第3章 神様とは誰ですか?

 神様は「全能」でしょう?つまり何でもできるっていうことだよね?
 でも、この世界ではたくさん悪いことが起きているよ。
 神様は「愛」なんでしょう?
 でも、私は4ヶ月間も病気のままで、ちっとも治らないんだけど。
 神が「三位一体」ってどういう意味かな?
 誰がこんな奇妙なことを考え出したのだろう?

3.1. 私たちは何を知ることができないのでしょうか?

私たちが神様について知っていることは不完全で限られたものです

 神的存在自体を隅々まで描写したり定義したりするのは不可能である、というのがキリスト教信仰の視点です。私たち人間は神様について神様御自身が望まれる分だけ知ることが可能だからです。神様は「近づきがたい光の中に住み、人間のうち誰ひとり見たことがなく、見ることもできないお方」であり「神様を見た者はいまだかつてひとりもいない」(「ヨハネによる福音書」1章18節、「テモテへの第一の手紙」6章16節)ので、人間の精神世界を研究するのと同じような態度で神様の本性と特質を調べ上げることはできません。私たちはキリスト信仰者として「神様の本性には人間には底知れない深いところがある」と信じています。「私たちは一部分だけを知っているのです」とパウロは言っています(「コリントの信徒への第一の手紙」13章9節)。  

 それゆえ、解きがたい緊張や消しがたい矛盾を含まない、破綻のない完璧な体系をなし、すでに完成している枠組みの中に、神様について私たちが知っていることを適当に配置して「これで十分だ」と考えることはできません。たとえば、歴史や自然の研究者には身に覚えがあることでしょうが、私たちは真実を研究したり描き出そうとしたりするときに、互いに矛盾し合うように見えるため一貫した説明を与えることのできない事象に遭遇することがあります。神様に関する私たちの知識の中に緊張を強いる要素や表面的な矛盾が含まれていることは、神様が私たち人間の思考の産物ではないことを示しています。

 それが矛盾を含んでいるように見えるからという理由で神様への信仰を捨てる人は「神は人間が理性によって理解でき承認できるような存在であるべきだ」と思い込んでいるとも言えます。しかし、神様は人間の思想の産物などではなく真実なのです。そして、その一部分についてのみ私たちは自らの理解力や知識の範囲内で知ることができるのです。かりに私たちが自らの思考に頼ることで「神様はどのような存在でなければならないか」ということを明確にできるのならば、そのような「神」は真なる神様ではありません。

やむをえない理由から答えが得られないままになる疑問も多数あります

 キリスト信仰者にも答えることのできないような「神様に関する問題」がひとつならず存在します。「悪は何に由来するのか」とか「神様の全能と愛はこの世の中に実在する苦しみとどのように調和するのか」といった疑問に対して答えようとするとき、私たちはどこまでも推測の域を超えることができません。生存中ついに福音を聞く機会のなかった人々に対して神様はどのような態度を取られるのか、たとえば、そのような人々は天国に行けるのか、それとも地獄に行くのか、私たちは知りません。私たちと同じように神様との関わりをもつ生命体が生息している惑星が地球の他にもあるのかどうか、私たちは知りません。神様やその御計画について私たちが知っていることは、聖書の中の啓示に基づくものに限られます。聖書は、私たちがこの世で生きている間に神様について知る必要がありまた実際に知ることが可能なすべてのことを含んでいます。

 聖書は神様について語るときにイメージや象徴(シンボル)を用います。「象徴」とはそれ自体が描いているのではない何かを代わりに表す「しるし」や「比喩」のことです。象徴自体にはそれが代表しているものを直接思い起こさせるものは何もありません。たとえば、ある言語においては文字と音が対応しています。日本語のひらがなはその一例です。その一方では、「十字架」がキリストやキリストへの信仰をあらわしているように、象徴がその象徴しているものへの「ほのめかし」を含んでいる場合もよくあります。聖書の中の象徴についてもこれと同じことが言えます。それらは様々な譬えや引用として登場します。聖書において神様は「父」、「牧者」、「王」、「岩」、「城」などと呼ばれています。これらのイメージを間違って理解してはいけません。自然からとられた表現は、人間の生活からとられた譬えよりも誤解する危険が少ないと言えます。後者の種類の譬えを間違って理解すると、神様を人間と同じような存在とみなして、たとえば「雲の端っこに座って地上を眺めている長い髭を生やしたおじいさん」のような存在としてイメージ化してしまう危険があります。

