ペテロの第一の手紙第4章
終末は近い
「ペテロの第一の手紙」を1章から4章の冒頭まで読み進めてきた人たちは、この手紙には次のような特徴があることに気づくでしょう。すなわち、この手紙では、すべての罪人たちのためにキリストが行ってくださったことについてと、このキリストの御業が私たちの生活に与える影響についてという二つのテーマが交互にあらわれます。このようなやり方で、恵みの福音は手紙の読者が自分の生活の中でキリストに注意を払うようにと、たえず導いてくれるのです。ペテロの手紙を最初に受け取った人々は極めて困難な状況の中で生活していました。彼らはその信仰のゆえに迫害を受けていたのです。
この手紙の3章と4章との間の連関はやや読み取りにくいところがあります。3章のおわりでは、キリストが私たち罪人の身代わりとして苦しみを受けることで私たちを罪の呪いから解放し、自由にしてくださったことが語られています。この出来事に4章の始めの部分と奨励の言葉は繋がっています。キリスト信仰者はこの地上ではごくわずかの時間だけ生活するにすぎないので、この世を去った後で主に出会うことになる、という心構えをもって普段から生活するように心がけるべきである、というのがその奨励の言葉です。これは、キリスト信仰者のこの世における生活態度が他の一般の人々の生活態度とは根本的に異なるものであることを意味しています。
新約聖書の原語であるギリシア語本文によれば、ペテロはキリスト信仰者たちが「武装する」(4章1節)ように奨励しています(「エフェソの信徒への手紙」6章10〜17節も参照のこと)。ペテロは、手紙の受け取り手たちがキリスト信仰に入る以前には神様をないがしろにするひどい人生を送っていたことを前提として書き進めています。このことからも、手紙の受け取り手たちのうちの大多数が異邦人キリスト信仰者であり、信仰に入る以前には偶像礼拝に参加し、その他の点でもごく一般的な異邦人の生き方をしていたことがうかがえます。しかし、キリスト信仰者とされた彼らは今や異邦人の生活習慣から離れたのです。この態度変更は、これまで彼らと一緒に普通の異邦人の生き方をしてきた古い仲間たちに衝撃を与えました。そして、彼らとその旧友たちとの間には軋轢が生じてしまいました。この問題のゆえに、キリスト信仰者は心の苦しみや体の痛みに耐えていく心構えが必要になりました。厳しい試練があるにもかかわらず、キリスト信仰者は、この世で生きる時が短い間であること、また人は各々、キリスト信仰者を嘲ったり迫害したりする者たちも皆含めて、いつか必ず全能なる神様の御前で自らのこの世での歩みについて申し開きをしなければならなくなることを心に留めて生きていくのです。
「死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである」。
(「ペテロの第一の手紙」4章6節、口語訳)
新約聖書全体を見渡してみても、この6節は理解するのが最も難しい箇所のひとつといえるでしょう。そのせいもあって、極論を振りかざす人々もでてきます。この世でキリストについて聞く機会のなかった人々には、死んだ後でもう一度チャンスが与えられる、という主張がなされたりします。しかし、この説明は拙速にすぎます。「死者」は実に様々な意味で使用されうる言葉です。それは「霊的に死んでいる人々」のことを指すこともあるし、3章19〜20節にあるように「ノアの同時代人たち」のことを指す言葉でもあります。あるいはまた、「キリストがこの世にお生まれになる以前に生きていたユダヤ人や異邦人」のことを指しているとも理解することができます。この節は「生前に福音を聴いてキリスト信仰者になってから死んだ人々」のことを意味している、というのも説得力のある説明です。キリスト教信仰の信条は、意味に曖昧さが残る箇所ではなく明確に説明できる聖書の箇所に基づくものでなければならない、というのが古くから遵守されてきたルター派の基本的な考え方です。この6節に関しても、あれこれ想像をめぐらすことはひとまずおいて、むしろ、人間の理解をはるかに超える大いなる神様の御前にひれ伏す信仰者としての姿勢を保つことこそが、私たちにふさわしい態度なのではないでしょうか。
この箇所には、その簡潔さの中に多くの重要な事柄が含まれています。
