テモテへの第一の手紙4章 惑わされてはいけない!

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

偽りの禁欲主義のもたらす危険 「テモテへの第一の手紙」4章1〜5節

「しかし、御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう。」
(「テモテへの第一の手紙」4章1節、口語訳)

「後の時」は「終わりの時」とも訳されることがあります。終わりの時、終末というとイエス様の再臨が起きる直前の瞬間を表していると考えられがちです(「マタイによる福音書」24章9〜11節、「マルコによる福音書」13章21〜23節)。しかし新約聖書によれば「終わりの時」はすでにペンテコステ(聖霊降臨)の出来事から始まっており、それ以後の時代はすべて終末なのです(「ヘブライの信徒への手紙」1章1〜2節)。終わりの時に起きることについては「使徒言行録」20章29〜30節、「テモテへの第二の手紙」3章1〜5節を参照してください。

サタンは人が宗教を真面目に実践しようとするのを悪用して人が神様の御許から離れるように仕向けようとします。サタンは光の天使に擬装することもできます(「コリントの信徒への第二の手紙」11章14節)。宗教的なるもののすべてが神様に由来するものではありません。サタンは人間の考えでは正しく見えるような「迷いの霊」を使うこともあります(「ヨハネの第一の手紙」4章6節)。

異端の発祥にはサタンが加担していることを覚えておかなければなりません(4章1節、5章15節)。異端は神様の敵であるサタンと緊密な関係を結んでいるのです(「ヨハネによる福音書」8章44節、「コリントの信徒への第二の手紙」2章11節、「エフェソの信徒への手紙」6章11節、「テサロニケの信徒への第二の手紙」2章9〜12節、「ヨハネの第一の手紙」2章18節、4章1〜3節、「ヨハネの黙示録」13章14節)。

「それは、良心に焼き印をおされている偽り者の偽善のしわざである。」
(「テモテへの第一の手紙」4章2節、口語訳)

この節には二通りの解釈が提案されています。第一の解釈は一般的なものであり、異端教師たちの良心に「焼き印」がおされていると考えます。旧約聖書の世界では主人の所有物であることを明示するために家畜だけではなく奴隷にさえ焼き印がおされました(「出エジプト記」2章5〜6節、「申命記」15章16〜17節)。「良心に焼き印をおされている偽り者」と呼ばれている人々はサタンの所有物として焼き印をおされているというのが上節の意味するところになります。しかしこの焼き印は良心におされているものなので、皆が一斉にそれに気が付くということはありません。ですからこれらの人々は依然として神様のために働いているように見えるのです。

第二の解釈では、焼き印をおされた箇所は感覚の麻痺した傷跡になると考えます。異端教師たちの焼き印をおされた良心はかたくなになり麻痺してしまっているということです(1章19〜20節)。

異端教師たちは肉的な快楽を拒否する禁欲主義を要求しました。これは肉体そのものを殺すべき汚れたものとみなすグノーシス主義の考え方に通底するものです。

しかし肉体を殺すことによって肉の欲望から離れることは残念ながらうまくいきません。たとえ今までの肉的な欲望から解放されたとしても、それに代わって他の肉的な欲望が新たに湧き上がってくるからです。こうして人は死ぬまで肉を殺す試みの周辺をずっと堂々巡りし続けることになるのです。次の「コロサイの信徒への手紙」の箇所はこのことについて述べています。

「だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。あなたがたは、わざとらしい謙そんと天使礼拝とにおぼれている人々から、いろいろと悪評されてはならない。彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇るだけで、キリストなるかしらに、しっかりと着くことをしない。このかしらから出て、からだ全体は、節と節、筋と筋とによって強められ結び合わされ、神に育てられて成長していくのである。
もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、なおこの世に生きているもののように、「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのか。これらは皆、使えば尽きてしまうもの、人間の規定や教によっているものである。これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない。」
(「コロサイの信徒への手紙」2章16〜23節、口語訳)。

「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。」
(「テモテへの第一の手紙」4章4節、口語訳)

