テサロニケの信徒への第一の手紙4章13節〜5章11節

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

4章13〜18節 死の眠りに就いた人々の置かれている状態について

テサロニケの信徒たちは最後の日が近いということを学んで知っていました。それゆえ、彼らはイエス様の速やかな再臨を待ち望んでいました。主はまもなく再臨なさり、「御自分のもの」を喜びに満ちた天の御国の中へと集めてくださることを待望しつつ生活していたのです。ところが、テサロニケ教会が期待していたようには、イエス様の再臨はすぐに起きませんでした。主の帰還がなかなかなかったために、教会はその成員のうちの数人が先に死んでしまうという悲しみに直面しました。この事態は、イエス様の再臨前に死んでしまったキリスト信仰者たちはいったいどうなってしまうのか、彼らは天の御国に入れるのだろうか、という深刻な疑問を生みました。現代の私たちにとっては、テサロニケの信徒たちのこのような心配は奇妙に感じられるかもしれません。イエス様は私たち信徒のことを、私たちがこの世での生を終えたのちにも、ちゃんと世話してくださると、私たちははっきり知っているからです。このことをテサロニケの信徒たちは知りませんでした。それゆえ、彼らはこの世を去った教会員たちがどうなるのか、テモテに尋ねたのです。そして、テモテはテサロニケ教会を悩ませたこの問題をパウロに伝えました。

13〜18節でパウロはこの問題に対する答えを提示しています。パウロの返答は世の終わりに起きる出来事に関する詳細な説明ではありません。彼はテサロニケ教会を悩ませた疑問に対してのみ回答しています。ですから、ここで明言されていない事柄までもこれらの節から深読みするべきではありません。まず、使徒パウロは希望について話すことで手紙の読者たちを慰めます。キリスト信仰者は揺るがない希望をもっています。この希望は全能なる神様に全面的に依存している希望なので、人の死の瞬間にも消失しません。パウロはテサロニケ教会に対して、イエス様の身に起きた事柄を思い出させようとしています。イエス様は死なれました。しかし、三日目に神様はイエス様を死者たちの中から復活させました。イエス様を信じつつこの世を去った死者たちの受ける分もこれと同じです。最後の日に神様は彼らのことも復活させてくださるので、すでに死んだ信仰者たちのために嘆き悲しむ必要はないのです。イエス様を信じつつ生きている人々とまったく同様に、彼らもまた天の御国の喜びにあずかっています。イエス様が再臨なさる時に、私たちは皆、生きている人も死んだ人も、一緒に集められます。パウロはテモテへの応答を、私たちは常に主と共にいるようになる、という慰めの言葉によって閉じます。生きている教会員と死んだ教会員とが互いに再会することになるのです。そして、イエス様の御許での喜びは決してなくなることがありません。

13〜18節に関しては、二つの点に特別な注意を払う必要があります。パウロはイエス様の再臨がまだ自分が生きている間に起きるはずのことであるとして待っていました。テサロニケ教会の質問に答える際に、パウロは自分自身を、主の再臨までにまだ死なない信徒たちの一人とみなしていました。ところが、パウロが待望していたようには、イエス様はこの世に帰還なさいませんでした。天の父なる神様のみが最後の時がいつであるかご存知である、というイエス様の御言葉が本当であることが示されたのです。にもかかわらず、パウロの待望は無駄ではありませんでした。パウロは私たちに、イエス様の再臨に対してとるべき正しい態度を示してくれているからです。イエス様は自分が生きている間に再臨なさる、という態度で各々キリスト信仰者は待ち続けるべきなのです。このように生きるとき、私たちはどうして毎瞬間ごとに目を覚ましていなければならないのかを理解します。パウロの答えはしばしば誤解されてきました。その誤解のひとつがいわゆる携挙説です。この説は、キリスト信仰者たちは救済の歴史のある段階において天に取り去られるが、信仰にあずからない者たちは地上での生活を続ける、というものです。しかし、パウロはこのようには教えていません。たしかに彼は教会が取り去られて主と出会うことを語っています。しかし、この出来事はラッパの音が鳴り響く時、すなわち、イエス様が地上に再臨なさるまさしくその日に起こります。ようやくその時になってキリスト信仰者たちはイエス様の御許に集められます。それまでは、キリスト教会はこの地上において存続します。イエス様が再臨なさる時、地球はもはやそれまでと同じ状態に留まってはいません。この世界の歴史はその幕を閉じ、各々人は神様の裁きの御座の前に進み出ることになります。

