1)自然の中での神様との出会いについては、たとえば「詩篇」に描かれています(「詩篇」19篇2~7節、104篇1~4節、8篇2~5節など)。これらの箇所で使用されている表現を互いに比較してみてください。 神様について証している「詩篇」が観察した事象はどのようなものですか。
2)神様を否定する態度については、すでに旧約聖書にその例が見出せます。たとえば「詩篇」10篇1~11節などです。その箇所での無神論者の根拠は何らかの理論的な原理に基づくものというよりもむしろ実体験に根ざしたものであるのはあきらかです。 それはどのようなものですか。 現代の世界でもそれと似た例が見つかるでしょうか。
3)次に挙げる旧約聖書の箇所は宗教的な経験に関する多様な表現を含んでいます。 これらの例のうち少なくとも一部の箇所を熟読して神様との出会いを描いている様々な表現をメモに記してください。そして、それらの表現を内容に応じて整理してみてください。 「ヨブ記」7章17~21節 「詩篇」4篇7~9節、6篇1~5節、16篇5~11節、19篇8~9節、23篇1~6節、36篇6~10節、62篇6~9節 「エレミヤ書」20章7~9節
4)「ローマの信徒への手紙」1章20節における使徒パウロの言葉には形式的にみると矛盾ともとれる点があります。それはどのようなものでしょうか。 その箇所が意図的にそのように書かれているのは間違いありません。真理を適切に表現するために、見かけ上は矛盾しているが実は真理を内包した誇張や逆説(パラドックス)を用いるほかないケースがよくあります。 使徒パウロが言いたかったことを別の言い方で表現してみてください。
5)「ローマの信徒への手紙」1章18~20節は誰もが体験しうる種類の啓示について語っています。自然の中で神様と出会うとき、人は皆、神様の存在について何かしら感じるものです。一方で、使徒パウロがそこから導き出す結論は多くの現代人には思い浮かびもしないものばかりです。すなわち、自然な神理解は具体的にはどのような意味をもっているか、とか、自然な神理解の射程はどこまで及び、人をどのようなところへ導くものか、という問題です。 両者にはどこに違いがあるのでしょうか。21節と22節も参考にしてみてください。
6)「宗教は単なる感情である」とか、「自然の中で神を礼拝する」とか、「自己の良心に基づいて行動すれば大丈夫だ」と言う人々がいますが、これらの意見に対してキリスト信仰者はキリスト教の立場から、何が正しくて何が間違っているか、適切に答えることができるでしょうか。