フィリピの信徒への手紙 2章 キリストの心の特質とキリスト信仰者の特質
「フィリピの信徒への手紙」2章1〜4節 一致した信仰をもちなさい!
ある人々がキリスト信仰者であることを証する特質は彼らが「一致した信仰」をもっていることです。パウロによるとそれは次のような形で現れます(2章1節)。
1)キリストによる勧め
2)愛の励まし
3)御霊の交わり
4)熱愛(真心とも訳せます)
5)あわれみ
これらは一致した信仰のもたらす具体的な「実」であると言えます。
これとは逆に次に挙げるものは信仰の一致を妨げます(2章3節)。
1)党派心(利己心とも訳せます)
2)虚栄
次に信仰の一致のための前提条件となるものを挙げます(2章3、4節)。
1)へりくだった心
2)互いに相手を自分よりすぐれた者とみなすこと
古代ギリシア人は「謙虚さ」を人間の価値を貶めるものと考えました。十九世紀のドイツの哲学者ニーチェもキリスト教信仰を廃棄されるべき「奴隷道徳」の代表例とみなし、それを「主人道徳」によって代替しようとしました。後にヒトラーはニーチェの思想を悪用してそれを現実の世界で実現しようと企みました。
しかしパウロの言う「へりくだった心」とは「卑屈さ」ではありません。このことは2章5〜11節のキリスト讃歌において明らかになります。
そもそも人間は他人に最善をもたらす行動を取りたがりません。人間全員がこのような特質を持っていることを私たちは忘れるべきではありません。たしかに人間は他人の最善を追求する時もあります。それはしかし、その行為によって自分にも何らかの利益が期待できるケースが大半を占めるのではないでしょうか。
キリストは私たちのために隣り人に関する新たな目標を設定なさいました。隣り人は私のためだけに存在するのではなく、私もまた隣り人のために存在しています。ですからキリストが私に仕えてくださったのと同じように私もまた隣り人に仕えていかなければならないのです。
「フィリピの信徒への手紙」2章5〜11節 キリストの下降と高挙
「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」
(「フィリピの信徒への手紙」2章5〜11節、口語訳)
この箇所の内容は、キリスト信仰者が従うべき生き方の模範としてではなく、神様が人となられた過程を示す「キリストの下降」がどのようなものであったのかを具体的に述べていると理解するべきです。たんなる人間である私たちがキリストと同じ下降をすることはありえません。私たちの信仰の歩みが完全にキリストに従うものになることも決して起こりません。それでも私たちは「キリストの下降」と似た生き方を目指すべきです。「キリストの下降」は私たちに理想的な生き方を提示しているからです。キリストが全人類のために御自分をお捨てになったように、私たちもまた隣り人のために自分を捨てる生き方をしていかなければなりません。ただし、これは「キリストと同じ行いをする」ということではなく「キリストと似たような行いをするべきである」ということです。
この箇所でパウロは前々からあった洗礼あるいは聖餐に関する式文の一部を引用しているのではないかと研究者たちは推測しています。それによれば、イエス様の「先在」(イエス様は受肉を通して人となりこの世に降誕する以前からすでに永遠の世界に存在しておられたこと)、イエス様が十字架で死ぬことにより全人類の罪を帳消しになさったこと、イエス様が死者の中から復活されたことなどが、パウロがそれらについて手紙に記す前からすでに教会では信じられていたことになります。これに対して、この箇所の内容は教会の伝統とは無関係にパウロが勝手に捏造したものであるという主張には根拠がありません。
以前から存在した式文から引用した部分にパウロは少なくとも一つの文言を付け加えたと研究者たちは考えています。それは8節にある「しかも十字架の死に至るまで」という言葉です。パウロにとってイエス様の十字架は信仰の核心をなすものであり、文字通り「すべて」でした。次の「コリントの信徒への第一の手紙」の箇所にもそのようなパウロの信仰理解がよくあらわれています。
「兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」2章1〜5節、口語訳)
「キリストの下降」はキリスト御自身が行われたことです(2章5〜8節)。それに対して「キリストの高挙」は神様が行ってくださったことです(2章9〜11節)。イエス様は全人類の罪を帳消しにできる十字架での犠牲死を成し遂げるために自ら進んでこの世に来られました。罪深い全人類を救うために不死の神様が死する人間となられたのです。これは大いなる信仰の奥義です。
