ヤコブの手紙3章 言葉の使用による罪と祝福
自分が考えていることを不適切に口に出さないために、自分が言うべきことをよく吟味しなさい
「ヤコブの手紙」3章1〜2節
「ヤコブの手紙」の1〜2章の大部分は内容的に奨励にかかわるものでした。それに対して、3章から手紙の終わりまでは警告にかかわる内容に重点が置かれています。ヤコブは罪のない生活を送ることが人間に可能であるなどとは夢にも思っていませんでした。このことを念のためにもう一度指摘しておきたいと思います。というのは、ヤコブは人間が罪のない生活を送ることが可能であると考えていた、というまちがった主張が今でも時おり見受けられるからです。
「わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。」
(「ヤコブの手紙」3章2節、口語訳)
このようにヤコブは彼自身も含めたすべての人間が多くの罪に陥ってしまうものであることを認めています。
「わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。」
(「ヤコブの手紙」3章1節、口語訳)
ここでヤコブが呼びかけている「あなたがた」が聖書の教師(すなわち説教者)という教会の職務に選ばれた人々なのか、それともより一般的に教会の指導者の地位にある人々なのかは明らかではありません。前者のケースすなわち教会の説教職について新約聖書は次のように述べています。
「さて、アンテオケにある教会には、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、およびサウロなどの預言者や教師がいた。」
(「使徒言行録」13章1節、口語訳)「そして、神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれた。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」12章28節、口語訳)「御言を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい。」
(「ガラテアの信徒への手紙」6章6節、口語訳)「よい指導をしている長老、特に宣教と教とのために労している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしい者である。」
(「テモテへの第一の手紙」5章17節、口語訳)
上述の「ヤコブの手紙」3章1節にある、教会の指導者が受けることになる裁き(これは「責任」と言い換えてもよいかもしれません)が他の人々が受ける裁きよりも厳しいものなるという考え方は聖書の他の箇所にもあります。例えば旧約聖書の預言者エゼキエルは人々の信仰に関わる霊的な生活を世話する者たち(教会で言えば牧者にあたる人々)の責任の重大さについて語っています(「エゼキエル書」3章17〜21節、33章7〜9節)。それと同じようにパウロも自分自身について次のように述べています。
「すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」9章27節、口語訳)
当然ながらイエス様の次の言葉も忘れるべきではありません。
「しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。」
(「ルカによる福音書」9章27節、口語訳)
「ヤコブの手紙」3章1節からもわかるように、ヤコブも聖書の教師でした。とはいえ、言葉の使用にかかわる罪への警告は説教者だけではなくキリスト信仰者全員にも当てはまるものでしたし、今でもそうです。
一般的にユダヤ人たちは教師の地位を非常に高く評価しており、教師たちを自分の父親よりも重んじたほどでした。肉親は私たちをこの世に生んでくれましたが、教師たちは私たちを来るべき永遠の世界へと導いてくれるからです。それゆえにこそ、とりわけ教師は自分の話す内容をしっかりチェックするべきなのです。そしてまた、キリスト信仰者全員が言葉の使用に関する同じ奨励を受け入れる必要があります。
「あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。」
(「マタイによる福音書」12章36節、口語訳)
言葉の使用に関して一度たりとも神様の御心に反することがなく隣り人に対しても罪を犯さないというのは誰にもできません。それができたのはイエス様だけです。
「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。」
(「ペテロの第一の手紙」2章22節、口語訳)「さて、下役どもが祭司長たちやパリサイ人たちのところに帰ってきたので、彼らはその下役どもに言った、「なぜ、あの人を連れてこなかったのか」。下役どもは答えた、「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」。」
(「ヨハネによる福音書」7章45〜46節、口語訳)
聖なる神様と出会うとき、私たちは言葉の使用に関しても自らの罪深さを否応なく思い知らされます。次に引用する聖句からもわかるように、これは預言者イザヤにとっても真実でしたし、もちろん他のすべての人間にとってもそうです。
「その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。」