5章1〜11節 目を覚ましていなさい

いつの時代にもキリスト信仰者たちはイエス様がいつ再臨なさるのかという問題に関心を寄せてきました。そして、いつイエス様はこの世に戻って来られるのか、イエス様の再臨に先立つしるしはどのようなものであるのか、といった質問がくりかえしなされてきました。弟子たちもイエス様に同じ質問をしたことがあります。

「またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」」。
(「マタイによる福音書」24章3節、口語訳)

キリスト教会の歴史において、イエス様の再臨の時期を知っていると自称する教師たちが大勢登場しました。しかし、彼らは全員その時期の予想を間違えました。こうした多くの「終末の預言者たち」とはまったく反対のやり方でパウロは活動しました。彼はイエス様の再臨の日時を予言しようとはしませんでした。神様の御計画の具体的なスケジュールを知っているのはおひとり神様御自身のみなので、神様が秘密として定められた事柄については、人間があれこれ推測するのが無駄であることを、彼は知っていたからです。テサロニケで以前すでに話した内容について、パウロは繰り返し教えます。それは、イエス様の再臨は夜の強盗のように思いもかけない時に起きるということです。このことについてはイエス様御自身も次のように言われています。

「このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」
(「マタイによる福音書」24章43〜44節、口語訳)

万事が今までと同じ調子でこれからも続いていくのだろう、と人々が思い込んでいるちょうどその時に、イエス様はこの世に帰って来て、この世の時は終わりを告げます。

「人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。」
(「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章3節、口語訳)

上に引用した3節でパウロは、全人類に降りかかる滅びについて語っています。イエス様の再臨のさいに、人はそれぞれ、神様の裁きの御座の前に出頭せざるをえなくなります。誰一人このことから逃れることはできません。人は各々、自ら行ったことと行わなかったことについて裁きを受けることになります。イエス様は突然この世に帰って来られるので、キリスト信仰者たちはたえず目を覚ましていなければなりません。私たちは毎瞬間ごとに神様の御前に進み出る心の準備をしておかなければならないのです。しかし、ここで次のような疑問が生じるのではないでしょうか。「もしもイエス様がたった今この世に帰って来られる場合、私はいったいどうなってしまうのだろうか?」という質問です。パウロは「目を覚ましていること」を表現するために、「暗闇と光」、「眠ることと目を覚ましていること」という二つ一組の言葉を用いています。イエス様を無視している人々は、暗闇の中で生活し、眠り込んでいます。多くの場合、彼らの生活はそれに準じた状態になっています。すなわち、彼らはまさに神様が戒めによって禁じた事柄を行いながら生活しているのです。彼らの生活はとても昼間の光に照らし出されるのには忍びないものです。キリスト信仰者たちはイエス様を信じています。それゆえ、彼らは光の中で生活し、目を覚まし続けています。私たちは、自らのすべての行いと言葉と思いが昼間の光に照らし出され皆に見られても恥ずかしくないような生き方を本来ならば送るべきなのです。

「だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。」
(「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章6〜7節、口語訳)

ここでパウロが言う「慎む」(ギリシア語で「ネーフォー」)とは「飲酒を慎む」という一般的な意味でではなく「神様を正しく知る」という意味で用いられています。

「しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。」
(「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章8節、口語訳)

この8節には「信仰、愛、信仰」というおなじみのテーマが登場します。本来ならば、これら三者がキリスト信仰者の生活を支配するべきところです。

9〜11節でパウロは手紙の読者が「救いの基」に注目するように促します。イエス様は私たちのために十字架で死なれ、本来なら私たちが受けるべき私たち自身の罪の罰の苦しみをすべて身代わりに引き受けてくださったのです。私たちのすべての罪の罰はすでにすっかり済んでいるので、神様はイエス様を信じる者たちを罪ある者としてお裁きにはなりません。それゆえ、最後の日に臨んで、キリスト信仰者である私たちは、神様の怒りではなく、救いにあずかることができるのです。

10節でふたたびパウロは、目を覚ましていることと眠りに就くことについて触れます。ここではこれらの言葉は今までとは異なるニュアンスを帯びています。「目を覚ましている者たち」はこの世でまだ生きている教会員のことを指しており、「眠りについた者たち」はすでにこの世を去った教会員のことを指しています。すなわち、ここでパウロは以前すでに話題にした内容に立ち戻ったということです。イエス様が確保してくださった救いは、今生きている教会員にも、またイエス様を信じつつすでにこの世を去った教会員にも等しく用意されているということです。


