教会

7.4. 教会とは何でしょうか?

新約聖書は「教会」と「各個教会」について同じ言葉を用いています

 「教会」という言葉に対応する新約聖書のギリシア語は「エックレーシア」です。この言葉は「各個教会」と訳すこともできます。エックレーシアという言葉は各地域の教会という意味も教会全体という意味ももっています。そして、地域の教会は教会全体を代表するものとして理解されていました。それはちょうど私たちが「銀行」という言葉で地元の銀行のことも銀行全体のこともあらわしているのと同じです。

「神の民」、「真のイスラエル」

 エックレーシアの文字通りの意味は「召された者たち」あるいは「選ばれた者たち」の集まりのことです。新約聖書はしばしばキリスト信仰者の群れを「召された者たち」とか「選ばれた者たち」などと呼んでいます。教会は神様によって召され集められた民の群れです。ちょうど昔イスラエルが雲の柱に導かれて荒野を旅したように、主キリストの指導によって今この世を旅し続けている神様の御民なのです。それゆえ、教会を「新しいイスラエル」とか、あるいは単純に「神様のイスラエル」と呼ぶことができます。ユダヤ人が洗礼を受けたとき、その人は「新しい信仰」に乗り換えたのではありません。前からもっていた信仰に基づいてある結論に至り、それを実行に移しただけなのです。神様は御自分の民と新しい契約を結ばれました。旧約聖書でその到来が約束されていたメシアがついにこの世にやって来られたのです。人々はメシアの周りに集まり、メシアを信じる者たちの群れに加わりました。「新しい信仰」を得たのではなく、「新しい時」が始まったのです。キリスト教会は今や真のイスラエルになったのです。

7.5. キリストの体

教会は教会員のたんなる総和ではありません

 教会は同じ考えをもつ人々が共通の目的を持って活動するために一堂に会して誕生したのではありません。キリスト教の信仰によれば、神様がこの世での一連の重要な出来事に働きかけてくださったおかげで教会はこの世界に誕生したのです。「使徒信条」などの信仰告白の中に「教会」という言葉がでてくるのはこのためです。教会はたんなる社会的な現象ではなく、人間的な共同生活や活動の一形式でもなく、神様の創造物なのです。聖霊様は教会を利用することで人々をキリストのもとに導いて、その命に与るようになさるのです。

キリストの体

 パウロはこれに関連して「教会はキリストの体です」と言っています(「エフェソの信徒への手紙」1章22節以降)。キリストは「かしら」であり、私たちキリスト信仰者はその体の一部です(「エフェソの信徒への手紙」5章23節、「コロサイの信徒への手紙」1章18節)。互いに比較してみるとわかるように、私たちは皆それぞれが唯一無二の存在なのです(「ローマの信徒への手紙」12章4~5節)。しかしその一方で、私たちは皆それぞれが聖霊様を通してキリストという真の命に与っているのです。

ぶどうの木

 教会についてイエス様は「ぶどうの木とその枝」というイメージを用いておられます(「ヨハネによる福音書」15章1~5節)。枝はそれだけでは生きることができず、木の幹につながることによってのみ生命を維持することができます。それと同様に、弟子たちも自分の力では何もできません。彼らは生きるためにはキリストのうちに留まらなければなりません。

御霊の神殿

 ペテロとパウロは他のイメージも用いています。教会は「建物」や「霊的な部屋」であり「御霊における神様のお住まい」です。私たちは「活きた石」であり、使徒たちや預言者たちを土台とする神様の建物の「建築材」の一部です。その土台を支えている「隅のかしら石」はキリストです(「ペテロの第一の手紙」2章5節、「エフェソの信徒への手紙」2章19節以降)。この「活きた石」については、ひとつの建物を構成するために結合されていくバラバラの石ではなく、御霊の命がその中を流れているおかげで健やかに成長していける細胞のようなものをイメージするとよいでしょう。

キリスト、恵みの手段、キリスト信仰者が「教会」に属しています

 以上あげてきたこれらのイメージは同じことを語っています。教会は霊的な器官だということです。幹がぶどうの木にとって、また頭が体にとって大切であるのと同じように、教会ではキリストは欠くことのできない大切な存在です。教会とは教会員の単なる集合体以上のものなのです。教会にはキリストが属しておられます。さらに教会は恵みの手段(御言葉と洗礼と聖餐)を有しており、それらを通して真の命がキリストから教会員へと流れ込んでいくのです。

