テトスへの手紙 1 章異端との戦い

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

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はじめのあいさつ 「テトスへの手紙」1章1〜4節

「神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから――わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた者たちの信仰を強め、また、信心にかなう真理の知識を彼らに得させるためであり、偽りのない神が永遠の昔に約束された永遠のいのちの望みに基づくのである。」
(「テトスへの手紙」1章1〜2節、口語訳)

新約聖書のこの箇所でのみパウロは自分自身のことを「神の僕」と呼称しています(パウロは自分について「ローマの信徒への手紙」1章1節と「フィリピの信徒への手紙」1章1節では「イエス・キリストの僕」や「キリスト・イエスの僕」と呼んでいます。また「ヤコブの手紙」1章1節でヤコブは自分のことを「神と主イエス・キリストとの僕」と呼んでいます)。

「神の僕」としてパウロに与えられた使命は福音を宣べ伝えることでした。それゆえ彼は自分のことを「使徒」とも呼んでいました。「使徒」はギリシア語で「アポストロス」といい「使わされた者(男性)」という意味があります(この単語の動詞形「アポステッロー」は「使わす」という意味です)。パウロは神様からの「よい知らせ」(福音)を宣べ伝えるために使わされたのです。

ギリシア語原文でのパウロの文章は一文がとても長いものが多いです。例えば「ローマの信徒への手紙」1章の1節から7節の終わりまでがギリシア語では一文を構成しています。「テトスへの手紙」1章でも1〜4節は一つの文です。このままでは読みにくいし意味も汲み取りにくくなるため翻訳ではいくつかの文に分けて訳されることがよくあります。このガイドブックで使用している口語訳でもそのようになっています。

「信仰」(ギリシア語で「ピスティス」)と「真理の知識」(ギリシア語で「エピグノーシス・アレーテイアース」)(1章1節)とは互いに一つに結びついています。私たちキリスト信仰者の信仰は真理に基づいて構成されています。例えばイエス様の復活の歴史的な真実性はキリスト教信仰にとって意味を持たないなどと考える人々も現代ではいますが、次の引用箇所にみられるようにパウロ(および他の最初のキリスト信仰者たち)はそれとは異なる考えかたをしていました。

「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」15章17〜20節、口語訳)。

神様は偽りを言われません(1章2節)。神様の啓示は真理です。偽りを言うのは人間たち(1章12節)や悪魔(「ヨハネによる福音書」8章44節)のほうです。

この世の始まる前(「永遠の昔」)に神様は人類を罪の圧制下から救い出すことをお決めになりました(1章2節、他に「エフェソの信徒への手紙」3章8〜11節、「コロサイの信徒への手紙」1章25〜26節、「テモテへの第二の手紙」1章9節も参照してください)。

「神は、定められた時に及んで、御言を宣教によって明らかにされたが、わたしは、わたしたちの救主なる神の任命によって、この宣教をゆだねられたのである。」
(「テトスへの手紙」1章3節、口語訳)

神様は「定められた時に及んで」この救いの計画を実現なさいました(「ガラテアの信徒への手紙」4章4節)。神様はこの救いを宣べ伝えていく使命をパウロや他の使徒たちに委ねられたのです(「テモテへの第一の手紙」2章6節)。

パウロは「救い主」(ギリシア語で「ソーテール」)という単語を新約聖書で12回用いており、そのうちの半数(6回)は「テトスへの手紙」に登場します。この手紙でパウロは「神」という単語を3回(1章3節、2章10節、3章4節)、「イエス」という単語を3回(1章4節、2章13節、3章6節)用いています。

「信仰を同じうするわたしの真実の子テトスへ。
父なる神とわたしたちの救主キリスト・イエスから、恵みと平安とが、あなたにあるように。」
(「テトスへの手紙」1章4節、口語訳)

前述のようにテトスはパウロの伝道を通してキリスト信仰者となりました。テトスはパウロの最も近しい同僚の一人でしたが、新約聖書は彼についてあまり記述していません。

キリスト教会の指導者(牧師)の持つべき特徴  テトスへの手紙」1章5〜9節

「あなたをクレテにおいてきたのは、わたしがあなたに命じておいたように、そこにし残してあることを整理してもらい、また、町々に長老を立ててもらうためにほかならない。」
(「テトスへの手紙」1章5節、口語訳)

パウロはテトスをクレテに残しました。「使徒言行録」にはパウロがクレテで福音を宣べ伝えたという記述はありません。記されているのは、カイザリヤからローマに囚人として護送される途中で彼がクレテを訪れたということだけです(「使徒言行録」27章7〜12節)。パウロはローマでの最初の投獄生活から解放された後でクレテを訪れたとも考えられます。

