第8章 聖霊様と信仰

 誰か説明してくれないかな?
 教会に興味をもつようになってその活動に参加するようになったときには、楽しかった。牧師さんも本当に喜んでくれて感謝してくれた。
 でも今は牧師さんの話を聴いていると「私はそもそもキリスト信仰者なのだろうか」という気持ちがわいてくる。
 イエス様が弟子たちに言われていることの大部分は私には全然当てはまらない。 牧師さんには聞く勇気がない。
 彼は私について良すぎるイメージをもっている。
 どうせ私は立派なキリスト信仰者になれないのだから、いっそのこと教会に通うのを止めたほうがよいのかな?

8.1. 方向転換

不信仰から信仰への方向転換は「悔い改め」と同じことです

 「方向転換」というのは神様のほうへ戻るために生きかたの向きを変えることです。方向転換は旧約聖書では進行方向を180度変える完全な方向転換を意味し、新約聖書では心の変化を表す言葉です。これは日本語で「悔い改め」と訳されています。この言葉からふつう人々が連想するイメージは、自分をもっとよい人間にしたり、ある種の欠点をなくしたり、キリスト信仰者にふさわしく見えるふるまいをすることでしょう。具体的には、悪い言葉づかいをやめたり、飲酒をやめたり、教会に通うようになったりすることなどです。

「方向転換」とは生活全体が新しい方向に転換することです

 実は、聖書の教える「方向転換」は上述のどの例ともちがうものです。それらの例はいわば中古車の故障の修理のようなものです。聖書が語る「新生」とは、今まで思いもよらなかった結果をもたらすまったく新しい活動が人間の内側で始まることです。方向転換とは人生の方向を変えることです。以前は神様から引き離そうとする諸々の力に翻弄されていた人の人生の歩みの方角が今やそれまでとはまったく反対になります。また、「心の変化」という言葉で表そうとしているのは、人を支配する力を「古い人」から剥奪してキリストへとお渡しする内なる「新しい人」の変化のことです。

方向転換はある時ある場所で一回だけ起きるのではなく、生涯にわたって持続します

 キリスト信仰者になったときに起きることは生涯で一度だけの出来事ではありません。人間がキリストの御許から離れ去っていく場合には、その変化をさまざまな出来事の連鎖と捉えることができます。同じことが「日々の悔い改め」と呼ばれることについても当てはまります。

8.2. 恵みの秩序

恵みの秩序は、神様の御許へ向かうキリスト信仰者の歩む道がどのようなものかを描いたものです

 「恵みの秩序」とは、悔い改めにおいて何が起きているかをあらわす伝統的なキリスト教用語です。聖霊様が人を「実家に」つまり神様の御許に導かれるときに、その働きかけには多様な側面があります。ルターは「小教理問答書」の「使徒信条」第3部の説明で「自分自身の理性や能力によっては、私の主イエス・キリストを信じることも、その御許に行くこともできないことを、私は信じます。それに対して、聖霊様が地上のすべてのキリスト信仰者を召し集め、照らし、聖とし、イエス・キリストの御許において唯一の正しい信仰のうちに保ってくださるのと同じようにして、聖霊様は福音を通して私を召し上げ、その賜物をもって私を照らし、正しい信仰のうちに私を聖とし、保ってくださることを、私は信じます」と言っています。このようにして、聖霊様の大いなる働きが描写されています。恵みの秩序については、召されること、霊的な理解をいただくこと、義とされること、新しく生まれること、聖とされること、そして、栄光を受けることといったいくつかのキーワードをもとにこれから述べていくことにします。

 今挙げた一連の事項はすべて学ぶ意義のあるものばかりですから、これからそれぞれのキーワードについて学ぶことにしましょう。ただし、栄光を受けることについては最終章で扱うことにします。

恵みの秩序とは、キリスト信仰者が必ず遵守しなければならない固定したパターンではなく、方向転換の際に何が起きているのかを私たちが理解できるよう、また私たちが困難に直面した時にも前向きに生きていけるよう、手立てを与えるものです

 しかし、まず銘記しておくべきなのは、恵みの秩序はキリスト信仰者になるために誰もが経なければならない正確に定められている諸々の段階を教えるものではない、ということです。また、それは正しく制御された「実験」とか「神様の御許まで登っていける梯子」について語るものでもありません。恵みの秩序は、聖霊様が私たちと出会われる時のその働きかけのありかたを経験や聖書に従ってわかりやすく提示したものです。聖霊様の働きかけには大きく分けて二つの面があります。一方では、私たちが信仰へと目覚めるようにする働きかけがあります。これは、聖霊様が私たちをあれこれ世話しながらキリストの御許へと導いてくださる働きです。 他方では、信仰生活の中での働きかけがあります。これは、聖霊様が私たちを霊的な死から免れさせてイエス・キリストへの真の信仰の中に留まれるよう、絶えず細かい配慮をしてくださる働きです。

8.3. 神様の御許への招待

神様は私たちを招いておられます

 「召し」とは新約聖書によれば、神様が私たちを暗闇の中から奇跡のような光の中に召し出して、私たちが神様の子どもとなり、御国の民になることを意味しています(「ペテロの第一の手紙」2章9節)。キリスト信仰者が各々いつはじめてこの招待を受けたのかを特定するのはほぼ不可能に近いことです。その召しは常にあったからです。すでにそれは私たちが洗礼を受けた時にありました。その後の人生の中で私たちはこの召しについて幾度も思い起こす機会を与えられてきました。私たちのうちで、いつイエス様の御名をはじめて聞いたか、おぼえている人がどれだけいるでしょうか?

