コロサイの信徒への手紙2章 三重の勝利
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手紙の導入部はこの2章の冒頭まで続いています。ようやく6節から手紙の主要な内容であるコロサイに入り込んできた異端の教えについての検討が始まります。
キリストで十分です 「コロサイの信徒への手紙」2章1〜5節
「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。」
(「コロサイの信徒への手紙」2章3節、口語訳)
パウロはこの節で異端教師たちの教えにでてくるキーワードを意識的に用いています。「知恵」(ギリシア語で「ソフィア」)や「知識」(ギリシア語で「グノーシス」)は異端教師たちの切り札的な用語です。彼らは「エパフラスは福音の初歩を宣べ伝えはしたが、深淵な真理を伝えたのは我々である」と主張したと思われます。
これに対してパウロは異端教師たちに「キリストで十分である」と断言します。ゴルゴタの御業には何も付け加えることがありません。私たちの教えている内容がキリストよりも少なくなる場合でもまた多くなる場合でも私たちはキリストについて何も正しく教えていないに等しいのです。
「わたしが、あなたがたとラオデキヤにいる人たちのため、また、直接にはまだ会ったことのない人々のために、どんなに苦闘しているか、わかってもらいたい。」
(「コロサイの信徒への手紙」2章1節、口語訳)
パウロは自分がすべての異邦人の使徒であるという自負を持っていました。彼は自ら設立した多くの教会のことだけではなく異邦人キリスト信仰者全員のことも心にかけていたのです。
おそらくパウロがリュコス川の渓谷を訪れたことはなかったでしょう。コロサイだけではなくラオデキヤ(2章1節)やヒエラポリス(4章13節)の教会もパウロではない誰か他の(おそらくエパフラスの)設立したものであったと思われます。
「それは彼らが、心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためである。」
(「コロサイの信徒への手紙」2章2節、口語訳)
キリスト信仰者としての成長とは、神様の恵みにより聖霊様の御業を通してキリストのお近くに行けるようになることにほかなりません。
「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。」
(「コロサイの信徒への手紙」2章3節、口語訳)
神様が与えてくださる救いはこの世からは隠されており、信仰を通してのみ見えるものです。ゴルゴタですべての罪が帳消しにされたのを正しく見ることができるのは信仰だけです。不信仰な人間の目には十字架にかけられた人間以外のものは見えません。
「わたしがこう言うのは、あなたがたが、だれにも巧みな言葉で迷わされることのないためである。」
(「コロサイの信徒への手紙」2章4節、口語訳)
異端教師たちはすでにパウロの時代でも巧妙な話術を駆使していました。多くの分派では会員たちの教育にたくさんの時間を費やします。彼らが人々をできるかぎり効率的に自分のグループに引き入れて新しい会員にできるようにするためです。これは洗脳と変わらないやりかたでしょう。
それとは異なり、キリスト教信仰は厚かましい働きかけでも強要でもありません。人に信仰が生まれるのは常に神様による御業であり、そうなるように人間が命令したり拘束したりすることはできません。福音は公に宣べ伝えられなければならないものです。しかしイエス様を救い主として受け入れるか否かは福音を聞く本人の問題です。信じるか否かを誰か他の人が代わりに決めることはできません。
「たとい、わたしは肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたと一緒にいて、あなたがたの秩序正しい様子とキリストに対するあなたがたの強固な信仰とを見て、喜んでいる。」
(「コロサイの信徒への手紙」2章6節、口語訳)
コロサイの異端教師たちに反撃を加える前にパウロはコロサイの教会の秩序正しさと堅い信仰を称賛しています。コロサイの教会が混乱し無秩序になっているかのような悪い印象をパウロは彼ら宛の手紙で与えたくはありませんでした。パウロはコロサイの教会が正しい基盤の上に成り立っていることを知っていたからです。そこに異端教師たちがやってきて混乱を招いたことが問題だったのです。しかし今や彼らのせいで破損した教会の状態を修復する時が到来しました。
キリストに根付きなさい! 「コロサイの信徒への手紙」2章6〜15節
「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。」
(「コロサイの信徒への手紙」2章6節、口語訳)
キリスト教信仰の真の特質は生涯にわたり真摯な信仰生活を送る人々にのみあきらかにされます(「ヨハネによる福音書」7章16〜17節も参考になります)。
キリスト信仰者に課せられた最も重要な使命はキリストに根付くことです。キリスト信仰者として生きていくための力もすべてキリストからいただくものだからです(「ヨハネによる福音書」15章1〜11節の「ぶどうの木のたとえ」も参考になります)。
「あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。」
(「コロサイの信徒への手紙」2章8 節、口語訳)
キリスト教信仰は哲学(ギリシア語で「フィロソフィア」)ではありません。
