テモテへの第一の手紙

執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

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「テモテへの第一の手紙」ガイドブック

聖書の引用は口語訳によっています。 「1章5節」などのように章節のみが記されているものはそれが「テモテへの第一の手紙」からの引用であることを示しています。 日本語訳では一部表現などを編集し、聖書の箇所を適宜明示しています。 聖書の原語にかかわる記述箇所はすべて原書(ギリシア語新約聖書とヘブライ語旧約聖書)に遡って内容を確認しています。


内容一覧

序論および「テモテへの第一の手紙」1章
異端の教えに対する警告

「テモテへの第一の手紙」2章
キリスト教会に与える生き方の指針

「テモテへの第一の手紙」3章
牧師の職務とそれを遂行するために必要とされる諸条件

「テモテへの第一の手紙」4章
惑わされてはいけない!

「テモテへの第一の手紙」5章
やもめやその他の境遇の人々への生活指針

「テモテへの第一の手紙」6章
職務を忠実に果たすことへの奨励


牧会書簡および「テモテへの第一の手紙」についての概説

牧会書簡

「テモテへの第一の手紙」「テモテへの第二の手紙」「テトスへの手紙」というパウロの三通の手紙は合わせて「牧会書簡」(英語でPastoral epistles)と呼ばれています。これらの手紙には教会を教え導いていくための様々な指針が記されています。牧会する「牧者」(英語でPastor)という言葉は羊飼いを意味するラテン語に由来しています。これらの手紙は1700年代以来「牧会書簡」と呼ばれてきました。

元々これらの手紙は教会宛のものではなく二つの教会の指導者(テモテとテトス)宛のものでした。とはいえこれらは例えば「フィレモンへの手紙」のような普通の個人宛の手紙ではなく、教会宛の手紙と個人宛の手紙の中間に位置するような性格をもっていました。

テモテとテトスは使徒ではなくパウロの同僚であり、パウロの始めた伝道を受け継いだ人々でした。彼らのような伝道の継承者たちはすでにパウロの存命中にもしばしばパウロの「代行者」の役割を担いました。

これらの手紙は新約聖書の正典(カノン)の中に入れられました。それは聖霊様がこれらの手紙を通してキリスト信仰者たちの教会生活についての重要な指示を与えておられることを世界の全キリスト教会が一致して公式に認めたからです。

牧会書簡のテーマを総括する鍵となるのは次に引用する「テモテへの第一の手紙」3章15節であると言えましょう。

「万一わたしが遅れる場合には、神の家でいかに生活すべきかを、あなたに知ってもらいたいからである。神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである。」
(「テモテへの第一の手紙」3章15節、口語訳)

牧会書簡には教会生活が神様の御言葉に基づく堅固な礎の上に形成されるために必要な様々な指示が含まれています。

牧会書簡の主旨は異端の教えから正しい教えを守ることです(「テモテへの第一の手紙」6章3節)。これらの手紙に共通して用いられている術語にギリシア語で「エウセベイア」(「テトスへの手紙」1章1節)という言葉があり、これは日本語では「宗教」とか「信仰心」などと訳せます(口語訳では「信心」と訳されています)。

1807年ドイツの神学者フリードリッヒ・シュライエルマッハーは「テモテへの第一の手紙」がパウロの書いたものではないと主張しました。1835年F. C. バウワーは「テモテへの第二の手紙」や「テトスへの手紙」もパウロの純正の手紙ではないという見解をとりました。その後もこの問題をめぐって多くの議論や論争が繰り広げられてきました。今日の大多数の研究者は、これら三つの手紙の執筆者はパウロではないという立場をとっています。その一方で、パウロがこれらの手紙の執筆者であるという伝統的な見解を維持している研究者たちももちろんいます。

どうして「これらの手紙はパウロの純正の手紙ではない」という疑いがかけられたのか、その理由を以下に列挙してみます。

 1) これらの手紙は「使徒言行録」の中のパウロの伝道旅行の記述のどこにも位置付けることができない。

 2)これらの手紙が描いている教会の組織形態は当時としては発達しすぎている。それはむしろ100年頃の教会の組織形態に対応するものである。

 3)これらの手紙の文体はパウロの他の手紙の文体とは異なっている。

 4)これらの手紙はグノーシス主義の異端と戦っている。しかしグノーシス主義がキリスト教会にとって真の脅威となるのは紀元100年以降である。

 5)これらの手紙にはパウロの他の手紙には見られない単語がたくさん含まれている(306個)。またこれらの手紙には総計848個の異なる単語しか含まれていないが、そのうちで新約聖書を通して一度しか登場しない単語が実に175個も含まれている。