(「イザヤ書」6章5節、口語訳)
パウロは言葉の使用に関する人間の罪深さについて次のように書いています。
「彼らののどは、開いた墓であり、
彼らは、その舌で人を欺き、
彼らのくちびるには、まむしの毒があり、
彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。」
(「ローマの信徒への手紙」3章13〜14節、口語訳)
少しのパン種でも粉全体をふくらませる
「ヤコブの手紙」3章3〜12節
「また船を見るがよい。船体が非常に大きく、また激しい風に吹きまくられても、ごく小さなかじ一つで、操縦者の思いのままに運転される。それと同じく、舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。」
(「ヤコブの手紙」3章4〜5節、口語訳)
上掲の節には船の航路を決める「ごく小さなかじ」や大火事を引き起こす「ごく小さな火」が出てきます。これらのイメージは古典古代のギリシア語文献ではよく知られたものであり、そこでは人間の魂や精神の力が自然の力よりも優れていることを表現するために使用されています。それに対して「ヤコブの手紙」はこれらのイメージによって、ごく小さいことが大きな害を招く場合があることを示そうとしています。私たち人間を外側から汚そうとする「悪」があります。しかし、私たち人間に内在している「悪」もあるのです。このことを言葉の使用による罪は私たちに思い起こさせます(「マタイによる福音書」15章10〜29節も参照してください)。イエス様は「おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。」と言っておられます(「マタイによる福音書」12章34節より、口語訳)。
人がキリスト信仰者として生きていくことは、たんにその人の生活の一部に限定されるものではなく全人生にかかわるものです。そのことをヤコブは読者に伝えようとしています。
言葉の使用に関するヤコブの教えは、人が日常の中で話していることがその人のキリスト信仰者としての本当の質を表しているという考えに通じるものです。
「神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。(・・・)主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。」
(「創世記」1章28節、2章15節、口語訳)
旧約聖書冒頭の天地創造の記述で強調されているように、神様によって人間は被造物世界を指導し支配する地位に任命されています。人間と他の生物たちとの間には本質的な相違があります。それをわかりやすく示しているのは、人間が言葉で話すことができるという点です。
「しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」
(「マタイによる福音書」6章23節、口語訳)
上掲の箇所で言われているように、神様からいただいた素晴らしい賜物を神様の御意思に反する目的で使用するとき、人間は深い闇に覆われてしまいます。この闇は神様に敵対する者に由来しています。言葉を話せるという賜物についても同じことが言えます。
「舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。」
(「ヤコブの手紙」3章6節、口語訳)
上掲の箇所に出てくる「地獄」とはギリシア語原文では「ゲエンナ」といい、旧約聖書では「ケデロンの谷」のことを意味しています。この谷ではユダのシデキヤ王の時代に人間の子どもたちが偶像への生贄として焼かれました(「エレミヤ書」32章35節)。
上掲の箇所にある「生存の車輪」という言葉(ギリシア語では「ホス・トゥロコス・テース・ゲネセオース」)でヤコブは何を言いたいのでしょうか。例えばヒンドゥー教ではこのような表現には「魂の輪廻転生」といった意味が付与されています。それに対して、ヤコブの神学においてはこの言葉は「人間の全人生における歩み」を比喩的に表していると理解することができるでしょう。
「わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。」
(「ヤコブの手紙」3章9節、口語訳)
この箇所の最後でいくつかの自然から具体例によってヤコブが示しているのは、同じひとりの人間が祝福の言葉と呪いの言葉とを同じ口から発するのは決して正常な状態ではないということです。
「わたしの兄弟たちよ。いちじくの木がオリブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができようか。塩水も、甘い水を出すことはできない。」
(「ヤコブの手紙」3章12節、口語訳)
「創世記」1章11〜12節にもあるように、それぞれの木はその種に特有な実を結びます。また、汚水の入った大きな容器の中身は、たとえそこに一リットルのきれいな水を加えても飲めるものにはなりません。その一方で、一リットルの汚水をきれいな水のたくさん入った容器に加えると、容器内の水は飲めないものになってしまいます。例えば、私たちが互いに異なる二通りの態度を相手に応じて使い分けていることに他の人々がわかった場合に、彼らはいったいどちらが本来の私たちの姿を表しているのか判断できずに困惑するのではないでしょうか。残念なことに、上の汚水の例と同じく人間の場合にも、ごく少量の悪い部分が他のたくさんの良い部分も汚染してしまうのです。またその逆のケースとして、ある人にたとえ少しばかり良い部分があったとしても、それによって他の大量の悪い部分を打ち消すことはできません。
