ペテロの第一の手紙第3章
苦しみと希望
第2章の後半には「家訓」と呼ばれる奨励の部が始まりました。そこには、様々な立場や環境の中で生活している「キリストに所属する人々」に対して様々な指示が与えられています。第2章では僕(しもべ)の立場にある人々に向けられた奨励を検討しました。今とりあげるのは、まず女性に対して、次に男性に対して与えられている奨励の内容についてです。
3章1〜6節 朽ちることのない美しさ
1〜6節は「妻」に対する指示の内容を教えます。「僕」(奴隷)に対する指示はキリスト信仰者全員にあてはまる生き方を表していますが、これは妻に対する指示の場合も同様に考えることができます。ペテロはここでも人の立ち居振る舞いのもつ大切な意味を強調します。言葉だけでは人の心を動かすことができない場合もありますが、模範的な態度のもたらす影響力は大きいものです。
「木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない」
(「ルカによる福音書」6章44節、口語訳)
このようにイエス様は言っておられます。このたとえの通りに、キリスト信仰者ではない人々は私たちキリスト信仰者のことを、私たちの言葉によってではなく、私たちの行いによって批判的に判断するケースが多いでしょう。そして、これは家庭において特に顕著にあらわれます。妻がキリスト教を信じるようになり、夫に対する彼女の態度が前よりも冷たくなるどころか逆に優しく愛に満ちたものになるならば、夫もまたキリスト信仰者になりやすくなる環境が整えられていくことでしょう。
3〜4節において、使徒ペテロは女性が美しく着飾ること自体を禁じているのではありません。うわべの美しさよりも朽ちることのない真の美しさのほうを大切にするように、と奨励しているのです。謙虚さに彩られた美しさを代表する例として、ペテロはアブラハムの妻サラをあげています。私たちもまたよい行いをするべきです。その際、行いの結果として生じる新しい状況に恐れをなしてはいけません。
ここでふたつのポイントをとりあげることにします。
キリスト教会が誕生して以来、上に述べた「妻に対する指示」に従おうとするあまり、女性信徒から装飾品など外面的な美を取り上げるやりかたも実際に行われたことがあります。しかしそのようなことをしてみたところで、女性信徒の内面の美しさは少しも増しませんでした。現代のイスラム教の例を見てもわかるように、強制的な命令によって女性の頭部を被り物で覆うようにさせることはたしかに可能です。しかしそれによって外面的な事象に人間の関心が向くのをなくすことは、やはり不可能なのです。問題の根はもっとずっと深いところにあるからです。現代においては、人々の関心が嫌気を催すほど外面的なことがらに集中する一方で、内面的なことがらは軽視される傾向があります。今の若者たちは健全な環境の中で育っているとは言えません。彼らは多くの支えを必要としています。
もうひとつのポイントは、今述べたことよりもはるかに深刻です。多くの人にとって、「ペテロの第一の手紙」の教えは現代の自分とはあまり関わりがない、とか、内容が古すぎると感じられるかもしれません。しかしそれも、この手紙の背景にある当時の状況と似た環境の中に自分が置かれるようになると、話はまったくちがってきます。この環境は多くのフィンランド人キリスト信仰者(多くの場合は妻のほう)にとっては辛い現実です。すなわち、自分の配偶者(多くの場合は夫のほう)が神様の御国を無視した生き方をしており、永遠の滅びへの道を歩んでいる、という現実です。このような場合にはどうすればよいのでしょうか。聖書の与える指示は明確です。それは、愛と奉仕と祈りをもって、自分の配偶者(多くの場合は夫のほう)が神様の御国の中に入れる道を少しでも滑らかなものにしなさい、というものです。この問題は多くの家庭において、長期にわたる治療が不可欠であるほどの深い傷になっています。しかし、現実がどれほど辛いものであっても、このことに関しても奇跡を行う力をもっておられる活ける神様が共にいてくださることを忘れてはいけません。
3章7節 夫について
妻にその夫を敬うように教えたペテロは、夫のほうでもその妻を敬うように奨励しています(3章7節)。配偶者に対する悪い態度は祈りの生活を妨げるし、ひいては神様との関係にも悪影響を与えてしまう、とペテロは注意しています。男女に別々の指示を与えるペテロのやりかたは、何であれ「男女差別」に結びつけようとする傾向が強い現代の私たちには馴染みが薄いものに思われるかもしれません。しかしながら、当時においても、ペテロの指示の内容が初期のキリスト教会の教えと同じくらい革命的なものだったことをここで強調しておく必要があるでしょう。男性とまったく同様に、女性もまた神様の恵みに与っている存在であることを、教会は最初から教えてきました。まさしくこの理由から、イエス様はマルタに、彼女の姉妹マリアがただ台所の給仕係としてだけではなく御自分の弟子としても男性の弟子たちとまったく同様に尊い存在であることを教えてくださったのです(「ルカによる福音書」38章42節)。
