ペテロの第二の手紙2章 偽教師を反駁する

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

インターネットで聖書の「ペテロの第一の手紙」2章を読むか聴く

「ペテロの第二の手紙」2章は「ユダの手紙」にとてもよく似ています。両者には言葉遣いまで同じ箇所がいくつもあるのです。

両者の相互関係については確実なことは何も言えません。ペテロが「ユダの手紙」を自分の手紙に引用したという説が最も蓋然性が高いと一般的には考えられています。その一方で、両者に共通する元の資料があったという仮説も考えることはできます。しかし言葉まで全く同じ複数の箇所が存在することは両者間に直接的な相互関係があったことを強く示唆しています。

「ユダの手紙」と「ペテロの第二の手紙」という新約聖書に含まれる二つの手紙は当時の教会の直面した同じ問題を扱わなければなりませんでした。この事実は、その最初期から教会の中には使徒的な教えを捨てて勝手に捏造した奇抜な教えを広めようとした人々がいたことを私たちに強く印象付けます。いつの時代でも教会内で異端の教えが広がり始めると異端者たちは正しい教えに頑強に反対しました。現代でも同様のことがしばしば起きており、異端の道に逸れてしまった元信仰者たちを一度だけの警告で正しい道に連れ戻すのは難しい場合が多いです。

偽りの教えは滅びへと誘導する 2章1〜3節

「しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。また、大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである。彼らは、貪欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう。彼らに対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない。」
(「ペテロの第二の手紙」1章1〜3節、口語訳)

上掲の箇所の「民」とは、神様に選ばれた民、イスラエルの民のことです。

旧約聖書の時代にも偽預言者たちは神様の御民を間違った道に誘惑しようとしました。例えば預言者エレミヤには偽預言者ハナニヤが敵対者として立ち塞がりました。両者間の戦いは「エレミヤ書」28章に詳述されています。旧約聖書の時代の他にも主の預言者の多くが各々同時代の異端教師たちと戦うことになりました。モーセも偽教師への対処法について指示を与えています(「申命記」13章)。

次の引用箇所からわかるように、パウロはミレトでの告別の挨拶でエフェソのキリスト信仰者たちにあらかじめ異端教師に関する警告を与えています。

「わたしが去った後、狂暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒すようになることを、わたしは知っている。また、あなたがた自身の中からも、いろいろ曲ったことを言って、弟子たちを自分の方に、ひっぱり込もうとする者らが起るであろう。だから、目をさましていなさい。そして、わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい。」
(「使徒言行録」20章29〜31節、口語訳)

自分たちの群れの内側から立ち現れてくる裏切り者のほうが外部からやってくる侵略者よりも敵として見分けにくい場合がよくあります。サタンは教会を分裂させようとしますが、そのためには教会への迫害や外部からの攻撃だけでなく教会内部での不和や自滅も悪用します。

当然ながらペテロの時代の異端教師たちは自分が異端教師であることを正直に告白するどころか、むしろ自分こそが正しい教師であることを強調しました。これはいつの時代も同じでしたし、これからも変わらないでしょう。異端教師は異端教師としてではなく正しい教師として人前に現れるものなのです。異端教師は「私は異端教師です」と書いてある看板を肩からぶら下げているわけではありません。

それでも異端教師たちにはいくつかの共通する特徴があり、それらに基づいて異端教師かどうかを判断することができます。

1)彼らは聖書に反する間違った教えを広めますが、その際、聖書の権威を公然と否定するのではなく、むしろ聖書の「再解釈」や「新しい理解」などについて語りたがる傾向があります。

異端を識別するためには正しい聖書の教えを十分に知っておかなければなりません。その一方で、ありとあらゆる異端についてあらかじめ知っておくことは誰にもできないし、その必要もありません。最も重要なのは聖書の正しい教えを適切に理解することです。

ある音楽批評家は「牛乳が酸っぱいことを知るためにわざわざ牛になる必要はない」と言ったそうですが、まさしくその通りです。同様に、異端が正しい教えではないことを証明するためにその異端の思想に深入りする必要はありません。

