テモテへの第一の手紙5章 やもめやその他の境遇の人々への生活指針
助けを必要としているやもめたち 「テモテへの第一の手紙」5章1〜8節
「老人をとがめてはいけない。むしろ父親に対するように、話してあげなさい。若い男には兄弟に対するように、年とった女には母親に対するように、若い女には、真に純潔な思いをもって、姉妹に対するように、勧告しなさい。」
(「テモテへの第一の手紙」5章1〜2節、口語訳)
上の箇所はいろいろな状況で役に立つ教えです。あなたのおかれた状況をこの聖句が適用できるようなものにあてはめてみてください。そうすればあなたが今どのように行動するべきかがわかってくるはずです。たとえば説教者はあたかもある特定の知り合いに話しかけるかのようにして聴衆に語りかければよいのです(「ローマの信徒への手紙」16章13節も参考になります)。
「老人」はギリシア語で「プレスビュテロス」といい、5章17節の「長老」と同じ単語です。また「年とった女」は普通のやもめ(5章3〜8節)だけではなく教会に登録されたやもめ(5章9〜15節)のことも意味します。
当時の社会にはいわゆる「中年」という概念が存在しなかったため、人間は「若者」時代のあとはすぐそのまま「老人」時代に移行しました(4章12節とも比較してください)。
「真に純潔な思いをもって」(ギリシア語で「エン・パーセー・ハグネイアー」)は重要な指摘です。当時の社会では男性と女性の間の関わり合いは現代ほど一般的ではなく(「ヨハネによる福音書」4章27節。「テモテへの第二の手紙」3章6〜7節も参考になります)、意地の悪い噂話はいともたやすく広められていくものであるからです。
「やもめについては、真にたよりのないやもめたちを、よくしてあげなさい。」
(「テモテへの第一の手紙」5章3節、口語訳)
教会は「真にたよりのないやもめ」の世話をしました(5章3、16節)。「よくしてあげなさい」はギリシア語で「敬う」という意味の動詞「ティマオー」の命令形です。上節の口語訳のようにこの単語には「援助する」という意味合いもあります。なお5章17節にはこの動詞と共通する派生をもつ名詞「ティメー」が「尊敬」という意味で用いられています。
250年頃のローマの教会にはやもめや助けが必要な人が約1500人いたことが知られています。
教会から援助を受けられるという特典は、教会に属さないやもめたちも教会に近づくきっかけを与えました。教会からの援助を獲得するためにやもめの親戚たちが彼らの世話を故意に放棄することさえ起こりました。やもめへの援助が不正に拡大利用されないようにするために、教会は援助を受けることを申し込んだやもめたちのことを吟味しなければなりませんでした。
「やもめに子か孫かがある場合には、これらの者に、まず自分の家で孝養をつくし、親の恩に報いることを学ばせるべきである。それが、神のみこころにかなうことなのである。」
(「テモテへの第一の手紙」5章4節、口語訳)
やもめの子や孫には自分の母親あるいは祖母を助ける義務があります。このことは二つのやりかたで基礎づけられています。第一に、この援助は彼ら自身が若い頃に両親や祖父母から受けた援助に対して報いることです。第二に、この援助は「神のみこころにかなうこと」です。
当時の社会では婚礼の際に花嫁の親が彼女に持参金をもたせて花婿のもとに送り出す習慣がありました。そして持参金を受け取った花婿の親戚たちは、花嫁が後にやもめとなった時に彼女の世話をする義務を負うという法的な規定がありました。
やもめの重要な使命は祈ることでした(5章5節)。「ルカによる福音書」にはアンナというやもめについての記述があります。
「また、アセル族のパヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。彼女は非常に年をとっていた。むすめ時代にとついで、七年間だけ夫と共に住み、その後やもめぐらしをし、八十四歳になっていた。そして宮を離れずに夜も昼も断食と祈とをもって神に仕えていた。」
(「ルカによる福音書」2章36〜37節、口語訳)
当時、やもめは人々から軽んじられる社会的立場にありました。彼らは周囲から見捨てられた人々だったのです。旧約聖書には生活に必要な収入をやもめにも保証することを目的とした様々な規定がありました(「申命記」16章11節、24章17〜21節。「イザヤ書」1章16〜17節も参考になります)。
