ヤコブの手紙4章 中心にいるのは自分か、それとも神様か

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

自己中心さは争いの種を撒き散らす

「ヤコブの手紙」4章1〜6節

「あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。」
(「ヤコブの手紙」4章1節、口語訳)

この節でヤコブはある特定の争いを指しているのか、それともたんに修辞的な表現で問題を提起しているのかについては研究者の間で意見が分かれているようです。どちらの場合であったにせよ、ヤコブがここで描写している教会の状態は実に暗澹たるものです。これは当時の教会の実情をよく反映していました。残念なことに、現代の教会の状況も当時とそれほど変わっていないと思います。

教会の抱えるこの問題の原因のひとつとしてヤコブは人間の自己中心さを挙げています。ここで言う「自己中心さ」とは、人が自分に利益をもたらすことばかりを追い求め、教会にとって有益なことには見向きもしないことです。他の人を妬む心は多くの人間の抱えている問題であるとも言われます。「妬み」とは、自分も何かしらは得ているということでは満足できず、他の人と比べると自分だってもっともらえるはずなのにそうなっていない不満を訴える心のことです。

ところで、あるキリスト信仰者は次のように祈りました。「どうか私たちに他の人々が受けている祝福を素直に喜べる心持ちと、他の人々が祝福を受けることで私たちが彼らから何かを奪われるのではないことを冷静に理解する心をお与えください」。このような健全で公正な態度を教会は絶えず必要としています。

「求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。」
(「ヤコブの手紙」4章3節、口語訳)

この節でヤコブは、神様からの答えをいただけない祈りもあるというテーマを扱っています。次に引用するイエス様の教えがこの背景にあるのは確実だと思われます。

「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。」
(「マタイによる福音書」7章7〜8節、口語訳)

神様はすべての祈りに答えてくださるはずではないのでしょうか。祈り求める者たち皆が望み通りの祈りの答えを得るとはかぎらないのはいったいどうしてなのでしょうか。この疑問に対してヤコブは「あなたが自分の欲望を満足させるためだけに何かを神様から祈り願う場合、神様は善き御意思により、あなたにそれをお与えにはならない」と答えます。それとまったく同じことをイエス様御自身も教えておられます。

「そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。」
(「ルカによる福音書」11章9〜13節、口語訳)

よい父親は我が子にパンの代わりに石を与えたりはしないし、魚の代わりに蛇を差し出したりもしないものです。ともすると私たち人間は自分にかえって害となるようなものを祈り願うものです。ですから、そのようなものを私たちに神様が与えてくださらないのはよいことなのです。

そもそも祈りとは、祈る者自身の欲求や快楽を追求するための手段ではありません。真の祈りには常に「神様、あなたの御心がなりますように!」という祈りが含まれています。

神様から答えをいただけない祈りはありません。神様は各人の祈りを聴いてそれに答えてくださいます。しかし、その答えはいつも私たちの期待している通りのものとはかぎらないのです。神様は「よし!」と答えてくださるときもあれば「否!」と言われるときもあり「まだ!」とか「待て!」と返答してくださる場合もあります。この「ヤコブの手紙」ガイドブックの著者にとって個人的に一番苦手な答えは「待て!」です。「否!」と言われるほうが「待て!」という答えよりも好ましいくらいです。だめであることがはっきりすれば、この祈りの件はとりあえず片付いたことになるからです。

「不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。」
(「ヤコブの手紙」4章4節、口語訳)

上掲の節にある「不貞のやからよ。」という表現は旧約聖書の「契約の神学」と密接に関係しています。旧約聖書の預言者たちはイスラエルの民が神様に対して「不貞」であることを厳しく叱責しました。イスラエルの民は「神の民」という重要な地位を与えられていたにもかかわらず、神様が彼らと結んでくださった契約を一方的に破棄したからです。このことは例えば「ホセア書」13章や次の「エレミヤ書」の箇所にもよく表現されています。

「もし人がその妻を離婚し、
女が彼のもとを去って、他人の妻となるなら、
その人はふたたび彼女に帰るであろうか。
その地は大いに汚れないであろうか。
あなたは多くの恋人と姦淫を行った。
しかもわたしに帰ろうというのか」と主は言われる。」
(「エレミヤ書」3章1節、口語訳)

このようにしてイスラエルの民は時と場合に応じて様々な国々と契約を結ぶことによって幾度となく主なる神様を捨ててきたのです。

「邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。」
(「マルコによる福音書」8章28節、口語訳)