 神様は人間と接するときに、人間の声で話したり人間の姿になったりすることができます。神様が私たち人間の世界へと下って来てナザレ人イエスとして「私たちの只中に住まわれた」(「ヨハネによる福音書」1章14節)時に、神様は実際にそうなさったのです。聖書によれば、このことは神様がその神性を保ちつつもまったく新しい姿になられたこと、「神様のかたち」(「フィリピの信徒への手紙」2章7節)を人間の姿へと変えたことを意味しています。

 一般的に言って、私たちは神様を自分に都合の良い視覚的なイメージで描き出すことはできません。しかし、これは神様が抽象的で空疎な存在であることを意味しません。その逆です。人が神様と躍動する関係を保っている場合、神様の本質はその人の生活において他の何よりも豊かな内容と真実を備えた存在として開示されます。神様の本質は測り知れないほど莫大な財宝と繊細な意味とに満ちているので、この世の人生から借用された表現だけではとうてい描き尽くせるものではありません。

 私たちは聖書が啓示している神様の本質を「神様は聖である」と「神様は愛である」というふたつの標語であらわすことができるでしょう。

3.2. 神様は聖なるお方です

「聖」という言葉は神様にのみふさわしいものです

 神様のみが聖なるお方です(「ヨハネの黙示録」15章4節)。それゆえ、「聖」という言葉がもつ意味を説明するために比較例としてとりあげたり研究したりできるような対象はこの地上には一切存在しません。この世で何か(律法、神殿、キリスト信仰者、教会など)が聖であると言われる場合には、その聖性は神様御自身に由来しているので、それだけを分離して客観的に研究したり描写したりすることはできないのです。「聖」という言葉は「神様を神様とするもの」すなわち「神様を他のすべてのものから分かつもの」を意味しています。こういうわけで、神様の聖性の意味を説明したり描写したりすることを可能にするような言葉やイメージを見つけるのは困難なのです。人は神様と個人的に出会った後にようやく「神様は聖である」という意味をおぼろげながら知ることができるようになります。

 「聖」という言葉が「罪のない」という言葉で置き換えられることがあります。しかし、こうした考えかたの背景には「善であり正しいと人間がみなしているすべてのことを集約した完全な存在が神様である」といった道徳観が暗黙に前提されている場合があります。実は、この視点に立った場合でも、神様はどのような存在でなければならないかを明確に断言することができません。人間の理解する真や善の基準によって神様の真性や善性が決まってくるのではなくて、逆に、神様から学ぶことを通して、何が善くて何が正しいか、私たち人間は知るようになるからなのです。何事でも自己流の見方に固執する人々にとっては驚愕するほかないようなやりかたで、神様の本質が示されることがしばしばあります。彼らには神聖なる神様がそのように驚嘆すべきやりかたで実際に活動できることがわからないのです。人間の勝手に作り上げた神のイメージと神様御自身の働きかけのありかたが矛盾していることもよくあります。人間による神のイメージは人間自身の抱いている理想や希望を投影したものに過ぎないものだからです。

 もしも神様の本質を学びたいなら、聖書の啓示をよく知らなければなりません。そして、私たちが聖書で出会う神様がどのようなお方であるか、明確にさせなければなりません。しかし、言葉や事象はその描き出している真実を個人的にも経験しないうちは、空疎で理解不能なものに留まることが多いものです。神様について語る場合にも、このことに自覚的であるべきです。聖書の啓示が神様について教えている内容を簡潔に叙述する際にも私たちはこのことを覚えておきたいと思います。

神様の栄光について

 神様が聖書で描かれるときには「栄光」や「光輝」などと訳される言葉が常に繰り返されています。これらはもともと同じ単語であり、ギリシア語では「ドクサ」、ラテン語では「グロリア」といいます。この言葉は神様の聖性の場合と同じく、容易に説明できない独特な内容をもっています。「栄光」とは神様の本質の放つ光です。それは神様の周囲の一切のものを幸福と賛美で満たします。栄光は人間の目には耐えられない光、セラフィムも顔を覆い隠すほど眩い光としてイメージすることができるでしょう(「イザヤ書」6章2節)。栄光はその輝きによって、この世のすべてが汚れにまみれている現実を容赦なく露呈させてしまいます。この「光輝」に人は恐れをなして身を隠したくなる場合もあります。それは私たちの目を眩ませて一切を貫通するような非常に強い光です。しかし一方で、それは私たちを至福で満たす、絶えざる賛美の合唱へといざなう光でもあります。

