テモテへの第二の手紙3章 終わりの時にどのように生きるか

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

終わりの時の人間たち 「テモテへの第二の手紙」3章1〜9節

「しかし、このことは知っておかねばならない。
終りの時には、苦難の時代が来る。」
(「テモテへの第二の手紙」3章1節、口語訳)

新約聖書において「終わりの時」は一般的にはペンテコステ(聖霊降臨)以降の時期を指しています。これは旧約聖書の予言とメシアについての約束とがすでに成し遂げられた時期です(「コリントの信徒への第一の手紙」10章11節、「テモテへの第一の手紙」4章1節、「ヘブライの信徒への手紙」1章1〜2節、「ヨハネの第一の手紙」2章18節)。パウロはここで遠い未来のことではなく彼の生きていた当時の状況について述べていたことになります(3章5節の「こうした人々を避けなさい」という助言もこのことを示唆します)。

テモテは異端の教師たちが教会にあらわれることをすでに知っていたと思われます。パウロがこのことをエフェソの教会の指導者たちに予告した時にテモテはパウロと一緒にいたからです(「使徒言行録」20章28〜31節)。またパウロはこのことについてテモテに手紙でも知らせていました(「テモテへの第一の手紙」4章1〜5節)。ですからテモテがこのことについて知っていたのは確実です。この箇所でパウロはキリスト教信仰への反対や異端の教えがあらわれるのは一過的な現象ではなく、キリストの再臨の時に至るまで常に教会につきまとう持続的な問題であることをテモテに強調したかったのでしょう。イエス様もいずれ教会に苦難の時が到来し偽教師たちがあらわれることを予言なさいました(「マタイによる福音書」24章3〜14節)。

「その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。」
(「テモテへの第二の手紙」3章2〜5節、口語訳)

上掲の箇所は終わりの時に現れる19種類の(邪悪な)人々を挙げています。この箇所は「ローマの信徒への手紙」1章29〜31節にある各種の罪の一覧表に類似しています。これらの罪の特徴は自己中心さと邪悪さという二種類の基本的な罪のグループに分けることができます。

「金を愛する者」についてパウロはすでに「テモテへの第一の手紙」6章10節でも警告しています(「ルカによる福音書」16章14節も参考になります)。また「親に逆らう者」は残念ながら現代にもたくさんいます。

上掲の箇所に挙げられているタイプの人々はキリスト信仰者であることを自認していました。私たちはすべての宗教性が(たとえそれが「キリスト教」の名を語っている場合でさえ)キリスト教的であるとはかぎらないことを踏まえておく必要があります。

イエス様はファリサイ人たちを叱責なさいました。義しい人であるかのようにふるまっていた彼らの信仰が内実の伴わない空虚なものだったからです(「マタイによる福音書」23章25〜26節)。

「こうした人々を避けなさい」は彼らの邪悪な生きかたに巻き込まれてはいけないという意味です(「コリントの信徒への第一の手紙」5章9〜13節も参考になります)。異端者のグループから離脱することはそのグループが神様の御意思に反したよくない生きかたをしていることを証することでもあります(「テトスへの手紙」3章10節、「コリントの信徒への第一の手紙」5章1〜5節)。

「彼らの中には、人の家にもぐり込み、そして、さまざまの欲に心を奪われて、多くの罪を積み重ねている愚かな女どもを、とりこにしている者がある。」
(「テモテへの第二の手紙」3章6節、口語訳)

すでに楽園でサタンはエバを誘惑しました(「創世記」3章1〜6節)。同様に多くの異端教師も女性たちを手下にしようと策を巡らしました。逆に言えば、一般的にみて女性のほうが男性よりも信仰の事柄に関心を示す傾向が強いということなのかもしれません。

上節の女性たちの記述が実例に基づくものか否かについては判断しかねる面があります。グノーシス主義には禁欲主義的な側面もあれば放縦な性生活を追認する側面もあったからです。

「彼女たちは、常に学んではいるが、いつになっても真理の知識に達することができない。」
(「テモテへの第二の手紙」3章7節、口語訳)

人は自分の「霊的な家・故郷」を見つけることが大切です。次から次へと新しい教えや体験を探し求めてばかりいると、しまいには新しい異端のグループに巻き込まれてしまいます。