このイエス様の厳しい言葉は主に対するイスラエルの民の不貞行為に関係しています。イエス様の時代のユダヤ人社会において離婚が特別に多かったというわけではありませんが、多くの人々が離婚したのもたしかです。当時のユダヤ教の専門家であるラビたちによる恣意的な律法解釈が離婚を正当化していたからです。ここでイエス様はイスラエルの民が主との契約を一方的に破棄して「離婚」するという罪深さに陥っていることを指摘なさいます。神様との契約を破棄することは神様がお遣わしになったメシアすなわち救世主を捨てることにもなります。そして、ヤコブは新約の民であるキリスト信仰者も旧約のイスラエルの民と同様に「不貞」の問題と無関係ではないことを強調します。他の一般の人々ばかりではなくキリスト信仰者もまた、神様に敵対する諸力やこの世や悪魔さえとも行動を共にする「契約」を結んでしまう誘惑をかつても今も受け続けてきました。しかし、キリスト信仰者は同時に二人の主人に仕えることはできません(「マタイによる福音書」6章24節)。そのような真似をすれば、ちゃんと前に進むことができなくなるからです。にもかかわらず、多くの人はそのような生き方を選んでいるようにも見えます。旧約の民も預言者エリヤから次のような二者択一を迫られた時に黙り込みました。

「そこでアハブはイスラエルのすべての人に人をつかわして、預言者たちをカルメル山に集めた。そのときエリヤはすべての民に近づいて言った、「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」。民はひと言も彼に答えなかった。」
(「列王記上」18章20〜21節、口語訳)

ヤコブは自分の伝えようとする考えの正しさを二つの引用によって強調しています。一つ目の引用は次のものです。

「それとも、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。」
(「ヤコブの手紙」4章5節、口語訳)

この箇所は旧約聖書外典からの引用であるとも言われています。次に挙げる二つ目の引用は旧約聖書の「箴言」3章34節からのものです。

「しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。」
(「ヤコブの手紙」4章6節、口語訳)

この「ヤコブの手紙」4章5節の言う、神様が「ねたむほどに愛しておられる」「わたしたちの内に住まわせた霊」とはいったいどのような霊なのでしょうか。答えは二つ考えられます。一つ目の答えは「聖霊様」です。二つ目の答えは天地創造のときに神様が人間に賜った「命の息」です(以下の引用箇所を参照してください)。なお旧約聖書のヘブライ語では「霊」と「息」とは同じ言葉(「ルーァハ」)で表現されます。

「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」
(「創世記」2章7節、口語訳)

ユダヤ人の聖書学者たちは、人間は死んだあとでその霊が命の与え手なる神様の御許に帰還していくと教えました。この解釈によって「ヤコブの手紙」を読むと、神様が御自分の被造物である人間全員に深い関心を注いでおられることや、彼らのうちの一人も悪魔の手に渡るのを望んでおられないことがはっきり伝わってきます。

一方、「ヤコブの手紙」4章5節では聖霊様のことが語られていると考える場合、キリスト信仰者が救い主に対して忠実であり続けることの大切さがここで強調されていることになります。

神様の御意思の下にへりくだりなさい

「ヤコブの手紙」4章7〜10節

これから扱う箇所には実行不可能な要求ばかり列挙されていると感じる人もいるかもしれません。4つの節の中に実に10個の奨励が含まれているからです。

しかし、ヤコブの基本的な考え方によれば、これらの奨励に従うこともまた神様の恵みの力によってのみ実現できることです(4章7節)。

「主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。」
(「ヤコブの手紙」4章10節、口語訳)

上掲の節にあるように、主の御心に対してへりくだることは人が真の信仰生活を送るために欠かせない出発点です。イエス様も次のように言っておられます。

「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」
(「ルカによる福音書」14章11節、口語訳)

例えば、スポーツの分野で最高の成績を収めるためには全力で練習に励むことが必要不可欠であると考えられています。ところが、信仰生活に関しては人間の側で何もしなくても自然に信仰者の「聖化」が成就していくはずであると考える人たちが少なくありません。これは実に奇妙です。もちろん私たちは真の信仰生活の実現が聖霊様からの働きかけのおかげであることを忘れるべきではありません。しかしその一方で、信仰生活を健全な状態に保つために「特定の手段」を神様が用意してくださっていることも忘れてはいけないのです。それには「恵みの手段」と呼ばれる「聖書、洗礼、聖餐」に加えて、祈りやキリスト信仰者の間の交わりなども含めることができるでしょう。私たちはこれらの手段を信仰生活のために存分に役立たせることもできますし、それとは反対に、それらを長いこと利用しないままになることも起こりえます。例えば、祈りもせず聖書も読まず教会の礼拝にも参加しない人が真の信仰生活を送れなくなるとしても何の不思議もありません。