第5回目の集まりのために

「テサロニケの信徒への第一の手紙」4章13節〜5章11節

パウロはこの世の終わりに起こる出来事について語ります。彼はまず、テサロニケの教会を悩ませた問題に答えます。それは、イエス様の再臨を待たずに死んでしまった信徒たちはどうなるのか、という問題でした。この後で使徒パウロはイエス様の再臨の時期についてどのように考えるべきか説明します。この箇所のメッセージは「目を覚ましていなさい」という警告に要約できます。

1)キリスト信仰者が死後どうなるのかについて説明している聖書の箇所は極めて少ないといえます。たとえば、次の箇所を読んでみてください。
「ルカによる福音書」16章19〜31節
「コリントの信徒への第一の手紙」15章
「フィリピの信徒への手紙」1章19〜24節

2)死の間際においても消え去ることのない希望を私たちキリスト信仰者はもっている、とパウロは言っています。
この私たちの希望は何に基づくものなのでしょうか。
どうしてこの希望は誰もが持っているものではないのでしょうか。
私たちキリスト信仰者は死んだ後にも困った状態にならないのはどうしてでしょうか。

3)イエス様がこの世に再び戻って来られる時には、何が起こりますか。
その日には、イエス様を信じる人々はどこにいますか。

4)イエス様の再臨の時期について自分は正確に知っている、と思い込んでいる人が多くいます。
いつイエス様が再臨なさるのか、神様が誰にも教えてくださらないのはどうしてでしょうか。「マタイによる福音書」24章36節を参照してください。

5)イエス様の再臨に対して、それが起きる前に人々はどのような態度をとりますか。「マタイによる福音書」24章44節と「ペテロの第二の手紙」3章3〜4節を参照してください。

6)昼間の生活と夜の生活を比較してみてください。どのようなちがいを見つけますか。

「あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。」(「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章5節、口語訳)にでてくる「夜の者」や「昼の子」という表現でパウロが何を意味しているのか、考えてみてください。

7)「目を覚ましていなさい」と聖書がいうとき、それはどういう意味でしょうか。

8)イエス様の再臨についての教えを、パウロは次のように締めくくっています。

「だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。」(「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章11節)

私たちもまたお互いに、イエス様が再びこの世に戻って来られることに注意を向けるように促しているでしょうか。
また、どのようにしてこのことを実行するべきなのでしょうか。


終わりのメッセージ

ある秋の日に私は友人と島で釣りをしていました。私たちの泊まった小屋は海岸の岩の上にあり、その同じ岩の根元あたりに網を置いておきました。 ところが、その夜に誰かが水面からその網を引き上げて盗んでしまったことに、朝になって私たちは気がつきました。網から小屋までの距離はわずか数メートルだったのです。私たちはぐっすり眠っていましたし、夜はまっくらでした。もしも夜盗の意図を察知していたなら、こうはならなかったことでしょう。盗まれてしまった今となっては、残念だという気持ちと怒りがこみあげるばかりでした。

「このことを、わきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、自分の家に押し入らせはしないであろう。あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」。
(「ルカによる福音書」12章39〜40節、口語訳)

これはイエス様の再臨の時期に関する話です。それは不意に起こります。それがいつのことか、わかっているつもりになっていたとしても、実際には誰一人としてそれを予言できる者はいません。ですから、あなたがたは用意をしておきなさい。しかし、いったいどのようにしてでしょうか?

定期的にもたれる形式的な礼拝やそれに準じた行いそれ自体は「目を覚ましている」ことにはなりません。しかし、もしも私たちが神様の御言葉の教えを受け入れて、私たちが自らの罪と、イエス様による罪の赦しの恵みとを知るように導かれるならば、私たちはイエス様への信仰の中で目を覚ましている術を学ぶようになります。私たちにとって愛する人が来ようとしている場合には、私たちにちゃんと待っているようにあれこれ周到に準備させたり、命じたりする必要はありません。その人をいつでも迎える用意ができているように、私たちは生活を整えていくものだからです。もしも救い主が私たちとその生活にとってなくてはならない方であるならば、私たちはこの方のことを親しく愛しい存在として待ちつづけるものです。現代では、世の終わりについての言説が飛び交っています。あたかも避けがたい運命であるかのように、それは恐れられています。しかし、私たちキリスト信仰者は「世の終わり」を宣べ伝えはしません。私たちは「主の再臨」を待ち望んでいるからです。主の到来は良い出来事です。なぜなら、主は私たちを天の故郷に連れ帰ってくださるからです。私たちは「実家」に帰れるのなら、それがいつ起きてもよいように用意を整えます。そうして、頼りないキリスト信仰者であっても、このようにすっかり準備が整っていることになるのです。

(Lauri Koskenniemi)