神様は私たちを探し求めておられます

 ここでは「召し」という言葉によって、ある人たちがある状況で個人的に受けることがある特別な体験をさす場合を考えてみましょう。このようなケースとしては、たとえば何らかの仕方でキリスト教をないがしろにしてきたか、あるいは意識的に神様に背を向けてきた人たちが、ある日特別な状態に入り、そこで神様が彼らに語りかけることや、神様が彼らに期待していることを生々しく経験してしまうことなどがあげられます。その特別な瞬間にいたるまでにも神様はおそらく長い間にわたって彼らを御許へと招待なさっていたでしょう。人生での出来事の背後に、彼らは神様の存在を感じ取りました。彼らは他の人々の人生において神様こそがその人たちの力となっているのを見ました。彼らはおそらく空虚感や人生の無意味さや悲惨さに苦しめられたことでしょう。そして、ある日彼らはふとしたことから御言葉を耳にし、それが突然自分の中で活動し始めるのを体験します。「この御言葉はまさに自分に語りかけている」と彼らは気がつきます。多くの場合、このような体験は感情を揺さぶる非常に強烈なものです。これは「望郷の念」に喩えることもできるでしょう。人は神様の子どもであることがいったいどういう意味かをおぼろげながらも感じ取り、また「そのようになりたい」と望むようになります。

全員が上述のような特別な召命経験を必要としているわけではありません

 特別な召命の出来事はすべての人が経験するものではありません。神様は私たちをすでに洗礼において招待してくださいました。そして、神様はその召しを福音によって絶えず更新しておられます。その召しを素直に聞き入れる者、すなわち神様と関わりを保ちたいと望みその御言葉を聞き入れる者はとりたてて特別な召命体験を必要としていません。特別な召命を受けた人たちにはそのような召しが必要だった、ということなのです。そして、彼らにはその召命にともなって大きな責任も委ねられることになります。主からの召しによって今やすべてが可能となりました。召しを受けた人はキリスト信仰者になることができます。しかしまた、おかしなことになる場合もあります。人は主からの召しを拒絶することもありうるからです。しかも、その召しはその人にとっては最後の機会であったのかもしれないのです。

神様が私たちを探し求めておられる「時」を大切にしましょう

 神様が召される人は何をするべきなのでしょうか?「神様の御言葉と祈りとを熱心に用いるべきである」というのが古くから知られている答えです。召された人は心を定めて自分のことを探しておられる神様を自分のほうでも探し求めるべきです。この際、神様とはどこででも出会えるのではなく、まさに御言葉と教会との関わりの中で出会えることをはっきり覚えておくべきでしょう。定期的に御言葉を聴くことなしに神様の御許に導かれていくような「近道」は存在しません。神様が私たちに語りかけることができる環境に私たちは身をおく必要があるのです。そして、人間のほうでもまた神様に話しかけることができなければなりません。つまり、人は神様に祈り始めるべきなのです。それも、「今なら祈りやすい」と感じる時にだけ祈るのではなく、「私はもう決して神様から離れて生活したりはしない」と厳かに決心して規則的に祈るべきです。

主からの招待が無駄になってしまう場合もあります

 神様からの召しを「感情を揺さぶる強烈な体験」として捉え、それをあたかもキリスト教の本質であるかのように勘違いする人々が出てくる危険はあります。感動的な召命体験をした人はそれを繰り返し経験したいと望むものです。しかしその場合、彼らは必ずや失望を味わうことになるでしょう。感情は一時的なものであり時と共に消え去るものです。私たちが感情に左右されながら信仰生活を送るのは神様の御心ではありません。

 私たちは神様の召しを真剣に受け入れるなら、祈り始めることでしょう。そして、真面目に御言葉を聴くようになるでしょう。そして、その時には何が起きるのでしょうか?

8.4. 律法が照射すること

律法は私たちが自分の悪いところを見るように私たちを照射します

 「照射」とか「明瞭な理解を得ること」という表現を用いて、御言葉に聴き入る者に起こる特別な状態を指すことがあります。この状態において人生は新しい光を得ます。特に自分自身と救い主とに関して、以前と異なる視点で見つめ直すようになります。

 まず、人は自分のことを新しい光の中で見るようになります。その人は、神様が自分に要求している事柄が正当なものであって、自分には変えなければいけない点がたくさんあることを理解します。このことを「律法による照射」と呼ぶことにしましょう。ふつう律法は神様の御言葉の中でも聞いて理解しやすい部分です。律法は人間の日常生活に関するものだからです。しかし人は、良心の平和を掻き乱されるような問題に出会うとき、それまでの生き方を変え始めるようになります。

また、私たちの中にある自己中心的な心も明らかになります

 「律法による照射の道を歩んでいけば、少しずつより善い人間になれるし、これでキリスト信仰者になれる」と思い込んでいるキリスト教徒が多いようです。しかし、神様の御言葉を厳粛に受け止めるとき、「自分は大きな失敗をした」と感じるような出来事に人は直面するものです。なぜならその際、人は自身の腐敗した状態に気づかざるを得なくなるからです。

