エフェソの信徒への手紙3章

フィンランド語原版執筆者: 
ペトリ・トゥレン(フィンランド・ルーテル福音教会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

鎖につながれた幸いなる者

 はじめのふたつの章で、パウロは読者を神様の恵みのみわざの奥義へと導きました。今回取り扱う第3章で、パウロは神様の大いなる御計画をおさらいしています。とりわけ感動的なのは、無実の罪で鎖につながれた男が、自らの身の上をちっとも苦にすることなく、喜びながら熱心にこの手紙を書いている姿です。

3章1~13節 「特別待遇」を受けた者

 パウロははじめの節で綴り始めた文章の内容を一旦中断して別の事柄に移っていきます。こうした書き方はパウロによく見られます。パウロは手紙を力強く書きすすめているとき、書いている内容に没頭しています。ところが、まもなく新しいことがらが彼の心をとらえはじめます。彼の言葉は心から素直に出てきています。だからこそ、それは私たちにとって愛着のわく言葉になっているのです。

 2~7節では、福音は人間から出た教えではないことが再び強調されています。福音は神様の御心によって世界を自分のものとするために活動しているのです。パウロもまた、熟慮を重ねた上で福音を宣べ伝えはじめたのではありません。神様は使徒や預言者たちに「奥義」をあきらかにしてくださいました。その奥義は神様の御意思の究めがたい深みの中にはじめから存在したものです。神様のもともとの御計画は、すべての人をキリストにおいてひとつの民として御許に招くことでした。この計画は人間の世界での幾多の世代交代を通じてずっと秘密にされてきました。神様は救いのみわざをある特定の民の中で準備なさいました。イスラエルだけが神様に属す民とされ、他の諸国民は蚊帳の外に追いやられていたのです。神様の隠された御計画に基づいて、万事はただひとつの時、ひとつの大いなる出来事へと収斂していきます。この計画によれば、堕落した人間世界全体はキリストにあって「神様のもの」としてあがなわれ、その結果としてユダヤ人も異邦人も一緒にキリストの教会を形成するようになるのです。キリストのみわざは、ただひとつの国民や数人の特別な人物だけに関わるものではなく、世界全体を包み込む広がりをもっています。その中には今聖書を学んでいる私たちも含まれています。キリストのみわざが私たちにも関わりがあるという事実を、私たちが勝手に変更するのは不可能です。私たちにできることは、キリストのあがないのみわざを敬うか、それとも、それを自分とは無関係なものとみなして否定し滅びの道を選ぶか、のどちらかしかありません。

 いくつかのわずかな言葉によって、「エフェソの信徒への手紙」は私たちに聖書全体の「鍵」を提供してくれます。旧約聖書全体は「イエス・キリスト」という未来を目指して進んでいきます。旧約聖書の中には、旧約の時代の状況のみに関連していて今の私たちには関わりがない事項も含まれています。たとえば、モーセの律法の犠牲をささげる儀式の規定などがそうです。神様の大いなる救いの御計画こそが旧約聖書の核心的な内容です。そして、この内容が現代の私たちにとっても旧約聖書を言葉では表現できないほど大切な存在にします。今の大多数の人にとって、旧約聖書は親しみを抱かせる書物ではありません。しかし「エフェソの信徒への手紙」を読むときに、私たちはこのことを根本的に考えなおしてみることができます。実のところ聖書全体は、その非常に難解な箇所や旧約聖書の極めて暴力的な描写さえも含めて、キリストの大いなる和解のみわざについて語っているのです。十字架の死によってキリストが全人類の罪を一身に引き受けてくださったおかげで、罪深い私たち人間と義で聖なる神様との間に和解がもたらされました。神様、この奥義を見て理解できるように、どうか私たちの心の目を開いてください。

 この奥義に仕えたいと願う者を、神様はその願い通りに「奥義の僕」として召されます。召しの際には、召しを受けた人が人間的に見て十分な力量の持ち主であるかどうか、ということは要求されません。神様の召しがその召された人を他の人々よりも高い地位に置くこともありません。パウロは自分の人生を通して神様の力が働くのをはっきりと見ました。パウロには、キリストを侮蔑し神様の教会を迫害したという暗い過去があります(「コリントの信徒への第一の手紙」15章9節)。この過去をひきずりながら、彼は福音の仕事に従事していました。こうして、彼は恵みのみに頼り、常に謙虚に仕事をするように整えられました。このような姿勢によってのみ、私たちも福音伝道に従事できるようになります。神様に忠実であろうとするときに私たち自身や教会全体にのしかかる幾多の障害にも、私たちは恵みに頼ることによってのみ耐え抜くことができるのです。

 「エフェソの信徒への手紙」ではこれが初めてになりますが、ここで私たちは「教会の職務」を話題にすることにします。テーマは「使徒職」についてです。私たちの信仰と理解によれば、「使徒職」とは一回的なものなので、現在の教会ではもう続いていません。私たちはもはや「新しい使徒たち」を選出したりはしないし、またそのような存在を欲してもいません。神様が御自分とその御心を全世界に告げるときに用いられた預言者たちと使徒たちさえそろっていれば、私たちにはそれで十分だからです。私たちはこの原則的な考え方を守りたいと思います。それによってこそ、教会は「使徒的」な教会たりうるからです。人間は教会の総会で、たとえばキリスト教とイスラム教を混同するとか、好き勝手なことをすることができます。しかし、そんなことをしても彼らは真実を変更することができません。せいぜい自分自身と彼らの教えの追従者たちに有害な結果を招くことになるだけです。この世で最後まで存続するのは、使徒たちと同じ信仰を保持し続ける使徒的な教会のみです。