 この地上で私たちは、この世と天国の間の「神殿の幕」(「マタイによる福音書」27章51節)が瞬間的に脇にのけられるごく稀な状況においてのみ、この栄光の反映の一端を霞んだ目でかろうじてとらえることができます。この「主の栄光」はイエス様がこの世に降誕された夜に羊飼いたちを包みました(「ルカによる福音書」2章9節)。「栄光の山」で弟子たちは驚愕と感激に包まれてそれを目撃しました(「マタイによる福音書」17章1節以降)。キリストを信仰の目で仰ぎ見るとき、同じ栄光が今もなおキリストの御顔に輝いているのです。

 私たちが神様の栄光と光輝の本質を推し量るのは「人間が愛し求めるのにふさわしい、すべてにまして最も高きお方」として神様を理解する試みであるともいえます。人がこのような理解をもつとき、「神様をそのような存在として受け入れることで何か利益があるのか」という自己中心的な思いは退きます。人間はたとえすべてを失ったとしても、神様が神として存在なさっていることは真の幸福と豊かさなのです。神様の実在はあらゆる状況において、私たち人間の存在に深い意味付けを与えます。 「たとえ全世界が荒れ果てても神様は神様です。たとえ人間すべてが死に絶えても神様は神様です」(ノルウェーの教会の賛美歌の一節)。

神様は測り知れないお方です

 神様は測り知れないお方です。天は地よりも高いところにあります。それとは比べものにならないほど神様の道は私たち人間の歩む道よりも高いところにあります(「イザヤ書」55章9節)。遠く離れたところから神様について思索しようとするかぎり、この測り知れなさは私たちを苦しくします。神様は謎に包まれた存在として立ち現れ、その不可解さのゆえに人は驚愕と不安を覚えるのです。

 ところが、人が神様の近くにいる場合には、神様の測り知れなさはもはやたんなる不可解さではなくなります。神様は何が私たち人間にとって最善かご存知であり、その実現を望まれていることを私たちは理解します。ですから、私たちは神様がすべてを知っておられることに信頼を置いて、答えが得られないような疑問は放置してよいことになります。これは、人間には理解できない不可解なことを無理に解きほぐそうとはせずに神様の御心に委ねる、ということだけではなく、ある種の安全性も考慮した姿勢なのです。測り知れないお方である神様は万事において真心から配慮してくださっていること、神様は万事を善き御心に基づく計画の中に包み込んでおられること、また、私たちには荷が重すぎることを身代わりに負担してくださっていることを私たちは知っています。「主はすべての道において義しく、すべての御業において恵み深いのです」(「詩篇」145篇17節)。神様の栄光と同じく、神様の本質の測り知れない深さもまた私たちを魅了し感動させます。

 神様との出会いというキリスト教的な経験には、まさしくこの神様の測り知れなさのゆえに人が神様を賛美するようになるという特質があります。

 人間的な忍耐力の限界を超えるかと思われるほどの数々の辛い試練の末にようやく神様御自身との出会いを果たした時、ヨブは自分が抱えていた疑問に対してはいかなる理論的な解答も得ませんでした。それにもかかわらず、彼は自らの期待をはるかに上回る経験をしたのです。究めがたいことにも意味や目的を付与される神様の偉大さと栄光とをヨブは直に体験したのです。「私はあなたのことを耳で聞いておりましたが、今は私の目であなたを見ております。それゆえ私は(自分の言葉を)否定し、塵と灰の中で悔います」(「ヨブ記」42章5~6節)。

 それと同じことがパウロについてもあてはまります。選ばれた民でありながらも道を踏み外したイスラエルに対して神様はどのような御計画があるのか、という難問を考え抜いた末に、パウロはまさしくこの神様の道の究めがたさのゆえに神様への賛美の心で満たされていくのです(「ローマの信徒への手紙」11章33節以降)。

 イエス様御自身についても私たちは同じような例を見出すことができます。天と地の造り主なる神様が真理を知恵のある者や賢い者から隠して幼子たちに啓示なさったことについて、イエス様は御父様を賛美しておられます(「マタイによる福音書」11章25節)。