コロサイにやってきた異端教師たちは、エパフラスが以前宣べ伝えたキリスト教信仰はたんなる初歩にすぎず、今や信仰において進歩し「哲学」を深く学ぶべき時がきた、と主張しました。ただし8節に出てくるこの「哲学」は通常の哲学よりも広い意味を持っています。この「哲学」がいったいどのような内容のものであるかは2章16〜23節で部分的に明らかになります。
当時は理性に基づく考察だけではなく神秘宗教の救済の教えも「哲学」と称されていました。例えばグノーシス主義などのいわゆる高次の宗教的な知識もまた「哲学」に含められていました。ユダヤ人哲学者フィロンはユダヤ教を「哲学」と呼びました。またキリスト教信仰の護教家たちの中にもキリスト教信仰を「哲学」と呼称した人々がいました。例えば殉教者ユスティノスは「キリスト教は世界で最高の哲学である」という言葉を残しています。
上節の「世のもろもろの霊力」はヘレニズムの諸宗教の混合物を指していると思われます。例えば天空の太陽や月や星や惑星などがそのような「霊力」であるとされました。また古典古代の自然哲学においては万物の根源は地、水、火、大気であるとされました。
上節の「人間の言伝えに基くもの」はユダヤ教か(2章16節)あるいはより一般的にヘレニズム世界の種々の宗教の戒律や習慣を指していると考えられます。
キリストは上述のすべてのものよりも偉大なお方です。キリストは万物の主であり「かしら」です。それゆえキリスト信仰者は種々の諸力を崇拝した以前の生活に逆戻りせず、キリストのからだの一員として留まり続けるべきなのです。
「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、」
(「コロサイの信徒への手紙」2章9節、口語訳)
新約聖書には一回だけ「神の徳」(ギリシア語で「テオテートス」)という言葉が用いられています。これは「神性」とも訳せ、「神」よりも軽くて曖昧な言葉です。私たちの生きている現代では「どこかより高次のもの」や「神性」を曖昧に信じている人は大勢いますが、真の神様であるキリストを信仰している人はそれほど多くはいません。
「あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。」
(「コロサイの信徒への手紙」2章11節、口語訳)
幼児洗礼が聖書的であることの重要な根拠の一つとして、パウロがしばしば洗礼をユダヤ教の割礼に比していることをキリスト教会は最初から一貫して挙げてきました。割礼は男の赤ちゃんが産まれて八日目に行われるものであり、後になってからふたたび割礼を受け直すことはできませんでした。人は割礼を通してイスラエルの民の一員となりました。それと同じように洗礼はそれを通して人がキリスト教会の一員となる門なのです。
「あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。」
(「コロサイの信徒への手紙」2章13〜15節、口語訳)
上掲の箇所には新約聖書ではあまり見かけない言葉が多く含まれています。これもパウロが当時すでに存在していた礼拝式文から引用している箇所ではないかと推定されています。
キリストがある種の罪から自分を解放してくださることをあえて希望しないキリスト教徒たちが残念ながら大勢います。彼らが望んでいるのは罪が罰せられ裁かれるのを勘弁してもらいたいということだけです。しかしキリストは私たちを罪そのものからも解放したいと希求しておられるのです。
上掲の箇所(14節)が次の「ヨハネによる福音書」の箇所と関連があることは容易に見て取れるでしょう。
「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上にかけさせた。それには「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル、ローマ、ギリシヤの国語で書いてあった。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに言った、「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この人はユダヤ人の王と自称していた』と書いてほしい」。ピラトは答えた、「わたしが書いたことは、書いたままにしておけ」。」
(「ヨハネによる福音書」19章19〜22節)
ピラトはイエス様の罪状をイエス様の頭上の十字架にかけさせました。そこにはイエス様が十字架刑を受けた表向きの理由が書いてありました。しかし実際にはイエス様はそれ以上のもの、すなわちこの世のすべての罪を十字架に運んでいかれたのです。十字架でイエス様は全人類のすべての罪の負債を帳消しになさいました。イエス様がこの世を歩まれた当時、負債が帳消しにされた場合には借用書の端から端まで罰印をつける習慣がありました。この「罰印」はゴルゴタの「十字架」で成就されたことを私たちに思い起こさせます。ギリシア語で「キリスト」は「キー」という罰印の形の文字で始まります。例えば「キリスト」をギリシア語で書いた時の最初の二つのアルファベットを組み合わせてできたモノグラムはそれをよく表しています。
十字架でキリストは三重に勝利なさいました。罪と死と悪魔の圧制に対する勝利です。
私たちは勝者の側についていますか。
間違った制限 「コロサイの信徒への手紙」2章16〜23節
人間生活を完全に制御し統制する詳細で具体的な規則を信者たちに提供している点がイスラム教の強みであると言われたりもします。人は日夜イスラム教徒であり続けるか、あるいは全然そうではないかのどちらかしか選べません。イスラム教が支配的な国々での生活では文字通りそうなのだと思います。それに対して西欧諸国に住んでいるイスラム教徒はそれよりは幾分自由に生活しているのでしょうが、それでも毎日の祈りの時や毎年の断食の季節(ラマダーン)は遵守されています。
