聖書はキリスト教の聖典です。 キリスト教の信仰によれば、神様は聖書を通して人間に話しかけてくださいます。 そして、人間とは何か、神様に対する人間の立場はどのようなものか、神様は人間から何を期待しておられるか、聖書によって教えてくださいます。
聖書には旧約聖書と新約聖書という二つの部分があります。 これらは互いに密接に関わりあっています。 両方の書物を、神様は人々の手を通して私たちにお与えになりました。 聖書はひとつのまとまった内容を有しています。 はじめに天地と人間の創造について、次に人間の罪の堕落について、また、神様の御許に人間が戻れる道を用意するために神の御子がこの世に遣わされたことなどについて、聖書は語ります。 聖書は天地の創造の記述に始まって、新しい天地の創造の記述をもって閉じられます。 この世の終わりには最後の裁きがあり、その時この世は消え去ります。 神様は新しい世界を創造なさり、キリスト信仰者をそこへ連れて行ってくださいます。
聖書を文字によって記したのは人間です。 その意味で、聖書は完全に人間の手になる作品です。 一方、キリスト教の信仰によれば、聖書は神様の啓示(メッセージ)でもあります。 その意味で、聖書は完全に神様の御言葉です。
神様は聖書の御言葉を「文字の記された書物」という多くの点で脆弱な形式を用いて人間にお与えになりました。 神様は聖書のメッセージを伝える際に、たとえば火文字のような特殊な形を使うことも、あるいは天使を直接派遣することも、やろうとすればできたはずです。 ここで思い出すのは、神様の御子がこの世に生まれてベツレヘムの飼い葉桶の中に寝かされた時にも、神様(イエス様)は非常に弱々しく脆い形をとって私たち人間の近くに来てくださった、ということです。 どうやら、これが神様のやりかたのようです。
なんともみすぼらしく見えるやりかたで神様の御子や御言葉が人間に与えられたのは、賢者や金持ちには認めがたいことかもしれません。 それとは逆に、外見のみすぼらしさに親しみを感じるであろう弱者や貧乏人にとっては、それらの贈り物は他の何者にも代えがたい宝物となることでしょう。
詳しく見る、信仰のABC、第2章 聖書
「あなたのみ言葉はわが足のともしび、 わが道の光です。」 (聖書の詩篇119篇105節)
聖書の「ヨハネによる福音書」の素晴らしい最初の言葉の中に、聖書の核心となるメッセージが書かれています。 それは、神様はこの世界をキリストを通して創造された、ということです。 しかし、最初の人間たちの罪の堕落の不幸な結果として、この世は暗闇に支配されるようになってしまいました。 この暗闇の中では、人間は誰ひとり自分の力によって神様を見い出すことができません。 神様を描くことも、神様の御声を聴くことも、神様に助言を願うこともかないません。 すべての人間が置かれていたこの絶望的な状況を変えてくださったのが、この世にお生まれになった御子イエス・キリストです。 なぜなら、「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」からです(ヨハネによる福音書1章5節)。 この光とは、キリストのことを指しています。
キリスト教の信仰によれば、キリストは世を照らす光であり、神様の御許へと通じる唯一の道です。 この光は、神様の御言葉である聖書を通して私たちのところに来てくださいます。 神様は、私たち人間に対して直接話しかけたりはなさいません。 神の御霊なる聖霊様は、活ける力に満ちた御言葉を通して話しかけてくださるのです。
現代に生きる私たちもまた、神様を描くことも、神様の御声を聴くことも、神様から助言をいただくこともできません。 しかし、私たちには神様の御言葉の光があります。 この光が、栄光に輝く天の御国の我が家へと私たちを導きます。
「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。 わたしたちはその栄光を見た。 それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」 (聖書のヨハネによる福音書1章14節)
この世には「聖典」と呼ばれる書物がたくさんあります。 聖書はそのうちの一冊にすぎません。 聖書よりもはるかに古い時代に書かれた本もあるのに、どうしてこの聖書だけがキリスト教の聖典とみなされるのでしょうか。