私たちは、自らのキリスト教信仰の本質を問われるのが自らの家庭においてであることを、とくに強調したいと思います。一番身近にいる人たちから見ても私たちがキリスト信仰者にふさわしい生活を送ろうとしているようには見えない場合には、他の人々から見てもそれは同じでしょう。他所の家では天使のように振る舞っておきながら自宅では悪魔のような態度をとるのは、決してあってはいけないことです。
3章8〜12節 信徒全員に共通する教え
「家訓」の最後に、使徒ペテロは信徒全員に共通して適応される原則について注意深く教えます。それは、悪によって悪に報いず、悪言に対して悪言を返さず、優しい心をもって相手を祝福しなさい、という原則です。この戒めは次の事実に基づいています。すなわち、あなたがたは祝福を受け継ぐ者となるために、あなたがたを侮る者たちを祝福するべく神様に召された者である、ということです。この考え方は「主の祈り」にあるのと同じ教えです。私たちは「主の祈り」で、私たちが他の人々を赦すのと同じように、どうか神様も私たちを赦してくださるように、と願い求めているからです。
「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」
「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」
(「マタイによる福音書」6章12、14〜15節、口語訳)。
「詩篇」34篇、イエス様、そしてペテロの手紙が教えている内容は明瞭です。もしも他の人に対して憎しみやわだかまりを持ち続けて、その人に対して心から罪を赦そうとしないならば、私たちは自ら天の扉を目の前で閉じてしまうことになる、ということです。
「主の祈り」のよく知られた御言葉と同じように、ペテロの伝える御言葉もまた私たちに厳しい選択を迫ります。にもかかわらず、「ペテロの第一の手紙」は、すべての背後に神様の恵みがあることを私たちに教えてくれます。次に述べる順序は大切なものなので、注意深く学んでください。はじめに、神様はキリストにおいて私たちに罪の赦しを与えてくださいました。これがすべての出発点です。そしてその後で、今度は私たちが他の人たちに罪の赦しを与える立場になるのです。
3章13〜17節 苦難と希望
13〜17節でペテロは今までの内容をまとめます。すなわち、人々を恐れるあまり主の戒めに反することを行ってしまい、その結果、いつか神様の怒りに直面しなければならなくなるよりも、むしろ、神様の御心に従って善いことを行うことのほうが、そのためにたとえ苦しむことになるとしても、より優れた生き方である、ということです。もしも私たちが神様の御心に従って生きるのなら、誰も私たちに危害を加えることはできません。なぜなら、神様が私たちの面倒を見てくださっているからです。パウロもこれと同じ考え方を「ローマの信徒への手紙」で次のように提示しています。
「それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。
だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。
だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。
だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」
(「ローマの信徒への手紙」8章31〜39節、口語訳)
人が苦しむことになる理由や原因は様々です。自らの罪のせいで苦しむことになる場合も多いことでしょう。しかし、もしも私たちが「キリスト信仰者」であるがゆえに苦しむことになる場合には、良心の呵責を感じることなく、正しくあろうとするがゆえに苦しみを受ける者でありたいものです。キリスト教信仰については他の人々に宣べ伝える用意がいつでもできていることが望ましいです。しかし、その際にも不必要なほど厳しい話し方をしたり、喧嘩腰になったりはしないように、くれぐれも注意しなければなりません。
3章18〜22節 キリストの苦難と高挙
18〜22節で、私たちの考えはふたたびキリストに引き戻されます。これらの節を読むときに思い浮かぶのは「使徒信条」です。キリストは死に至る苦しみを受け、陰府で宣べ伝え、天に昇り、父なる神様の右の座に着かれました。この箇所には、誕生間もない初期の教会ですでに用いられていた信仰告白や賛美歌が引用されているものと思われます。現代の私たちにまで引き継がれてきた「使徒信条」とは、まさしくこういった具体的な聖書の箇所を基にして形を整えられてきたものなのです。