あらゆる主権を掌握し終えたイエス様は今、天の御父の右に座しておられます。それに対してこの世には、イエス様が神様であられることを信じようとはしない人々が今も大勢います。この世が終わる時、すべての人が神様に対して自分の人生について申し開きをしなければなりません(2章11節)。しかしこれは全人類が救われるという意味ではありません。現実には、イエス様を救い主として受け入れ信仰を告白する人もいれば、裁き主としてのイエス様と向かい合う不信仰な人もいます。この地上での時は、私たちが自らの罪を悔い改めてイエス様の贖いの御業を信じるようになることを目的として私たちに与えられている有限の期間なのです。死んだ後ではもはや裁きから救いに移ることも救いから裁きに移ることもできなくなります(「ルカによる福音書」16章19〜31節の金持ちとラザロの話を参照してください)。
「フィリピの信徒への手紙」2章12〜16節 キリスト信仰者の生き方は神様への捧げ物となるべきである
「わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」
(「フィリピの信徒への手紙」2章12〜13節、口語訳)
上の箇所でパウロは説明が容易ではない考え方を提示しています。私たちは自分が救われるために力を尽くさなければならないが、私たちの救いに関わるすべてのことは神様の恵みのみに依存しているというのです。この主張には多くの反論が試みられてきました。例えば「もしも救いが神様のみに依存するものであるならば、私たちは救われるために自分では何もする必要がない」とか「もしも救いが神様のみに依存するものであるならば、神様は誰も永遠の滅びへと断罪することができないはずだ」といった反論です。
ここで私たちには想起すべきことがあります。人間は理性によってはパウロの啓示した信仰の奥義を完全には理解することができないということです。信仰の奥義は常に信仰によってのみ捉えることができるものだからです。
パウロと異なるやり方で救いについて教えるキリスト教の教師たちは残念ながら今も昔も大勢います。「救われるためには自ら決断しなければならない!」と強要する教えがその一例です。しかしこの類の教えは結局のところ「あなたは自分で自分を救わなければならない」と言っているのと同じことです。
キリスト教信仰は上述の緊張関係を内包しています。信仰はたしかに神様からの贈り物です。しかしこの賜物は受け取り手が自らの生き方を通して神様の御意思を実現していくことを望むようにと働きかけるのです。まさにこの賜物のおかげで私たちは伝道や奉仕などの信仰に基づく活動を行うようになるし、神様の御意思を故意に破りたいとも思わなくなります。「ヘブライの信徒への手紙」の次の箇所が教えているように、キリスト御自身の贖いのいけにえは、人間の罪を帳消しにするために必要とされた他のすべての贖いの捧げ物を不要なものにしたのです。
「このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」7章26〜28節、口語訳)
とはいえ私たちには有効な捧げ物がまだ一つだけ残っています。それは「感謝の捧げ物」です。キリスト信仰者は自らの人生を感謝の捧げ物として神様に差し出すことができます。ただしこの感謝の捧げ物は罪を帳消しにする贖いのいけにえではありません。
善を行うことは悪を追い払うことでもあります。これは救いにも当てはまります。私たちは自分の救いを妨げるようなことを行うか、あるいは自分の救いを促進するようなことを行うかのどちらかだからです。
パウロはここでキリスト信仰者の生き方のもつ別の特徴を提示します。その特徴とは、キリスト信仰者のこの世での歩みはその人自身の神様との関係にだけではなく、キリスト教を信じていない人々にも影響を及ぼすという点です。キリスト信仰者の人生、歩みは「信仰の証」となるものです。「キリスト信仰者は人々の間で最も広く読まれている第五の福音書である」などと言われることもあります。キリスト信仰者には自らの生き方を通して信仰を証していく使命が与えられています。このことについてパウロは「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(2章15節)というわかりやすいイメージを用いて説明しています。もしも人間をこの世という大海原を漂っている「船」にたとえるならば、キリスト信仰者とは船たちを天国の港に通じる安全な航路へと導く「灯台」にたとえることもできるでしょう。
このことは次の「ローマの信徒への手紙」の箇所にもまとめられています。
「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」
(「ローマの信徒への手紙」12章1節、口語訳)
「フィリピの信徒への手紙」2章17〜18節 死は勝利である
「そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい。」
(「フィリピの信徒への手紙」2章17〜18節、口語訳)