 6)手紙の内容が偉大な教師の教えに沿うものである場合にその教師の生徒が師の名を借用して手紙を執筆することは古典古代では一般的に容認されていた。

一方で、どうして「これらの手紙はパウロの純正の手紙である」と考えられているのか、その理由を以下に列挙します。

 1) 古典古代では(異端教師マルキオンを例外として)これらの手紙がパウロの手紙であることは疑われていなかった。教父たちはこれらの手紙を非常に早い時期から引用してきた。例えばローマのクレメンスは95年頃にコリントの信徒たちに宛てて書いた自分の手紙の中で、イグナティオスは110年頃に自分の手紙の中で、またポリュカルポスは115年頃に自分の手紙の中でこれらの手紙を引用している。

  2) これらの手紙は「使徒言行録」の叙述が終わった後に書かれたものである。最初期のキリスト教の伝承によれば、パウロは60年代の初頭に投獄された後に釈放されている。

  3) 教会の組織形態が時代と共に発展していったという見解には誇張がある。すでに最初の海外伝道旅行の時に(「使徒言行録」14章23節)パウロはそれぞれの教会に長老たちを任命していった。教会における職務は最初の頃から存在していたのであり、数十年経ってからようやく制定され始めたものではない。教会の責任を一手に担うビショップ(教区長)が各都市に一名ずつ任命される制度が重視されるようになったのは100年以後のことである。ところが牧会書簡にはこのような制度の痕跡は見られない。

  4) これらの手紙がパウロの他の手紙から文体的に異なっていることにも多くの理由がありうる。

A)これらの手紙は教会の指導者宛のものであって一般の教会員たちに向けられたものではない。テモテもテトスもパウロの親しい友人であり同僚だった。それゆえパウロの教えを改めて基礎付ける必要はなく、相手がそれをよく知っていることを前提にして手紙を書くことができた。

B)パウロが代筆者を使って手紙を書いていたことにも一因があったかもしれない。「テモテへの第二の手紙」は牢獄の中で書かれた(「テモテへの第二の手紙」1章8節)。パウロはその手紙の内容についての指示を与えただけであり、手紙を郵送する前にその内容を確認して修正しただけであった。

C)これらの手紙には引用や「教えの文言」への言及、また礼拝式文への言及が多く含まれている。ある推定によれば、これらの手紙に引用・利用されている文章の割合は次のようになっている。「テモテへの第一の手紙」では43%、「テモテへの第二の手紙」では16%、「テトスへの手紙」では46%。

 5) パウロの生前にもグノーシス主義はすでに流行の兆しを見せていた。「コロサイの信徒への手紙」でもパウロはそれと戦っている(「コロサイの信徒への手紙」2章16〜23節)。

 6) 今日では文体の相違と同様に使用語彙の相違もこれらの手紙がパウロ以外の書いたものであるとするたしかな根拠とはみなされなくなっている。異なる状況において異なる語彙が用いられるのは当然だからである。「ローマの信徒への手紙」には他のパウロの手紙には見当たらない単語が261個もある。牧会書簡にパウロがほかの手紙で多用した中心的な術語の多くが欠けていることは、パウロがこれらの手紙を親しい同僚たちに向けて書いたということによって説明することができる。彼ら同僚たちはパウロの神学についてすでに多くのことをよく知っていたのである。