以下に記すことは、理性による論理的帰結でも基礎付けでもありません。 実は、キリスト信仰者は、キリスト教信仰を疑っている人に対して、 「他の諸宗教のいわゆる聖典群とは異なって、聖書のみが真の神様の御言葉である」 ということを、どれほど理性的に説明しようとも、相手が納得のいくような形で証明することはできません。 キリスト信仰者は、聖典とされる多くの古文書を比較検討した上での結論に基づいて聖書を聖典として信じるようになったのではありません。 たとえば、多数の候補の中からたった一つの携帯電話を選んで購入することとはわけがちがいます。 初期のルター派の神学者たちは聖書の聖典性の意味について、 「聖書自体が読者に「聖書が神様の御言葉であること」を確信させる力をもっている」、 という聖書の独自性を鋭く指摘しました。 聖書の聖典としての正当性は、教会の決定事項や、理性的な考え方や、最新の学問的研究の成果などに基づくものではなくて、まさに神様の偉大なる力に依るものである、ということです。
そのゆえに、聖書を読む人間が、「神様は聖書を通して今自分に話しかけておられる」、と確信することが現在でも起こり得るのです。 その一方では、聖書を読んでもこのような確信に至らない人たちもいます。 聖書を読む人の中には信じるようになる人もいれば、信じない人もいるわけです。 キリスト教信仰はこの現象について、神様の光はすべての人の心に一様に差し込むものではない、という説明を与えています。
「知者はどこにいるか。 学者はどこにいるか。 この世の論者はどこにいるか。 神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。 それは、神の知恵にかなっている。 そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。」 (聖書のコリントの信徒への第一の手紙1章20〜21節)
本当です。 しかし、その内容を人間の考える基準で計ろうとするのは大きな誤りです。
何百年もの間、互いに違う考え方をするキリスト教徒たちがいましたが、「聖書に書かれていることは本当であり、聖書は神様の御言葉である」、という点においては意見が一致していました。 意見の相違は聖書の解釈に関するものにすぎませんでした。
ところが、約150年ほど前に、歴史や自然科学に関する研究が、聖書の真理性(聖書に書いてあることが本当であるかどうか)を本格的に疑い始めました。 それに対して、キリスト教徒はさまざまなやりかたで反論しました。 あるキリスト教徒たちは、科学の側から提示された研究結果を覆すことによって、聖書が神様の御言葉であることを証明しようとしました。 これと似た試みを続けている人々は今もたくさんいます。
しかし実は、彼らはそれとは知らないうちに相手側の罠にかかっているとも言えます。 「神様の御言葉である以上、聖書は人間の知性や学問と調和していなければならない」、という考え方を彼らは自明な命題として認めてしまっているからです。
この種の問題についてあれこれ悩み始めると、往々にして他のことが何も手につかなくなり、しかもせっかく費やした努力が徒労となる場合がほとんどです。 これは多数の聖書の読者や研究者が自分で実際に経験してきたことでもあります。
聖書が真理であり神様の御言葉であることは、人間的な考えや学問に基づいて証明されるものではありません。 聖書が真理であるのは、神様はご自分とその御旨を聖書に記す形で人々に告げ知らせてくださったことに基づいています。 ここで問われているのは、信仰です。 そして、信仰とは神様からいただく賜物なのです。
新約聖書の例を通してこのことを考えてみましょう。 どういうわけか、テサロニケの市場を通りかかった人々のうちの何人かは、使徒たちが市場で語っていた福音の中に、「神様は今、自分を招いておられる」、というメッセージを聴き取りました。 福音は人々を神様の御許に招き、信仰へと導きます。 この福音の働きが神様の御業であることを、使徒パウロは深く理解していました。
「これらのことを考えて、わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として――事実そのとおりであるが――受けいれてくれたことである。 そして、この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである。」 (聖書のテサロニケの信徒への第一の手紙2章13節)