教会の歴史を通じて様々な異端が同じ目標を掲げてきました。それは人間生活を統制する諸規則に従うよう人々に命令することです。例えば「もしもこういうことをしたらお前はキリスト教徒ではない」とか「もしもこうしなければお前はキリスト教徒ではない」といったようにです。
異端はしばしば次の二つのきっかけから始まっています。
1)神様が禁じてはいない何かを禁じる(2章20〜21節)
2)神様が許可していない何かを許可する
コロサイではこれらのうち1)が大きな問題になっていましたが、2)の問題も天使礼拝(2章18節)などのかたちで起きていました。
「もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、なおこの世に生きているもののように、「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのか。」
(「コロサイの信徒への手紙」2章20〜21節、口語訳)
コリントでは教会での飲食(肉を食べること)も問題を引き起こしていたため、パウロは手紙を通してそれを解決しようとしました(「コリントの信徒への第一の手紙」10章23〜31節)。これが多くの教会で問題となったのには、古典古代の世界では動物の屠殺が常に犠牲の儀式に結びついていたことにも関係があります。ユダヤ人たちの場合は彼ら専用の肉屋をもっていたためこのような問題が生じませんでしたが、キリスト信仰者たちは異邦人たちと同様に「偶像に捧げられた肉」を食べなければならなかったのです。「コリントの信徒への手紙」でも「コロサイの信徒への手紙」でもこの問題に対するパウロの答えは同じものでした。キリストは万物の主であるので、キリスト信仰者たちは様々な偶像が彼ら自身の生活を規制するのを許してはならない、というものです(2章20〜21節)。
イエス様も食べ物や飲み物が朽ちるものであると教えました(「マタイによる福音書」15章10〜20節)。イスラム教もユダヤ教も食物規定を有する宗教ですが、キリスト教には特別な食物規定は何もありません。
「だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。」
(「コロサイの信徒への手紙」2章16節、口語訳)
この節の「祭や新月や安息日」という区分は祭りの三つの循環に関連しています。毎年催される祭りもあれば、毎月行われる祭りもあり、毎週繰り返される祭りもあります。例えば「歴代志上」23章31節には「また安息日と新月と祭日に、主にもろもろの燔祭をささげるときは、絶えず主の前にその命じられた数にしたがってささげなければならない。」とあります。私たちが普段用いているカレンダーは太陽や月の周回に基づいて決められているものなので、元々祭りの暦には星辰などへの原始的な崇拝が関連していたのかもしれません。
「これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。」
(「コロサイの信徒への手紙」2章17節、口語訳)
パウロは旧約聖書の諸規定を「きたるべきものの影」にすぎないものとみなしています。これは、旧約聖書が規定したり叙述したりしてきたことは「きたるべきものの予型」であり、いつか必ず到来するメシアがすべてを完全に成し遂げられるという考えかたです。次の「ヘブライの信徒への手紙」の箇所はそれと関連しています。
「しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。」
(「ヘブライの信徒への手紙」9章11〜14節、口語訳)
当時のコロサイの信徒たちがパウロのいう「影」(2章17節)を哲学者プラトンのイデア論に結びつけて理解した可能性はあります。この教えによれば人生は洞窟の壁に映し出された真なる実在(イデア)の「影」にすぎないものとされます。
「あなたがたは、わざとらしい謙そんと天使礼拝とにおぼれている人々から、いろいろと悪評されてはならない。彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇るだけで、キリストなるかしらに、しっかりと着くことをしない。このかしらから出て、からだ全体は、節と節、筋と筋とによって強められ結び合わされ、神に育てられて成長していくのである。」
(「コロサイの信徒への手紙」2章18〜19節、口語訳)
人間は隠されたことに常に惹きつけられるものであることを上掲の箇所は私たちに思い起こさせます。「他の宣教者たちが知らないことを自分は知っている」と喧伝する人物がたちまちのうちに大勢の聴衆の支持を集めるようになることがしばしば見られます。しかしキリスト信仰者は神様が私たちに啓示なさったことに堅く留まりそれから離れないようにしなければなりません。旧約聖書の「申命記」には次のように書いてあります。
「隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。」
(「申命記」29章28節(原書)、口語訳(29節))
すでに旧約聖書の時代にも偽りの幻を見て語る者たちが大勢いました。例えば「エレミヤ書」23章25節は「わが名によって偽りを預言する預言者たちが、『わたしは夢を見た、わたしは夢を見た』と言うのを聞いた。」と記しています。当時のコロサイには東方から新しい宗教が次から次へと入り込んできていたために様々な宗教が混合する錯綜した状況が生じていました。
どの時代にも自分の見た幻や自分の考えかたを喧伝しそれに基づいて新宗教の開祖となろうとする人々が後を絶ちません。それとは異なり、キリスト教信仰にはゴルゴタの御業というただ一つの基盤しか存在しないのです。