 7) 古典古代に教師の名前を使って他者が文章を綴ったのは事実である(例えばプラトンの著作)。かりにこれらの手紙が偽名文書であるとした場合、これらがパウロの名によって書かれることでパウロ自身によるものであるという偽りの印象を読者に与えるのははたしてキリスト教の道徳観にふさわしいものであろうか。またパウロの死んだ後では意味を失うような事柄がこれらの手紙に記されているのはなぜだろうか。その例としては「あなたが来るときに、トロアスのカルポの所に残しておいた上着を持ってきてほしい。また書物も、特に、羊皮紙のを持ってきてもらいたい。」(「テモテへの第二の手紙」4章13節)や「わたしは、あなたの所にすぐ行きたいと望みながら、この手紙を書いている。」(「テモテへの第一の手紙」3章14節)や「わたしがそちらに行く時まで、聖書を朗読することと、勧めをすることと、教えることとに心を用いなさい。」(「テモテへの第一の手紙」4章13節)などの箇所を挙げることができる。「これはこれらの手紙が純正であることを読者に納得させるための方便にすぎない」とこれらの手紙がパウロの手紙ではないと考える者たちは答えるかもしれない。しかしこのような基準で純正の手紙と偽名の手紙とを差別化することは古典古代においても承認されていただろうか。またこれらの手紙の書き手が(もしもそれがパウロでなかったとすれば)どうしてこれらの手紙の純正さについて懐疑主義者たちが疑うような事柄をわざわざ加筆したのかという疑問が残る。パウロ自身、正真正銘の純正の手紙においてこれらの手紙と同じようなスタイルで例えば次のように書いているではないか、「それどころか、あなたがたが知っているように、わたしたちは、先にピリピで苦しめられ、はずかしめられたにもかかわらず、わたしたちの神に勇気を与えられて、激しい苦闘のうちに神の福音をあなたがたに語ったのである。」(「テサロニケの信徒への第一の手紙」2章2節)

  8) 「テモテへの第二の手紙」には17人のキリスト信仰者の名前が挙げられているが、彼らのうちの大多数については何も知られていない。もしもこの手紙がパウロの死後何十年も経ってから書かれたものだとすれば、彼らの名前をわざわざ手紙に列挙する必要がはたしてあったのだろうか。

証拠となる事柄のどのような点を強調するかに応じてこの問題についての結論が変わってくると言えるでしょう。上掲のどちらの説をとる場合でも証拠と反証の両方を挙げることができるからです。

結局、私たちは次に挙げる三つの説のうちのどれかを選ばなければならないでしょう。

 1) 伝統的な見解のいう通り、牧会書簡はパウロの純正の手紙であり、60年代の中頃に書かれたものである。教会教父のうち誰一人としてこれらの手紙がパウロの書いたものであることを疑った者はいなかった。

 2) 牧会書簡は私たちには知られていないパウロの弟子が小アジアで100年頃に書いたものである。

 3) 1)と2)の中間の説。すなわちパウロの純正の手紙の部分に付加された部分がある。その際にはおそらくパウロについての口承も手紙には取り入れられている。

牧会書簡は聖霊様の導きによって新約聖書に正典に加えられました。ということは、これらの手紙の教えは、それらを実際に書いたのが誰であったかにはかかわりなく、すべてのキリスト信仰者がその内容に従うように指示しているものであることになります。

このガイドブックを書いている私(パシ・フヤネン)は例えばスェーデンのルーテル教会のビショップ(教区長)だったBo Giertzと同じく「牧会書簡ではパウロ自身が語っている」という立場からこのガイドブックを書き進めることにします。

牧会書簡三通の書き手は同じ人物です。ここでかりにパウロが代筆者を用いたとしましょう。そしてパウロが代筆者にかなりの自由を与えたとすれば、代筆者自身の文体などがこれらの手紙の中に反映されていることになります。その場合、代筆者としては例えばルカ(「テモテへの第二の手紙」4章11節)やテキコ(「テモテへの第二の手紙」4章12節、「テトスへの手紙」3章12節)が候補に上がります(代筆者の問題をめぐる類似のケースとして「ペテロの第一の手紙」5章12節も参考になります)。

パウロは一部の手紙では彼以外のもう一人の差出人を明記しています。例えばテモテはパウロの六通の手紙のもう一人の差出人となっています(「コリントの信徒への第二の手紙」1章1節、「フィリピの信徒への手紙」1章1節、「コロサイの信徒への手紙」1章1節、「テサロニケの信徒への第一の手紙」1章1節、「テサロニケの信徒への第二の手紙」1章1節、「フィレモンへの手紙」1節)。パウロの手紙のテモテ以外のもう一人の差出人としてはソステネ(「コリントの信徒への第一の手紙」1章1節)、シラス(「テサロニケの信徒への第一の手紙」1章1節、「テサロニケの信徒への第二の手紙」1章1節)がいます。なお「テサロニケの信徒への第二の手紙」1章1節では差出人はパウロとテモテとシラスの三人になっています。