聖書を読み始める際に一番良い方法は、福音書をひとつ選んで、それを初めから終わりまで読むことです。 どの福音書から読み始めるかを決めるのは簡単ではないかもしれません。 どの福音書にもそれぞれ独自の魅力的な特徴があるからです。 「マルコによる福音書」は素朴な美しさを湛えています。 荒削りの魅力がそこにはあります。 「ヨハネによる福音書」を繙くと、暖かく美しく彩られた世界が待ち受けています。 ともあれ、福音書から読み始めてください。 まず、それら四つの福音書をすべて通して読んで、それから順々に新約聖書の他の書物にも手を伸ばすとよいでしょう。 ひとつの書物を選んでそれを初めから終わりまで読む、ということを自分のペースに合わせて毎日続けていくのです。
新約聖書を全部通して二回ぐらい読んだ後には、旧約聖書に移りましょう。 最初の「創世記」とその次の「出エジプト記」は楽に読みこなせるでしょう。 しかし、その後の書物に記されている当時のユダヤ人に対する律法の諸規定は、あなたにはすいぶん奇妙なものに思われるかもしれません。 それらの律法は、ユダヤ人以外の人にとっては直接は関係がないからです。 旧約聖書は伝統的に「律法」と「預言者」とその他の「諸書」の三部に分けられます。 「預言者」の部を読むときには、いつどのような歴史的状況の中でそれぞれの預言者が活動したかを学ぶのが大切です。 そのことについて解説書などを参照する必要も出てくるかもしれません。 しかし、その努力は無駄にはなりません。 旧約聖書と同じく、新約聖書もまた真の宝箱だからです。
「神の言葉はみな真実である、 神は彼に寄り頼む者の盾である。」 (聖書の箴言30章5節)
聖書はいかようにも解釈できるものです。 しかし、恣意的な聖書解釈は解釈者にとって褒められるような行為ではありません。 適切な解釈をするためには、いくつかの基本事項を押さえておく必要があります。
私たちが読んでいる聖書は何百年も昔に生み出されたものです。 聖書の解釈に興味をもつ人がまず考えるべき問題は、聖書に含まれている一連の書物はそれを初めて聴いた当時の人々によってどのように理解されたのか、ということです。
たとえば、旧約の預言者エレミヤは当時の多くの預言者のうちでただ一人、「神様をないがしろにした罪深さのゆえに、ダヴィデの都エルサレムはいずれ崩壊することになるだろう」、と預言しました。 彼のこの厳しいメッセージを当時の人々はどのように受け止めたのでしょうか。
エルサレムの破滅が現実のものとなった後の悲惨な状況下で、当時の人々は素晴らしい未来が必ず到来することを約束するイザヤ書40章の預言を読みました。 その時、彼らはこの預言についていったい何を思ったことでしょうか。
新約聖書のヨハネの黙示録の最初の読者たちは、この書物の中の激烈な預言の数々をどのように解釈したのでしょうか。
これらの質問の答えを見つけるためには、聖書と関係文献を幅広く読む向学心をもち、信頼できる専門家に助言を仰ぐ必要が出てきます。 たしかに大変ですが、やりがいのある作業です。
聖書をそれが書かれた歴史的状況に基づいて理解することは、現代人が日常生活の中で聖書を理解する手がかりをいろいろと与えてくれます。 過去と現在の間には、依然として多くの共通点があるからです。 キリスト信仰者は聖書をひとつのまとまりとしてとらえ、キリストを聖書解釈の中心軸に据えて読んでいきます。 読めば読むほど、聖書に対する理解は少しずつ深まっていくものです。 それとともに、何百年間もかけて生み出されてきた聖書の中のそれぞれの書物は、その「本来の姿」を見せてくれるようになります。 本来聖書は全能の神様があなたに宛てて書いてくださった愛の手紙なのです。 聖書に親しむあなたはいずれこのことに気づくことになるでしょう。
「すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。 そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。 それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」 (聖書のコリントの信徒への第二の手紙5章19〜21節)