テトスのやるべき仕事はクレテの諸教会の事柄を整理し町々の教会に「長老」を立てていくことでした(「テモテへの第一の手紙」4章14節、「テモテへの第二の手紙」1章6節も参考になります)。

ギリシア語で「長老」(1章5節)は「プレスビュテロス」、「監督」(1章7節)は「エピスコポス」といい、一世紀ではどちらも教会の指導者を意味していました。「長老」が各個教会を指導し「監督」(英語の「ビショップ」に相当)が同じ町の中にある各個教会を一括して指導するという責任分担が一般化したのは二世紀に入ってからです。「使徒言行録」20章17節および28節はエフェソにある諸教会の指導者たちを「長老」とも「監督者」とも呼んでいます(「ペテロの第一の手紙」5章1〜2節の「長老」についての記述も参考になります)。

パウロは各個教会の指導を信頼できる男たちに委ねては新しい町々へと旅を続けていきました(「コリントの信徒への第一の手紙」1章7節および3章5〜11節および16章10〜12節、「フィリピの信徒への手紙」2章19節)。

クレテからきたユダヤ人たちは最初の聖霊降臨日(「五旬節の日」)の時にはすでにペテロの説教を聞いていました(「使徒言行録」2章1、11節)。しかしクレテにキリスト教会ができたのはおそらく60年代であったと思われます(上掲の「テトスへの手紙」1章5節を参照してください)。クレテの教会の指導者たちが満たすべき諸項目の中には「信者になって間もないものであってはならない」(「テモテへの第一の手紙」3章6節)という項目は含まれていません。歴史が浅かったクレテの教会には経験豊富なキリスト信仰者がそもそも存在しなかったのでしょう。

「テトスの手紙」の挙げる教会の指導者に求められる諸項目は「テモテへの第一の手紙」3章1〜12節にある一連の要求項目と似通っています。相違点として「テトスへの手紙」では自制心と慎み深さの重要性が「テモテへの第一の手紙」よりも強調されています(2章2、6、12節、「テモテへの第一の手紙」3章8節)。

「長老は、責められる点がなく、ひとりの妻の夫であって、その子たちも不品行のうわさをたてられず、親不孝をしない信者でなくてはならない。」   (「テトスへの手紙」1章6節、口語訳)

「ひとりの妻の夫」という表現は結婚における忠実さを強調しています。これは教会の指導者が必ず既婚者でなければならないとか、やもめとなった場合には再婚しなければならないという意味ではありません(「テモテへの第一の手紙」3章2節も参考になります)。

「監督たる者は、神に仕える者として、責められる点がなく、わがままでなく、軽々しく怒らず、酒を好まず、乱暴でなく、利をむさぼらず、かえって、旅人をもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、信仰深く、自制する者であり、教にかなった信頼すべき言葉を守る人でなければならない。それは、彼が健全な教によって人をさとし、また、反対者の誤りを指摘することができるためである。」
(「テトスへの手紙」1章7〜9節、口語訳)

教会の指導者である「監督」の仕事とは新奇な教義や聖書解釈を捏造することではなく、使徒たちから受け継いできた「教え」を忠実に伝えていくことです。パウロは牧会書簡において「健全な教」、「わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教」、「わたしから聞いた健全な言葉」の重要性について繰り返し述べています(「テモテへの第一の手紙」1章10節および6章3節、「テモテへの第二の手紙」1章13節および4章3節で合計8回の言及があります)。これはパウロの他の手紙にはみられない特徴です。とはいえパウロは他の手紙ではキリスト教信仰を「教え」として明示しなかったという意味ではなく、別の言いかたも用いることがあったということです。例えば「ローマの信徒への手紙」の6章17節および16章17節でもパウロは「教え」について述べています(「伝えられた教」、「あなたがたが学んだ教」)。最初期からキリスト教信仰はある種の「教えのかたち」を絶えず保ち続けてきたのです。

上掲の箇所で教会の指導者たちには「二つの声」が要求されていることに注目しましょう。彼らは福音の宣教者としてキリスト信仰者たちを励ます使命が与えられています。その一方で彼らには異端の教えの誤謬を看破する責務もあります。

きよい人には、すべてのものがきよい 「テトスへの手紙」1章10〜16節

「実は、法に服さない者、空論に走る者、人の心を惑わす者が多くおり、とくに、割礼のある者の中に多い。」
(「テトスへの手紙」1章10節、口語訳)

