ペテロの第二の手紙1章 神様の約束のもつ力
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公同書簡 1章1〜2節
「イエス・キリストの僕また使徒であるシメオン・ペテロから、わたしたちの神と救主イエス・キリストとの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を授かった人々へ。神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。」
(「ペテロの第二の手紙」1章1〜2節、口語訳)
「ペテロの第二の手紙」の執筆者は「シメオン・ペテロ」と自己紹介しています。新約聖書でペテロについてこの名称が用いられているのは二回だけです。もう一つの箇所は使徒会議でのヤコブの演説の中に出てきます(「神が初めに異邦人たちを顧みて、その中から御名を負う民を選び出された次第は、シメオンがすでに説明した」(「使徒言行録」15章14節より))。
「キリストの僕」は栄誉ある称号です。すでに旧約聖書の時代には「神様の僕」であることは大変名誉なことでした。ギリシア語聖書では「僕」という単語には「奴隷」という意味もあります(「イザヤ書」41章8節、49章3節。また「フィリピの信徒への手紙」1章1節、「ヤコブの手紙」1章1節、「ユダの手紙」1節、「ヨハネの黙示録」1章1節)。
ペテロはイエス様のことを「神」と呼んでいます(ただし口語訳では曖昧に訳されています)。新約聖書にはイエス様を神様とまったく同等な存在とみなしている箇所が多数あります。例えば「マタイによる福音書」1章23節、「ルカによる福音書」5章20〜21節、「ヨハネによる福音書」1章1、18節(「ひとり子なる神」)、5章18節(「神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである」)、20章28節(「トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。」)、「ローマの信徒への手紙」9章5節、「フィリピの信徒への手紙」2章6節、「コロサイの信徒への手紙」2章9節(「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており」)、「テトスへの手紙」2章13節(「大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエス」)、「ヘブライの信徒への手紙」1章8節、「ヨハネの第一の手紙」5章20節(「神の子」)などです。
「ペテロの第二の手紙」はこの手紙の受取手たちを明らかにしていません。彼らについては「わたしたちと同じ尊い信仰を授かった人々」というようにキリスト信仰者であることだけが明示されています。その意味でこの手紙はキリスト信仰者全員に向けられた内容をもつ真に「公同」の書簡であったと言えます。なお、この手紙の受取手たちは「ペテロの第一の手紙」の受取手たちとは異なる人々だったことがわかります。ペテロは「ペテロの第二の手紙」を受け取ることになる人々の(諸)教会には以前自分で訪れたことがあるのに(1章16節)、「ペテロの第一の手紙」の受取手たちの諸教会には行ったことがないからです(「ペテロの第一の手紙」1章12節)。
キリストを「知ること」(1章2節)という表現が使用されているのは、当時の諸教会に広がりつつあった「グノーシス主義」という異端を意識したものかもしれません。グノーシス主義では「秘密の知識」の重要性がことさら強調されました。ギリシア語で「グノーシス」は「知識」や「知ること」を意味します。そして「知ること」は「ペテロの第二の手紙」でも中心的な命題のひとつとなっているのです(例えば1章3(「エピグノーシス」)、5(「グノーシス」)、8節(「エピグノーシス」)、3章18節(「グノーシス」))。
ペテロはイエス様について次の四つの称号を用いています。
1)神、2)救主、3)キリスト、4)主
イエス様がこれら四つの称号全てにふさわしいお方であることを十分に理解しておくことは重要です。残念なことに、人がイエス様について自分の意見を述べる時には、これらの称号の中からある特定の称号だけを選んで他の称号の内容を無視してしまうことがよくあるからです(例えば「たしかにイエスは救い主だが、神様ではない」などといった意見)。聖書に啓示されているイエス様について私たちは「自分にとって都合の良い一部分だけ」ではなく丸ごと全部をそのまま信じて受け入れるべきなのです。
「尊い信仰を授かった人々」(1節)とあるように、信仰とは私たちが神様から授かる賜物にほかなりません。
神様からの賜物を用いる 1章3〜11節
「いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。」
(「ペテロの第二の手紙」1章3〜4節、口語訳)
上掲の箇所でペテロは手紙の読者たちにキリスト信仰者として生きるために必要なすべてのことを彼らに賜ったのが神様であることを思い起こすように促しており、また神様の約束についても述べています。この約束を信頼することで私たちキリスト信仰者はこれから起こる未来の出来事にもきちんと向き合うことができるようになるのです。
キリスト信仰者として生きることは「すでに今」と「いまだ〜ない」という二つの表現に集約できます。私たちキリスト信仰者は天の御国の宝をすでに今いただいています。その一方で、私たちは天の御国への旅を続けている最中であり、まだ目的
地に到着してはいません。この「すでに今」と「いまだ〜ない」の間の緊張関係に真摯に向き合わないかぎり、私たちは次に述べる二つの異端のうちのどちらかに陥ってしまう危険があります。
1)「現在の自分はキリスト信仰者として十分に成熟しているので、もうこれ以上さらなる高みを追求する必要はない」と言い張る異端
2)「神様の約束は本当のことではないので実現しない」と言い張る異端
これら二つの異端に共通する問題点は「自分がどれほどよいキリスト信仰者であるか」を測る基準として、神様や神様の約束されたことではなく、人間やその生き方のほうを選んでいるところにあります。しかしキリスト信仰者として生きることは常に神様の約束に完全に依存することにおいてのみ実現していくものです。神様の約束以外のいかなるものも信仰の基盤とはなりえないからです。そのような何かを信仰の基盤に据えてしまうと、キリスト教信仰とは異なる何か別の「新しい信仰」を拵えてしまうことになります。
上掲の箇所は福音書の栄光の山での出来事に言及していると思われます(「マルコによる福音書」9章2〜8節。また「ペテロの第二の手紙」1章16〜18節も参照してください)。
上掲の箇所の最後の部分には当時の神秘宗教にとって何が究極の目標であったのかが示されています。それは「神の性質にあずかる者となること」、神的なものにあずかることです。「人間が神的な存在になること」はギリシア正教会の神学において重視されている教義です。宗教改革者マルティン・ルターも同じようなテーマについて述べています。新約聖書の他の箇所でもこのテーマに関連する類似した表現が見られますが、それらの箇所で述べられているのは「神の性質にあずかること」ではなく、むしろ「神様の子どもとなること」という考え方のほうに近いです。以下に聖書の例を挙げます。
「もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」3章14節、口語訳)「すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。」
(「ヨハネの第一の手紙」1章3節、口語訳)「そこで、子たちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、彼が現れる時に、確信を持ち、その来臨に際して、みまえに恥じいることがないためである。彼の義なるかたであることがわかれば、義を行う者はみな彼から生れたものであることを、知るであろう。わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。」
(「ヨハネの第一の手紙」2章28節〜3章1節、口語訳)。
ペテロが誤解されやすい表現を用いたことはたしかです。しかしここで最初の人間たちの罪の堕落以来、人間の根源的な罪が「神に似た者になること」(「創世記」3章5節)であったことを思い起こしましょう。真理(「キリストにあずかる者となること」)と異端(「神に似た者になること」)が互いに正反対であるどころか、しばしば酷似した表現を用いていることに注目してください。
「それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。」
(「ペテロの第一の手紙」1章5〜7節、口語訳)
上掲の箇所にはキリスト信仰者の成長にかかわる八つの側面が列挙されています。すべては信仰に始まり愛に終わります。信仰と愛の間に位置する六つの徳(徳、知識、節制、忍耐、信心、兄弟愛)は当時の哲学者たちの教えでもよく見かけるものでした。ペテロは1章4節とそれに続くこの1章5〜7節で、当時の世界において一般的によく知られていた「徳」を表す術語を使用していたことになります。たしかにペテロのこのやりかたには「徳」の意味が非キリスト教的な意味で受け取られ誤解されてしまう危険が伴います。しかしこれは一般の人々を対象にして広く福音を伝えていくためにはやむを得なかったとも言えます。一般によく知られた世俗的な意味のある術語をキリスト教の文脈で用いる場合には、キリスト教信仰の伝道においてその術語が一般的な意味よりも深い新たな意味を付与されていることを福音の聴衆や読者に明示する必要があります。