これまでも見てきたように、この手紙は苦しみを受けているキリスト信仰者たちに向けて書かれたものです。おそらく「ヘブライの信徒への手紙」は、その受け取り手たちがキリスト教信仰を今にも捨てようとしている切迫した状況を念頭に置いて書かれています。しかし、このペテロの手紙から伝わって来る雰囲気はそれとは異なるものです。それにもかかわらず、この手紙で与えられている奨励には、私たちが真剣に受けとめていくべき重大な内容が含まれています。すなわち、キリスト教信仰はそれを信じる者たちの生き方を大きく変えて、彼らを周囲の未信者とは異なる生き方へと導くものである、ということです。ただしその結果として、彼らは信仰のゆえにこの世で様々な苦しみを受けるようにもなります。私たちもまた、このような変化が自分の生活においても生じているかどうか、自らに問うてみることにしましょう。もしも何の変化も起きていないようなら、この聖書の箇所の内容をもっと正確に捉えることができるように学び直す必要がありそうです。たとえば、あることをきっかけとして突然キリスト教を信じるようになった人たちは、それまでの友人たちがこの変化についてどのようなことを考え、言い、行うか、実体験から知っているものです。
ペテロの手紙が読者に提示するメッセージは、人によっては慰めにもなるだろうし、あるいは中傷と受け取られてもしかたがないものでもあるでしょう。というのは、キリストを信じるようになる前に手紙の受け取り手たちが神様をないがしろにする悪い生き方をしていた、とペテロは遠慮せずに言い切っているからです。異邦人としての生活習慣について、ペテロはいささかも褒めようとはしません。それどころか、それを容赦なく断罪しています。このような態度は当時も今もこの手紙の読者を傷つけてしまうかもしれません。しかしその一方で、キリスト信仰者になった今ではもう思い出したくもないような過去を持つ人々にとっては、このペテロのメッセージは慰めを与えるものではないでしょうか。この点に関しては、最初の頃のキリスト信仰者のほうが現代のキリスト信仰者よりも良い状態であった、とは到底言えません。むしろ、昔の方がはるかに悪い状態であった、とさえ言えるでしょう。
ペテロの手紙のこの箇所を聖書の他の箇所の「罪の一覧表」と比較すると、興味深いことが見えてきます。たとえば、「コリントの信徒への第一の手紙」6章9〜11節、「ガラテアの信徒への手紙」5章19〜21節、「ローマの信徒への手紙」13章13〜14節などの一覧表では、キリスト信仰者がはっきり関係を断ち切るべき罪がそれぞれほぼ同じかたちで列挙されています。
ここで私たちは次のふたつのことを覚えておくべきです。第一のポイントは、すべての罪は人を滅ぼすものであり、悪い考えもその点では凄惨な殺人と同様である、ということです。なぜなら、神様は聖なるお方であり、その御前ではいかなる罪もその存在を許されないからです。このように、私たちは誰もが皆、例外なくキリストを必要としているのです。
その一方では、第二のポイントとして、教会の初期のキリスト信仰者たちが関係を断ち切るように奨励された「ある特定の事柄」も存在するということです。たとえば、偶像礼拝がそのひとつです。また、結婚前の性交渉やすべての不倫もそうですし、酒乱、吝嗇やそのほか広い意味での偶像礼拝もそれに含まれます。
これらの罪については、私たちは現代においても依然として警告を発し続けるべきです。約二千年前に神様の御心に適わなかったことがらは、今現在でもやはり適うものではありません。そして、神様の御前で私たちはいつか必ずこの世での自らの歩みについて申し開きをしなければならなくなるのです。
4章7〜19節 終わりは近い
この箇所(とりわけ7〜11節)におけるペテロの奨励の言葉の内容は、パウロの教えと大きく重なるものです。たとえば、「ローマの信徒への手紙」(12〜13章)でキリスト信仰者に与えられている多くの一連の指示は、それ自体としてみればたいへん理解しやすく、日常にもなじみのあるものばかりです。ところが、これらの指示を具体的に実行に移そうとすると、その時はじめて人はその困難さに直面することになります。
奨励はこの箇所でも「希望」という視点に結びつけられています。しかし、それが「世の終わり」への希望であるのは、現代のキリスト信仰者にとっては意外なのではないでしょうか。教会の最初期のキリスト信仰者たちは、キリスト信仰者としてこの世を生きることにかかわる指示をお互いに与えたり受けたりしていました。その際に彼らの念頭にあったのはこの世の最後の日であり、最後の審判でした。「ペテロの第一の手紙」の4章の最後は「世の終わりを待ち望む視点」がキリスト信仰者たちの思いを二つの方向に導くものであったことをはっきりと示しています。この視点は、一方では希望を与え、他方では謙虚さと絶えざる悔い改めへと彼らを導いたのです。
とりわけ12〜14節には、この希望の視点が次のように提示されています。たしかに今は厳しく困難な試練の時です。にもかかわらず、キリスト信仰者が罪や死や悪魔の圧制下から贖い出され「神様の身内とされた者」として苦しみを受けるのは大いなる特権であるとも言えます。
