ヨハネの第一の手紙3章
3章 信仰と兄弟愛
2章28〜29節 重要な結論
これまでヨハネは正しい信仰と正しい知識について丁寧に説いてきました。「正しい信仰」はその不可欠の要素として、その信仰に基づく「正しい生き方」を含んでいます。義なる神様を正しく知るようになった者は自らの生き方においても義を実現していきたいと願うものです。これは、私たちの信仰生活そのものが神様によって生み出されている証拠でもあります。ヨハネは読者に対して「恐るべき危険」について警告しています。それは「キリストがいつか必ず裁きに来られる」ということです。キリストのうちに終わりまで留まることのできなかったキリスト教徒たちは最後の裁きの時にキリストの御許から追い払われ、主の御前にある安全な「避難場所」を失ってしまいます。これほど明確な形で厳しい警告が述べられている箇所は全聖書を通してみてもほとんど類例を見ません。信仰を欠いたまま教会の集いに形式的に参加しているせいで周囲から「あの人はキリスト信仰者だ」と評価されている人々がいます。ところが、震撼すべきこの世の終わりの騒乱の只中で、彼らはキリストに助けを求めようとするもキリストの御許から追い払われてしまうというのです!これと同じことをキリストも次のように述べておられます。
「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」
(「マタイによる福音書」7章21〜23節、口語訳)
自分が信仰者であることを意識して明言することや耳目を引く奇跡を行うことでさえも、「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」とキリストから断言されてしまう場合には何の役にも立ちません。世間の視点から見ても自分自身の目から見ても「正しい人間」であるはずの多くの者は、にもかかわらず、永遠の滅びへと転落していきます。永遠の命へと至る道は狭く、永遠の滅びへと至る道は広いのです。だからこそ、永遠の命へと導く「道しるべ」を聖書を通してできるかぎり正確に読み取っていく必要があります。私たちキリスト信仰者には、キリストにおいてのみ安全な場所が確保されているからです。「どうか自分が信仰に基づいて正しく生きることができますように」と私たちはキリストに祈り願います。
3章1〜3節 神様の賜物
これまでの奨励の言葉に続いて、今度は神様の大いなる賜物が取り上げられます。そして、その後で再び奨励の言葉が綴られていきます。手紙の書き手は読者たちに語りかけ、彼らとともに喜びを分かち合います。私たちは「神様の子どもたち」と呼ばれます。事実その通りなのですが、それはひとえに神様の大いなる愛のおかげなのです。神様はキリストにおいて私たちのことを「御自分に属するもの」として、すでにこの世において受け入れてくださいました。そればかりか、将来さらに素晴らしいことが私たちを待っています。すなわち、キリストが再びこの世に戻ってこられる再臨の時に、私たちキリスト信仰者は「キリストと似た者」に変えられるのです。その時にはもはや罪も不幸もなく、そこにあるのはただ神様の栄光と愛の到来と臨在ばかりです。次に述べる奨励はこの喜びと重なり合う面があります。この世は神様を知りません。その結果、神様の子どもたちのことも知らないのです。そればかりか、逆に彼らのことを嫌悪したり憎悪したり迫害したりさえします。このような状況におかれた「神様に属する民」が心に刻むべき大切なことがあります。それは「私たちは神様からすでにたくさんの善きものをいただいており、将来はさらに善きものを受けることになる」ということです。
この希望は、私たちがこの世を新たな視点から見つめ直すことを可能にします。
今取り上げる箇所にも、俄かには信じがたいほど多くの重要事項が短い聖句の中に含まれています。それらの興味深い内容をここでかいつまんで見ていくことにしましょう。「キリスト信仰者の生活における神様の御言葉に基づく秩序はどのようなものか」ということにまず注目しましょう。この世においては、人はまず自らの優秀さを周りに十分明示する必要があります。それができた後でようやく栄誉ある社会的地位を獲得することができます。ところが、神様の御国における秩序はそれとはまったく逆の順序になっています。キリストの贖いの血のゆえにのみ私は「神様の子ども」であることが許されており、私自身の行いや活動がなくても私は「神様からの愛を受ける存在」なのです。