 外側からはっきり見てわかる間違いなら、人はある程度それを修正することができます。ところが、キリスト信仰者は心の中に自分の力では取り除くことも変えることもできないものを見出します。たしかにキリスト信仰者は自らの心の中に住む罪がさまざまな形態をとって表面化するのを抑制する術をある程度までは学ぶことができるでしょう。他の人たちに冷たく接するのをやめたり、彼らについて悪口を話すのをやめたりすることはできるでしょうし、他の人たちを犠牲にして私益を追求するのを止めることもできるかもしれません。しかし、神様を他の何よりも心から愛することや、すべての人を自分自身と同じくらい愛せるように自らの心のありかたを本質的に変えることはできません。キリスト信仰者が他の何よりもましてこのような人間になることを望んでいる場合であっても、それと同時に一方では、そのような人間になることを望まない何かが彼らの心の中に付着しているのです。

自分の力に頼って「よいキリスト信仰者」になろうとする試みは結局のところ失敗します

 この矛盾に気が付いたキリスト信仰者はしばしば心の動揺を覚えます。そして、「キリスト教は自分の期待を裏切った」と考える人たちさえいます。彼らにとってキリスト教は誰にも実行不可能な無理難題を要求する宗教に感じられるのです。自分自身に絶望してしまう人も出てきます。彼らは皆「よい人間つまり真のキリスト信仰者になるためには自分自身を(もちろん)神様の助けによって変えていかなければならない」という考えかたから出発しています。しかし、この試みが実現不可能であると知ったとき、それをやってみた人は「自分は失敗した」と感じるのです。こうした理由から、キリスト教を非難する人もいれば、自分自身を責める人もいます。

 もしも人々が上述のような状況の中で「真のキリスト信仰者になるのは不可能である」という結論に到るなら、それはある意味でまったく正しいのです。彼らは聖書が「行いによる義」とか「律法による義」と呼ぶことを実行してみました。それは成功しませんでしたし、決して成功することもありません。にもかかわらず、律法は必要不可欠なものなのです。「自分の力でがんばってみたが失敗した」という経験なしには、救い主イエス様が私たちのために成し遂げられた御業の意味を理解できないでしょうし、それを素直に受け入れることもできないでしょうから。

霊的な貧困について

 今までの自分とは違った人間になろうとする努力が完全な失敗に終わったと感じている人の状態は「霊的な貧困」と呼ばれることがあります。キリスト信仰者は皆、これと似たような経験をするものです。しかし、人が何を霊的な貧困と感じたかを過大評価するのも問題です。

本当の悔い改め

 「悔い改め」についての福音ルーテル・キリスト教会の教えは次のようなものです。 「天の父なる神様は、信仰に目覚めた人間が御自分の方へと向き直って自らの罪を告白することを待っておられます。信仰に目覚めた人はキリストのゆえに自らの罪を赦していただけるように祈り求め、罪を捨て去るための力を乞い求めます」。 罪を悔いる心や「罪を犯してしまった」という心の動揺は、個々の人の性格の違いもあいまって人により異なったかたちであらわれます。人が罪を悔いる心を本当にもっていることを最も明瞭に示す証拠は、その人が自らの罪のゆえに嘆き苦痛を感じていることではなく、「自分の罪から解放されたい」という願いです。

 罪を悔いる心だけでは、誰ひとりキリスト信仰者にはなりません。イスカリオテのユダにはイエス様を裏切った罪を本心から悔いていたことを示唆する証拠があります。彼は自らの罪を告白し、嘆き、その罪が惹起した心の呵責から解放されたいと願いました。にもかかわらず、彼の末路は惨めなものでした(「マタイによる福音書」27章3~5節)。人は自らの悪い点を見つめ始めたその瞬間にこそ、福音を聴き入れて信じることが絶対に必要になります。さもないと、ユダのような絶望的な罪の呵責に苛まれ続けることになります。まさにそれゆえに、罪を告発する律法と罪の赦しを約束する福音とは互いに寄り添うようにして聖書全体を貫通しているのです。私たちは御言葉を聴く時に、たんに律法に照射されているだけではありません。福音によっても照射されているのです。このことを忘れないようにしましょう。

8.5. 福音が照射すること

 福音は私たちがキリストの真のお姿を見る大切さを教えてくれます。それによって、キリストが何をしてくださったのか、私たちはわかるようになります。キリストはそれを「私のために」してくださったことを「私は」理解するようになるのです。聖霊様の一番大切な職務は、イエス様が弟子たちに言われているように、キリストに栄光を帰することです(「ヨハネによる福音書」16章14節)。聖書講座「信仰のABC」の一貫したテーマは、私たちが何を信じ何を理解するように福音は教えているか、ということです。そして、このことから私たちの最も深い個人的な経験と確信が生まれてきます。

真の信仰

 「真の信仰」にもそれを証拠立てるしるしがあります。それはキリストへの信仰です。そこには「信仰がないとむなしく思う」とか「キリストなしではやっていけない」という郷愁の思いがよくあらわれています。人間はキリストなしには霊的に活きていけません。人間はキリストを必要としているのです。信仰には「信仰に基づく信頼」と呼ばれる特徴も含まれています。信仰者には「キリストのゆえに私は神様の子どもと認められている」とはっきり信頼する勇気が与えられます。