神様からの賜物は上手に活用するために与えられているものです。何を食べてよく何を食べてはいけないか区別することを人が救われるための前提条件とするような考え方は聖書的ではありません。例えばアドベンチスト教会の唱導する菜食主義は聖書が人間に要求しているものではありません(「創世記」9章1〜3節)。

上掲の節でパウロは「みな良いもの」とは言っておらず「神の造られたものは、みな良いもの」であると言っている点に注目しましょう。この世界には神様が承認なさらない、神様の敵対者の仕業であるものも存在するからです(「マタイによる福音書」13章28、38〜40節)。

上掲の節でパウロは食べ物についてだけではなく「神の造られたもの」すべてについて述べていることにも注目しましょう。神様は私たちのためにさまざまな良い賜物を備えてくださっています(6章17節)。これらの良い賜物を私たちは自分で愉しむだけではなく他の人々にも分け与えていくべきなのです(「コリントの信徒への第一の手紙」10章23〜33節)。

上掲の節にある「感謝」という言葉はギリシア語で「エウカリスティア」といい、西暦100年代にはすでに聖餐式を表す言葉として用いられていました。しかしこの箇所ではこの言葉は神様へ感謝することや感謝の祈りを捧げることを意味しています(「マタイによる福音書」14章19節、「コリントの信徒への第一の手紙」10章30節)。宗教改革者マルティン・ルターは小教理問答で食事の際の祈りを奨励していますが、キリスト信仰者にとってまことにふさわしい作法です。

キリストの良き僕 「テモテへの第一の手紙」4章6〜10節

「これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたは、信仰の言葉とあなたの従ってきた良い教の言葉とに養われて、キリスト・イエスのよい奉仕者になるであろう。」
(「テモテへの第一の手紙」4章6節、口語訳)

信仰は活用されることによって強められていき、殻の中に閉じ込められると萎縮していきます。信仰は他の人々にも広めていくために神様から与えられているものだからです。これは教会の指導者たちだけにではなくキリスト信仰者全員にもあてはまることです。

「しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい。」
(「テモテへの第一の手紙」4章7節、口語訳)

おそらくここでパウロは、エバやマグダラのマリアや罪の堕落に誘惑した蛇さえも「正しい教師」として称揚したグノーシス主義の教師たちのことを念頭に置いています。グノーシス主義的な教会の指導者は女性であることがしばしば見られました。この箇所でもパウロはキリスト教会に入り込んできた異端に反撃を加えているといえるでしょう。

「からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる。」
(「テモテへの第一の手紙」4章8節、口語訳)

「からだの訓練」はいわゆる普通のスポーツのことを意味しているのかもしれません。古典古代のギリシアでは運動競技が盛んであり、スポーツ選手たちは人々から尊敬を受ける英雄でした。あるいはまた「からだの訓練」は禁欲的な生き方を意味しているとも考えられます(4章3節と比較してください)。

キリスト信仰者のこの世における生き方は来るべき永遠のいのちのための訓練や準備であるというのが上掲の節の考え方である点に注目しましょう。

「後の世のいのち」すなわち永遠のいのちは今のいのちよりも大切です。それゆえ、永遠のいのちのためにはすでに今のいのちにおいても労苦しなければなりません(「コリントの信徒への第一の手紙」15章19節も参照してください)。

「これは確実で、そのまま受けいれるに足る言葉である。」
(「テモテへの第一の手紙」4章9節、口語訳)

この節は前節の内容を受けているとする研究者たちもいますが、一般的にはこの節は次節の内容に関連していると考えられています。

「わたしたちは、このために労し苦しんでいる。それは、すべての人の救主、特に信じる者たちの救主なる生ける神に、望みを置いてきたからである。」
(「テモテへの第一の手紙」4章10節、口語訳)

この節に書いてあるような正しい順序を踏まえることが大切です。訓練は信仰から生じてくるものであって、信仰が訓練によって生じるものではないのです。神様への信仰こそがキリスト信仰者がこの世で訓練を積んでいく出発点になっています。

