1)イエス様の「山上の説教」(「マタイによる福音書」5~7章)には、キリスト信仰者としての新しい生きかたを説明するために当時の人々の日常生活からとられた具体的な例があげられています。その新しい生きかたは、来るべき神様の御国の力が今すでに私たちの只中で働きかけていることを物語っています(例えば「マタイによる福音書」5章38~42節)。
この新しい生きかたを説明するために、私たちの生活している現代世界に関わりがあるような具体的で適切な例を探してみてください。
2)「イザヤ書」10章5~17節は、イスラエル王国を滅ぼしユダ王国をも脅かしつつあったアッシリアという当時の東方の大帝国について語っています。
「イザヤ書」41章1~4、25~26節、44章28~45章5節は、かつてのバビロニア帝国の征服(いわゆるバビロン捕囚)によって難民生活を強いられていたユダヤ人たちに故郷への帰還を許可したペルシア帝国のキュロス王について語っています。
神様の救いの計画においてアッシリアやバビロニアといった大帝国が担っている役割を預言者イザヤはどのように理解していますか?
3)「ローマの信徒への手紙」13章1~7節と「ペテロの第一の手紙」2章13~17節が語っている内容を現代的な用語(例えば、国会、政府、国家権力、司法機関、政府機関、国家、都道府県、法や規則、警察など)を使って表現してみてください。
4)きわめて不当なことを行っている者たちによる苦しみをイエス様もパウロも甘受する場合がありました。しかしその一方では、イエス様もパウロも悪を行う者たちに対してその責任を追及する場合もありました。
このように、イエス様やパウロが場合によって異なるやりかたで周囲に応答する理由を探してみてください。
イエス様の受難を描いた次の一連の聖書の箇所は相互に関連させて読むことができます。
「ルカによる福音書」23章33~34節
「ヨハネによる福音書」19章1~3節
「ヨハネによる福音書」18章22~23節
パウロの人生について、互いに矛盾しているようにも見える例を次にあげます。 「使徒言行録」14章19~20節、16章19~40節
間違ったことを行っている者たちに対して、イエス様とパウロは常に屈服したわけではありません。それはどうしてでしょうか?
5)「アウグスブルグ信仰告白」の第16信条を読んでください(できればグループで)。
アウグスブルグ信仰告白の第16信条(ラテン語版)
「市民的な諸事項について、私たちの諸教会はこう教えます。合法的で市民的な諸秩序は、神様の善き御業です。また、キリスト信仰者が公職を勤め、司法権を行使し、最高司令官の諸法律(国法)やその他の現行の諸法律によって判断を下し、公正に刑罰を定め、公正に戦争し、軍務に服し、合法的に取引し、財産を保持し、裁判官の要請に応じて宣誓し、妻をめとったり嫁いだりすることは、許されていることです。
私たちの諸教会は、キリスト信仰者にこれらの市民的な務めを禁じる再洗礼派を異端と宣告します。
また、福音的な完全さというものを、神への畏れと信仰にではなく、市民的な務めを捨て去る態度の中に置く人々のことも、私たちの諸教会は異端と宣告します。なぜなら、福音は心の永遠の義を教えるものだからです。とはいえ、福音は政体や家政を破壊するものではないし、むしろ、それらをあたかも神様の秩序であるかのように保持することと、そのような秩序の中で愛を実践していくこととをとりわけ要求するものだからです。したがって、キリスト信仰者は当然ながら公僕や法律に従わなければなりません。ただし、彼らが罪を犯すことを命じる場合にはこれはあてはまりません。そのような場合には、私たちの諸教会は人々よりも神様のほうに従うべきだからです。「使徒言行録」5章(29節)。」
6)キリスト教信仰の領域に属する諸問題に対して国家が干渉を企てる場合には、いったいどのような対立紛争が生じることでしょうか?その例を挙げてみてください。