信仰は「私たちの中にある力」というよりも、むしろキリストが満たしてくださる「私たちの中にある空洞」です

 信仰は「私たちが自分で何かを成し遂げること」ではありません。むしろそれは、キリストのみが満たすことができる「空っぽさ」、「必要なもの」、「欠けているもの」とでも呼べるものです。信仰は贈り物を受け取る「空っぽな手」にたとえることができるでしょう。「自分には何も欠けることがなく、助けも必要ではない」と思い込んでいるかぎり、人は信じるようにはなりません。だからこそ、律法には大切な意味があるのです。律法は私たちをキリストの御許に追い込みます。律法は私たちにとって「キリストへと導く養育者」になりました(「ガラテアの信徒への手紙」3章24節)。律法は、私たちには何が欠けているかを教えてくれます。ここに律法の照射の意味があります。「信仰は霊的な貧困から生まれる」とよく言われます。信仰はまた「人間が自らの罪もろともイエス様の御許に赴くことである」とも定義されています。イエス様の御許に赴くことこそが信仰である、とイエス様は教えてくださいました(「ヨハネによる福音書」6章35節)。

 信仰生活を始めた人において起きている出来事を、新約聖書は「義認」や「新生」と名づけています。これらの用語は同じ事柄の別の側面をあらわしています。

8.6. 義認

 「義認」は新約聖書における最も重要な用語のひとつです。宗教改革者たちは福音の核心として、人間は行いによってではなくイエス様への信仰によって義と認められることを強調しました。

 義認とはいったい何でしょうか?

義認は経験ではありません

 まず私たちがはっきりと心に刻まなければならないのは、この事柄は人間が経験できるようなものとは一切関係がない、ということです。なぜなら、義認は天において神様の御許で起きている出来事だからです。

 聖書で「義」と訳されている言葉は「正しさ」や「公正さ」という意味をもっています。「神様の義」とは、神様は善に報い悪を罰する絶対的に公正なお方であるということです。また「義なる人」とは、なすべき義務を果たし、神様の公正な検査と裁定を受けても罰を受けない公正な存在のことです。義なる人は神様が正当な権利に基づいて人間に要求なさる事柄を完全に実現したのです。義なる人は神様の裁きにおいて無罪とされ、神様の御国に入るのにふさわしい者とみなされています。

 しかし、人間は自分の行いによってはこのような存在には決してなれません。人はどれほど努力してみたところで、神様から要求されるのが当前の事柄を完全に達成することができません。人間は「神様を他の何よりも愛しなさい」と「隣り人を自分と同じように愛しなさい」という愛の戒めを完全に守ることが決してできません。それどころか、人間の罪の呵責は次第に増していくばかりです。なぜなら、人間は一番大切な第一戒を一瞬たりとも守ることができないからです。

キリストが義であるゆえに私たちは義と認められるのです

 そもそも人間が義と認められることが可能なのは、キリストが人間を御自分の義に与るように計らうことができるからです。キリストは律法をあらゆる面で完全に実行してくださいました。キリストは私たち人間にとっても真の模範となる正しい生き方をなさいました。そして、キリストの義は「私たちのもの」にもなりうるものなのです。イエス様は御自分の命、喜び、平和を私たちにプレゼントすることができます。それと同じように、キリストは私たちに御自分の義もプレゼントすることができるのです。新約聖書によれば、これはキリストの義が「私たちの所有するもの」とみなされることによって実現されます。私たちの罪過は「私たちに属するもの」とはみなされず、そのかわりにキリストの義が「私たちに属するもの」と認められるのです(「ローマの信徒への手紙」4章6節、「コリントの信徒への第二の手紙」5章19節)。義認が天において神様の御許で実現する、というのはこのことを意味しています。

 それでは、いったい誰が義と認められるのでしょうか?

私たちがキリストを信じるときに!

 聖書は答えます。信じる者は誰であれ、義と認められます。信仰とはキリストと交わりをもつことです。この交わりが私たちに「キリスト御自身のもの」を「私たちのもの」とする可能性を与えてくれます。信仰は私たちが自分で何かを達成することではありません。信仰とは、キリストが私たちに与えようと望まれることを私たちがすすんで受け入れたくさせる「開かれた心」のことです。

 人間は義と認められるときに、すべての罪を赦していただけます。その人は再び神様との正しい関係を回復したのです。神様との敵対関係は解消され、神様から私たちを引き離そうとするものはもはや何もありません。

 義認は天において実現します。それは人を無罪と宣告する裁定です。しかし、その裁定の結果はこの地上でも見て取ることができます。

8.7. 再生(キリスト信仰者として新しく生まれること)

再生とはキリストを受け入れることです

 キリストの義に信じてあずかるようになった人のうちに起きる出来事を「再生」と言います。これは「刷新」や「新たな創造」とも言われます。「(すべてが)新しくなったのです」とパウロは言います(「コリントの信徒の第二の手紙」5章17節)。ところで、これはどのような新しさなのでしょうか?

