聖書に書いてあることは本当ですか。
本当です。
しかし、その内容を人間の考える基準で計ろうとするのは大きな誤りです。
何百年もの間、互いに違う考え方をするキリスト教徒たちがいましたが、「聖書に書かれていることは本当であり、聖書は神様の御言葉である」、という点においては意見が一致していました。
意見の相違は聖書の解釈に関するものにすぎませんでした。
ところが、約150年ほど前に、歴史や自然科学に関する研究が、聖書の真理性(聖書に書いてあることが本当であるかどうか)を本格的に疑い始めました。
それに対して、キリスト教徒はさまざまなやりかたで反論しました。
あるキリスト教徒たちは、科学の側から提示された研究結果を覆すことによって、聖書が神様の御言葉であることを証明しようとしました。
これと似た試みを続けている人々は今もたくさんいます。
しかし実は、彼らはそれとは知らないうちに相手側の罠にかかっているとも言えます。
「神様の御言葉である以上、聖書は人間の知性や学問と調和していなければならない」、という考え方を彼らは自明な命題として認めてしまっているからです。
この種の問題についてあれこれ悩み始めると、往々にして他のことが何も手につかなくなり、しかもせっかく費やした努力が徒労となる場合がほとんどです。
これは多数の聖書の読者や研究者が自分で実際に経験してきたことでもあります。
聖書が真理であり神様の御言葉であることは、人間的な考えや学問に基づいて証明されるものではありません。
聖書が真理であるのは、神様はご自分とその御旨を聖書に記す形で人々に告げ知らせてくださったことに基づいています。
ここで問われているのは、信仰です。
そして、信仰とは神様からいただく賜物なのです。
新約聖書の例を通してこのことを考えてみましょう。
どういうわけか、テサロニケの市場を通りかかった人々のうちの何人かは、使徒たちが市場で語っていた福音の中に、「神様は今、自分を招いておられる」、というメッセージを聴き取りました。
福音は人々を神様の御許に招き、信仰へと導きます。
この福音の働きが神様の御業であることを、使徒パウロは深く理解していました。
「これらのことを考えて、わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として――事実そのとおりであるが――受けいれてくれたことである。
そして、この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである。」
(聖書のテサロニケの信徒への第一の手紙2章13節)