1.7. 経験に基づくこと
信仰なしでは見えてこない真理の世界に信仰は基づいています
キリスト信仰者と無神論者とが物質的な世界については同じ知識や経験を共有している場合があります。しかし、キリスト信仰者は無神論者が否定し無視する「真理の領域」とも日々かかわりを保って生活しています。それゆえ、キリスト信仰者の体験している真理の世界は不信者が体験している現実の世界に比べて広く深いことになります。それゆえ、キリスト信仰者は「自分は不信者よりもありのままの現実を直視しており、真理に対してより忠実な態度を取っている」と主張できるのです。キリスト信仰者は真理全体を物質的な真実と同じようには証明することはできませんが、たしかにその人生観はより幅広い経験やより豊かな真実に基づいているのです。一方、無神論者はキリスト信仰者の霊的な経験を外側から合理的に説明づけようとします。しかし、音楽について無知な人が音楽の本質について説明しようとする場合と同様に、そのような説明には説得力がありません。
それではこれから、信仰に基礎と活力を与えている真理に少しずつ触れていくことにしましょう。
1.8. そもそも神様について何か知ることができるのでしょうか?
神信仰はこの地上のあらゆるところに現れます。それはいわゆる未開民族と呼ばれる人々の場合にもあてはまります。
神的存在への信仰は世界中いたるところ、ほとんどの民族や文化の中に見出されます。この歴史的な事実については「泉や石に棲んでいる神秘的な力や霊が雷や地震やその他の自然現象を通してその姿を現す、といった原始的なイメージから徐々に神信仰が発展したのだろう」という説明されることがあります。人間は自然現象についての理解を次第に深めてきた結果、ついには一神教の宗教に到達した、というのです。しかし、このような「宗教的な理解は時代と共に少しずつ発展する」という説には、研究が進むにつれて根拠がないことがわかりました。というのは、原始的な生活を営んでいる民族(中にはいまだに石器時代を生きている民族もいます)の間にも、人を造った父、人の語り相手、人がその意思にかなう生き方をするのを望んでいる存在として唯一の神的存在を把握している人々がいることが確認されているからです。彼らいわゆる未開民族の中に現れている神についての原始的なイメージはキリスト教の神様の創造主としてのイメージと似ている点があります。それに対して、たとえばヒンドゥー教や古代ギリシアの宗教にみられる多神教はむしろ神信仰の頽廃した形態である、と言えましょう。このように、すでに先史時代の洞窟壁画が芸術として奇妙なほど均衡の取れた作品であるのとほぼ同様に、唯一の神存在への信仰は太古の昔から驚くほど明瞭に見出されるので、それが原始的な多神教から発展したものである、などとは到底言えなくなるのです。
神様が人間を自らの子どもとしてお造りになり、神様の存在を身近に感じて神様と触れ合う能力を人間に付与されたからこそ、このような一神教がすでに大昔から存在してきたのだ、というのがキリスト信仰に基づく説明です。このような特別な能力を人間が受けているのは、キリスト信仰者だからではなく、人間だからです。そうだからこそ、唯一の神が存在するという信仰がキリスト信仰者ではない様々な民族の間にも現れているのです。このように人間なら誰でも、神様がどのようなお方かを観察したり理解したりできる事実のことをキリスト教の神学用語では「一般的啓示」と呼んでいます。
1.9. 一般的啓示
神様は御自分を自然の中に啓示なさいます
人間は神様と自然の中で出会うことができます。自然は神様が創造なさったものであり、神様について証しています。このことは、すべての背後には必ず何か究極的な原因(第一原因)がなければならない、という理性によって導出された結論などではなくて、すべての民族に共通して見出される自然な経験です。聖書もこの経験について度々語っています。旧約聖書の「詩篇」には次の言葉があります。 「天空は神様の栄光を語り、蒼穹は御手のみわざを告げています。この日は言葉をかの日に伝え、この夜は知識をかの夜に説明します。話でも言葉でもなく、その声が聞かれることもありません」(「詩篇」19篇2~4節)。
新約聖書では使徒パウロも次のように書いています。
「神様について知りうることは彼らにとって明らかになっています。神様が彼らに明らかにされたからです。神様に関して目には見えない事柄すなわち神様の永遠の力と神性とは世界の創造の時以来被造物において知られていて、反論の余地なく明瞭に見えるものだからです」
(「ローマの信徒への手紙」1章19~20節より)。
神様は御自分を私たちの良心の内に啓示します
人間は自然の中だけではなく自己の良心の中でも神様に出会うことができます。良心とは、何が正しくて何が間違っているかという感覚です。良心は私たちの行いの善し悪しを私たちに示して私たちを裁きます。その裁きはたんに自分の周りの人による裁きではなく、いと高きところにおられる神様を目の前にした時に生じる罪の意識の自覚である、ととらえることができます。
私たちの良心がこのような特性を生まれつきもっているのは、神様が御自分の律法を人間の心に書き込まれたためである、というのがキリスト信仰者による物事の捉え方です。「異邦人(つまりユダヤ人ではない人)も神様がイスラエルにお与えになった律法を知らずして律法の要求するところを自然に行う」と使徒パウロも言っています(「ローマの信徒への手紙」2章14節以降)。そして、「異邦人の良心もそこに神様の律法が書き込まれていることを証している」とパウロは付け加えます。私たちの日々の経験からも知られるように、人間はある種のやりかたを道徳的な見地から批判したり、責めたり、弁護したりします。また、道徳観は人間を義務的に拘束するものと一般に理解されています。
人がいと高き神様を前にして自己の責任を問われていると感じるのは、そもそも人が神様に造られた存在だからである、とキリスト信仰者は考えます。それゆえ、自分では回避できない要求を突きつけられている、という感覚を人の良心は覚えるのです。とはいえ、人がその要求内容を正しく理解しているとは限りません。良心は個人的な法的感覚によって変わってくるし、さらに法的感覚には人の生活環境や受けた教育などが影響を与えます。良心は苦しめられたり過敏になったりする場合があります。また、人が自らの良心を鈍らせて黙らせる場合もあります。しかも、良心はしばしば判断を誤ります。これがキリスト信仰者の正直な感想です。ですから、人が自らの良心に信頼を置けるようになるためには、何が正しく何が間違っているかを神様の御言葉が良心に明示する必要があります。
良心に直接には関わりがない事柄についても、人は生活の中で神様の働きを体験して感謝をささげる場合があります。芸術、正義のための戦い、望外の幸福や成功などがその例です。神様はどこにでも存在することができるので、人は様々なやりかたで神様の実在を確信することができます。そして、このことは人がいつの時代にどの民族に属していたかに依るものではありません。
1.10. 自然な神理解
キリスト教について何も知らずに神様について何かを知ることができますか?