これが「神様の御言葉に基づく秩序」における出発点となります。これは神様の本質が善そのものであるがゆえに成立することです。その後でようやく私たち自身の信仰生活に関わる具体的な判断や結論についての話題に移ります。すなわち「キリストのゆえに私たちが神様から愛される子どもとなっていることがどのように私たちの生き方に反映していくか」ということです。この秩序を正しく学ばないかぎり、私たちは良心の平和を見いだすことが決してできないでしょう。二番目のポイントは、私たちはここで「来たるべき命」についてあらかじめ少しは知ることができる、ということです。「永遠の命」の世界において私たちはいったいどのような存在になるのでしょうか。また、その命の世界ではどのようなことをするのでしょうか。聖書はこのことについて詳しく説明していません。
この疑問への最良と思われる答えは「私たちはキリストに似た者に変えられる」というものです。これは「コリントの信徒への第一の手紙」15章にも述べられています。死に瀕した金持ちがすでに永遠の命の世界にいるラザロとアブラハムのことを見て彼らであると識別したのと同じように(「ルカによる福音書」16章19~31節)、その時が来ても、知り合いたちが私たちのことをやはり「私たち」と認識する形を私たちはやはり保っています。 しかしその一方では、その時に何かが変わるのも確かです。その詳細は今の私たちにはわかりません。それでも「神様の賜物はこの点でも私たちの想像をはるかに超えるものである」とは言ってよいでしょう。第三に注目すべき点は、すでに学んだことの復習になりますが、「神様に属する者たちにとってこの世は彼らの本来の故郷ではない。それゆえ、彼らがこの世から大いに歓迎されることはほとんどない」ということです。私たちキリスト信仰者はこの世では常に「寄留者」であり「よそ者」であり続けるからです。自分が周りと異質な存在であることを私たちはとりたてて悲嘆するべきではありません。むしろ、愛する王キリストの宮廷に仕える者たち全員に共通する特色が「苦難」であることを思い起こすことにしましょう。
3章4〜10節 罪は避けなければなりません
この手紙の重要な特徴がここにもあらわれています。恵みの約束が提示された後に、視点が正反対の方向に移動するのです。そして、キリスト教信仰に基づいて結論が引き出されることの大切さが再び強調されます。罪は命に関わる危険なことであり、キリストの栄光の輝きとはまったく相容れないものです。キリストがこの世に来られたのは世の罪を取り除くためであって、罪に祝福を与えるためではありません。このことは次の箇所できわめて明瞭に語られています。
「罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。」
(「ヨハネの第一の手紙」3章8〜9節、口語訳)
すなわち、「罪を犯す者は悪魔から出た者であり、義を行う者は神様から出た者である」ということです。これは「神様から生まれた者は罪を犯してはいけない」という意味だけではなく、「神様から生まれた者はそもそも罪を犯すことができない」ということでもあります。ここで思い出しましょう。聖書を学ぶ際に私たちがするべきことは、神様の御言葉をあたかもそれがもともと存在しなかったかのように、それを遠ざけてやり過ごすことではありません。御言葉は最大級の厳格さと明瞭さを兼ね備えています。それを理解するために必要なのは「読む力」だけです。また、いわゆる「大きな罪」と「小さな罪」の間に違いを見つけ出そうとするのは避けるべきです。この箇所はそのような試みに全く議論の余地を残さないからです。「罪が罪であること」に変わりはありません。そして「主人」となるのは二つの選択肢しかありません。悪魔か神様かのどちらかです。人がそのどちらに従っているかは、その人の生き方から窺い知ることができます。「神様の御言葉は相対的なものではなく絶対的なものであること」を正しく理解するならば、この箇所の強調点もおのずと見えてきます。それは「キリスト信仰者とはそもそもいかなる存在か」といった理論的な思索を展開することではありません。この箇所は奨励的な性格を帯びています。一連の厳しい御言葉は、恵みにより「神様の子どもたち」とされている罪人たちに向けられているものです。そのために、「はじめに恵みがあり、それに続いて恵みに結びつく奨励が与えられる」という順序になっているのです。