 それは、なによりもまずキリスト御自身のことを指しています。信仰が神様との交わりであることを、私たちは今まで幾度も強調してきました。キリストを信じることはキリストとの目には見えない交わりを保つことです。ルターは信仰を「キリストが住んでおられる雲」にたとえました。もしも人間の心の中にキリストへの信仰があるならば、そこにはキリストもいらっしゃいます。

再生しても、私たちの罪深さは消え去りません

 「再生」は人がまったく別の存在になるということではありません。罪による腐敗(原罪)は人間の内部に常に残存しています。人の心の奥底には、以前とまったく同じく、悪への嗜好や自己中心的な意志が絶えず活動を続けています。それにもかかわらず、何か決定的なことが起きたのはたしかなのです。再生において「古い人」の傍らに「新しい人」があらわれたのです。この「新しい人」を私たちはすでに洗礼において自分のうちに迎え入れました。そして、信仰に目覚めた今、この新しい人が生き返ったのです。新しい人の生き方は古い人の生き方とは違います。新しい人はキリストを愛しており、キリストに従い仕えたいと望みます。要するに、キリスト信仰者の内側には古い人と新しい人が共存しているのです。

義と認められた人間は、自ら抱えている罪悪感と、罪が受けるべき厳しい裁きから解放されています

 人間はキリストを信じるようになると、罪の罪悪感と、罪がもたらすはずの(永遠の死という)罰から解放されます。ただし、罪が通常の意味での犯罪の場合には、この世での裁判に基づく処罰が執行されます。もしもキリスト信仰者が「自分が今受けている苦しみや人生がいろいろとうまくいかないことは自分が過去に行った罪のもたらした罰である」と考えているならば、それは誤りです。洗礼で神様の子どもになり、イエス様への信仰に従ってこの事実(罪の罪悪感と罰からの解放)を受け入れて告白する人すなわち「キリストにある人」には本当に罰がなくなっているからです(「ローマの信徒への手紙」8章1節、32~34節)。その罰はキリストが私たちの代わりに引き受けてくださったのです。そして、それは私たちに神様の平和をあたえてくださるためでした(「イザヤ書」53章5節)。

キリスト信仰者の罪深さはその人自身の内部に依然として染み付いていますが、その人を完全に支配してしまうことはもはやありません

 キリスト信仰者の内部にも古い人が自己中心的な欲望と共に残存しています。しかし、古い人からはすでに支配力が消えています。信仰に入る以前であれば、内なる古い人が好き勝手に人間を支配して命令することができました。しかし、今やそれはキリストという存在に出会い、打ち負かされたのです。これは、私たちの内部にある「神様に反抗する力」にはもはや「操縦桿」がなくなっていることを意味します。もちろん、依然としてそれらは活動を続けており、絶えずその存在を私たちに思い出させます。しかし、人がイエス様を信じ続けるかぎり、その人を支配する最終的な決定権はキリストが掌握しておられます。

8.8. 聖化

 「聖化」という言葉は、聖霊様が人の心の中で行われるすべての事柄を指すものと考えてよいでしょう。この言葉はたとえばマルティン・ルターの「教理問答書」の中で用いられており、聖霊様の働きに関する「使徒信条」の第3部のタイトルにもなっています。

聖化とは、不信仰から信仰へと人生の方向転換をした人間の内部で聖霊様が行われる御業のことです

 聖化を恵みの秩序のひとつとして見る場合、それは不信仰から信仰へと人生を方向転換した人を聖霊様が守り導いてくださる働き全般をさしています。

聖化はキリスト信仰者をまったく罪のない状態に導くものではありません

 「聖化とは、たゆむことなく着実に善い人間になっていくことである」と律法的あるいは道徳的に理解されることがしばしばあります。「この過程の中でキリスト信仰者は、正しいキリスト教の確かな目印である「罪なき状態」へと次第に近づいていくのだ」というのです。しかし、福音はそれとは違うことを教えています。古い人はいまだにキリスト信仰者の内部に残っているので、その人は生涯を通じて罪深い存在であり続けます。そして、私たちは絶えず心の中での戦いを継続していかなければなりません。「なぜなら、肉の欲することは御霊に反し、また御霊の欲されていることは肉に反しているからです。すなわち、これらは互いに反しあっています。それは、あなたたちが自分のやりたいことをせずにいるためなのです」(「ガラテアの信徒への手紙」5章17節)。

 聖化とは、人間が霊的な戦いにおいて常に繰り返し御霊の側へとつき、古い人に対して「否」と言うことです。それは苦しいことであるかもしれません。しかし、「肉」は十字架につけてしまわなければなりません(「ガラテアの信徒への手紙」5章24節)。この霊的な戦いでは敗北を喫する場合もあるでしょう。理解が足りなかったり、きちんと考えなかったり、自分を十分に吟味しなかったり、鈍かったり、やるべきことをすぐにやらなかったりして、私たちは様々な罪過に陥ったり、本来やるべきことを無視したりします。それらについては、あとからきちんと罪の赦しを乞わなければなりません。

聖化とは、日々悔い改めて生活することです

 聖化とは、日々の方向転換、日々の悔い改め、洗礼の恵みへと戻ることであるともいえます。聖化においては、聖霊様が人間を神様の御許に導く際に行われるすべてのことが繰り返されます。私たちは主からの新たな召しを受けることができます。また、律法は絶えず私たちに私たち自身の罪や腐敗を思い起こさせます。しかし、何にもまして聖霊様は、私たちが繰り返しイエス様を見つめてイエス様の御許に避難するように助けてくださいます。

 たしかに聖化は「完全な状態に向かう弛みのない前進」などではないにしても、何年にもわたって信仰の中に生きている人たちには信仰者としての成長と深まりが見られるようになります。