「異端教師たちは主が彼らのこともあがなってくださったことを否定した」とペテロは述べています。イエス様が私たちの身代わりとして十字架で死なれたことが私たちの救われる根拠となっています。しかし彼らはこのことを自分にあてはめようとはせず、受け入れることを拒否したのです。このように、神様による救いの御計画を拒絶して、その代わりに自分で捏造した教えを過大に評価するという点でも、異端教師たちは互いに似通っています。

「私たちはあたかも穴の中のウサギのように聖書の御言葉の中に留まり続けなければ、すべてが失われてしまう」と宗教改革者マルティン・ルターは言ったことがあります。聖書の教えている真理の一部分を否定すると、それにともない聖書の他の教えの部分も否定する道が開かれてしまうのです。

2)上掲の箇所で「大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、」とあるように、多くの異端は慎み深い道徳観を捨ててしまっています。またその対極として、厳しい律法主義をとる異端も当然ながら存在します。異端教師たちは聴衆が聞きたがっていることを声高に喧伝するのを好む傾向があります。キリスト教が伝統的に国教とされてきた西欧社会でも、現代では聖書の倫理観を尊重する考え方に「時代遅れ」のレッテルを貼り、「何が正しいかを最終的に決めるのは聖書の規範ではなく個々人の自由である」と考える人々が増えてきました。しかしこれでは、神様の律法ではなく人間自身が倫理的な基準となってしまいます。

3)異端が人気を博するのは、まさしく聴衆が聞きたがっていることを提供しているからです。とはいえ、それとは逆に「不人気こそが正しい教えの目印である」と考えるのが正しいという意味ではもちろんありません。

4)上掲の箇所に「彼らは、貪欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう」とあるように、多くの場合、異端は自らの金銭的な利益の追求をその目的にしています。異端はその指導者を富裕にするのを目指すからです(「テモテへの第一の手紙」6章5節も参照してください)。

それに対してパウロは「主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。」(「コリントの信徒への第一の手紙」9章14節より)と教えました。自分の地位を濫用する誘惑に負けないようにするために、教会の職員たち(牧師など)には十分な給料を支払うべきです。経済的に貧しい国々で海外宣教をする場合にはとりわけ教会内の汚職がしばしば問題になっています。

5)多くの分派では自分たちの指導者の意思に絶対に服従することが要求されます。しかしキリスト信仰者はイエス様に従うことを第一とし、他のすべての指導者に対しては彼らがイエス様に従う場合のみ服従するべきです。

神様の裁きについて旧約聖書が語っている三つの例 2章4〜8節

これから扱う「ペテロの第二の手紙」の箇所と同様に「ユダの手紙」5〜7節でも「神様による裁き」に関する旧約聖書の三つの事例が述べられており、そのうちの

二つはペテロとユダの手紙に共通しています。しかし「ユダの手紙」5節にある、イスラエルの民が荒野で彷徨した時期の裁きに対応する「ペテロの第二の手紙」の出来事は御使たちに対する裁きになっています。さらに両者の間には三つの事例の述べられる順序にもちがいが見られます。

「神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた。」
(「ペテロの第二の手紙」2章4節、口語訳)

「ペテロの第二の手紙」での最初の事例である御使たちに対する神様の裁きは、御使たちでさえ神様の裁きを回避できないことを教えています。御使たちは神様による裁きの時が来るまで暗やみの穴に閉じ込められるのです。罪を犯した者たちは遅かれ早かれ相応の裁きや処罰を受けることになります。とはいえ、直ちにそうなる場合もあれば、神様による裁きが始まる時まで待たなければならない場合もあるということを御使たちに対する神様の裁きは教えています。

上掲の2章4節で「暗やみの穴」と訳されている箇所は、口語訳の底本よりも新しい底本に基づく新共同訳では「暗闇という縄」と訳されています。ギリシア語で「穴」あるいは「深淵」は「シーロス」(siros)、「縄」は「セイラー」(seira)であり互いにとても似ています。

「下界」はギリシア語では「タルタロス」といって、ギリシア神話では神々に反抗した者たちが投げ込まれる地下の場所、深淵を指す言葉です。ペテロはこの節でギリシア神話で使用されているのと同じ単語をあえて選んだことになります。しかしそれによって何か特別なことを伝えようとしたのか、それとも当時の人々に馴染みのある「裁きを待つ場所」としてこの単語を利用したのかははっきりしません。