「あなたがたのうちに分け前がなく、嗣業を持たないレビびと、および町の内におる寄留の他国人と、孤児と、寡婦を呼んで、それを食べさせ、満足させなければならない。そうすれば、あなたの神、主はあなたが手で行うすべての事にあなたを祝福されるであろう。」
(「申命記」14章29節、口語訳)
エルサレムの最初の頃の教会に設立されたディアコニア職はやもめを支援するためであったことをここで思い起こしましょう(「使徒言行録」6章1〜7節)。次の「ヤコブの手紙」の箇所も参考になります。
「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。」
(「ヤコブの手紙」1章27節、口語訳)。「これに反して、みだらな生活をしているやもめは、生けるしかばねにすぎない。」
(「テモテへの第一の手紙」5章6節、口語訳)
この節は売春婦に身を落としたやもめのことを指していると思われます。当時、売春は親戚同士の助け合いのネットワークから切り離された独り身の女性にとって生活費を得るために残されたほとんど唯一の手段でした。
「もしある人が、その親族を、ことに自分の家族をかえりみない場合には、その信仰を捨てたことになるのであって、不信者以上にわるい。」
(「テモテへの第一の手紙」5章8節、口語訳)
信仰というものがたんなる教義項目ではなく、日々の生活の中に見てとれるようにならなければならないものであることをこの節は教えています。第四戒(「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。」(「出エジプト記」20章12節、口語訳))に従おうとしない人は霊的に(信仰的に)死んでいるのです(「ヨハネの黙示録」3章2節。「マルコによる福音書」7章10〜13節、12章38〜40節も参考になります)。
霊的に死んでいる人は不信仰者以上にたちの悪い存在であるとさえ言えます。「自分は霊的に(信仰的に)生きている」と思い込んでいるため(「エフェソの信徒への手紙」4章17〜19節)、「自分には悔い改めなど必要ない」と誤解しているからです(「ペテロの第二の手紙」2章21〜22節)。
やもめたちの教会での職務 「テモテへの第一の手紙」5章9〜16節
60歳以上のやもめは再婚することをあきらめて(5章9節)教会への奉仕に専念することができました。彼女たちはそのために「初めの誓い」を行いました(5章12節)。
「やもめ」の職務内容には祈り(5章5節)、奉仕(5章10節)、家庭訪問(5章13節)が含まれていました。200年代にはやもめの職制にかかわる問題が起きてきました。例えば彼女たちの一部は教会の霊的な指導者の地位を欲するようになったのです。それとともにやもめの職制はなくなりました。教会教父たちはやもめの職制についての記述を残しています。この職制は現代のディアコニア職に該当します(「使徒言行録」9章36〜41節も参考になります)。
後に「やもめ」とみなされる年齢制限は50歳にまで引き下げられました(5章9節と比較しましょう)。
パウロは5章14節で「若いやもめは結婚して子を産み、家をおさめ、そして、反対者にそしられるすきを作らないようにしてほしい」と述べています(3章2、12節も参考になります)。ですから「ひとりの夫の妻であった者」(5章9節)とは夫に対して妻として忠実であり続けたやもめという意味になるでしょう。
客人の足を洗うのは僕の仕事でした(5章10節。「ヨハネによる福音書」13章4〜5節や「ルカによる福音書」7章44節も参考になります)。この仕事は他の人々に対して自らを低める態度を要求するものでした。
若いやもめの怠惰さや暇つぶし(5章13節)はいとも容易に他の悪徳に結びついていきます。
「彼女たちのうちには、サタンのあとを追って道を踏みはずした者もある。」
(「テモテへの第一の手紙」5章15節、口語訳)
この節はグノーシス主義に転向した若いやもめたちのことを示唆しているものと考えることもできます。サタンのあとを追うことは異端に陥ることを意味しています。
「女の信者が家にやもめを持っている場合には、自分でそのやもめの世話をしてあげなさい。教会のやっかいになってはいけない。教会は、真にたよりのないやもめの世話をしなければならない。」
