という警告に重点がおかれています。
キリスト教信仰は「イエス・キリスト」という唯一無二の揺るぎない基盤の上に築かれるべきものです(「マタイによる福音書」7章24〜27節および16章17〜19節)。ありとあらゆる嵐に耐えることができる信仰の土台はイエス・キリストだけなのです。
「そして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになりなさい。栄光が、今も、また永遠の日に至るまでも、主にあるように、アァメン。」
(「ペテロの第二の手紙」3章18節、口語訳)
「ペテロの第二の手紙」は「キリストについての理解を深めていきなさい!」という奨励によって始められ、閉じられます(1章2〜3節、3章18節)。
天の父なる神様を敬うようにして神様の御子(イエス様)のことも同じように敬わなければならないとイエス様は言われました(「ヨハネによる福音書」5章23節)。このことを「ペテロの第二の手紙」3章18節や「イザヤ書」42章8節と比べてみてください。ほかならぬイエス様に対して畏敬の念を示さなければならないと教えている箇所は新約聖書にはこの3章18節の他にも数箇所あります(「ヨハネの黙示録」1章4〜6節および5章8〜10節、13〜14節および7章9〜12節)。さらに「主」がイエス・キリストのことを意味している箇所もあります(「エフェソの信徒への手紙」5章19節、「テモテへの第二の手紙」4章18節など)。
「永遠の日」は永遠が始まる瞬間か、あるいは永遠全体を表現している3章8節に関連しているものと思われます。
相手をよく知ることはその人のことを信頼できるようになるために必須な前提条件です。人は自分がよく知っている人のことしか心から信用することができません。知らない人々に対してはおのずと疑いの心が浮かんでくるものだからです。人はキリストをよりよく知ることによってキリスト信仰者として成長していきます。これはキリストをいっそう深く信頼していくということでもあります。
(おわり)