上述した神様についての知識はすべての人の手の届くところにあるので「自然な神理解」とも呼ばれます。あらゆる民族の有する神的存在についてのイメージには次の二つの共通点がある、と言われることがあります。たとえばRudolf Otto (1937年没)はtremendum(恐るべき)とfascinosum(魅惑的)という二つの用語によって自然な神理解について一般の人々が抱いているイメージを表現しました。
第一に、人は神的存在を目の前にして震え上がり、畏敬の念を覚えます。いい加減な気持ちで神的存在とは付き合えないことを人は思い知ることになるからです。
第二に、人は神的存在に魅力を感じ、その中に輝きや喜びや美を感受します。人生で最も気高く尊い方、人生に意味を付与する方、いかなる状況にあっても頼ることができ、人がお仕えし御前にひれ伏すのにふさわしい方としての神的存在に人は惹きつけられます。
世界中いたるところで神的存在への畏れ、希求、崇拝、礼拝、祈りや犠牲の奉献が見出されるのはそのためです。人は自身の心に書き込まれている神様の律法によって良心を責められて悩み苦しむ場合があります。それゆえ、先に述べた「一般的啓示」のみに基づいて宗教を理解する人の多くは、自分の罪の呵責を抹消してくれる罪の赦しと神様との和解とを探し求めます。このような人の心の一般的な宗教性は、たとえば犠牲の奉献や悔い改めの行い、とりわけ流血を伴う犠牲や厳格な苦行という形で具体化することがしばしば見られます。
1.11. キリスト教の伝統が根底にある社会における自然な神理解
「神的存在はたしかに世界を創造したが、それ以上世界の歴史に立ち入ることはない」と考える理神論(deism)や道徳主義などがキリストの福音に取って代わる場合があります
キリスト教徒の間でも上述した自然な神理解に沿った考え方をしている人々が意外に多くいます。自分のことをただ曖昧にキリスト教徒と見なしている人々の神理解がこの段階に留まっていることはしばしば見受けられます。彼らは自分たちから何かを要求している神が存在することを信じています。神は素直に神に従う人々を愛している、という確信を彼らは抱いています。神はお行儀の良い子どもたちのことがお気に入りだから、というのです。人間一般に見られるこのような宗教性には福音との共通点がある程度残存しているものです。その代表的な例として、神様は赦す神であるという確信を挙げることができます。もっとも、このような確信はキリスト教徒ではない人々には到底認めがたいものかもしれません。しかし、キリスト信仰者の信仰の立場からみると、この宗教性には重要な点が多く欠落しています。罪の赦しがイエス・キリストの十字架の贖いの御業に基づいていること、神様の御言葉と礼拝が必要不可欠であること、悔い改めの大切さ、復活信仰などがそれです。
人間一般に見られる自然な神理解に沿った宗教観は、人々がキリスト教においてどのような事柄を個人的に重視するのか、というところに明瞭なかたちをあらわします。啓蒙主義の時代にはキリスト教の不変の真理を「神、善、不死」という三つの言葉に集約する試みがなされました。また、西暦1900年前後に大きな影響を与えたあるリベラルな神学者(Adorf von Harnack)はキリスト教の核心を「私たちの父なる神」と「互いに兄弟姉妹である人類」と「不死の価値を有する人間の魂」という標語に要約しました。いずれの場合でも、他宗教にも見出せる自然な神理解の考えかたによってキリスト教独自の特質はすっかり排除されてしまっています。
1.12. 自然な神理解の評価をめぐって
正しい側面をもっているものの、一番大切なことではありません
キリスト信仰者の信仰に基づいて判断するとき、上述した自然な神理解はそれ自体誤っているものではないのですが、非常に不完全なものであることは指摘せざるを得ません。人間が通常有している一般的な宗教性は多様な事象を神存在に結び付けて理解しますが、そこには福音が欠けています。こうした自然神学は、あらゆる宗教を統合し創造主についての知見を含む人類共通の信仰として提示されます。たしかにこの神学は神の律法の重要性を意識しており、永遠の世界への希望を漠然と含んではいます。しかし、福音のことはまったく知らず、神様がイエス・キリストによって開いてくださった罪の赦しと永遠の命への道のことも知りません。つまり、人間の一般的な宗教性はキリスト教の最も大切な事柄を知らないのです。この最重要事項を世に知らせるためにこそ、神様は神学用語でいうところの「特殊的啓示」を用いられたのです。この啓示は、預言者たち、イエス・キリスト、その使徒たちを通して、歴史の只中における神様の働きと緊密に結びついています。
神様について本当に何かを知ろうとする場合にはこの特殊的啓示がキリスト教信仰の要となります。それゆえ、次の章ではこれについて学ぶことにします。