9.7. 聖餐の聖礼典
目に見えるしるしと、目には見えない贈り物
聖餐式はキリスト御自身が聖書で設定なさったものであり、聖礼典(サクラメント)と呼ばれます。外面的に見える「しるし」は、パンとぶどう酒です。目に見えない賜物を構成しているのは、キリストのからだと血です。聖餐を設定なさったときにイエス様御自身がこのように言われたので、使徒的な教会にとってこれは疑う余地のない真理です。「私たちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血に与ることではありませんか。私たちが裂くパン、それはキリストのからだに与ることではありませんか」(「コリントの信徒への第一の手紙」10章16節)。しかし、ルター派の教会の信条をまとめた「一致信条書」が注意しているように、聖餐をいただくことは私たち人間には理解しがたいような「超自然的な食べかた」なのであって、「大雑把に、肉的に、カペルナウムのユダヤ人たちのように」理解してはなりません。この後者の見方は、カペルナウムのユダヤ人たちがイエス様の発言の意味を誤解して、「イエスは自分の肉体を食べさせることについて話している」と思い込んでしまった出来事をさしています(「ヨハネによる福音書」6章51節以降)。
聖餐式は、復活された救い主およびその命に与ることに関わっています。そこでは、来るべき世の命がいますでに私たちにパンとぶどう酒とともに贈られるのです。ルター派の教会の聖餐についての教えは「キリストのからだと血が、本当に、パンとぶどう酒の中に、パンとぶどう酒と共に、パンとぶどう酒の下に、私たちに与えられる」とも表現されてきました。すなわち、天の贈り物が本当にこれらのこの世の物質の中にあって、それらと共に私たちに与えられるのです。とはいえ、パンとぶどう酒が何か他のものに変質したのではありません。私たちはこの贈り物を聖餐のパンとぶどう酒の「下に」いただきます。イエス様の神としての性質がこの地上では「人間」という目に見えるお姿の「下に」隠されていて、ここにいる人が神様の御子であることを不信仰によっては決して見出せないのと同じように、イエス様のからだと血もまた、この世の物質の「下に」、それらの外面のかたちのうしろに隠されているのです。信仰だけが聖餐の真理を理解します。パンとぶどう酒をいただいた人は皆(信じる人も信じない人も)、キリストのからだと血をいただきます。しかし、信じる者だけがこの賜物の祝福をいただけるのであり、それを正しく活かすことができるのです。
9.8. 聖餐において得られるもの
罪の赦し、命、救いのさいわい
ルターは「小教理問答書」の中で次のように尋ねます。
「このように聖餐を食べて飲むのはどのような役に立ちますか。」 そして、彼はこう答えます。
「聖餐は私たちに罪の赦しと命と救いをもたらします。」 キリスト御自身も聖餐を設定されたときにこう言われています。
「あなたたちのために与えられ、罪の赦しのために流された。」 ルターは続けます。 「罪の赦しのあるところには命と救いもあるからです。」
これらのことは互いに密接に結びついていて分け隔てることができません。キリストがおられるところに罪の赦しがあります。そして、人はキリストに結び付けられるとき、キリストの命にも結び付けられるのです。
来るべき王国への参加
私たちはこの世のものではない「来るべき御国」に与っています。聖餐式の式文には、御国の到来のさいに必ず来られるお方は、いますでに私たちのもとに来られ、私たちの只中にいてくださる、という信仰があらわれています。それゆえ、そこではセラフィムたちの「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」という天の賛美の歌と「主の御名によって来られる方に祝福がありますように」という弟子たちの喜びにみちた挨拶とが同じひとつの賛美歌となっています(「イザヤ書」6章2節以降、「ルカによる福音書」19章37節以降)。
9.9. 聖餐式に参加する正しい態度
聖餐式はイエス様の弟子たちのために設定されています
聖餐式に参加する人たちにはイエス様のからだと血が与えられます。それゆえ、聖餐式をまちがったやりかたで利用することは、それを行う者が主のからだと血に対して罪を犯すことを意味します(「コリントの信徒への第一の手紙」11章27節)。パウロの言いかたを借りるなら、聖餐を「ふさわしくないままで」受けるときにこのような事態になります。注意すべきは、聖餐を受けるのにふさわしくない人々についてそう言われているのではないということです。聖餐の賜物を受け取るのにふさわしい人など実は一人も存在しません。しかしその一方で、この賜物をふさわしくない態度で受け取ってしまう場合はありえます。
誰のために聖餐は用意されているのでしょうか?
この質問に対する最も単純で聖書的な答えは「弟子たちのためである」というものです。「イエス様の弟子」とは、イエス様に従っている人のことです。これを私たちの場合に当てはめるならば、イエス様の御言葉を聴き、イエス様に祈ることを意味しています。その目的は、真の信仰をいただいてその信仰に留まり続けるために私たちがイエス様を正しく知るようになることにあります。ですから、いったい自分に真の信仰があるかどうか、誰も悩む必要は誰ありません。大切なのは、イエス様が義しいことを素直に受け入れて、イエス様の教えを学ぶためにイエス様のお話に聴き入ることです。
聖餐を受けるのにふさわしい態度とは、自分の義しさに頼るかぎり神様に受け入れていただくのにふさわしい者には決してなれない、と知ることです。
ルターは「大教理問答書」でこう教えています。
「それゆえに、ここでは人々が区別されるべきです。すなわち、厚かましく粗野な人々に対しては、この聖礼典を受けないままでいるように命じなければなりません。というのも、彼らは罪の赦しをいただくことを切に願ってはおらず、信仰者であろうと望むことも好まないのですから、彼らは罪の赦しを受ける用意ができていないのです。しかし、彼らのように粗暴でもなく無思慮でもない、喜んで信仰者であろうとする別の種類の人々は、たとえ彼らが弱くて欠点をもっていたとしても、この聖礼典から遠ざかるべきではありません。(中略)というのは、体や血(つまり生身)のうちに日々多くの欠点を抱えていない状態にまで達する人は誰もいないからです。
このような人たちは、私たちの聖礼典が私たち自身の価値に基づくものではない、と知ることこそが最高の技能である、とわきまえるべきです。なぜなら、私たちは自分が適格で聖なる人間であるがゆえに洗礼を自分に授けていただくのではないからです。また、私たちがざんげに赴くのは、私たちが純潔な罪のない者であるからではありません。そうではなく逆に、私たちが貧しく惨めな人間であり、不適格な人間であるというまさにそのゆえになのです。ただし、恩恵も赦免も切望しておらず、自分自身を改善しようと考えてみもしない人々にはこれはあてはまりません」(「大教理問答書」第5部 聖壇の聖礼典 58~62節(ドイツ語版より訳出))。