パウロの他にも差出人がいたにもかかわらず、上記の手紙はすべて「パウロ」の手紙です。パウロは「わたしたち」や「わたし」という言葉を両方用いている場合もあります(例えば「テサロニケの信徒への第一の手紙」では2章18節(わたしたち)、3章1節(わたしたち)、3章5節(わたし)、5章27節(わたし)、「テサロニケの信徒への第二の手紙」では3章4節(わたしたち)、3章17節(わたし))。

パウロの第四次伝道旅行

教会教父エウセビオスはその主著「教会史」でパウロがローマで釈放された後でイスパニヤを訪れたと記しています。この記述と「ローマの信徒への手紙」15章24〜28節を比較してみてください。

牧会書簡はパウロが再度東方を訪れたことを前提として書かれていますが、このことについては聖書の他の箇所で言及されていません。

結局、最初の頃の教会の出来事についてはごくわずかのことしかわかっていないのです。パウロがクレタ島(口語訳では「クレテ」)を訪れたことについてルカは「使徒言行録」で何も言及していません。パウロがクレタ島を短期間訪れたのは、第二次伝道旅行の時にコリントからか、あるいは第三次伝道旅行の時にエフェソからという可能性があります。たとえかりに「テトスへの手紙」がパウロの弟子の書いたものであったとしても、この手紙はクレタ島にパウロの教えを受けた教会が存在したことを前提としています。私たちは聖書の時代の出来事のすべてを知っているわけではありません。それゆえ例えばパウロのクレタ島訪問のように、ある出来事について聖書の一箇所にしか記述がないからといってその出来事が事実ではなかったかのように主張することはできないのです。

パウロがギリシアと小アジアを四度目に訪れた時の様子について牧会書簡はどのように記述しているでしょうか。

 1) パウロはローマでの投獄状態から約62年頃に釈放された。
 2) パウロはイスパニヤに行った(「ローマの信徒への手紙」15章24〜28節)。
 3) そこからおそらくローマを通ってクレタ島へ行き(「テトスへの手紙」1章5節)、テトスはそこに残った。
 4) クレタ島からミレトス(口語訳では「ミレト」)へ向かった(「テモテへの第二の手紙」4章20節)。
 5) ミレトスからコロサイへ(「フィレモンへの手紙」22節)行った。
 6) コロサイからエフェソへ(「テモテへの第一の手紙」1章3節)行き、テモテはそこに残った。
 7) エフェソからフィリピへ(「テモテへの第一の手紙」1章3節)行った。
 8) フィリピからニコポリス(口語訳では「ニコポリ」)へ(「テトスへの手紙」3章12節)行った。
 9) 最後にローマへ行った。そこで67年か68年にパウロは剣で惨殺され殉教する。パウロが捕まったのがすでに東方においてであったのかそれともローマに来てからであったのかについては推測の域を出ない。

パウロが伝道旅行で立ち寄った場所の訪問順については別の可能性も考えられます。エフェソ、マケドニヤ、クレタ島、エフェソ、ミレトス、トロアス、ニコポリスという順です。

「テモテへの第一の手紙」と「テトスへの手紙」は60年代の中頃(63年〜66年頃)に書かれ、「テモテへの第二の手紙」はパウロがふたたびローマで投獄された時期(67年〜68年)に書かれました。

パウロは「テモテへの第一の手紙」をおそらくマケドニヤで書いたものと思われます。「テトスへの手紙」はエフェソかあるいはコリントで書かれました。「テモテへの第二の手紙」はパウロがローマの獄舎にいた時期に執筆されました。

異端の教え

三通の牧会書簡すべてを通じて異端の教えに対する警告がなされています。すでに述べたように、ここで問題となっている異端は「グノーシス主義」と呼ばれる神秘的な知(ギリシア語で「グノーシス」)を強調する分派のことです。