「また、古い世界をそのままにしておかないで、その不信仰な世界に洪水をきたらせ、ただ、義の宣伝者ノアたち八人の者だけを保護された。」
(「ペテロの第二の手紙」2章5節、口語訳)

この節は直接的には「創世記」6章1〜4節に始まるノアの時代の出来事について述べていると多くの研究者は考えています。しかし間接的には大天使ルシファーが神様の敵サタンになった最初の堕落の出来事を含意している可能性もあります(「イザヤ書」14章9〜21節)。

神様による裁きの二番目の事例であるノアの洪水(「創世記」6章5節〜9章17節)は、大洪水からノアと彼の家族だけは救い出されたことからもわかるように、この裁きを避けることが原則的には可能であったことを示唆しています。ノアは困難な状況の中にあっても忍耐心を保ち続けることの大切さを私たち聖書の読者に教えてくれる典型的な例だとも言えます。周囲の人々から嘲笑される中でノアは神様からの指示通りに大きな箱舟の建造を成し遂げたのです。

「また、ソドムとゴモラの町々を灰に帰せしめて破滅に処し、不信仰に走ろうとする人々の見せしめとし、ただ、非道の者どもの放縦な行いによってなやまされていた義人ロトだけを救い出された。(この義人は、彼らの間に住み、彼らの不法の行いを日々見聞きして、その正しい心を痛めていたのである。)」
(「ペテロの第二の手紙」2章6〜8節、口語訳)

神様による裁きの三番目の事例はソドムとゴモラです(「創世記」18章16節〜19章30節)。人はキリスト信仰者としてこの世での生活を全うしていこうとすると信仰のゆえにしばしば様々な困難に直面するということをこの例は教えています。神様の御言葉に反する生き方をしている多数の群衆に囲まれ、ロトは心苦しく思いながら生活せざるをえませんでした。

旧約聖書においてソドムとゴモラは「罪深い生き方」の典型的な例となっています。以下に引用する「エレミヤ書」や「アモス書」の箇所の他にも、例えば「申命記」29章22節(口語訳では23節も含まれます)、32章32節、「詩篇」107篇33〜34節、「イザヤ書」1章9〜10節、「哀歌」4章6節、「エゼキエル書」16章46〜56節、「ゼパニヤ書」2章9節、さらに「ホセア書」11章8節などもこのことについて述べています。

「しかしエルサレムの預言者のうちには、
恐ろしい事のあるのを見た。
彼らは姦淫を行い、偽りに歩み、
悪人の手を強くし、
人をその悪から離れさせない。
彼らはみなわたしにはソドムのようであり、
その民はゴモラのようである」。」
(「エレミヤ書」23章14節、口語訳)

「「わたしはあなたがたのうちの町を
神がソドムとゴモラを滅ぼされた時のように
滅ぼしたので、
あなたがたは炎の中から取り出された
燃えさしのようであった。
それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった」と
主は言われる。」
(「アモス書」4章11節、口語訳)

「ペテロの第二の手紙」とは異なり、旧約聖書はノアが「義の宣伝者」(2章5節)であったとは述べていませんし、ロトが「非道の者どもの放縦な行いによってなやまされていた義人」(2章7節)であったともはっきり書いてはいません。とはいえ、ノアが黙々と方舟を造り続けること自体が周囲の人々に対して言葉なき伝道になっていたのはたしかです。「なぜいま方舟を造っているのか」と人から訊かれた時には、ノアは次の引用箇所に書いてあるように「神様による裁きがまもなく罪深い世界に下されようとしているから」と説明したことでしょう。

「そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。」
(「創世記」6章13節、口語訳)。

ロトについて旧約聖書では僅かな記述しかありませんが、後代のユダヤ教では美徳の模範とされるようになります。旧約聖書は分厚い書物ですが、その多くの登場人物についてはごく短い記述があるのみです。聖書を読む時にはこのことを覚えておくとよいでしょう。後代のユダヤ教の伝承では旧約聖書の多数の登場人物についてさらに沢山のことが語られていますが、これら付加された内容の信憑性を正しく評価するのは容易ではありません。それらのうちには旧約聖書の登場人物たちを理想化した想像の産物にすぎないものもあるはずだからです。