また、希望の視点はキリスト信仰者を謙虚にもします。すべての人間は最後の裁きを受けることになっています。それは私たちキリスト信仰者の場合も同じです。実のところ、この裁きは「神様の家」から開始されることになっています(17節)。人には計り知れない裁き主、人の心を知っておられる神様はいわゆる「イデア」や「思潮」などといったものに単純化して把握できる存在ではまったくありません。キリスト信仰者はひとりひとり、今、神様の御前でひざまずくのです。そして、最後の裁きの時にも同じようにしてひざまずくことになります。こう教えることによって、ペテロはこの手紙で今まで述べてきた「キリスト信仰者としてあるべき生き方」にはっきりとした味付けを加えています。すなわち、聖なる神様との関わり合いは戯れごとではない、ということです。
ところで、現代の私たちは聖書を今述べてきた希望の視点から読む際に、少しばかり考え込んでしまうのではないでしょうか。はたして私たちは心から「世の終わり」を待ち望んでいるのでしょうか。それとも、「あと何十年もこの世界で生きられるほうがもっと望ましい」、というのが本音に近いでしょうか。しかし、教会の最初期のキリスト信仰者たちにとっては「最後の裁き」に思いを巡らせるのは大きな慰めだったのです。
「だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。」
(「ヤコブの手紙」5章7〜8節)
現代に生きる私たちキリスト信仰者にとって、この「ヤコブの手紙」にみられる心構えでキリストの再臨と最後の裁きを忍耐強く待ち望むことは難しくなってきているのではないでしょうか。私たちは、むしろこの世界の終末の到来のほうを恐れてはいませんか。いったい何が私たちにこのような変化をもたらしたのでしょうか。
教会の最初期のキリスト信仰者と私たち現代のキリスト信仰者との間には顕著な相違点があります。それは、私たちが信仰のゆえに人々から憎まれたり迫害を受けたりするケースがかなり希になってきている、ということです。もちろん世界的に見ればキリスト信仰者が過酷な迫害を受けている地域が今もあります。しかし、いわゆる先進国に住んでいるキリスト信仰者たちは、貧しい人もいるとはいえ、一般的に見ればかなり快適な環境に身を置いて暮らしていると言えるでしょう。そのような生活を送っている人々にとって、この世の終わりを是非とも待ち望むような心構えはなかなか持てないものではないでしょうか。
この現状を変えるには、いったいどうすればよいのでしょう。迫害や病気や怪我などを自ら願い求めるべきなのでしょうか。もちろんそうではありません。この世で平和に幸せに生活できる一日一日について、そのように計らってくださる神様に対して私たちは感謝を捧げます。しかしそれと同時に、私たちは自らの立場をわきまえる必要があります。すなわち、私たちキリスト信仰者はこの世では常に「選び分かたれた寄留の民」であるということです。私たちは「この世に属する者」ではありません。キリストのゆえに「天の御国に属する者」なのです。ですから、この世での快適さに慣れ親しみ過ぎてはいけません。私たちは天の御国へと帰る旅の途上にあり、まだ目的地に到着してはいないからです。
一方で、私たちは「ペテロの第一の手紙」の背景にある当時の現実から、自分たちが想像しているほどかけ離れた環境に身を置いているわけでもない、とも言えます。すなわち、当時のキリスト信仰者と私たち現代のキリスト信仰者との間には共通点もある、ということです。私たちは「神様の子ども」として長く生活を続ければ続けるほど、それだけいっそうはっきりと、この世は私たちにその真の姿を見せるようになります。この世は罪と誘惑に満ちた世界であり、そこに実在する悪は私たちの想像を超えるほど深く根を張っています。キリスト信仰者として私たちはこの世の真の姿を垣間見ることができるのです。私たちが神様の御言葉から霊的な栄養を受ければ受けるほど、私たちが生活しているこの世は、それだけいっそうよそよそしいものに感じられるようになります。もしも家族や親戚がキリスト信仰者である場合には、彼らのうちのより多くがこの世を去り栄光の世界へと移住していくにつれて、天の父なる神様の家である「天の御国」は私たちにとって、よりいっそう愛しい場所になっていきますし、そこに住む白い衣を着た聖徒たちの顔が、よりはっきりと見えるようになっていきます。天の御国を「自分が受け継ぐもの」としていただいた者にとって、この世は次第に価値を失っていきます。もっとも、これは一朝一夕に実現することではなく、日々の信仰の学びと戦いを通して少しずつ身につけていくべきことがらです。