3章11〜18節 愛とは具体的なものです
「正しい教え」からは「正しい生き方」が必然的に生じてきます。この生き方とは愛です。この「愛」はたんなる概念上のものではなく、日常生活における奉仕や実践的な活動として具体化するものです。これは間違った教えや憎しみからも様々な事象が生じてくるのと似ています。たとえば、旧約聖書の「創世記」に登場するアダムの息子カインは自分の弟であるアベルを殺しました。アベルの生き方が自分の生き方よりも良いものだったからです。こうした嫉妬や憎しみの感情はキリスト信仰者であっても経験するものです。しかしそれに惑わされてはならないし、豊かな愛の流れを堰きとめられてもいけません。神様の視点からすると、憎しみに囚われた人間は、たとえ実際には殺人を行わないとしても「人殺し」に等しい存在になり、神様の御国の外に締め出されてしまいます。愛に溢れた人間はキリストの受難の道を自らの模範として、隣り人に仕えていくように導きを受けます。そして、この愛は苦しんでいる隣り人を前にして自らの心を閉じないようにもしてくれます。
「世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。」
(「ヨハネの第一の手紙」3章17節、口語訳)
この節は豊かな社会で生きている私たちキリスト信仰者に難問を投げかけます。「経済的に豊かな私たちが貧困に苦しんでいる他の人に対して心を閉ざす場合にも、神様の愛が私たちのうちに留まることがありえるのか」という問題です。残念ながら、私たちは苦しむ隣り人に対して心を閉ざすことにすっかり慣れきっています。自宅の戸を閉ざし、テレビのニュースを消して、飢えに苦しむ世界の人々については何も考えないようにします。新しい服は数千円、新品の家具は数万円、新車は何百万円もすることでしょう。新しい家を購入するためにはそれよりもはるかにたくさんの金額を用意しなければなりません。私たちはこのような目的のためならば、たとえそのせいで多少は経済的に厳しくなったとしても躊躇なくお金をつぎ込むことでしょう。ところが、苦しんでいる隣り人や神様の御国の働きのための献金としては5千円でも大金だし、何万円も出すのはまず無理で、まして何十万円なんて到底ありえない、と考えるのが普通のキリスト信仰者なのではないでしょうか。いったい誰が私たちにこのような「金銭感覚」を吹き込んだのでしょうか。
3章19〜20節 神様は私たちの心をご存じです
これは説明がなかなか難しい箇所ですが、次のように理解するとわかりやすいのではないでしょうか。すなわち「キリスト信仰者の兄弟姉妹の愛は各々が自らの賜物を分かち合うように促していく」ということです。自分の受けた賜物を他の人々と分かち合う人は、自分が神様の真理によって支えられ運ばれている身であることをわきまえています。もっとも、そのような態度で生活しているキリスト信仰者が依然としてある種の罪責感に苦しめられる場合もあります。このヨハネの手紙の絶対的な要求に素直に従って、私たちが自らの罪深さを否定しない場合にはなおさらです(1章8節)。しかしながら、神様は私たち人間の心よりもはるかに大きなお方なので、私たちのことをよくご存じであり、御自分の属する者たちのことを憐れんでくださいます。
3章21〜24節 総括
これまでにヨハネは幾つもの奨励を与えてきました。3章の最後の数節において、ヨハネはそれらをまとめています。すなわち、「神様の真理に従う者は主の御前においても物怖じせずに生きることができるし、自分の祈りが主に聴かれることも知っている」ということです。イエス様も次のように言っておられます。
「その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう。その日には、あなたがたは、わたしの名によって求めるであろう。わたしは、あなたがたのために父に願ってあげようとは言うまい。」
(「ヨハネによる福音書」16章23〜26節、口語訳)
神様の真理は単純明解です。私たちキリスト信仰者に与えられている使命はイエス・キリストを信じることであり、隣り人を愛することです。この隣人愛は瞬く間に過ぎ去る風切り音のようなものではなく、キリストの戒めに地道に従っていくことです。そのような信仰生活を送る時に、聖霊様はキリスト信仰者の心のなかで「アーメン」と唱和してくださいます。