18節には、理解が容易ではない一組の用語「肉において」と「霊において」が登場します。これらの用語の意味するところは何でしょうか。それについては様々な説明を与えることができるので、決定的な解答を見つけるのは困難です。ここではひとつの説明を解答例としてあげておきます。それによれば、この箇所における「肉」とは、私たち人間がこの世で生きている間にその只中に置かれている「現実の状態」を指しています。そして、「肉」と対照的な言葉である「霊」とは、私たちが死んだ後に始まる「真実の状態」を指しているのです。このように考えるとき、18節が言わんとすることは次のように表現できるでしょう。イエス様はこの世で人間として殺されました。イエス様は他の人間たちと同じようにして死なれたのです。ところが、死んだ後に奇跡が起きました。死者たちは皆、死後は死の支配下に置かれます。しかし、イエス様の場合はちがっていました。神様はイエス様をよみがえらせてくださったのです。これは、イエス様が死に打ち勝ったこと、また、神様の御心によって今もこれからも永遠に生きておられることを意味しています。内容的に難しいこの18節を理解するためには、「ペテロの第一の手紙」4章6節も合わせて読み込む必要があります。
「死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである。」
(「ペテロの第一の手紙」4章6節、口語訳)
19節には、キリストが「獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた」(口語訳)とあります。宗教改革者マルティン・ルターはこの節を新約聖書の中でも最も難易度の高い箇所であるとみなし、明瞭な説明を与えることができませんでした。この節からは次のような三つの疑問が生じるからです。
1)いつイエス様は宣べ伝えたのでしょうか?人としてこの世にお生まれになる前だったのでしょうか?それとも、死んだ後と復活する前の間の時期だったのでしょうか?あるいは、復活の後と天に昇られる前の間の時期だったのでしょうか?二番目と三番目は、そのどちらもが可能な選択肢であると考えられます。
2)誰に対してイエス様は宣べ伝えたのでしょうか?堕落した天使たちに対してでしょうか?天使たち一般に対してでしょうか?ノアの家族に対してでしょうか?それとも、陰府の住民全員に対してでしょうか?この箇所の文脈に基づくと、最後の二つの選択肢があり得るものである、と言えます。
3)何をイエス様は宣べ伝えたのでしょうか?救いでしょうか?それとも敵に対する勝利でしょうか?一番目の選択肢は上掲の「ペテロの第一の手紙」4章6節と調和するように理解することも可能です。この説によれば、イエス様が陰府で宣べ伝えたのは福音であり、宣べ伝えた相手は、生前に福音を聞く機会のなかった人々です。しかし、これら3章19節と4章6節は互いに異なる内容を語っています。3章19節が意味しているのは、キリストが陰府で宣べ伝えたメッセージは悪魔の支配に対する勝利であった、という説明が最も有力であると思われます。このメッセージによって使徒ペテロは手紙の読者を慰めようとしたのでしょう。
20節では不思議なことが語られます。ノアが救われたのは「水を通して」でした。「水によって」すなわち「洪水によって」ではなかったのです。普通だったら後者のように理解するところでしょう。ペテロが言いたいのは、まさしく「水」がノアを悪人たちから救ったということです。人間の罪こそが真の危険なのであり、神様はノアをそれから救おうとされたのです。それと同じように、「洗礼の水」はキリスト信仰者と、神様を信じない人々との間に境界を作ります。
「この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである」
(「ペテロの第一の手紙」3章21節、口語訳)。
ここで言う「からだの汚れを除くこと」とは、普通の意味で体を洗うことではありません。手紙の受け取り手たちは洗礼を普通の入浴と混同しませんでした。使徒ペテロが意味しているのは、罪を取り除こうとする人間自身の努力についてなのです。洗礼では体を洗ってきれいにすることがポイントなのではありません。そんなことをしても誰一人救われないからです。しかし、洗礼は救います。なぜなら、洗礼は神様が保証してくださる「明らかな良心」についての契約だからです。ギリシア語で「契約」を意味するこの言葉(エペローテーマ)は、元来「願うこと」を意味していました。しかし、時代が下るとともに、この言葉は取引の際に交わされる契約を意味するようになりました。
日曜礼拝説教「死者のための祈り」神学博士 吉村博明 宣教師、第一ペテロ3章18-22節から4章6節まで 、(スオミ・キリスト教会のホームページへ)