パウロは自身についてのローマからの最後の近況報告が「パウロ死す」になるかもしれないが、そうであって落胆してはいけない、と手紙の読者にあらかじめ告げて諭しています。パウロは福音のゆえに己の命を捧げる覚悟をすでに決めていたからです。
これまで自分が地道に続けてきた福音伝道が水泡に帰するかもしれないことをパウロは危惧していました(2章16節)。福音を宣べ伝えるときにパウロが一途に追求してきたことは自分の栄誉などではなく神様の栄光のみでした。
人間とはそもそも死をいつも恐れている存在なのではないでしょうか。もしもそうだとしたら、パウロが福音のためなら死も恐れないと言っているのは自分を買い被った高慢な態度だということにならないでしょうか。
どうしてパウロは上掲の箇所のように言い切ることができたのでしょうか。これにはパウロがもっていた二つの視点によって答えを与えることができるでしょう。
1)天国における最悪ものでさえこの世での最上のものよりもよいものであることをパウロははっきり見ていました(「コリントの信徒への第二の手紙」5章1〜10節および12章1〜5節)。
2)パウロは神様の御意思が何であるかを知っていました。それがパウロの生き方を通して実現していくかぎりにおいて我が身には何も不都合なことが起こらないことをパウロはよくわかっていたのです。
これら二つの視点は私たちの生き方にもよいお手本になるものであると思います。
「フィリピの信徒への手紙」2章19〜30節 パウロの同僚たち
この箇所の記述からは、パウロが信頼を寄せていた同僚たちの何人かに裏切られて落胆している様子が伝わってきます。しかしその詳細については聖書に書かれてあること以外はどれほど望んでも知ることができません。
「テモテのような心で、親身になってあなたがたのことを心配している者は、ほかにひとりもない。人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。」
(「フィリピの信徒への手紙」2章20〜21節、口語訳)
不実な同僚たちが実際どのようにパウロを欺いたのかは明言されていません。パウロがキリストに一切の関心を集中させていたのに対して、彼らはキリストの伝道よりも自分に関係のある事柄のほうに強い関心を寄せていたのです。
イエス・キリストがこの世に生きておられた時代からすでに約二千年も経ちましたが、人間は昔と比べて少しも成長していません。今日でも私たちは他でもなくキリスト信仰者たちによって失望させられることがしばしばあります。だからこそ、私たちの信仰を(例えば人間関係のような)脆弱な基盤の上に築いたりはせずに、むしろイエス様のみを見つめ続けることが大切になるのです。イエス様は私たちを決して裏切らないからです。イエス様は次のように教えておられます。
「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。」 (「マタイによる福音書」7章24〜27節、口語訳)
しかしパウロにはまだ忠実な同僚が一人残っていました。それがテモテです。自分の裁判が終わりしだい、パウロはテモテをフィリピに派遣したいと考えていました。テモテがフィリピの信徒たちに裁判の結果についても知らせることができるようにするためでした。
一方でパウロは、フィリピの信徒たちからの金銭的な援助を彼のもとに届けてくれたエパフロデトを今すぐにでもフィリピに帰らせるべきであると考えていました。おそらくこのエパフロデトが「フィリピの信徒への手紙」を携えてフィリピに戻ったのでしょう。
パウロは多数のフィリピの信徒がエパフロデトに不満をもつかもしれないことを予期していました。エパフロデトはパウロに仕えるためにフィリピからパウロのもとに派遣されたのだからです。しかしエパフロデトが病気になり故郷を恋しがるようになった時に状況は大きく変化しました。パウロはエパフロデトが彼の手紙を携えてフィリピに帰還することこそが今のエパフロデトの最善の奉仕であると考えるようになりました。フィリピの信徒たちの失望感を和らげるためにパウロはエパフロデトのことをとても褒めています(2章25、29〜30節)。
私たち人間はあれこれ計画を立てますが、その通りに実現するかどうかは神様がお決めになります。パウロ自身も計画変更を途中で余儀なくされたようです。彼はもはやローマからイスパニヤに向かおうとはしておらず(「ローマの信徒への手紙」15章23〜29節には元々の予定が書かれています)、マケドニヤのキリスト信仰者たちと会えることを希望しているからです(2章24節)。
とはいえこれは私たちが人生の計画を何も立ててはいけないという意味ではありません。「神様の御心であれば」という条件付きで計画を考えるべきであるということです。「ヤコブの手紙」にも次のような箇所があります。
「よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。」
(「ヤコブの手紙」4章13〜15節、口語訳)