「ちょうど、ヤンネとヤンブレとがモーセに逆らったように、こうした人々も真理に逆らうのである。彼らは知性の腐った、信仰の失格者である。」
(「テモテへの第二の手紙」3章8節、口語訳)

ユダヤ人の伝承によればモーセに敵対したエジプトの魔術師たちはヤンネとヤンブレという名であったとされます(「出エジプト記」7章11〜12節も参考になります)。彼らの行動はファラオの心をかたくなにするばかりであり(「出エジプト記」7章13、22節)、結果的にエジプトは大混乱に陥りました。

エジプトの呪術師たちはモーセとアロンの行った奇跡のうちの一部は模倣できましたが、最終的には自らの敗北を認めるほかなくなりました(「出エジプト記」8章14〜15節)。異端の教えの中にも正しい教えと共通点があるように見える場合があります。それでも最終的には異端特有の脆弱性が明るみになります。異端は人を救うことができません。救いへと人を導く正しい信仰が異端には欠けているからです。

「しかし、彼らはそのまま進んでいけるはずがない。彼らの愚かさは、あのふたりの場合と同じように、多くの人に知れて来るであろう。」
(「テモテへの第二の手紙」3章9節、口語訳)

神様が活動なさっているところではサタンも人々を異端へと陥れようと策動します(「マタイによる福音書」13章24〜30、36〜43節)。活きておられる神様に対して異端教師たちは戦いを挑みますが、勝利を収めることは決してありません(「使徒言行録」5章39節も参考になります)。

教会史ではグノーシス主義のほうが使徒たちの正しい教えよりも勢いがあるように見えた時期もありました。しかしそれが正しいキリスト教信仰に勝つことはできなかったのです。

使徒の模範 「テモテへの第二の手紙」3章10〜13節

「しかしあなたは、わたしの教、歩み、こころざし、信仰、寛容、愛、忍耐、それから、わたしがアンテオケ、イコニオム、ルステラで受けた数々の迫害、苦難に、よくも続いてきてくれた。そのひどい迫害にわたしは耐えてきたが、主はそれらいっさいのことから、救い出して下さったのである。」
(「テモテへの第二の手紙」3章10〜11節、口語訳)

上節は新約聖書にある善い行いの一覧表を想起させます(例えば「ガラテアの信徒への手紙」5章22節)。

自分の与えた模範に従うように他の人々に呼びかけるパウロの態度は一見すると傲慢かもしれませんが実はそうではありません。キリスト信仰者は皆、主について自分の生きかたを通して証するために召されているからです(「フィリピの信徒への手紙」3章17節、「テサロニケの信徒への第一の手紙」1章6節)。本来、信仰と生きかたは互いに矛盾せずに調和するべきものです。ユダヤ人たちがユダヤ教の教えに沿う生きかたをしなかったため、彼らの説く教え自体も信用を失ってしまいました(「ローマの信徒への手紙」2章17〜29節)。

私たちはキリストに従う者です(「マタイによる福音書」8章18〜22節、「ルカによる福音書」9章57〜60節、「ヨハネによる福音書」13章12〜17節)。私たちは言葉だけではなく生きかたを通して他の人たちもこの道に招くことを願っています。キリスト教信仰に他の人々を招くとき、彼らがパウロにではなくキリストに従うようにすることの大切さをパウロは深く理解していました。

「わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」11章1節、口語訳)。

私たちが自分を模範として従うように他の人々にも要求できるかどうかは、私たち自身がキリストの模範にどの程度従っているかに応じて変わってくると言えます。

この世は神様の御意思に従順な生きかたを嫌うため、そのような生きかたをしようとしている人々を認めようとしません(「ローマの信徒への手紙」12章2節)。この相剋からキリスト信仰者に対する迫害が起こります(3章11〜12節)。

パウロはおそらくピシデヤのアンテオケ、イコニオム、ルステラを訪れたことがあります(「使徒言行録」13章14節〜14章20節および15章41節〜16章6節および18章23節)。パウロは最初の海外伝道旅行でテモテの故郷の町ルステラにいた時に石で打たれ、あやうく死ぬところでした(「使徒言行録」14章19〜20節および16章1節)。テモテはその石打の様子を目撃したのではないでしょうか。パウロの受けた苦難の数々については「コリントの信徒への第二の手紙」11章23〜29節にまとめて記されています。