聖化とは、古い人が勝手な振る舞いをしないように監督することです

 そうした成長のあらわれとして、古い人が支配下に置かれることを第一にあげることができます。「私の中に住む罪」(「ローマの信徒への手紙」7章17節)は行いによる罪としては表面化しにくくなります。キリスト信仰者は自己中心的な心がひそかにうごめき始めた初期の段階で、その真の動機や願望に気がついて明るみに出すという鍛錬に習熟していくからです。

聖化に関わる体験が豊富になっていきます

 次に、キリスト信仰者としての性質が生み出され成長していきます。仕事、余暇、意見、知識、技術など、自分が行うすべてのことを救い主イエス様の御許に委ね続けていくときに、私たちはあらゆる事象をよりいっそう「キリストの目」を通して見るようになります。キリスト信仰者の性質を形成する素になる大部分は、信仰生活を通じて少しずつ収集されてきた体験です。人は主キリストの御前で常に自らを吟味してすべてをイエス様に打ち明けるときに、そうした経験が得られていくのです。

聖化を通じて信仰が強められていきます

 第三に、「恵みの中での成長」と呼ばれる事柄があります。キリストについての経験と私たちの内でのキリストの働きかけについての経験が増していくにつれて、イエス様は私たちにとってよりいっそうかけがえのない存在になっていきます。それとともに、私たちはキリストの無限の愛に驚嘆するようにもなります。イエス様の忠実さを見るにつれ、いっそう私たちは信仰が強められていきます。こうした経路をたどるうちに、私たち自身にも将来起こる復活へのゆるぎのない落ち着いた信仰が生まれます。そして、死を目前に控えていても限りのない安心に包まれるようになっていきます。

 人間は自分で自分の心の奥底を見つめてみても、そこにほとんど何も見出さないものです。自らの内に起きている聖化を鏡に映すようにして自分の目で確認することはできません。その代わりに、キリスト信仰者は、自分が罪人であり罪の赦しに完全に依存していることをより強く確信するようになります。そして、この罪の赦しを驚きつつも感謝し受け入れていくようになります。さらに、キリストへのゆるがない信頼を得ます。かつてあるキリスト信仰者が私たちの魂を慰めるために「キリスト信仰者は「あの方(イエス様のこと)は大きくなり、私は小さくなっていかなければならない」(「ヨハネによる福音書」3章30節)と言った洗礼者ヨハネのような存在でなければなりません」と言ったのはとても適切な表現でした。

8.9. 聖霊様からの贈り物

私たちへの多様な賜物の中に聖霊様は御自身を啓示されます

 聖霊様の働きは信仰を起こし、深め、強めることです。この御業を聖霊様はすべてのキリスト信仰者の中で行っておられます。この働きに加えて、ある一部の人たちだけがいただく特別な「霊的な賜物」というものが存在します。これらの賜物は初期の教会で大きな意味を持っていました。これら霊的な賜物のうちの幾つかは人々の注目を集める尋常ならざるものでした。それらは「しるし」すなわち、キリスト教の真理を証するものとして理解されました。その例を挙げるなら、病気を癒す恵みの賜物、奇跡を行う賜物、異言で話すことなどです(「コリントの信徒への第一の手紙」12章7節以降)。これらの賜物と比べれば驚くほどではないものの、深みの点では前者に引けを取らない素晴らしい価値をもつ賜物もあります。例えば、知恵ある言葉を話すこと、援助すること、指導監督することなどです(「コリントの信徒への第一の手紙」12章28節)。

 これらの御霊の賜物がキリスト信仰者ひとりひとりに彼らの益となるために与えられていることをパウロは強調しました。賜物を受けたキリスト信仰者たちの一致によって教会が建てられていくことが、その目的でした(「コリントの信徒への第一の手紙」14章19,26節)。パウロは、賜物の幾つかは時が来れば消え去っていくものであるとも言っています(「コリントの信徒への第一の手紙」13章8節)。そうした賜物は、ある特定な時期にかぎって大切な意味を持っています。また、すべての賜物は、それらが本当に役立つものとなるために御言葉と絶えず連携していなければなりません。賜物は「御言葉(福音)に伴うしるし」なのです(「マルコによる福音書」16章17節以降、「使徒言行録」14章3節、「ヘブライの信徒への手紙」2章3節以降)。さらに、それらは愛とも密接にかかわっています。もしもそうでないならば、それらはただの「耳障りな音」にすぎません(「コリントの信徒への第一の手紙」13章1節以降)。

 この聖書講座の第7章のはじめで、「どうして聖霊様は多くの人にとってあいまいな存在なのか」という疑問を私たちは投げかけました。そしてまた、聖霊様は教会の中でのみ、恵みの手段を通してのみ働かれることを強調しました。今や私たちはこの聖霊様の働きに加えて「聖霊様は御自分の賜物においても御自分を啓示される」と言うことができます。しかも、この啓示は明瞭に見て取れるような仕方で示されることも時折あります。しかし、これも個別の教会においてのみ起こることです。とはいえ、聖霊様の働きによる特に目立つ賜物が現出するところからばかり聖霊様を探そうとする姿勢にも危険が伴います。聖霊様がその本来の御業を行われるようにすっかりお委ねすることが私たちにとっては大切なことなのです。聖霊様はこの御業をすべての人間に対して遂行するために御父と御子から遣わされています。その御業とは、聖霊様がキリストへの信仰を創生することに他なりません。これほど重要な任務のゆえに、私たちは今まで言葉を重ねて聖霊様のこの働きかけについて語ってきたのです。