牧会書簡に登場する異端に関して私たちが知っていることはまとまりに欠けていますが、以下にそれらを列挙してみます。

 1) 異端者の大部分はもともとユダヤ人であったと思われる(「テトスへの手紙」1章10節)
 2) モーセの律法が重要視されていた(「テモテへの第一の手紙」1章7節、「テトスへの手紙」3章9節)
 3) 神話や系図が中心的な役割を担っていた(「テモテへの第一の手紙」1章4節、「テトスへの手紙」1章14節)
 4) 禁欲主義が要求され(「テモテへの第一の手紙」4章3節、「テトスへの手紙」1章14〜15節)、結婚することさえも禁じられていた(「テモテへの第一の手紙」4章3節)
 5) 「死者からの復活はすでに起きた」という主張がなされた(「テモテへの第二の手紙」2章18節)
 6) 神様の御国ではなく自己の利益を追求した(「テモテへの第一の手紙」6章5節)

これらの異端に対してテモテとテトスは「わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教」によって反論しなければなりませんでした(「テモテへの第一の手紙」6章3節)。

テモテ

テモテは新約聖書で24回その名が登場します。そのうち6回は「使徒言行録」においてです。

テモテはガラテヤのリステラ出身でした。彼の父親はギリシア人、母親はユダヤ人キリスト信仰者でした。おそらく彼はパウロが最初の伝道旅行でリステラに立ち寄った時にパウロの伝道の影響によってキリスト信仰者になったのだと思われます。パウロのリステラでの出来事については「使徒言行録」14章8〜23節に記されています。またパウロはテモテを「信仰によるわたしの真実な子」と呼んでいます(「テモテへの第一の手紙」1章2節)。

パウロは第二次伝道旅行の際にリステラを再訪しています。その時にパウロはテモテを伝道旅行に同行させました。それ以来テモテはパウロがローマで最初に投獄される時までずっとパウロの伝道団の一員であり続けたようです(「フィリピの信徒への手紙」2章20節、1章1節、「コロサイの信徒への手紙」1章1節、「フィレモンへの手紙」1節)。

パウロとバルナバはすでに互いに別のルートで伝道旅行するようになっていたためもあり(「使徒言行録」15章36〜41節)、テモテはパウロにとって最も親しい同僚となったのです(「フィリピの信徒への手紙」2章19〜22節)。

パウロはテモテに割礼を受けさせました。これはユダヤ人たちを必要以上に刺激しないためであったと思われます。ユダヤ人の母親を持つテモテはユダヤ人とみなされていたからです(「使徒言行録」16章1〜4節)。それとは対照的に、ギリシア人であったテトスにパウロは割礼を受けさせませんでした(「ガラテアの信徒への手紙」2章1〜4節)。

「テモテ」(ギリシア語で「ティモテオス」)は「神様を敬う人」とか「神様の栄光」といった意味があります。

パウロはテモテを彼の代行者としてテサロニケに(「テサロニケの信徒への第一の手紙」3章1〜2、6節)、コリントに(「コリントの信徒への第一の手紙」4章17節、16章10節)、またフィリピに(「フィリピの信徒への手紙」2章19、23節)派遣しています。

パウロの伝道団に加わった時、テモテはまだ若者でした。およそ20歳前後だったのではないかと思われます。しかしパウロからテモテへの手紙が書かれた頃には35歳くらいにはなっていたでしょう。伝道の旅が長く続くうちにテモテが歳を重ねていったことについては「テモテへの第一の手紙」4章12節と「テモテへの第二の手紙」2章22節を比べてみるとわかります。

テモテは病気がちで(「テモテへの第一の手紙」5章23節)また臆病でもあったようです。パウロはテモテを励ましたり、その臆病さを叱咤したりしています(「テモテへの第二の手紙」1章7〜8節、2章3節、4章5節)。

テモテの母ユニケも祖母ロイスもそろってキリスト信仰者でした(「テモテへの第二の手紙」1章5節)。

「ヘブライの信徒への手紙」はテモテが獄舎から解放されたと記しています(13章23節)。しかしいつどこでテモテが投獄されていたのかはわかりません。

伝承によればテモテはエフェソの教会の最初のビショップ(教会長)となり、97年に殉教の死を遂げています。