神様の熱情について

 さらに、神様は「熱情の神」でもあります。私たちは神様のことを「焼き尽くす火」として経験する場合があります(「ヘブライの信徒への手紙」12章29節)。神様の熱情は汚れたものや自己中心的なもの一切を滅ぼします。しかし、私たち人間が恐れを抱くのが当然であるこの熱情は、それが創造的な善いものであることがすぐさま看取できる特徴を多く備えています。神様の熱情は神様の愛と結びついています。旧約聖書に登場する「熱情」を意味する言葉は「嫉妬」をあらわすためにも用いられます(「出エジプト記」34章14節)。神様の愛はその愛の対象を「御自分のものとする」という特質があります。ですから、神様の愛は神様がその愛の対象から拒否されることやその愛の対象を他のものと共有することを望みません。これが神様の嫉妬なのです。これと同じ考えかたは新約聖書にも見出されます。「それともあなたたちは「この方(神様)は私たちのうちに住まわせてくださった御霊を妬むほどに愛しておられる」と聖書が意味もなく言っていると思うのですか」(「ヤコブの手紙」4章5節)。神様の命と幸いとにあずからせることを目的として、神様は私たち人間を造ってくださいました。また、神様は私たちが神様と神様に反対する諸力とを同時に愛することを望んでおられません。もしもこの方が私たちの父なる神様であるのなら、この方のみが神様でなければならないのです。「私はあなたの主なる神です。あなたには私の顔前で他の神々があってはなりません」(「出エジプト記」20章2節以降)。

 これまで私たちは「神様の聖さ」を描き出そうとしてきました。そして、その過程で私たちは神様の本質のもうひとつの面に幾度も出会いました。その面とは「神様の愛」です。

3.3. 神様は愛です

神様の愛は人間の愛とは似ていません

 「聖」という言葉とは異なり「愛」という言葉は私たちにとって馴染み深い表現です。それゆえに、神様の愛がどういうものか自分は当然知っている、と思い込んでいる人がしばしば見受けられます。しかし実際には、彼らの神様のイメージが「聖書の神様」とはかけ離れたものである場合がよくあります。人間的な愛は、自分の思惑通りに事が運んだり、他の人に幸福を望んだり、他の人々と一緒にいることを願ったりする、といったかたちをとります。それらを実現するためなら、私たち人間は自分の要求や希望について、必要とあれば、本来の自分や、自分に合った生き方についてさえも妥協するものです。

 このような人間的な愛と神様の愛との間には共通した特徴があります。神様も私たちに幸福を望んでおられ「私たちと共にいたい」と願っておられます。しかし、両者が似ているのはここまでです。神様は常に神様のままなのであり、私たち人間と一緒にいるために神様の本質を捨てて他の何かに変身することはありません。また、私たち人間の抱いている希望や計画が、私たちに永遠の命を与えるために神様が定めた目的と矛盾している場合には、神様がその実現を後押しすることで私たちに「神様の善さ」を示すことはありえません。神様は御自身のもつ命と幸福を私たちが周囲の人々にも分かち合えるようにするために、私たちをお造りになったのです。ここで、どうすれば私たちはこの御心の通りに生きることができるのか、という問題がでてきます。というのは、すべての人間のうちには神様に反抗する心があり、また大がかりな反乱へと人々を駆り立てようとする悪の諸力も常に策動しているからです。神様は人間の理解を超えた愛を私たちに絶えず注いでくださっています。このことは、神様が前述の問題を解決するために御子イエス・キリストを私たちの救い主として遣わして、人間には不可能なことを可能にしてくださったところにはっきりと表れています。

 これは人間がふつう神様から期待する内容とはまったく異なっています。「神様はおおらかな方にちがいない。たとえ私たちが神様のことに関心を持たなくても、結局は私たちを赦して私たちが永遠に不幸な者とならないように守ってくださるであろう」などと勝手に決め込んでいる人が多いものです。私たちは何か不幸を経験した人が怒りながら神様を責めたてるのを耳にすることがあります。そういう人たちは彼らを不幸から守る保険として神様を利用してきただけで、本心では神様を無視した生活をしてきた場合がしばしばあります。そして、いったん不幸に遭遇すると「自分の被ったこの不幸は神の愛とどう調和するのか?」などという疑問を発するのです。