(「テモテへの第一の手紙」5章16節、口語訳)
教会によるやもめの支援は本当に支援が必要なやもめたちだけのためであることをこの節はふたたび強調しています(5章3、8節)。
パウロの教えは現代社会においても重要になる視点を提供します。それは困窮さの度合いに応じて支援の量も変えていくべきであるという考え方です。全員に等しく分配される社会福祉の経済的な利益は受け取る側の人々の間に存在する経済力の格差を是正するものではなくなっています。社会福祉の分配を適切に管理しないかぎり、社会福祉を本当に必要としている人が受けるはずの利益を他の人々が濫用するのを助長することになりかねません。パウロはキリスト信仰者の内にも強欲で自己中心的な「古い人」が巣食っていることをよく知っていました。それゆえ教会は支援の分配を監視しなければならないのです。
社会的弱者(やもめなど)の親戚たちは「社会的弱者の世話は社会がするべきだ」という考え方を都合よく引き合いに出して自らの責任を回避するべきではありません。
教会を指導していくための手引き 「テモテへの第一の手紙」5章17〜25節
「よい指導をしている長老、特に宣教と教とのために労している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしい者である。」
(「テモテへの第一の手紙」5章17節、口語訳)
教会の長老たちの大多数は「平信徒」でした。彼らはそれぞれ自分の仕事をこなしつつ教会の指導にもあたっていたのです。これは海外宣教の多くの場所で今日でもよく見受けられることです。しかしその一方では福音の宣教に専念できる長老たちもいました(「使徒言行録」18章5節)。この場合、教会は彼らの生活費を賄わなければなりませんでした。
「教会を指導する長老」と「教えに専念する長老」という二種類の長老が存在したことを上掲の節は示唆していると解釈されることが時折あります。確実に言えるのは長老が同時に指導者でもあり教師でもあったということです。おそらくこの節でパウロは宣教者としてフルタイムで活動している長老たちのことを指しているのでしょう。
この節は一般的に年寄りの男性たち(やもめと同様に(5章3節)支援を必要としている教会員たち)について述べているという説明もなされています。この場合「二倍の尊敬」とは「二倍の支援」を意味していることになるでしょう。しかしこの解釈は長老たちが教会職に就く者たちに按手を施すという5章22節の記述と調和しません(「コリントの信徒への第一の手紙」9章14節、「ガラテアの信徒への手紙」6章6節も参考になります)。
とはいえこの「二倍の尊敬」には経済的な支援も含まれているのはたしかです。
「聖書は、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」また「働き人がその報酬を受けるのは当然である」と言っている。」
(「テモテへの第一の手紙」5章18節、口語訳)
この節に引用されている聖句は「申命記」25章4節および「ルカによる福音書」10章7節にあるイエス様の言葉に由来しています。「テモテへの第一の手紙」が書かれた当時、ルカはおそらく福音書をまだ書いてはいませんでした。一連の福音書が書かれる以前にイエス様の教えとイエス様にまつわる出来事の数々とが文書としてまとめられたものがすでに存在していたのです(「ルカによる福音書」1章1〜4節も参考になります)。
パウロは「申命記」の同じ箇所を「コリントの信徒への第一の手紙」9章9節でも引用しています。
「長老に対する訴訟は、ふたりか三人の証人がない場合には、受理してはならない。」
(「テモテへの第一の手紙」5章19節、口語訳)
教会の指導者たちは周囲からとりわけ厳しい目で見られたり嫉妬されたりしました。その結果、彼らはいわれのない非難を受けることもありました。指導者たちに対する訴訟では彼らをたんに非難するだけでは不十分で、二人か三人の証人が必要とされました。モーセの律法も同じことを特に重大犯罪の案件に関して要求しています(「申命記」17章6節、19章15節。「コリントの信徒への第二の手紙」13章1節も参考になります)。