7.6. 教会はひとつです

ただひとつの教会が存在します

 教会に関する聖書のすべての記述から、教会は本来ひとつであることがわかります。教会は「真のイスラエル」です。もしも内輪で敵対し合って国民を四散させるなら、それはもはやひとつの国民ではありません。体はひとつです。体から切り離された部分は死にます。木につながっていない枝は枯れます。 

教会がひとつであるためには、教会組織が一体化している必要はありませんが、福音の教義および聖礼典の施行に関する一致した見解がその前提となります

 現実のキリスト教会がバラバラになっているのはキリストの御意志とも教会の本来のありかたとも矛盾しています。教会は組織として一体である必要がありません。「アウグスブルク信仰告白」(ルター派の基本的な信仰告白書)によれば、教会の真の一致にとっては、どのように福音について教えて聖礼典(洗礼と聖餐)を施行するか、に関する理解が一致していることがその十分な前提とみなされます。聖霊様は御言葉(の説教)および洗礼と聖餐という「恵みの手段」を通じてキリストへの信仰を私たちのうちに創り出してくださいます。この世のあらゆる場所で礼拝や教会組織が同一である必要はありません。これらは国や時代に応じて変化することがありえるものです。しかし、福音が正しく宣教されて聖礼典が正しく施行されるのは、どこの国でもまたいつの時代でも教会にとって不可欠なことです。そうでなければ、私たちの間でキリストが御自分の約束に基づいて語り活動なさっていることに私たちは確信をもつことができないからです。

 すべての真のキリスト信仰者たちはすでにキリストにおいてひとつであるという意味で教会の一致はすでに実現していることを福音ルター派は確信しています。ただし、この「一致」をよりいっそう見えやすいものにするために私たちは努力する必要があります。しかし、この目的の実現を口実として教義をことさら曖昧なものにし妥協を図ることや、聖書に基づくことと基づかないこととを混同することは、断固として避けなければなりません。もしもキリストへの信仰およびそれに伴うはずのキリストとの共同生活に関して何かしらおかしなところがあるならば、いくら外面的に取り繕ってみたところで、真に一致した教会を実現することは決してできません。そのような場合には、いくら組織や礼拝を共通の(いわゆるエキュメニカルな)ものにしてみても無意味です。

7.7. 教会は聖なるものです

聖なる教会は「聖人たち」によってのみ構成されているものではありません

 今までに見てきたように「聖」という表現は実際のところ神様についてのみ用いることができる言葉です。例外的に「聖」という言葉を地上に存在するものについて使う場合もあります。私たちが神様と出会うために必要な「神様の手段」について語る場合がそれに該当します。教会は聖なるものですが、それは教会が完全であるという意味ではありません。ちょうどそれは、聖書に登場する「聖徒たち」すなわちキリスト信仰者たちが罪なき人々であったとは間違っても言えないのと同じです。教会が聖であるのは、教会が聖なる神様の使用する手段、聖なる神様の創造物、聖なる神様に仕えるために選ばれたものであるからです。

 教会が「教会のかしらなるキリスト」という意味で使われる場合には、完全かつ無条件に「教会は聖である」ということができます。同様のことが恵みの手段にも当てはまります。というのは、神様御自身が恵みの手段を通してこの世に来て、この世で活動なさるからです。神様御自身が私たちと恵みの手段を通して出会われること、恵みの手段を通して伝達されるメッセージが完全に信頼できることを、私たちキリスト信仰者は知っています。ここで「教会員」について考えてみましょう。彼らが聖とみなされるのは、神様御自身が彼らを召して御自分に仕えるように選んでくださったことにのみその基礎を置いています。彼らが主の召しを真摯に受け入れる場合に、彼らは聖とされるのです。その際に、彼らは自らの罪の赦しをいただきながら日々の聖化の中で生活していくことになります。もちろん「聖化」とはいっても、この世で生きていくかぎり、人間は決して罪のない状態にはならないことを覚えておかなければなりません。

7.8. 教会は公同なるものです

公同はカトリックと同じ意味です

 「公同」という言葉は原語のギリシア語では「カトリコス」という言葉です。「カトリック」という言葉はここに由来しています。福音ルーテル教会は教会が公同であることを信仰告白します。公同とは「すべてを取り扱う」とか「すべてに及ぶ」という意味ですが、ここでより適当な表現と思われるのは「全体を含む」という表現です。これによって、この信条箇所は新約聖書の次の内容を言い表そうとしているのです。 「神様はすべて満ちているものがキリストに住むようになることをよしとされ、キリストをすべてのかしらとして教会にお与えになりました。この教会はキリストの体であってすべてのものをすべてのもののうちに満たしているお方が満ち満ちているものにほかなりません」(「エフェソの信徒への手紙」1章22節以降)。

教会が公同であるとはどういう意味ですか?