 聖霊様の賜物は「活ける教会」のある場所ならどこにでもあります。それは私たちの現代世界においても変わりません。しかし、聖霊様の賜物の中のどのようなものが今どこであらわれるべきか命令する権限は人間にはありません。このことに関連して、二重の危険が存在します。第一の危険は、御霊の賜物をその本来の価値よりも低く評価する危険です。北欧のように国民の大多数がルター派教会に属しているいわゆる「国民教会」ではこのような傾向があります。第二の危険は、ある特定の恵みの賜物のみを強調しすぎる危険です。これは御霊の超自然的な働きを重要視する教会において見受けられます。

8.10. 信仰教育を重視するキリスト教と、信仰復興運動を強調するキリスト教

 キリスト教には、信仰復興運動(リヴァィヴァル)および人生の方向転換を強調するキリスト教と、信仰教育を重視するキリスト教というふたつの流れがあります。

悔い改めが長期間にわたるプロセスであることを踏まえた上で、教会は悔い改めの必要を宣べ伝えます

 北欧のルター派国民教会がその端的な例ですが、多くの会員を抱える教会は「悔い改めは必ずしも必要ではない」と主張するキリスト教の代表格とみなされることが一般的にあります。しかし、これまで見てきたようにこのような見方は間違いです。教会にはちゃんと人生の方向転換についての教えがあります。しかし、この教えによると方向転換とは、人間がその人生を変えるような決断を下すというたんなる強烈な体験よりも深い何かを意味しています。たしかに悔い改めはそのような忘れがたい体験によって始まる場合もあるかもしれません。しかしその後にも、人間がイエス様への真の信仰をいただくようになるまで、聖霊様にはたくさんなさることがあるのです。

悔い改めのプロセスにおいては、私たちが救いにいたる信仰生活を歩む上での障害物はすべて取り除いていかなければなりません

 この聖霊様の多様な働きは「救いへの障害」と呼ばれる事柄と関係があります。それらの障害には3種類あります。

 1番目は、神様の御言葉と祈りを軽んじることです。ある人たちがキリスト信仰者になろうとさえしない理由はここにあります。有無をいわせぬ神様の強力な召命がこの障害を取り除く場合があります。こうした召しを人は人生の岐路で経験し、それを「霊的な覚醒」とか「方向転換」とか名づけたりします。しかし、障害を取り除くのはこのような神様の召しだけであるとは限りません。圧倒的な体験をしなくても、また特定の時に起きた特別な出来事と関わらなくとも、神様の御言葉を用いたり祈ったりするというよい習慣を身に付け守っていくことで障害は取り除かれていきます。イエス様の弟子でありたいと望むようになった人にとっても、最も大切なことがまだこれから先の人生に待っている場合もあるでしょう。

 2番目のやっかいな救いの障害は「罪や世への執着」と呼ばれています。それは、私たち人間に染み付いている、自分の利益を最優先させようとする生来の傾向のことです。私たち人間はほうっておけば、神様や隣り人から離れてしまう危険を犯してでも私益を追求して止むことがない存在です。実は私たちが神様や隣り人よりも自分自身を愛していることは、自らの日常生活を顧みさえすればわかることです。この現実を神様の律法の力によって自分でもはっきり見れるようになるために、私たちは長期にわたる信仰教育を受け続ける必要があります。

 たとえ律法が人間のこうした自己中心性を私たちに示すことができたとしても、まだ第3の救いの障害があります。それは、人間が自らの義にしがみつき不信仰に留まり続けることです。この傾向のせいで、私たちは神様の御前で自己正当化に役立つ「自分の内にある何か」を提示することで、自分の善行が受けるべき報酬として神様の恵みを得ようと努めます。人が「報酬」としてではなく「無代価の贈り物」として神様の恵みを最も必要としている時に、この障害はとりわけやっかいなものとして私たちの目の前に立ちはだかります。この障害を乗り越えるためには、神様の御霊が私たちの中で働きかけて、人が自らの信仰を自らの力による成果として神様に誇示しようとするときに、自分自身のいかなる努力、厳格さ、謙虚さ、さらには信仰でさえもがまったく役に立たないことを私たちに明示してくださる必要があります。聖霊様は、私たちがキリスト以外に頼りにしているあらゆるものをひとつひとつ私たちから取り除いていってくださいます。

 ですから、もしもキリスト信仰者になることが意識的に神様との交わりを保って神様に仕えるのを望むことという意味であるのなら、私たちはキリスト信仰者になった後にもまだたくさん学ぶことがあるとわかります。そして、この新しい学びも方向転換の一部なのです。

8.11. キリスト信仰者は何ができるのでしょうか?