これから上記の「徳」について個別にみていくことにしましょう。
当時の世界で「兄弟愛」と言えば家族内に限定される愛のことでした。ですから使徒が教会における兄弟愛について述べたのはまったく新しい意味付けをこの言葉に与えたことになります。それは、キリスト信仰者たちが「神様の家族」というひとつの大家族を形成しているという意味です。
神様の約束された道を終わりまで歩み続けるためには「忍耐」が必要とされます(3章4節も参考になります)。
「これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かになるならば、わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう。」
(「ペテロの第二の手紙」1章8節、口語訳)
「信仰」はたんにある種の思想体系や哲学にすぎないものではなく命そのものです(「申命記」29章28節(口語訳では29節になっています)、「ヨハネによる福音書」7章17節も参考になります)。
「これらのものを備えていない者は、盲人であり、近視の者であり、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れている者である。」
(「ペテロの第二の手紙」1章9節、口語訳)
「信仰」はたんにある種の思想体系や哲学にすぎないものではなく命そのものです(「申命記」29章28節(口語訳では29節になっています)、「ヨハネによる福音書」7章17節も参考になります)。
「これらのものを備えていない者は、盲人であり、近視の者であり、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れている者である。」
(「ペテロの第二の手紙」1章9節、口語訳)
キリスト教会の一員でありながらイエス様に従おうとしない者は、何のために自分が洗礼を受けたのかを忘れてしまっています。世俗とキリスト教会の両方から自分に都合の良い利点だけを得ようとする人々は今も昔もいます。しかし彼らは二兎を追って一兎をも得ない結果に終わるだけです。
「兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。」
(「ペテロの第二の手紙」1章10節、口語訳)
「あやまちに陥ること」とは人が罪に陥ることではなく、神様の恵みから外れてしまうことを意味しています。私たちがこの世で生きるかぎり、罪は私たちに付きまとい続けます(「ヤコブの手紙」3章2節)。もしもそうでなければ、ペテロも1章5〜9節で奨励を与える必要はなかったはずです。
「こうして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの永遠の国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるからである。」
(「ペテロの第二の手紙」1章11節、口語訳)
この節と前節の間にある緊張関係に注目してください。ペテロは手紙の読者に信仰において歩むように心から奨励しています。にもかかわらず、救いは完全に神様の御業であるとも述べています。私たちは自分で自分を救うことができません。しかし自分で自分を滅ぼすことはできてしまいます。宗教改革者マルティン・ルターは「奴隷的意志」という著作でこの難問に取り組みました(「ヘブライの信徒への手紙」3章12〜14節も参考になります)。
これまで「神様からの賜物を用いる」という表題の下に述べてきた箇所のメッセージは「あなたがたはすでに救われた者になっているのですから、それにふさわしい者となりなさい!」と要約できるでしょう。たしかにキリスト信仰者は「全き者」とされるのですが、完全にそうなるのは天の御国にようやくたどり着いた時なのであり、この世に生きているかぎりは罪との戦いが日々続いていくのです。
ペテロの遺言(遺産) 1章12〜15節
この箇所でペテロは「ペテロの第二の手紙」を書くことになった元々の動機について次のように要約しています。
キリスト教信仰はかつて実際に起きた出来事に基づいている。
しかしこのことを忘れると、まもなく信仰の内容も変質してしまう。
信仰の根幹が変わると、それを土台として築かれた信仰もそれに応じて変わってしまうからである。
残念なことにすでにペテロの時代にはこのような事態が実際に起きていました。「ペテロの第二の手紙」の2章を学ぶときに私たちはそれに気づくことでしょう。