神様が御子を私たちに賜ったところに神様の愛が啓示されています

   しかし神様の愛は、ふつうの人間的な経験に基づくかぎりは明瞭に理解できるものではありません。神様が愛であることを語る新約聖書の次の箇所では「神様はそのひとり子を世につかわされました。それは、彼によって私たちが活きるようになるためです。ここに私たちに対する神様の愛があらわれています」(「ヨハネの第一の手紙」4章8節以降)と言われています。すなわち、神様の愛は「啓示」としてあらわれているのです。啓示であるがゆえに、神様が知らせてくださらないならば、このことについて私たちは何も知ることができないのです。神様の愛について私たちは、神様は私たちにそのひとり子を与えてくださったという知識を聖書から得ることができます。「私たちが神様を愛したのではなく、神様御自身が私たちを愛してくださって、私たちの罪のための贖いとしてその御子をお遣わしになりました」(「ヨハネの第一の手紙」4章10節)。

 神様はすべてを御自分で遂行なさいました。そして、最愛の御子をも十字架の死から救い出しはなさいませんでした。それはどうしてでしょうか。もしもそうしなければ永遠に救われないままになってしまったはずの「子どもたち」(私たちのこと)を救い出すためでした。このことから私たちは神様の愛の本質を知ることができます。神様の愛とは、神様は真心から人々を愛してくださっているということです。私たちが神様を受け入れない場合に、神様は平静ではおられません。おとなしく身を引くこともありません。成り行きに任せることもありません。また、私たちが誤った選択をした結果生じた不幸を私たちが自分で抱えて苦しみ続けるように放っておくこともありません。「エフライムよ、どうして私はあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ、私はどうしてあなたを見捨てることができようか。どうして私はアドマのように引き渡すことができようか。どうして私はあなたをツェボイムのようにすることができようか。私の心は私のうちに湧き返り、同時に私は憐れみで胸が熱くなっている」(「ホセア書」11章8節)。

 しかしその一方では、傲慢で自己中心な人間を神様がそのまま御自分の御許へと受け入れることもありえません。神様の愛がそうさせないのです。神様の愛はその愛を拒絶したりそれと戦ったりする者皆に対しては「燃え上がる火」として立ち現れます。神様の愛の本質には、愛が愛以外の何かに変わることはできないことも含まれています。

 神様の愛は「自らを犠牲にして人間に届けられる愛」また「永遠の命を失った人々の悲惨な状態を我が事のように受け止めてくれる愛」として到来しました。この愛は神様から離れてしまった人々のもとにまで下降してきて、彼らの苦しみと不幸な境遇を共に担ってくれます。この愛はへりくだり、地面に足蹴にされ、さげすまれ、愚弄される危険にも甘んじます。強い忍耐をもって、この愛は神様と人間とを分け隔てている深い溝の上に橋を架けることができたのです。

 神様の愛の目的は私たちを再び「神様のもの」として勝ち取ることです。それは決して私たちが自らの希望をすべて叶えることではないし、自らの行動のせいで招いた不幸な結果から私たちが守られるということでもありません。たしかに神様はこうしたことを行ってくださる場合もときにはあります。たとえば、絶望した私たちが神様への愛をまったく失ってしまっている場合などにはそうしたこともありえます。もしも神様が人間の願いをすべて叶えてしまうなら、その人はすべてに成功して高収入の仕事と家族の幸福を手に入れることでしょう。しかしそうすると、人間はそれらこの世的な幸福に心をすっかり奪われて神様を忘れ去ってしまうことでしょう。人がまだ救われる希望があるかぎり、神様の愛は私たちに神様への愛と信頼をもたらそうと努めて止むことがありません。それゆえ、神様は独特の仕方で事を運ばれるのです。神様はそのための手段として逆境や病気や個人的な悲しみなどさまざまなことを用いられます。人間の自己中心的な視点からすると、それらは人間的な意味での愛とはまるで正反対のものに映ることでしょう。

 

「聖さ」と「愛」は同じ内容の異なる側面を表しています

 神様の聖さと神様の愛とは神様の二つの異なる特質ではありません。実はそれらは同じ本質の別の側面なのです。愛は聖さでもあり、聖さは愛でもあります。それゆえに、人は神様の愛を避けるべき恐ろしい「燃え上がる火」として経験することがあるのです。神様の愛が人々を探し回っているとき、彼らのほうでは怖くなって逃げ出してしまう場合もあります。それでも、逃避行を続ける中で彼らが奇妙な望郷の念(すなわち永遠の命の世界(天の御国)への郷愁)を覚えることはあるでしょうし、「自分は所有するべき尊い何かを失ってしまっている」と感じることもあるでしょう。