上掲の節は(このガイドブックの著者及び翻訳者が属している)フィンランド・ルーテル福音協会という海外宣教団体で二十世紀の初頭に「全世界のさいわいなる救い」という標語にまとめられた事柄について述べています。イエス様は全世界のすべての罪のもたらす罰を身代わりに引き受けて十字架で死ぬことで帳消しにしてくださいました。まさにそのおかげで罪人全員すなわち全人類を罪と死と悪魔の支配から救われる主となられたのです。しかしイエス様によるこの贖いの御業を受け入れない人にとっては、この「全世界のさいわいなる救い」は無駄になるため、救いは実現しません。

「わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。
神の恵みをいたずらに受けてはならない。
神はこう言われる、
「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、
救の日にあなたを助けた」。
見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」6章1〜2節、口語訳)。

第五の福音書 (「テモテへの第一の手紙」4章11〜16節)

キリスト信仰者は「第五の福音書」と呼ばれることがあります。人々はキリスト信仰者たちの生き方を見て、神様がどのような存在であり、また神様を信じたほうがよいかどうかをそれに基づいて決めることがあるからです。残念ながら私たちキリスト信仰者は新約聖書の四つの福音書よりもはるかに不完全な形で神様がどのようなお方かを伝えているにすぎません。私たちの生き方が聖書の教えと矛盾しているものである場合、私たちはそれを正すべきなのです。ところが私たちの生き方を聖書の教えに従わせようとはせず、逆に聖書のほうを私たちの生き方に適合させようとする試みが残念ながらしばしば見られます。

「これらの事を命じ、また教えなさい。」
(「テモテへの第一の手紙」4章11節、口語訳)

「これらの事を」という表現は「テモテへの第一の手紙」によく出てきます(3章14節、4章11、15節、5章7、21節)。これによってパウロはテモテが学んだ信仰の基礎を意味しています。最初の頃からキリスト教の信仰はある種の「教義項目」を通してまたそれらを活用することによって宣べ伝えられてきました(4章6、16節も参照してください)。

「あなたは、年が若いために人に軽んじられてはならない。むしろ、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい。」
(「テモテへの第一の手紙」4章12節、口語訳)

「テモテへの第一の手紙」が書かれた当時、テモテは約35歳でした。当時の教会の指導者としてはまだ若かったといえます。この節も60年代にこの手紙が執筆されたという主張を裏付けています。西暦100年以降のテモテはすでに年老いていたからです(「コリントの信徒への第一の手紙」16章10〜11節も参考になります)。

パウロは大胆にも自分の与えた模範に従うように他の人々に何度も呼びかけています(「コリントの信徒への第一の手紙」11章1節、「フィリピの信徒への手紙」3章17節、「テサロニケの信徒への第一の手紙」1章6節、「テサロニケの信徒への第二の手紙」3章7、9節)。パウロはテモテにも信仰者として他のキリスト信仰者たちの模範になるように奨励しています(「ヘブライの信徒への手紙」13章7節、「ペテロの第一の手紙」5章3節も参照してください)。

人々から受ける敬意とは本人が周囲から無理に要求して獲得するようなものではありません。まずはじめに自分が敬意を受けるに値する者であることを自らの信仰生活を通して示していかなければならないのです。

信仰と愛の関係性(4章12節)は「十字架」によって描き出すことができます。信仰はいわば十字架の縦棒であり、人と神様の間の関係を表しています。愛はいわば十字架の横棒であり、人と他の人々すなわち隣り人たちとの関係を表しています。

「わたしがそちらに行く時まで、聖書を朗読することと、勧めをすることと、教えることとに心を用いなさい。」
(「テモテへの第一の手紙」4章13節、口語訳)

「聖書を朗読すること」とは聖書を公に朗読することです。ユダヤ人たちは会堂の礼拝で旧約聖書を朗読しました(「ネヘミヤ記」8章8節、「ルカによる福音書」4章16〜19節、「使徒言行録」13章15節、15章21節)。キリスト信仰者たちは旧約聖書だけではなくイエス様をめぐる出来事についての様々な記述も礼拝で朗読する習慣がありました(5章18節も参考になります)。これらの記述が後に福音書としてまとめられることになります。キリスト信仰者たちは使徒たちの数々の手紙も礼拝で朗読しました(「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章27節、「コロサイの信徒への手紙」4章16節、「ペテロの第二の手紙」3章16節。また「ヨハネの黙示録」1章3節、22章18〜19節も参照してください)。