「罪を犯した者に対しては、ほかの人々も恐れをいだくに至るために、すべての人の前でその罪をとがむべきである。」
(「テモテへの第一の手紙」5章20節、口語訳)
この節は教会の指導者を叱責することについて述べていると思われます。叱責は長老たちの面前で行われました。罪が公然のものである場合にはそれに対する叱責も公然となされなければなりませんでした(「マタイによる福音書」18章15〜17節、「ガラテアの信徒への手紙」2章11〜14節)。
「わたしは、神とキリスト・イエスと選ばれた御使たちとの前で、おごそかにあなたに命じる。これらのことを偏見なしに守り、何事についても、不公平な仕方をしてはならない。」
(「テモテへの第一の手紙」5章21節、口語訳)
テモテは公正でなければなりませんでした。信仰にかかわる霊的な事柄を指導する時にとりわけ重要なのは公平さです(「ローマの信徒への手紙」2章11節)。しかし特定の人々を優遇するという不公平が現代でもしばしば起きているのはたいへん残念なことです。
「軽々しく人に手をおいてはならない。また、ほかの人の罪に加わってはいけない。自分をきよく守りなさい。」
(「テモテへの第一の手紙」5章22節、口語訳)
按手を授ける者は按手を受ける者について責任を負います。按手を受けて教会の職務を委ねられた者が不適格であることが明らかになった場合、按手を授けた者が按手を受けた人物の適格性をあらかじめ十分に吟味しなかったことになるからです(3章10節)。
上掲の節は罪の赦しについて述べているという説明も提示されています。200年代には罪の赦しに関連して按手が行われたことが知られています。しかしこのようなやり方がすでに60年代に用いられていたとは考えにくいです。パウロは他の箇所でも按手を教会の職務への任命に関連付けて述べています(4章14節、「テモテへの第二の手紙」1章6節)。
「(これからは、水ばかりを飲まないで、胃のため、また、たびたびのいたみを和らげるために、少量のぶどう酒を用いなさい。)」
(「テモテへの第一の手紙」5章23節、口語訳)
この節は酒に酔うことを聖書的に正当化するために引き合いに出されたこともある箇所です。手紙の書かれた当時、水はしばしば腐っていました。しかしぶどう酒は水よりも良く保存が効き、薬としても用いられました。
この節の背景にはグノーシス主義的な禁欲主義が関係していたとも考えられます。グノーシス主義者たちはアルコールの使用をまったく認めていませんでした。それゆえテモテがまったく酒を飲まなかったことはグノーシス主義の禁酒の要求へのある程度の迎合とみなされたのかもしれません。
旧約聖書にもぶどう酒をまったく飲まなかった聖者たちがいました。ダニエルとその仲間(「ダニエル書」1章12節)そしてレカブびと(「エレミヤ書」35章)です。
当時、ぶどう酒の使用はキリスト信仰者たちの間でも意見の分かれる問題であり、一部の人々にとっては「躓き」となっていました(「ローマの信徒への手紙」14章21節)。ここでパウロのとった立場は明瞭です。私たちは飲み食いすることやそれを避けることによっては救われません。とはいえ自らの有する自由を行使することで「弱いキリスト信仰者たち」をことさら苛立たせてもいけないのです(「ローマの信徒への手紙」14章22〜23節、「コリントの信徒への第一の手紙」8章7〜13節、10章23〜33節)。
「ある人の罪は明白であって、すぐ裁判にかけられるが、ほかの人の罪は、あとになってわかって来る。それと同じく、良いわざもすぐ明らかになり、そうならない場合でも、隠れていることはあり得ない。」
(「テモテへの第一の手紙」5章24〜25節、口語訳)
上掲の箇所はやはり長老に関連しているものと思われます。教会の指導者を選ぶ時には、その人物について目に見える部分は10%にすぎず残りの90%は水面下にあるという「氷山の一角」という視点が大切になります。外面的には完全に見える人物に薄暗い秘密が隠されていることもあります。しかしその一方では、ある人物の賜物は他の人々の賜物とは異なり、なかなか人の目に見える形では現れないという場合もあります。
神様はすべてを見通されています。何事も神様から隠し通すことはできません。たとえ私たち人間がまちがった評価を下したとしても、私たちの行いが良いか悪いかにはかかわりなく神様は常に正しいお方なのです。