 神様に関して言い表すことのできる他の多くの事柄も、実のところ、神様は聖さであり愛であるという主旋律の変奏に過ぎないことがあります。それでは次に、神様の他の二つの本質を取り上げてじっくり考えることにしましょう。それらはやっかいな問題を引き起こす場合がよくあるからです。

3.4. 神様は永遠なるお方です

「永遠」とは「はじまりもおわりもない」という意味ではありません

 「神様の永遠性」とは神様には始まりも終わりもないという意味である、と説明されることがしばしばあります。神様は今までいつも存在したし、これからもずっと存在するだろう、という考え方です。しかし、これはまったく不十分な説明です。その前提には「時間とは今まで常に存在しこれからも常に存在する永遠な何かであろう」という考えかたがあります。そして、神様とはこの無限の時間の中の無限の広がりをもった何者かである、などと説明されるのです。

 しかし、時間はこの世界に属する性質です。科学はこのことを理解するのを助けてくれます。すなわち、「時間とはこの世界の物質の有する特質のひとつであり、三次元空間の世界に結びついている第四次元の広がりである」と推定する科学的根拠があるのです。時間はこの世界の物質に分ちがたく結び付いている特質であり、あらゆる場所で同じように時を刻む絶対的な指標ではないのです。

 キリスト教の信仰によれば、神様が全宇宙を創造なさったのです。そして、その際に時間も創造されたのです。神様は「時の始まりの前に」存在なさいました。聖書は世界の歴史の終わりについて「もう「時」(ギリシア語で「クロノス」)が存在しない」(「ヨハネの黙示録」10章6節)と証言しています。

 時間と空間の世界に束縛されている私たち人間は、神様が時間を超越する存在であることがどういう意味なのか完全には理解できません。神様は空間より上方におられ、そこから地上を見下ろしてすべてを御自分の目で追跡なさるので、この世のあらゆる出来事は一様に神様の傍で起きていることになる、と考えるのは比較的容易でしょう。私たち自身、世界を長さと高さと幅を計測できる三次元空間として経験できるので、「空間より上方におられる神様」というイメージは人間にはある程度まで具体的にも感覚できるものなのかもしれません。しかしそれと同様に、私たちは神様が時間より上方におられるお方であることをも明確に認識しなければなりません。前述のイメージを用いるなら、いわば神様は歴史という長い織りかけの織物を時間世界の上方からご覧になっておられるのです。過去も現在も未来も同じように神様の傍にあります。私たち人間にとっては時間世界の中ではやり直しがきかない一回的な出来事の長大な連鎖に見えることも、神様の御目には同じひとつの大きな出来事であり、神様はその出来事のそれぞれの過程に等しく働きかけることができます。ここで、もうひとつのイメージを用いて不十分ながらも説明を試みましょう。時間の外に存在し全被造物を全能によって包み込んでおられる創造主にとって、世界の歴史の歩みとは、芸術家が思いのままに整理し配置して最終的には計画通りのイメージを形成するために用いる非常に多数のモザイクピースのようなものです。そして、創造主に祈る人は誰であれこのモザイクの構成に関与することになります。彼らは創造主に祈りが聴かれることを知っています。そして、彼らに起こる物事すべてを祈りの答えとみなします。たとえば手紙が届くこと、客の来訪、経済的な援助を受けることなど彼らが祈るよりも前にすでに用意されていた事柄も含めて、神様から彼らへの祈りの答えととらえるのです。

 「神様の永遠性」とは、神様はいかなる瞬間においても御自分の支配力を及ぼすことができることだ、と短くまとめることができるでしょう。

 「神様の全能性」が一般の人々の関心を惹きつける場合があります。たとえば、それは彼らがこの世の悪と苦しみの問題に直面した時などに起こります。しかし、この問題は天地創造と関連して扱ったほうがよいテーマなので、今はとりあえずこれ以上深入りしないことにします。そのかわり、ここでは神様の全能性に関わるもうひとつのことについて語る必要があります。