真の知恵と幻想の知恵
「ヤコブの手紙」3章13〜18節
多くの現代人にとって「深い知恵」と「高い知能」はほぼ同義語になっているのではないでしょうか。しかし聖書の考え方はそれとは異なるものです。例えば旧約聖書には「知恵文学」と呼ばれる書物群があります。その一つである「箴言」において「知恵」とは人生についての深い体験や洞察を含むものです。「ヤコブの手紙」も次のように教えています。
「あなたがたのうちで、知恵があり物わかりのよい人は、だれであるか。その人は、知恵にかなう柔和な行いをしていることを、よい生活によって示すがよい。」
(「ヤコブの手紙」3章13節、口語訳)
聖書の意味する「知恵」は人間の知能の程度によってではなく態度や振る舞いによって測られるものです。ヤコブが強調しているのはまさにこのことです。真理が心の中に宿っていることが知恵ある人としての必要不可欠な条件であることを次の聖句は教えています。
「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。また、真理にそむいて偽ってはならない。」
(「ヤコブの手紙」3章14節、口語訳)
抜け目のなさや他の人を自分の目的のために利用することは真の知恵などではありません。「箴言」は知恵の源について次のように述べています(「箴言」2章1〜19節には「知恵」についてのより詳しい説明があります。)。
「主を恐れることは知識のはじめである、
愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。」
(「箴言」1章7節、口語訳)
ヤコブは二つの異なる知恵を提示します。それらの知恵は互いに異なる源に由来し、人間の振る舞いに対して相反する影響を及ぼし、それらがもたらす最終的な結果も対照的なものになります。
真の知恵は神様から与えられるものです(3章15節)。それによって人は良い人生を歩めるようになります(3章13節)。真の知恵は良い実を結びます。
「しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。」
(「ヤコブの手紙」3章17節、口語訳)
上掲の箇所に挙げられている良い実の数々はパウロの「ガラテアの信徒への手紙」5章22〜23節にある霊の実の一覧表とよく似ています。
それに対して、この世的な偽りの知恵は悪魔や悪霊に由来するものです(3章15節)。この知恵の結果として党派心や恨みや妬みが生じてきます(3章14節)。最終的にそれは「混乱とあらゆる忌むべき行為」(3章16節)を実らせます。
妬みや恨みは人間の心の中にある最も破滅的な感情であるとも言えます。これらはすべてのことを悪い方へ悪い方へと変えてしまうので、どのようにしてもこれらの感情を落ち着かせることができなくなります。
それとは対照的に、平和は祝福を自分にだけではなく隣り人にももたらしてくれます。
「義の実は、平和を造り出す人たちによって、平和のうちにまかれるものである。」
(「ヤコブの手紙」3章18節、口語訳)
教会史は神学論争などの様々な争いがきっかけとなって教会が多くの分派や異端に分断されてきた歴史であるとも言えます。すでに最初期のキリスト教会においても互いに異なる神学的な見解が相争う状態になっていました。その中でヤコブ自身もまた教会形成に携わっていたのです(「使徒言行録」15章13〜21節)。不幸にして教会が分裂してしまうときに、どの分裂が人間同士の不毛な争いから生じたものであり、どの分裂が聖書に忠実な教義を保つために止むを得ず起きたものなのかということを見極めるのは決して容易ではありません。ともあれ、誰かがそれまで自分が所属してきたキリスト教会の内部あるいは外部に独自の分派を立ち上げようとするとき、それに対しては注意深く慎重な態度をとる必要があります(「ヤコブの手紙」3章14節)。
上掲の3章17節には「上からの知恵」のもたらす様々な実が記されており、知恵は「かたより見ず、偽りがない」という二つの否定文で終わっています。「かたより見ない」という表現はギリシア語では「アディアクリトス」といい「疑念を抱かない」という意味です。ヤコブはこの言葉で宗教的な疑念のことを指しているのではありません。口語訳での「かたより見ず」というのは適切な訳であると言えます。なぜなら、疑念を一切伴わない強靭な宗教心ではなく、正義や公正さそのものがここでのテーマになっているからです。このような知恵は例えば「箴言」(3章27〜35節)で描写されている知恵とよく合致します。そして「偽りがない」という表現は、人が正直であろうとすることや、自分のありのままの姿を飾らずに示すことを意味しています。私たちはともすると他の人々から好感をもってもらえるようにうわべを取り繕って振る舞うことが賢明であるかのように思いがちなのではないでしょうか。ところが、ヤコブは私たちにこの点でも正直であるように奨励しています。もちろんヤコブが以前に指摘したように、正直さとは他の人について自分が考えていることをそのまますべて口に出してしまうという意味ではありません。ヤコブが言いたいことは、私たちが実際に自分で考えているのとはちがうことを口にするべきではないということです。