クレテに蔓延した異端の教えはもともとユダヤ人たちが広めたものであったと上節から推論することもできますが、必ずしもそれが正しいとも言い切れません。グノーシス主義は種々多様な宗教からの影響を受容してできた「諸宗教のごった煮」のようなものであったからです。クレテのグノーシス主義者たちはユダヤ教からキリスト教に改宗した人々の心を掴むような布教活動を展開した可能性はあります。ともあれ異端の教えはもともとキリスト教会の外部ではなく内部に生起したものでした。

「彼らの口を封ずべきである。彼らは恥ずべき利のために、教えてはならないことを教えて、数々の家庭を破壊してしまっている。」   (「テトスへの手紙」1章11節、口語訳)

異端の教師たちは熱心に家々を個別訪問して布教活動を行いました。こうして彼らは家族単位での改宗を進めていったのです。彼らはまた布教活動を通じて経済的な利益を得ようとしました。おそらく彼らは改宗者たちから報酬を要求したのでしょう(「テモテへの第一の手紙」6章5〜10節も参考になります)。

パウロは異端の教師たちを「空論に走る者」と呼んでいます(1章10節、「テモテへの第一の手紙」1章6節)。

異端教師たちの「口を封ずべきである」とパウロは命じています。彼らと対話したり論争したりするのは徒労に終わります。彼らは自分の道をすでに選んでしまっているからです(3章10節も参照してください)。

「クレテ人のうちのある預言者が「クレテ人は、いつもうそつき、たちの悪いけもの、なまけ者の食いしんぼう」と言っているが、この非難はあたっている。」
(「テトスへの手紙」1章12節および13節冒頭、口語訳)

上掲の箇所に引用されているのは紀元前500年代に生きていたエピメニデスの詩です。この詩人は預言者ともみなされていました。おそらくパウロは「預言者」という言葉によって、クレテ人についてのエピメニデスの詩がパウロの時代のクレテ人にも当てはまるという意味で予言的でもあったことを強調したいのではないでしょうか。ギリシア語では「クレテ人である」という言葉と「嘘をつく」という言葉は同義語です。大陸側のギリシア人たちはクレテ人たちをかくも信頼ならない者とみなしていたということです。

「ユダヤ人の作り話や、真理からそれていった人々の定めなどに、気をとられることがないようにさせなさい。」
(「テトスへの手紙」1章14節、口語訳)

異端に巻き込まれることは真理や神様に対して背を向けることを意味します。

「きよい人には、すべてのものがきよい。しかし、汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている。」 
(「テトスへの手紙」1章15節、口語訳)

異端の教えにはしばしば禁欲主義が結びついています。いろいろなことが禁止事項とみなされ、ある種の食物も食べてはいけないものとされます(「テモテへの第一の手紙」4章1〜5節)。神様の素晴らしい数々の賜物は自由に享受してよいものであり、そうしても自分の救いの妨げとはならないことをキリスト信仰者は知っています(「マタイによる福音書」15章10〜11、16〜20節、「マルコによる福音書」7章14〜23節、「使徒言行録」10章9〜16節、「ローマの信徒への手紙」14章19〜23節、「コロサイの信徒への手紙」2章20〜23節)。

「彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である。」
(「テトスへの手紙」1章16節、口語訳)

異端の教師たちの生活の実態は、神様を知悉していると主張する彼らの神様についての無知さを露呈させました。彼らがどのようなことを教えているかだけではなく、彼らが実際にどのように生きているかについても厳しく注視するべきなのです。パウロはユダヤ人たちを叱責しました。彼らの実生活が彼らの宣教内容にふさわしくないものだったからです。そのような自己矛盾のゆえに彼らの宣教は実を結びませんでした。

「もしあなたが、自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を誇とし、御旨を知り、律法に教えられて、なすべきことをわきまえており、さらに、知識と真理とが律法の中に形をとっているとして、自ら盲人の手引き、やみにおる者の光、愚かな者の導き手、幼な子の教師をもって任じているのなら、なぜ、人を教えて自分を教えないのか。盗むなと人に説いて、自らは盗むのか。姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか。律法を誇としながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか。聖書に書いてあるとおり、「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」。もし、あなたが律法を行うなら、なるほど、割礼は役に立とう。しかし、もし律法を犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう。だから、もし無割礼の者が律法の規定を守るなら、その無割礼は割礼と見なされるではないか。かつ、生れながら無割礼の者であって律法を全うする者は、律法の文字と割礼とを持ちながら律法を犯しているあなたを、さばくのである。というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。」  
(「ローマの信徒への手紙」2章17〜29節、口語訳)