キリスト信仰者は神様の御言葉を聴き、読まなければなりません

 キリスト信仰者になることも、キリスト信仰者として生きることも、はじめからおわりまで聖霊様の働きかけによるものです。私たち人間は信仰を自分のためにつかみ取ることができません。神様が信仰を私たちの内に創生してくださらなければなりません。要するに、私たちは自分が救われるためには何もできないのです。しかし、このことを他の角度から見てみると、たしかに私たち人間も何かができるわけだし、またしなければならないこともわかります。

 最初に私たちがやるべきことは、聖書を聴いたり読んだりしてそれを神様の御言葉として受け入れることです。このことは、人生のはじめからおわりまでしっかりと心に刻んでおかなければなりません。私たちは自分が神様の御許へと向かう道の今どの辺りにいるかをはっきり知ることができません。神様の御言葉は私たちが天国への道を前進していくために、いつも変わることなく大切なものです。それゆえに、聖書を読むことや礼拝に参加することは信仰生活を送る上で決定的ともいえる意味を持っています。

キリスト信仰者は目を覚ましていて、祈り戦わなければなりません

 さらに、私たちは目を覚ましていて、祈り戦わなければなりません。目を覚ましていることとは、「御言葉の鏡」を前にして自らをよく見つめ絶えず明るみにさらすべきもの、すなわちキリストが与えてくださる罪の赦しの恵みの中へと沈めてしまわなければならないものが私たちの内部に存在する事実を忘れないことです。

 このように御言葉が私たちに語りかけることができる環境を整えるときに、私たちはさらに祈りを通して神様に語りかけすべてを打ち明ける習慣を身に付けていかなければなりません。子どもっぽく話したり、たどたどしい言葉を用いたり、自分の言葉で祈ったり、祈りの本を使うにしても、私たちは日々一定の時間を祈りのために用いることに決めて、神様と規則的に話し合う必要があります。私たちは日常生活の中でも祈るべきだし、とりわけ選択を迫られる出来事や決断や困難に遭遇した時にこそ祈るべきなのです。

 ここで「戦い」という言葉は、私たち人間がこの世に生きている間は内なる古い人との戦いから決して解放されることがなく、誘惑に対して抵抗し続けなければならない信仰者の現実を思い起こさせます。

キリスト信仰者は聖餐式に頻繁に参加するべきです

 また、私たちは聖餐式に参加しなければなりません。しかも頻繁に。次章では、聖餐式とは何であり、何を与えてくれるものかについて説明します。ここでは聖餐式が日常生活にどのような意味を持っているのかを指摘するにとどめます。心が聖餐式に深く結び付けられて、そこから霊的な栄養を摂取するようになり、救い主イエス様とその場で出会えることを知っているキリスト信仰者は、聖餐式に参加することで日常生活の生活道徳も基礎がしっかりし、強められていきます。してもよいのはどのようなことか、何をしなければならないのか、また何をしてはいけないのか、といったことが不思議なほどはっきりわかってきます。どのような人生の分かれ道に直面しても、自分を聖餐式へと連れ戻してくれる道がどれであるかをキリスト信仰者の本性に従って探し求めるなら、正しい道を選ぶのがいっそう容易になることでしょう。

 「私たちは何ができるのか、また何をしなければならないのか」と言うと、律法的な話に聞こえるものです。しかし、「キリストは何をしてくださったのか、また何をしてくださっているのか」を大切にするとき、キリスト信仰者は喜ばしい充実した意義深い生活を送ることができるようになります。イエス様は人間を罪の圧制の下から買い戻し解放してくださいました。そして、神様の御言葉と聖霊様に心を開いている人には、いつでも何度でも信仰の賜物を分け与えてくださるのです。キリストがくださる信仰は、私たちが「キリストのもの」としてイエス様にお仕えできることを喜ぶ信仰です。それゆえ、この信仰は活きて働く信仰であり、日常生活の中においても具体的な愛の行いとしてあらわれます。

「悔い改め」や「方向転換」という言葉はどういう意味なのでしょうか? これらの言葉の間には何か違いがあるのでしょうか?

いろいろな方法で神様は人間を招いておられます。 たとえば、どのような方法によってでしょうか?

律法は何を照射しますか? 福音は何を照射しますか?

「義認」や「再生」という言葉はどういう意味でしょうか? また、それらは互いにどのような関係にありますか?

真に罪を悔いる心や信仰がある時に、それらは具体的にどのような形で現れますか?

福音によれば、人間が自分の救いのためにできないことは何でしょうか? また、できることは何でしょうか?

1)次にあげる聖書の箇所から「方向転換」あるいは「悔い改め」が新約聖書でどのような意味をもっているかについて知ることができます。
「マタイによる福音書」3章2節、4章17節
「マルコによる福音書」1章15節
「ルカによる福音書」24章46~47節
「使徒言行録」2章38節、3章26節、17章30節
これらの箇所では、誰が誰に対して語っていますか?
これらの箇所に基づいて、方向転換がキリスト教のメッセージにおいて担っている役割を考えてみてください。

2)次にあげる聖書の箇所には、さまざまな霊的な状態にある人々が描かれています。またそれらの箇所では、どのようにして神様の御言葉が彼らと出会い、どのように彼らが御言葉に応答したかが描かれています。
これらの箇所が方向転換のどの段階に対応しているかを考えてみてください。
「マルコによる福音書」6章20節
「ルカによる福音書」9章59~62節
「使徒言行録」16章13~15節
「サムエル記下」12章1~13節
「ガラテアの信徒への手紙」2章19~21節、5章13~18節

3)「ローマの信徒への手紙」3章19~26節と7章7~25節を読み、これらの箇所に基づいて次の質問に答えてみてください。
A)これらの箇所では、律法にはどのような役割が与えられていますか?
B)これらの箇所では、私たちが「罪深さ」と名づけているものをどのように描いていますか?
C)どのようにして、また誰のおかげで義認は実現するのでしょうか?
義認はどのようなことに基づいているのでしょうか?
義認は何を通して実現しますか?