「それだから、あなたがたは既にこれらのことを知っており、また、いま持っている真理に堅く立ってはいるが、わたしは、これらのことをいつも、あなたがたに思い起させたいのである。」 (「ペテロの第二の手紙」1章12節、口語訳)
信仰は神様からの賜物です。そして神様について私たちがたしかに知っていることはすべて神様の啓示に基づいています。
「わたしがこの幕屋にいる間、あなたがたに思い起させて、奮い立たせることが適当と思う。それは、わたしたちの主イエス・キリストもわたしに示して下さったように、わたしのこの幕屋を脱ぎ去る時が間近であることを知っているからである。」
(「ペテロの第二の手紙」1章13〜14節、口語訳)
旧約聖書(「イザヤ書」38章12節)で人間の身体は「幕屋」と呼ばれました。ペテロもこの箇所で同じ呼称を用いていますし、パウロもそうでした(「コリントの信徒への第二の手紙」5章1節)。当時の放牧民にとって幕屋は一時的な仮の住まいでした。牧草地が痩せ細ると幕屋を一旦畳み、新しい場所に移動してそこに幕屋を設営するという作業を彼らは繰り返して生活していました。この意味で放牧民は常に旅を続ける民であったと言うことができます。私たちも自分の身体がこの世での一時的な住居にすぎないことをわきまえて生活するべきでしょう。同様にキリスト教会も「流浪する神の民」とみなすことができますし、実際そのように呼ばれてもきました。
上掲の箇所は復活されたイエス様がペテロと交わされたゲネサレト湖畔での会話(「ヨハネによる福音書」21章18〜19節)を示唆しているものともとれます。とはいえ、福音書記者ヨハネはこの箇所でペテロの死ぬ時期も話題に登ったとは述べていません。ペテロが自分の来るべき死について後ほどイエス様からより詳しく教えていただいた可能性はあります。しかしイエス様が後ほどペテロに再び顕現なさったかどうかについては何も述べられていません。
教父オリゲネスの証言によれば、ペテロはローマ皇帝ネロの迫害で殉教の死を遂げました。その時にペテロは自分のような者がイエス様と同じ姿勢で十字架刑に処せられる栄誉に与るのはふさわしくないと考え、あえて上下逆さまの姿勢で十字架に磔になったと伝えられています。
上掲の箇所に基づいて、この手紙も「ペテロの第一の手紙」と同様にローマで執筆されたと結論づけることができます。
ペテロ以外の誰かが、たとえそれがペテロの弟子であったとしても、このようにペテロの名を借りて「ペテロの第二の手紙」を書いたとは考えにくい面があります。
「わたしが世を去った後にも、これらのことを、あなたがたにいつも思い出させるように努めよう。」
(「ペテロの第二の手紙」1章15節、口語訳)
それまでの古い啓示を退けるような新たな啓示が人類に与えられることは、使徒たちの時代以降にはもはや起こりません。そしてこのことがキリスト教会の出発点となっています。それゆえ、使徒たちによる証言が新約聖書として結実し私たちの生きている現代にいたるまで大切に保存され受け継がれてきたのはきわめて重要なことです。
宗教改革者マルティン・ルターは信仰の基盤について絶えず復習することの大切さを強調しました。神様に認めていただける真理に堅く立つ信仰を不明確で曖昧な基盤の上に培うことはできないからです(12節と15節を比較してください)。
神様はこう語られた 1章16〜21節
1章16〜18節において、ペテロは使徒たちによる証言集である「新約聖書」について述べています。ただしこの時点では新約聖書はまだまとまった「書物」ではありませんでした。それに続く1章19〜21節は「旧約聖書」について述べています。
「わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。」
(「ペテロの第二の手紙」1章16節、口語訳)
「巧みな作り話」とは異端教師たちによる作り話のことです(2章3節も参照してください)。
上掲の節でペテロがキリストの再臨(「来臨」)について述べているのは、異端教師たちがこの問題について間違った教えを吹き込むことでペテロの手紙の受取手たちを惑わそうとしていたからだと思われます(3章4節も参照してください)。とはいえ、キリストの再臨をめぐる問題は最初期のキリスト信仰者たちにとって緊急を要する中心的な課題であったこともたしかです(このテーマについては「テサロニケの信徒への第一の手紙」と「テサロニケの信徒への第二の手紙」が特に参考になります)。
使徒たちは主イエス・キリストの「ご威光の目撃者」でした(「使徒言行録」1章21〜22節も参照してください)。
「イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。」
(「ペテロの第二の手紙」1章17〜18節、口語訳)
上掲の箇所は福音書の栄光の山での出来事について述べています(「マタイによる福音書」17章1〜8節、「マルコによる福音書」9章2〜8節、「ルカによる福音書」9章28〜36節。また「ヨハネによる福音書」1章14節も参考になります)。