「破滅」(2章6節)はギリシア語で「カタストロフェー」といいます。この箇所では「灰燼に帰すること」を意味しており、現代でよく用いられている「カタストロフィー」という言葉の元になっています。

裁きの時がやがて来る 2章9〜16節

「こういうわけで、主は、信心深い者を試錬の中から救い出し、また、不義な者ども、特に、汚れた情欲におぼれ肉にしたがって歩み、また、権威ある者を軽んじる人々を罰して、さばきの日まで閉じ込めておくべきことを、よくご存じなのである。こういう人々は、大胆不敵なわがまま者であって、栄光ある者たちをそしってはばかるところがない。しかし、御使たちは、勢いにおいても力においても、彼らにまさっているにかかわらず、彼らを主のみまえに訴えそしることはしない。」
(「ペテロの第二の手紙」2章9〜11節、口語訳)

上掲の箇所は旧約聖書に出てくる三つの具体例について短くまとめて述べています。「栄光ある者たち」は原文のギリシア語では「ドクサ」の複数形となっており、「栄光」、「輝き」、「御使」といった意味をもっています。「ユダの手紙」9節には御使ミカエルが悪魔と論じ争う場面があります。悪魔あるいは悪霊たちの仕業を過小評価するべきではありません。現代では悪魔についてあまりにも軽々しく扱っている作品が沢山ありますが、これは危険なことです。

「これらの者は、捕えられ、ほふられるために生れてきた、分別のない動物のようなもので、自分が知りもしないことをそしり、その不義の報いとして罰を受け、必ず滅ぼされてしまうのである。彼らは、真昼でさえ酒食を楽しみ、あなたがたと宴会に同席して、だましごとにふけっている。彼らは、しみであり、きずである。その目は淫行を追い、罪を犯して飽くことを知らない。彼らは心の定まらない者を誘惑し、その心は貪欲に慣れ、のろいの子となっている。」
(「ペテロの第二の手紙」2章12〜14節、口語訳)

「だましごとにふけっている」の「だましごと」という言葉はギリシア語原文では「アパテー」の複数形になっています。しかしそれとは別に「愛餐」を意味する「アガペー」の複数形になっている有力な写本も残されています。愛餐とは最初期の教会において聖餐式と一緒に行われていた食事会のことです(「コリントの信徒への第一の手紙」11章20〜22節、「ユダの手紙」12節を参照してください)。これは教会員同士が食事を持ち寄って一緒にいただく集まりでした。

異端教師たちは快楽(とりわけ性的な快楽)を追求していました。夜の宴会だけでは飽き足らず、真昼でも酒に溺れる乱れた生活を繰り返していたのです(「箴言」10章16節、「イザヤ書」5章11節も参考になります)。

「その目は淫行を追い、罪を犯して飽くことを知らない。」とは、異端教師たちにとっては「見ること」自体がそのまま罪深い行為に直結しているという意味です。

信仰の道に入ったばかりの「心の定まらない者」は異端教師たちにとってまさに格好の餌食でした。

「彼らは正しい道からはずれて迷いに陥り、ベオルの子バラムの道に従った。バラムは不義の実を愛し、そのために、自分のあやまちに対するとがめを受けた。ものを言わないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂気じみたふるまいをはばんだのである。」
(「ペテロの第二の手紙」2章15〜16節、口語訳)

キリスト教信仰はしばしば「道」に喩えられてきました(2章15、21節(「義の道」))、「使徒言行録」9章2節、)。

「イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」
(「ヨハネによる福音書」14章6節、口語訳)

ペテロは旧約聖書からひとつの例を引いています。ベオルの子バラムです。モアブ王はイスラエルの民を呪ってもらうためにバラムを雇いました。バラムは金と引き換えにイスラエルの民を呪おうとしました。これは彼の強欲さをよく表しています。ところがバラムは神様の御意思に反しては何もなし得ませんでした。呪いであるはずのものが神様によって祝福に変えられたのです(「民数記」22〜24章)。