 神様の真の教会があるところにはキリスト御自身がおられます。それに加えて、キリストが私たち人間に贈ろうと望まれるキリストの善きものすべてがあります。教会が公同であるとは、御言葉と聖礼典のおかげで教会には私たち人間がこの世で神様について知ることができるすべてがある、ということです。さらにそれは、すべての人を人種、国籍、教養、文化にかかわりなくその内側に集めるためにこそ教会は設定された、という意味でもあります。罪に腐敗したこの世にあって教会の存在自体が人類の究極的な存在目的を明らかにします。その目的とは「あなたたちの教師はひとりであり、あなたたちは皆兄弟姉妹なのです」(「マタイによる福音書」23章8節)というキリストの御言葉を実現するような、世界中に広がるひとつの家族の兄弟姉妹としてひとつとなることなのです。

 この世のすべての罪に対する霊的な処方箋である「すべての罪の赦し」をキリストにあって使用することが教会には許されています。その意味でも教会は公同なのです。いつでもどこでもそうだったとは言えませんが、世界史全体を俯瞰してみると、教会には善、徳、多様で繊細な先駆的事業、賜物、知識など、創造主の栄光とキリストの充溢を反映してきた側面があります。現実に存在する教会を特徴づけているのは、教会内に様々な人間がいて様々な礼拝や祈りの時がもたれ、様々な歌や音楽、建築や説教のスタイルがあるということです。しかし、パウロが言うように御霊は同じです。それゆえ、これらすべての教会の諸特徴にも「内的な一致」が見られます。そして、真のキリスト教は本来、同じ御霊の働きの結実とそうでないものとを表面的な違いに惑わされることなく正しく識別する感覚を備えているものです。

7.9. 教会は使徒的な存在です

教会内における使徒の地位

 「使徒信条」は教会の特質として聖と公同すなわち共通性をあげています。古くからある諸教会に共通の信条である「ニケア信条」は教会を「唯一のもの」と告白しています。この教会の特質はすでに取り上げました。「ニケア信条」は教会に固有な特徴として「使徒的」であることも指摘しています。「使徒的」とは、キリストの使徒たちを通してそれ以後の時代の教会のありかたが決定づけられたことを意味します。キリストはその御業を周囲に広く伝えていくために使徒たちを選ばれました。使徒たちがこの任務を実行するために、キリストは彼らに御霊をお与えになりました。聖霊様の職務は彼らをあらゆる真理に導くことでした。ですから、たとえば「パウロはふつうの人間にすぎなかった」と主張するのはキリスト教の信仰に沿った考えかたとは言えません。パウロやその他の使徒たちは皆、キリストの任務を遂行するために選ばれた教会の職員でした。聖霊様は使徒たちを指導なさり、彼らが教会と社会の中で特別の地位を占めるようになさいました。使徒たちやその近しい弟子たちの働きのおかげで、今私たちは新約聖書を手にしています。彼らの指導があったからこそ、この世の終わりまで存続することが決まっている「教会」の基礎が形作られたのです。

7.10. 教会の職制について

 「使徒」という言葉は、新約聖書では委ねられた公務の実行責任者を意味しています(「ルカによる福音書」10章16節)。使徒たちの使命は、彼らを派遣なさったお方のためにそのお方の御名によって働いたり語ったりすることでした(「マタイによる福音書」10章40節、「ヨハネによる福音書」20章23節)。彼らには福音が世界中に伝えられていくようにするという責任がありました(「マタイによる福音書」28章19~20節)。彼らは教会の最初の指導者であり、各個教会にそれぞれ長老を任命しました(「使徒言行録」14章23節、「テトスへの手紙」1章5節)。西欧諸国の多くの言語で「牧師」に相当する言葉は「長老」という言葉の原語「プレスビュテロス」に由来しています。使徒たちはまた、彼らの仕事の継承者たち(例えばテトス)が彼らと同じように仕事をし、自らに託された仕事を次世代のそれを受け継ぐにふさわしい男たちにバトンタッチしていくために細心の注意を払いました(「テモテへの第二の手紙」2章2節)。