 ここで扱っている箇所で私を当惑もさせ感動もさせるのは、パウロがキリストの奥義について語る際の輝きあふれるばかりの喜びです。神様はパウロを福音の僕として召してくださいました。それはパウロにとって、鞭で打たれることや、生命の危険に身をさらすことや、鎖につながれることや、しまいには死ぬことを意味していました。パウロはカイザリヤの牢獄に二年間閉じ込められました。二度の冬の間、獄舎の気温は氷点下になったことでしょう。もともと病弱であったパウロは、鎖をつながれたまま牢獄から直接支配者たちの前に引き出されたときには、さぞや見るも無残な有様だったことでしょう(「使徒言行録」25~26章)。また、「エフェソの信徒への手紙」が書かれた頃には、獄中生活がすでにパウロの健康をひどく蝕んでいたことでしょう。ところが、手紙の言葉の中には恨みがましい響きが微塵もありません。それどころか、パウロは自分が受けた召しのことを大いに喜んでいます。彼以前の世代の人々にははっきりと知らされていなかった神様の永遠の奥義を告げ知らせる僕として、神様はパウロを召してくださったのです。パウロはこのような「特別待遇」を受けたことを深く感謝する心にみちあふれた人物でした。

 それに対して、現代に生きる私たちはどのような気持ちをもって、鎖につながれた使徒の喜びに満ちた言葉を読むのでしょうか。ともすると、人は少しでも傷つけられると、それをいつまでも忘れることなく根に持ちつづけていたりするのではないでしょうか。どうすれば私たちは「エフェソの信徒への手紙」が映し出しているこのパウロの態度を自分にも適用できるようになるのでしょうか。手紙をここまで読んできた私たちは、実はその答えを知っています。パウロが実践したように、神様の恵みと愛の無限の素晴らしさをより深く見つめていくときに、それは可能になるのです。まさしくここに「エフェソの信徒への手紙」の秘める力があります。それゆえに、この手紙を読むときにはあるひとつのことが何にもまして大切になります。それは、神様はあなたを愛しており、その愛はあなたが決して理解できないほど大きなものだ、という真実です。まず立ち止まって、このことをわかるようになりなさい。それに続いてどのようなことが起こるにせよ、それはそのときの問題です。このことも神様は苦難も視野に入れつつ適切に私たちに示してくださいます。

天のお父様の子どもたち 3章14~21節

 ここで扱う14~21節は「エフェソの信徒への手紙」のはじめの部分のしめくくりです。そこには教会のための祈りと神様への賛美が含まれています。

 「神を父と表現するのはたんなる比喩的なイメージに過ぎない」、と主張する人々がいます。彼らによれば、神様を別のやり方で表現することもできるはずだからです。ところが15節によれば、神様の本来のお姿は私たちの生活の中に映し出されているのであって、私たちの生活によって神様のイメージが規定されるのではないことを教えています。神様の「父親としての愛」はたんなる美しい比喩にとどまるものではありません。神様は私たち人間の肉親としての父の遠い原型にあたるお方であり、肉親としての父について私たちが抱いているイメージは、神様がどのようなお方であるか思いめぐらすときに役立ちます。

 現代社会に多大な影響を与えているフェミニズムは、キリスト教の領域にも独自の価値観を持ち込んできています。ある人たちは、神様を「父」と呼ぶことや男性形の代名詞で表すことを拒絶して、神様を表示する男性形の言葉をすべてそれらと対応する女性形の言葉に置き換えて、新しい信仰告白をつくることさえしています。彼らによれば、族長中心の社会で生まれた聖書は男性中心的な書物である、ということになります。ところが、聖書は神様の活動を繊細な仕方で「母の愛」に比較しています(たとえば、「イザヤ書」66章13節)。とりわけここで大切なのは、私たち人間と神様との関係が私たちに啓示された内容に完全に依拠するものであることを改めて確認することです。神様について私たちが学び知っているのは、神様御自身が聖書で教えてくださったこと以外にはありません。その聖書でイエス様は神様を「父」と呼んでおられます。聖書とキリストを差し置いて神様の本質を追求しようとするある種のフェミニズムの「天才的な試み」は、実のところ根拠のない想像の産物にすぎません。今ここで取り扱っている手紙の箇所では、神様の父親としての愛は私たちの生活に与えられた模範である、と言われています。ところが、肉親である父親は自分の子どもが、ちょうど愛する子が優しい父に接するようにして神様に近づこうとする気持ちを、かえって踏みにじってきたのではないでしょうか。本当に恥じ入るべきことです。「神様も私たちの父親だというのか、自分の父親だけでもうんざりしているというのに!」、と言う若者が残念ながら実際には多いのではないでしょうか。

 人生で一番大切なものは「知識」である、と思い込んでいる人々のことを念頭において、「エフェソの信徒への手紙」は書かれています。彼らの言う「知識」とは、普通の意味での理性的な知恵ではなく、超自然的な事象に関する知識であり、暗闇と光の諸霊が互いにどのような関係にあるかという知識でした。そして、このような特別な「知識」を会得した者は他の人々よりも高い境地に達している、とみなされました。「エフェソの信徒への手紙」はこのような世界観に対して、穏やかにしかしはっきりと反対しています。「神様に満ちているもの」を人間にもたらすのは知識などではなく、キリストの愛なのです。私たちは、キリストの十字架とキリストの御言葉への従順に一切の関心を集中するべきです。このようにして私たちは光輝く恵みの流れのほとりに何度も繰り返し導かれ、自分たちの心の渇きを癒していただけるのです。

 20~21節は神様への賛美です。これは教会の礼拝で古くから用いられてきた賛美だと考えられています。


引用される聖書の箇所は、高木が原語聖書から訳出したものです。