「テモテへの第二の手紙」3章11節の終わりの部分は「詩篇」34篇20節(口語訳では19節)と内容的にほぼ同じです。

かつてイエス様は御自身に従う者たちが信仰のゆえに迫害を受けることを予言しておられました(「マタイによる福音書」10章22節、「ヨハネによる福音書」15章18〜21節)。それと同じことをパウロもときおり手紙で教えてきました(「使徒言行録」14章22節、「フィリピの信徒への手紙」1章29〜30節、また「ペテロの第一の手紙」4章12〜13節)。

「悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。」
(「テモテへの第二の手紙」3章13節、口語訳)

悪人たちはいっそう悪くなっていくばかりです。「ヨハネの黙示録」22章11節が終わりの時に起こる出来事について予言しているように、義人たちがいっそう義人らしくなっていくことを期待することにしましょう。

御言葉にゆだねて 「テモテへの第二の手紙」3章14〜17節

キリスト教信仰は神様が私たち人間に啓示なさったことが根幹となっています(「マタイによる福音書」7章24〜27節、「ペテロの第二の手紙」1章19〜21節)。聖書と関わりのない「新しい啓示」や「新しい福音」なるものはキリストに向かって進んでいくものではなく、逆にキリストから離れていくものです(「ガラテアの信徒への手紙」1章6〜9節。また「ヨハネの第一の手紙」2章24節と「ヨハネの第二の手紙」9節も参考になります)。パウロは次の「使徒言行録」の箇所で真の福音がいかなるものかアグリッパ王の前で証しています。

「しかし、わたしは今日に至るまで神の加護を受け、このように立って、小さい者にも大きい者にもあかしをなし、預言者たちやモーセが、今後起るべきだと語ったことを、そのまま述べてきました。すなわち、キリストが苦難を受けること、また、死人の中から最初によみがえって、この国民と異邦人とに、光を宣べ伝えるに至ることを、あかししたのです。」
(「使徒言行録」26章22〜23節、口語訳)

私たちは新しい教えや教師を探し回るべきではなく(3章7節)、使徒的な信仰に堅く留まり続けるべきです(3章14節)。

テモテは誰から福音を学んだのでしょうか(3章14節)。もちろんそれはパウロからでしたが、おそらくここでパウロはテモテの祖母ロイスと母ユニケ(1章5節)のことも念頭に置いているものと思われます。

「また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。」
(「テモテへの第二の手紙」3章15節、口語訳)

ユダヤ人の(男の)子どもたちは5歳になると旧約聖書について教えを受けるようになります。

神様の御意思を聴いて受け入れることこそが人間をいっそう賢くします。このことは旧約聖書にも述べられています(「詩篇」19篇8節、119篇98節)。

主への畏れは知恵の始まりです(「詩篇」111篇10節、「箴言」9章10節)。しかし聖書における「知恵」とはたんなる知力だけではなくさらに広範な意味をもつ言葉であることを覚えておきましょう。聖書の「知恵」には例えばある種の人生経験や思慮深さも含まれます。

「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」
(「テモテへの第二の手紙」3章16節、口語訳)

この箇所は原語的にはいろいろな解釈ができますが、パウロが旧約聖書全体を神様の啓示として受け入れていたことは明らかです。

この手紙が書かれた当時すでに福音書やパウロの手紙は神様の啓示の一部として認められるようになってきていました(「テモテへの第一の手紙」5章18節、「ペテロの第二の手紙」3章15〜16節)。

「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。」
(「ペテロの第二の手紙」1章20〜21節、口語訳)

聖書は人間的でもあり神的でもある書物です。しかし私たち人間は聖書の神的な側面を人間的な側面から区別することができません。聖書全体は同時に(人間が記した書物であるという意味で)人間的でもあり(神様からの語りかけであるという意味で)神的でもあるからです。

「それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。」
(「テモテへの第二の手紙」3章17節、口語訳)

「神の人」とはキリスト信仰者のことを意味しています。この表現は旧約聖書ではモーセ(「申命記」33章1節)、エリヤ(「列王記上」17章18節)、ダビデ(「歴代志下」8章14節)そしてテモテ(「テモテへの第一の手紙」6章11節)について用いられています。

牧会書簡は善い行いの重要性を強調しています。これらの行いは行為者自身の信仰を証するものであるとともに他の人々を信仰へと招くものでもあります。