教会には職制が必要ですが、その仕事は様々な方法で人々に分配することができます

 新約聖書には教会の多様な職制や仕事が記されています。たとえば「監督」(ギリシア語で「エピスコポス」といい、ビショップ(教区長)はこの言葉に由来します)、「執事」(ギリシア語で「ディアコノス」といい、職業的な教会奉仕者のことです)、「伝道者」、「牧師」、「教師」などです(「フィリピの信徒への手紙」1章1節、「エフェソの信徒への手紙」4章11節)。それぞれの職制の内容の詳細に関して、新約聖書はさほど語っていません。ですから、教会における職制は必ずある特定の方法で配分されなければならないというものではない、と私たち福音ルーテル教会は理解しています。たとえば、教区の牧師たちを御言葉によって指導するビショップ(教区長)を有する職制をもつ北欧のルター派教会の職制はよいものではありますが、教会組織としてはビショップと牧師とを職制的に分け隔てる必要は必ずしもありません。なぜなら、教区長と牧師とは本質的には同じ立場にあるからです。

 その一方では、私たちルター派教会の信条によれば、御言葉の説教と聖礼典(洗礼と聖餐)を施行するための職制は教会にとって不可欠の要素です。この職を委ねられている人は教会の教師であり牧師でなければなりません。この職はキリスト御自身が設定なさったものです。キリストがこの使命を誰にお与えになり誰が今それを受け継いでいるかを明らかに示すという重大な責任が教会にはあります。いついかなるときにも教会は「牧師職」が前任者の牧師から後任者の牧師へと一定の秩序にしたがって受け継がれていくようにとりはからなければなりません。このようにして、ルター派教会の基本信条「アウグスブルク信仰告白」にある「正しい秩序による召命」(rite vocatus)が実現します。

 御言葉について説教し聖礼典を施行する職制はキリストが自らお与えになった職です。教会はこの職制をそのまま先へ先へと受け継いでいきます。「説教職」とも呼ばれるこの職制はいわゆる「万人祭司制」とは明確に区別されなければなりません。教会の牧師職を委ねられた者たちは、ちょうど旧約聖書における神殿祭司たちのように、民の罪を帳消しにする犠牲をささげることによって神様のおられる場所に近づける人々を意味している、と中世のカトリック教会は「牧師職」について理解していました。しかし、私たちルター派の信仰告白によれば、このような考えかたは誤りです。すべてのキリスト信仰者はキリストへの信仰を通して神様のおられる場所に近づくことが許されています。彼らは聖なる洗礼を受けた時すでにこの万人祭司職の任命を受けているのです。彼らは皆がイエス様の御業に基づく新しい契約において、今でも大切な意味をもっている犠牲をささげつづけるように奨励を受けています。その犠牲とは神様へ賛美と感謝をささげることであり、自分自身を神様に用いていただくようにささげることです(「ヘブライの信徒への手紙」10章、「ローマの信徒への手紙」12章1節)。このように、キリスト信仰者は皆が、感謝をささげる祭司職への召命を受けています。これが万人祭司制の意味するところです。しかしこれは、キリスト信仰者なら誰でも自由に礼拝で御言葉を説教したり、聖礼典を施行したり、神様の教会の牧者となる仕事を行えるという意味ではないのです。

7.11. 恵みの手段

 聖霊様は教会において「恵みの手段」を通して活動なさいます。御言葉は恵みの手段として用いられることについてはすでに述べました。聖礼典(サクラメント)もまた恵みの手段です。

「聖礼典」という言葉は何を意味していますか?