モアブ王からの度重なる要請を受け入れたバラムが王のもとに向かって旅をしていたとき、神様の御使が彼の行く手を遮りました。ただし御使のことが見えたのは預言者バラムではなくバラムの乗っていたロバだけでした。なおも先に進もうとするバラムを押しとどめるためにとうとう神様はロバがバラムに人間の言葉で諭すようになさいました(「民数記」22章21〜35節)。この旧約聖書の事例を踏まえると、上掲の「ペテロの第二の手紙」の箇所には異端教師たちに対するペテロの侮蔑が含まれていることがわかります。グノーシス主義者であった異端教師たちは自分たちだけが深奥なる知識を独占していると思い込んでいました。しかし実際には彼らはロバに諭されるまで真実が見えなかったバラムのような狂信者にすぎなかったのです。

バラムはイスラエルの民をペオルのバアルという偶像を崇拝させようと唆しました(「民数記」25章1〜3節)

「彼らはバラムのはかりごとによって、イスラエルの人々に、ペオルのことで主に罪を犯させ、ついに主の会衆のうちに疫病を起すに至った。」
(「民数記」31章16節、口語訳)。

バラムはイスラエルの民に対する神様の御意思を変えさせることができなかったため、今度は逆に神様に対するイスラエルの民の理解と態度を変えさせようとしたのです。こういうやりかたは異端教師たちに共通する一般的な戦略でもあります。

奴隷となり、自由を失うこと 2章17〜22節

「この人々に自由を与えると約束しながら、彼ら自身は滅亡の奴隷になっている。おおよそ、人は征服者の奴隷となるものである。」
(「ペテロの第二の手紙」2章19節、口語訳)

2章の最後でペテロは手紙の読者たちに大切なことを指摘しています。それは、異端教師たちは彼らが実際には絶対に与えることができないものをあたかも与えることができるかのような偽りの約束をするということです。例えば彼らは「自由を与える」と約束します。しかし実は彼らは罪の奴隷という不自由な身なのです(「ヨハネによる福音書」8章34節、「ローマの信徒への手紙」6章16節も参照してください)。

多くの異端の中心的なメッセージは「自由を我に!」という標語に集約できるでしょう。人々は様々な事柄について自分が自由であることを渇望しています。ですから「あなたがたを苦しめているあらゆる束縛から自由になる手段を私は提供しよう!」と口約束する人物がいれば、当然それに従う者たちがでてきます。しかしこれでは、正しい信仰のない者が他の同類の人々を同じ誤謬に導くことになるだけです。真の自由を見つけていない人間は他の人々を真の自由に導くことはできないからです。そして真の自由を見出せる唯一の場所は神様の御意思において他にありません(「ヨハネによる福音書」8章32節、「ガラテアの信徒への手紙」5章1〜6節)。にもかかわらず、それとは逆の誤った考え方をする人が今も大勢います。それは「神様の御意思を無視しないかぎり自分は自由にはなれない」という考え方です。しかし実際にはこのような「自由」はあらためて奴隷になりさがることに他な

りません。ようやく人がその過ちに気づいたとしても、すでに奴隷の状態から真に自由になるのが容易ではなくなっているという場合も起こり得ます。

「この人々は、いわば、水のない井戸、突風に吹きはらわれる霧であって、彼らには暗やみが用意されている。」
(「ペテロの第二の手紙」2章17節、口語訳)

旧約聖書で正しい教えや正しい教師たちは「泉」に喩えられています(「箴言」10章11節、14章27節、「エレミヤ書」2章13節)。異端教師たちは「水のない泉や井戸」のようなものです。「水のない泉や井戸」は遠くからみると水が豊富にあるような印象を与えるのに、そこに実際に近づいてみると水などどこにも見当たりません。井戸が枯れ果てていることに気づき、喉の渇いた旅人は深く失望することになります。

それに対して、イエス様は御自身について次のように言っておられます。

「祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。」
(「ヨハネによる福音書」7章37〜38節、口語訳)。