3.5. 神様の奇跡について

「説明がつかない事柄はあるが奇跡などは存在しない」というのが科学的な視点です

 ふつう「奇跡」という言葉は自然界の法則と矛盾するように見える出来事のことを意味しています。しかし、こうした定義ではキリスト教的にも科学的にも不十分です。もしも科学者が今までの私たち人間の経験に対して挑戦を突きつける不思議な現象に出会うなら、その観察が本当に正しいかどうか確かめようとするでしょう。そして、観察自体は正しいことに気づく場合には「今のところ説明がつかない現象が起きた」という科学的結論を下すことでしょう。科学者はここで「奇跡が起きた」と言っているのではありません。医者は「ある病気がある時に予期しなかった症候を示した」と診断するだけのことです。このように、神様を意識的に否定する人たちにとっては、神様が物事の推移に働きかけたことを科学的に証明できるほど「奇妙な出来事」はひとつも存在しないのです。たとえ科学者の目の前で何もないところから新しい物質が形成されたとしても、科学者は「今まで知られていない自然界の力が存在する」という以外のことを考える必要はないのです。

奇跡とは神様の特別な働きかけが実在することを示す「しるし」(目に見える証拠)です

 人がある出来事を「奇跡」としてとらえるのは、神様が存在することをその人が何らかの理由から知っており、神様はこの世の出来事に働きかけておられることを信じているからです。キリスト信仰者は奇跡という言葉で何かの「しるし」であるような出来事を意味しています。しるしを通じて神様は御自分がまさに今ここで活動する神であることを私たちに語りかけ示されるのです。

 私たちがとりわけ「奇跡」とみなすのは、起きないはずのことが起きてしまったときに神様が御自分の力を示す何らかのやりかたによってその出来事に働きかけたことがはっきりわかる出来事のことです。祈りが説明しがたい不思議な助けによってかなえられたり、治る見込みがないと診断された病気が治ってしまったりすることなどがその例です。しかし、奇跡にはたんに幸運な偶然が重なっただけのように見える出来事も含まれています。多くの人はそれを「とても運がよかった」としか考えません。しかし、キリスト信仰者にとってそれは神様の働きを証するものなのです。広い意味での奇跡には、神様が共におられることや神様の力の経験を私たちに提供してくれる「神様のあらゆる働き」が含まれています。その意味では、花の美しさ、夕暮れ時の山並みの景色、「マタイ受難曲」の魅力的な演奏などもすべて「神様の奇跡」であるということができます。

奇跡は、それが奇跡であることを信じようとしない者を納得させることがありません

 「神様の奇跡」に関しても、神様について語ったのと同じことがあてはまります。すなわち、神様の真の実在に対して無感覚な人たちがいる、ということです。信じる者にとって奇跡は神様の御業です。しかし、信じない者にとってそれは「説明が難しい奇妙な出来事」にすぎません。不信仰な者にとって奇跡のもつ意味について聖書は次のように語っています。「彼らにはモーセと預言者たちがいるではないか。彼らは彼らの言うことを聴けばよかろう。もしも彼らがモーセや預言者たちのことを聴かないのなら、誰かが死者からよみがえったとしても彼らは信じないだろう」(「ルカによる福音書」16章29、31節)。

 キリスト信仰者は奇跡を信じています。そして、いつもあらゆる出来事に働きかける神様が「私たちへの挨拶」として何か特別な出来事(奇跡)を私たちのために時々行うことがありうると思っています。このような神様の働きかけは通常は科学的にも説明が可能な自然法則の範囲内で行われます。しかし、キリスト信仰者は、自然のあらゆる法則の上方におられる神様は自然法則を破ってでも自ら望まれることを遂行できることを知っています(「詩篇」115篇3節)。

 時間と空間に束縛されている私たち人間にとって、私たちには原因と結果の連鎖に見えることがどのようにして同時に神様の独立した御意志をあらわしているのか理解するのは困難です。しかし、神様が時間の上におられることを私たちはすでに述べました。このことからさらに、神様は原因と結果の法則の上方におられることが帰結します。私たちの目には互いに結合し依存し合う連鎖のように見える諸事象は、神様の御前では、いつか完成するはずの芸術作品の一部をなすモザイクピース群なのです。

3.6. 三位一体なる神様

「神様の三位一体性」はキリスト信仰者の体験に根ざした事実です

 その意味をまもなく後述する「神様の三位一体性」は人間による思索の産物などではありません。それはむしろ私たちが神様と接する際に直面する事実をまとめたものです。聖書の読者は神様が私たちと3つの形で出会われることを知っています。聖書を通して私たちは天の父なる神様と出会います。この方のことについてイエス様には私たちに伝えたいことがたくさんあります。そして、聖書を通して私たちは活ける神様の御子イエス様と出会います。また、聖書を通して私たちは聖霊様とも出会います。この方についてもイエス様には私たちに伝えたいことがたくさんあります。聖霊様は初代教会を自らの賜物と命とで満たしてくださいました。私たちはこれらのお方それぞれにお祈りすることができます。父、御子、御霊は互いに明確に区別される存在です。しかし同時にその一方では、唯一の神様が存在することは不変の真理なのです。