礼拝では聖書の朗読につづいて、その箇所についての解き明かしがなされました(「ルカによる福音書」4章21節、「使徒言行録」13章16〜47節も参照してください)。現代の教会の礼拝においても説教は聖書の御言葉の適切な解き明かしであるべきです。

上掲の節は当時の礼拝の内容を表しています。ここには聖餐式についての記述がありませんが、最初の頃の教会のすべての礼拝では聖餐式が施行されました(「コリントの信徒への第一の手紙」11章17〜21節)。

上掲の節からはパウロがこの段階ではまだ自分がエフェソに行けることを希望していたことがわかります(3章14節にもこの希望が述べられています)。

テモテは福音を宣教する教会職に任命されました(4章12節)。おそらくこの任命はパウロが彼を同僚として同行させた第二次伝道旅行の際に行われたものと思われます(「使徒言行録」16章3節、「テモテへの第二の手紙」1章6節)。

「長老の按手を受けた時、預言によってあなたに与えられて内に持っている恵みの賜物を、軽視してはならない。」
(「テモテへの第一の手紙」4章14節、口語訳)

テモテをお選びになったのは神様です(1章18節も参考になります)。それゆえテモテを軽んじることは神様を軽んじることにもなります。

神様はテモテに教会職の遂行に必要な恵みの賜物を授けました。パウロはこの賜物を十分に活用するようにテモテを励ましています(「テモテへの第二の手紙」1章6節)。

神様はキリスト信仰者ひとりひとりのことも各々がいただいた賜物を活用していくようにと招いておられます。

キリスト信仰者が神様からいただいた賜物を無駄にしないようにするために、ふさわしい人物がふさわしい職務に任命されることを私たちは祈らなければなりません。

すでにモーセはイスラエルの民を指導する自身の後継者としてヨシュアを任命する時に按手を用いています(「民数記」27章18〜23節)。

「ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満ちた人であった。モーセが彼の上に手を置いたからである。イスラエルの人々は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおりにおこなった。」
(「申命記」34章9節、口語訳)。

ユダヤ教の教師であるラビたちも新しくラビになる者に按手を施しました。

「すべての事にあなたの進歩があらわれるため、これらの事を実行し、それを励みなさい。」
(「テモテへの第一の手紙」4章15節、口語訳)

キリスト信仰者たちの指導者となる人物は特別に慎重な審査を受けます。彼らが罪に堕落する場合、それは平信徒たちによる罪への堕落よりも重大な意味を帯びるからです。

聖霊様から教えを受ける場にわが身を置き続けることによってキリスト信仰者は信仰において進歩することができます(「フィリピの信徒への手紙」1章25節、3章12節)。

「イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」
(「ヨハネによる福音書」14章6節、口語訳)

人間はイエス様という「道」を通してのみ救われることができます。この道を終わりまで歩み続けなければなりません。途中でこの道を歩むのを止めると目的地にはたどり着けなくなります(「マルコによる福音書」13章13節、「コリントの信徒への第一の手紙」15章2節、「コロサイの信徒への手紙」1章22〜23節、「ヘブライの信徒への手紙」3章14節)。

「自分のことと教のこととに気をつけ、それらを常に努めなさい。そうすれば、あなたは、自分自身とあなたの教を聞く者たちとを、救うことになる。」
(「テモテへの第一の手紙」4章16節、口語訳)

誰も他の人を救うことはできません。しかし他の人を救いの源であるキリストの御許へと導くことはできます(「ローマの信徒への手紙」11章14節、「コリントの信徒への第一の手紙」7章16節)。

「ヤコブの手紙」は次の言葉で締めくくられています。

「わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち、真理の道から踏み迷う者があり、だれかが彼を引きもどすなら、かように罪人を迷いの道から引きもどす人は、そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、知るべきである。」
(「ヤコブの手紙」5章19〜20節、口語訳)