人が「神様によって義とされること」(すなわち「義認」)と「真の信仰生活を送るようになること」(すなわち「聖化」)とは次の点で互いに異なるものとして区別しなければなりません。私たちが神様によって義と認められることにおいて、私たち自身の行いはそれに対してまったく影響を与えることができません。しかしそれとは対照的に、私たちが真の信仰生活を送れるようになるかどうかは、私たち自身が神様の御意思に対してへりくだるかどうかに左右されます。要約すると「聖化」とは、キリストを救い主として信じるようになった人間が残りの全人生をかけて実現していく過程のことなのです。ですから、私たち人間が神様の御意思に反抗して「聖化」を妨げることも起こりうるのです。

あなたがたは律法の上に立つ者ではない

「ヤコブの手紙」4章11〜12節

「兄弟たちよ。互に悪口を言い合ってはならない。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟をさばいたりする者は、律法をそしり、律法をさばくやからである。もしあなたが律法をさばくなら、律法の実行者ではなくて、その審判者なのである。しかし、立法者であり審判者であるかたは、ただひとりであって、救うことも滅ぼすこともできるのである。しかるに、隣り人をさばくあなたは、いったい、何者であるか。」
(「ヤコブの手紙」4章11〜12節、口語訳)

悪口を言うことはその場にいない他の人を貶すことです。「陰口を言う者は律法を裁いている」と指摘するヤコブは何が言いたいのでしょうか。律法が人間関係に要求しているのは隣り人を愛することです(「レビ記」19章18節、「マタイによる福音書」22章34〜40節)。この隣人愛の律法に従おうとしない者は自分を律法よりも上位に置いています。そのような人は自分が人間関係の問題について律法よりもよくわかっていると主張していることになるからです。また、律法に反対することは神様に反対することでもあります。律法を捨てることは律法を授けてくださったお方を捨てることにもなるからです。

キリスト信仰者は隣り人を自分よりも下位に置くべきではありません。それとは逆に、隣り人を持ち上げて支えるように務めるべきなのです。

しかしこれは、私たちは隣り人に対して注意や否定的なことを一切言ってはいけないということでしょうか。私たちは万事を善意に解釈するべきなのでしょうか。ここでヤコブが言いたいのはそのようなことではありません。実際に私たちは自分や他の人たちの生き方を神様の律法の光に照らして適切に評価することができますし、またそうすべきなのです。ヤコブの第一の主張は、私たちは自分に都合が良いように人々を評価してはいけないということです。そして第二の主張は、この評価がどのような意味でまたどのような目的で行われるものであるかを忘れないということです。たしかに神様の律法は否定的な目的で使用することもできます。例えば、他の人々の誤りや欠点を指摘するために律法の使用する場合です。しかしまた、神様の律法は肯定的な目的のためにも用いることができます。これは人々が自らの罪を悔い改めて神様から罪の赦しをいただくために律法を使用する場合です。

キリスト教の宣教活動においても神様の律法がまちがった目的のために使用されることが度々起こります。上で挙げた例の他にも正しくない危険な宣教のやり方がいくつも考えられます。例えば、牧師が聴衆に対して「あなたたちは罪人である」と決めつけて説教をおしまいにしたり、律法の要求にどう対処するべきかわからなくさせたりする場合などです。いろいろな罪を「重大な罪」と「重大ではない罪」とに分けるのも律法の危険な使い方です。このような分類を試みるときには、キリスト教から遠ざかった人の罪ばかりが重大視され、教会につながっている人の罪は過小評価される傾向があるからです。

ここで「誤った使い方が正しい使い方を妨げることがあってはならない」という古い格言を思い起こしましょう。もちろん神様の律法自体や律法を宣べ伝えることはキリスト教の宣教において重要なものです。律法の要求を真摯に受けとめずに福音を真に深く理解することはできません。律法と福音は互いに深め合いその意味を明確にし合う関係にあるのです。

聖書は律法がすべての人間に関わりがあるものであると教えています。このことから、すべての人間は律法を破っている罪深い存在であるという結論が出てきます。使徒パウロも「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、」(「ローマの信徒への手紙」3章23節、口語訳)と書いています。

同時に真の神様でも真の人間でもあられるイエス様は唯一の例外ですが、人間は誰一人として神様の律法の要求する全てを完全に満たすことはできません。それゆえ「罪人であるあなたたち」ではなく「罪人である私たち」という言い方をするべきなのです。イザヤが預言者として神様に召されたときの出来事にもこのことはよく表れています。次の引用箇所での「わたし」とはイザヤのことです。

「ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、互に呼びかわして言った。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。 その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。
この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。」
(「イザヤ書」6章1〜7節、口語訳)

律法と福音は互いに異なるものです。しかし、それらの明確な区別にこだわりすぎるのもよくありません。例えば、私たちが神様の律法ばかりを宣教する場合には、聴衆はそのような教えから憐み深い神様を見出せないでしょう。

その一方で、神様の恵みはいわば「安物の恵み」であってもいけません。イエス様は弟子たちに、人々を罪から解放することと罪へと捕縛することという二つの職務を遂行するようにお命じになりました。

「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。」
(「マタイによる福音書」18章15〜18節、口語訳)

神様が私たちの罪を赦してくださるのは、そのおかげで私たちが平気でさらに罪を重ねていけるようにするためではありません。使徒パウロも次のように書いています。

「では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。」
(「ローマの信徒への手紙」6章1〜2節、口語訳)

このようにキリスト教会には、自らの罪深さを悔い改めない人間を罪へと捕縛する職務もあるのです。しかし残念ながら、このような考え方に多くの現代人は強い違和感を持つようになっています。他の人を罪へと捕縛したり少なくともそう考えたりするだけでも、他人を裁く冷酷者とみなされてしまうのです。「どうしても罪について言及せざるをえないときには、罪の赦しを受けることと与えることとについてのみ話すべきである」という意見も人間の罪深さに向き合おうとしない現代の時流に沿った考え方であると言えます。

自信過剰のあやまち

「ヤコブの手紙」4章13〜17節

ヤコブはこの箇所で計画を立てることをすべて否定しているように見えるかもしれませんが、そうではありません。ヤコブは計画を立てること自体は認めています。それは次の15節にもはっきりあらわれています。

「むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。」
(「ヤコブの手紙」4章15節、口語訳)

ここでヤコブが手紙の読者に強調したいのは、計画を立てるときにも神様のことを忘れるべきではないということです。あたかも神様など存在しないかのような態度で計画を立てるべきではありません。このことをよく表しているキリスト教の古い標語があります。
「祈りなさい、そして、働きなさい!」
「あたかも自分の働きは何の助けにもならないかのように祈りなさい。また、あたかも自分の祈りは何の助けにもならないかのように働きなさい。」

神様には人間の人生を左右する最終的な決定権があります。旧約聖書にもイエス様の発言にも使徒パウロの手紙にもこのことを教えている箇所があります。

「あすのことを誇ってはならない、
一日のうちに何がおこるかを
知ることができないからだ。」
(「箴言」27章1節、口語訳)

「そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。」
(「ルカによる福音書」12章16〜20節、口語訳)

「むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。」
(「ヨハネによる福音書」15章5節、口語訳)

「わたしは今、あなたがたに旅のついでに会うことは好まない。もし主のお許しがあれば、しばらくあなたがたの所に滞在したいと望んでいる。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」16章7節、口語訳)

ヤコブの手紙はこのテーマについて次のように教えています。
人間は何年でも先の計画を立てることはできます(4章13節)。にもかかわらず、実際には「あすのこともわからぬ身」なのです(4章14節)。

「むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。」
(「ヤコブの手紙」4章15節、口語訳)

この節でヤコブは、神様が私たちに生きるのを許してくださっているからこそ私たちは今こうして生きているという単純な事実を述べています。

「ところが、あなたがたは誇り高ぶっている。このような高慢は、すべて悪である。」
(「ヤコブの手紙」4章16節、口語訳)

高慢はキリスト信仰者にはふさわしくありません。旧約聖書も次のように警告しています。

「高ぶりは滅びにさきだち、
誇る心は倒れにさきだつ。」
(「箴言」16章18節、口語訳)

「人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。」
(「ヤコブの手紙」4章17節、口語訳)

この節は「自分なら罪のない状態に達することができる」と勘違いしているすべての人間を徹底的に打ち砕きます。私たちはたとえ悪い行いを避けることができたとしても、神様が私たちに良い行いをする機会を与えてくださるときにいつもそれを実行できるわけではありません。

キリスト教信仰に基づく道徳意識は商売などの利益優先の経済活動には向いていないと主張されることがあります。しかしこのような考え方には、神様を「日曜日だけの主人」に押し込め、自分を「月曜日から土曜日までの主人」とするような人間の傲慢な態度があらわれています。大きな成功を収めたあるフィンランド人実業家はテレビのインタビューで「経済活動で成功するためには正直でなければならない」と言ったことがあります。私たちはともすると物事を思い込みで判断しがちです。しかし、現実はそのような人間の勝手な想像とは異なっているものです。全能なる神様はもちろん経済活動においても人間たちの主人の立場におられます。