 「聖礼典」とは「キリスト御自身が設定なさった聖なる礼典」と定義されるものです。聖礼典を通してイエス様は恵みを与える約束をなさいました。福音ルター派の教会では洗礼と聖餐が聖礼典とされています。このふたつの聖礼典は疑う余地もなく可視的な「しるし」(水およびパンとぶどう酒)を伴っています。そして、これらのしるしには、救いを与えて罪を赦す主の約束の御言葉が堅く結びついています。

聖礼典は洗礼と聖餐です(罪を告白した者にその罪を赦す「告解」も聖礼典のひとつとみなされる場合もあります)

 実は、聖礼典として告解を含める考えかたもあります。ルターの「小教理問答書」の原版には洗礼と聖餐の間に「ざんげ(懺悔)」と「罪の赦しの宣言」に関する章があります。この礼典もキリストが設定なさったものであり、そこには罪の赦しの約束が与えられています。しかし、この約束は、水やパンやぶどう酒といった目に見える「しるし」にではなく、「罪の赦しの宣言」(ラテン語でabsolutio)に結びついています。この点で、告解は可視的な物質と結びついている洗礼と聖餐とはその性格が異なります。

聖礼典を通じて神様は恵みを私たちに賜ります

 神様の御霊が人間の不思議な幻想や内的な感覚を通してではなく直接的に外から見え聞こえる恵みの手段を通して働かれる、という確信は私たちルター派の教会の信仰にとって自然なものであり、ルターも特に強調した点です。キリストは今日も世の中を歩まれ、御霊は私たちの只中で働かれます。そして、それらの働きは外から見え聞こえる御言葉と聖礼典を通してなされます。今この時にもキリストは外面的には取るに足らない「かたち」をとってこの世に来られます。しかし、この些細に見える恵み手段の中に天の御国とそのすべての力が秘められているのです。どうして神様はこのような何の変哲もない手段を選ばれたのでしょうか。それには「耳目をひきつけるような不思議な事柄は真の信仰を育むどころか、その障害になるからである」と答えることができるでしょう。私たちは自らの信仰をそうした大げさな事柄に基づいて培っていくのではありません。そうではなく、私たちの信仰の基礎には、私たちに御自分を啓示して私たちの心の中に罪を悔いる心と信仰を生み出してくださる神様との出会いがあります。この出会いの場を用意するのが恵みの手段なのです。

7.12. 教会への信仰

キリスト信仰者の信仰には「教会への信仰」が含まれています

 キリスト教の信仰は「教会への信仰」も含んでいます。これは、私たちが何を信じるべきか命じる権力をもつ特定の組織を神様が設立なさった、という意味ではありません。それとは逆に、恵みの手段を通してキリストの影響の下に入った人々のための特別な交わりの場を神様が創出なさった、という意味なのです。それゆえに「使徒信条」で教会は「聖徒の交わり」とも呼ばれています。「孤立したキリスト信仰者」というのは存在しません。キリスト信仰者はキリストの体の一部であり、他のキリスト信仰者たちと分けがたく結びついているからです。キリスト信仰者の信仰生活は本人の考えや祈りの成果などではなく、教会で私たちが共にいただく御言葉の説教と聖礼典とを通して聖霊様が生み出してくださったものです。この絆だけでも、信仰に目覚め信仰に留まるために重要な意味を持っています。新約聖書は聖徒の交わりをキリスト教会の信仰生活の主要なありかたとして提示し、これを決して無視しないように厳しく警告しています(「使徒言行録」2章42節、「ヘブライの信徒への手紙」10章25節)。私たちが共に信じ祈りキリストと出会う他のキリスト信仰者たちと一同に会するときにこそ、聖霊様は働いてくださるのです。簡単にわかることですが、信徒の交わりから離れた人々は、たとえ自分ひとりで神様への信仰を維持できると思っていても、時が経つうちに霊的な事柄についての確信が次第にあいまいになってしまうものなのです。

使徒信条の第3部に述べられている聖霊様のさまざまな働きは相互に連関しています

 ここまできて私たちは「使徒信条」の第3部「聖霊様のさまざまな働き」に関する諸項目がたんにでたらめに列挙されたものではないことがわかります。それらの項目の間には明瞭な相互連関があります。それをいくつかのキーワードによって次のようにあらわすことができるでしょう。「私は聖霊様を信じます。聖霊様は聖徒の交わりという聖なる公同の教会の中で働かれます。そこで聖霊様は私たちに罪の赦しを賜り、私たちをからだのよみがえりにあずかる者とし、私たちに永遠の命を与えてくださいます。」

 キリスト信仰者であることには、教会に属していることも含まれています。この章を終えるにあたり、洗礼について話すことにしましょう。洗礼を通して私たちはキリスト教会の一員となります。洗礼はキリスト信仰者の全人生にわたってキリスト信仰者としてのはっきりとした「しるし」を与えるものです。