神様が顕現なさる場所はユダヤ人たちにとっていわば自動的に「聖地」になります(「出エジプト記」3章5節および19章23節)。
「こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。」
(「ペテロの第二の手紙」1章19節、口語訳)
上節はこの世が暗闇に覆われていることを明言しています。このテーマに関連する聖書の箇所は沢山あります(「ヨハネによる福音書」1章5節、「ローマの信徒への手紙」13章12節、「エフェソの信徒への手紙」6章12節、「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章4節、「ヨハネの第一の手紙」2章8節)。
しかし神様の御言葉の光が照らしてくれるおかげで、暗闇に覆われているこの世においてもキリスト信仰者たちは明るさの中を歩むことができます。明けの「明星」(金星のこと)は朝日の訪れと夜明けを告げるしるしです。
「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」
(「詩篇」119篇105節、口語訳)。
復活されたイエス様は、エルサレムからエマオへの道を歩いていた二人の弟子たちに、旧約聖書(すなわち律法、預言者、諸書)全体が御自分について何を証してきたかを解き明かされました(「ルカによる福音書」24章27節)。
またイエス様はユダヤ人たちに次のように言われました。
「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。」
(「ヨハネによる福音書」5章39節、口語訳)
そして「ペテロの第二の手紙」も次のように教えています。
「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。」
(「ペテロの第二の手紙」1章20節、口語訳)
ローマ・カトリック教会はこの節を根拠にして、聖書はそれ自体で解釈するべきではなく、カトリック教会の教えを司る教職(とりわけローマ教皇)によってのみ解き明かされるべきである、と主張してきました。しかしペテロが述べているのはそのようなことではなく、神様の啓示である聖書を正しく理解することは人間の理性によってではなく聖霊様の御業によってのみ可能である、ということです。
旧約聖書の預言者たちの中でもとりわけエレミヤとエゼキエルは「主の言葉が(・・・)に臨んだ」という定型文(およびそれに類する表現)を繰り返し用いています(「エレミヤ書」1章2節、「エゼキエル書」1章3節。また「イザヤ書」38章4節、「ホセア書」1章1節、「ヨエル書」1章1節、「ヨナ書」1章1節、「ミカ書」1章1節、「ゼパニヤ書」1章1節、「ハガイ書」2章1節、「ゼカリヤ書」1章1節も参照してください)。
イザヤもエレミヤも他の預言者たちも朝起きて「さあ今日私は預言するぞ!」などと勝手に自分で決めることはできませんでした。彼ら主の預言者たちの宣教活動は神様から彼らがいただく託宣に完全に依拠するものであったからです(「ペテロの第一の手紙」1章10〜12節を参照してください)。
「なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。」
(「ペテロの第二の手紙」1章21節、口語訳)
聖書の御言葉は神様(なる聖霊様)によって語られたものであることをこの節は私たちに思い起こさせます。そしてこれはペテロの手紙の最初の読者たちが直面した問題に対する答えでもあります。それは、使徒たちと新しい(異端)教師たちのどちらの言うことを信用するべきかという問題です。
聖書は同時に完全に人間的でもあり完全に神的でもある書物です。しかも人間的な面と神的な面とが互いに混合せず乖離してもいない稀有な均衡を保っている書物なのです。聖書では人間的な要素と神的な要素を互いに分離できないため、人間的な理性ばかりに頼ろうとするかぎり人は聖書を正しく理解することができなくなります。たしかに理性を使用することで文献としての聖書に関しては多くの有益な知見を得ることはできます。しかし御言葉の最も深い本質、すべての時代に向けられたメッセージである神様の啓示を知るようにはなれません。
聖書はその全体を通じてキリストについて証している書物です。キリストは聖書を読み解く上で鍵となる一本の筋のような存在なのです。
ペテロはパウロの書いた手紙たちを聖書の正典の地位へと引き上げました(「ペテロの第二の手紙」3章15〜16節)。ペテロがそのようにした理由は、それらの手紙が使徒パウロの書いたものだからというよりは、今も昔も私たち人間に対する神様からの語りかけであるからです。