「突風に吹きはらわれる霧」には次の二つのイメージが結びついていると考えられます。

1)この霧は弱々しいために同じ場所には滞留できない。この霧と同様に、異端には人が信仰を持って生きていく上で必要な確固とした基盤が欠けている。

2)この霧は絶えず形を変えていく。この霧と同様に、異端も聴衆が聞きたがっているニーズに合わせて主張自体を絶えず無節操に変化させていく。

「彼らはむなしい誇を語り、迷いの中に生きている人々の間から、かろうじてのがれてきた者たちを、肉欲と色情とによって誘惑し、」
(「ペテロの第二の手紙」2章18節、口語訳)

この節は異端教師たちの尊大な自己主張と実際の生活態度とが互いにかけ離れていたことを端的に指摘しています。彼らはいくら大口を叩いてもそれに見合う生き方をしていなかったのです。さらにペテロは異端教師たちの語っている内容も虚しいもので、まったく褒めるべき点がないと指摘しています。

ここでもまたペテロは他の宗教からキリスト教信仰に入ったばかりの人々が異端教師たちの格好の餌食になってしまう危険が最も大きいと述べています。

「彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。」
(「ペテロの第二の手紙」2章20節、口語訳)

この節は「人は一度救われたなら、もう罪に陥ることはない」といった教えが押し並べて虚偽であることを示しています。人が神様の恵みから脱落してしまうことは実際に起こりうることだからです。自らの罪を悔い改めてイエス様の御許に行ったことのある人々が皆、確実に天の御国にまで無事に辿り着けるのなら、それは実に素晴らしいことです。しかしこの世には信仰の戦いが絶えず続いていることを新約聖書は証しています。人間は皆、罪深い存在としてこの世に生まれてきます。洗礼を受けてイエス様を信じている人々はサタンの支配からは解放されています。しかしサタンは不信仰者だけではなく彼らのことも含めて再び自分の隷属下におこうと策動します。残念なことに一部の人々はサタンの策略に陥って神様の恵みから脱落してしまうのです。

「義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。」
(「ペテロの第二の手紙」2章21節、口語訳)

この節は一度追い出された悪霊が他のさらに悪質な諸霊と連れ立って元の人間のところに戻るというイエス様のたとえ(「マタイによる福音書」12章43〜45節)と合わせて読むのがよいでしょう。キリスト教会の活動に関わっていた人物が後に

信仰を捨ててしまう場合、その人にはあたかも「免疫注射」を受けたかのように信仰に反対する「抵抗力」ができてしまいます。その意味では、あまり軽々しくキリスト教信仰の道へと人々を誘わないほうがよいとさえ言えるかもしれません。信仰にしっかり留まらずに不信仰へと道を踏み外した人にとっては、初めて信仰に入った時よりも再び信仰の道に戻る時のほうがより敷居が高くなっているかもしれないからです。

「ことわざに、「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く」とあるが、彼らの身に起ったことは、そのとおりである。」
(「ペテロの第二の手紙」2章22節、口語訳)

この節にある「犬」についての諺は「箴言」26章11節からの引用です。一方、「豚」についての諺のほうは旧約聖書に由来するものではありません。とはいえ、そのような諺は当時の多くの文化圏ではよく知られていました。聖書では豚(「レビ記」11章7節、「マタイによる福音書」7章6節)も犬(「列王記上」21章19、24節、「フィリピの信徒への手紙」3章2節、「ヨハネの黙示録」22章15節)も「汚れた動物」とみなされていました。ただし当時の「犬」は現代のように家で飼う愛玩動物などではなく野良犬でした。

今まで扱ってきた「ペテロの第二の手紙」2章17〜22節は、異端教師たちがどれほど自分たちの偉大さを強調しても、彼らの心には何も本質的な変化が起きなかったという暗澹たる現実を述べています。彼らは心から「神様の子ども」になることもなく、活ける神様とつながることもできなかったのです。このような本質的な変化が起きないかぎり、他のあらゆる点でどれほど変化しようとも意味がありません。見かけの変化は彼らの中にある「古い人」の異教性を覆い隠す新たな包装紙にすぎないからです。