 この唯一の神様が今述べたようなかたちで私たち人間と出会ってくださるのです。キリスト教が誕生して間もない頃の教会は神様との出会いの経験を言いあらわす際に「三位一体」というそれ自体は聖書に登場しない術語を用いました。また、神様の本質を表す3つの位格(「ペルソナ」と呼ばれます)について議論しました。神様は御自分を私たち人間に対して「父」「子」「御霊」として啓示なさったのです。それゆえに、私たちは神様を「三位一体の神様」とお呼びするのです。

「神様の三位一体性」は奥義です

 神様の3つの位格(ペルソナ)について考える際には、それらが互いにばらばらの独立した3つの単体を意味しているのではないことをまず思い起こさなければなりません。「私たち人間の言葉と理解は三位一体の真理を十分に表現して把握するためにはあまりにも貧弱すぎるのはたしかであるが、私たちが用いるこの術語は事の本質を表現できうる範囲内においては適切なものである」といった内容のことをルターは言いました。それをここで思い出しましょう。三位一体は私たち人間には決して完全には理解できないような奥義であることをキリスト教会は常に念頭に置いてきたということができます。人間は啓示を通して神様について何かしらを知ることができるが、そのすべてを知ることはできない、という現実と私たちはここで再び直面します。それでもなお、私たちは、神様を愛し神様にお仕えするために必要なことについては知っている、と言えるのです。

 御父と御子と御霊へのキリスト教の信仰に関するより正確な説明は次章以降にゆずることにします。

1)私たちが神様について知っていることと知らないことの境界はどこにあるのでしょうか? たとえば、私たちは神様についてどのようなことを知ることができないでしょうか?

2)私たちキリスト信仰者は神様をより深く知るために論理に頼って考えるときに、理解が困難な問題に直面することがあります。 たとえば、それはどのようなものですか?

3)「聖」という言葉の意味を具体的に説明するのはとても困難です。 それはなぜでしょうか?

4)神様が聖なるお方であることを聖書は独自のやりかたで描き出しています。 そのひときわ目立つ特徴について例を挙げて説明してください。

5)神様の愛と人間の愛との間にはどのような共通点があるでしょうか? また、どのような違いがあるでしょうか?

6)キリスト教的な信仰は「奇跡」という言葉で何を意味しているのでしょうか?

7)「三位一体なる神様」とはどういう意味でしょうか?

1)次にあげる「詩篇」の箇所から神様をイメージしている表現を集め、内容に応じて分類してください(たとえば、自然に関連したイメージや、人間の生活に関連したイメージなどというように)。
 神様の存在を描写する表現を同じように集めて、それらがこの第3章で取り上げた内容をより明確にするものであるか、それともさらに何か他のことについて語っているものであるか、について考えてみてください。
「詩篇」18篇2~3節、80篇1~4節、96篇4~6節、103篇11~13節、145篇3~9節

2)次にあげる箇所は、ひとつは旧約聖書からもうひとつは新約聖書からのものです。それらを互いに比較してみてください。また、次のことに注目してみてください。 A)神様はどのように描かれているでしょうか?
B)神様が人の近くにおられることはその人にどのような影響を与えますか?
C)神様は御前にいる人間に対してどのようなことを行われるのでしょうか?
「イザヤ書」6章1~8節
「ヨハネの黙示録」1章12~19節

3)次の聖書の箇所は神様の愛について語っているものです。それらの箇所を互いに結びつけてみてください。そして、それらがどのようなことを語っているか、考えてみてください。
「ヨハネによる福音書」17章24~26節
「ローマの信徒への手紙」5章1~8節
「エフェソの信徒への手紙」3章14~21節

4)神様の奇跡について語っている次の箇所を読んでください。
「詩篇」77篇12~21節、98篇1~3節、105篇1~15節、111篇1~10節、136篇1~15節
ここであげられている奇跡を一般的な奇跡についての見解や第3章で取り扱った奇跡の意味と比較し検討してみてください。

5)次の聖書の箇所を読んで、父と子と聖霊が何らかのかたちで記されている箇所のリストを作成してください。
「ヨハネによる福音書」14章15~26節
「エフェソの信徒への手紙」3章14節~4章6節