3.1. 私たちは何を知ることができないのでしょうか?
私たちが神様について知っていることは不完全で限られたものです
神的存在自体を隅々まで描写したり定義したりするのは不可能である、というのがキリスト教信仰の視点です。私たち人間は神様について神様御自身が望まれる分だけ知ることが可能だからです。神様は「近づきがたい光の中に住み、人間のうち誰ひとり見たことがなく、見ることもできないお方」であり「神様を見た者はいまだかつてひとりもいない」(「ヨハネによる福音書」1章18節、「テモテへの第一の手紙」6章16節)ので、人間の精神世界を研究するのと同じような態度で神様の本性と特質を調べ上げることはできません。私たちはキリスト信仰者として「神様の本性には人間には底知れない深いところがある」と信じています。「私たちは一部分だけを知っているのです」とパウロは言っています(「コリントの信徒への第一の手紙」13章9節)。
それゆえ、解きがたい緊張や消しがたい矛盾を含まない、破綻のない完璧な体系をなし、すでに完成している枠組みの中に、神様について私たちが知っていることを適当に配置して「これで十分だ」と考えることはできません。たとえば、歴史や自然の研究者には身に覚えがあることでしょうが、私たちは真実を研究したり描き出そうとしたりするときに、互いに矛盾し合うように見えるため一貫した説明を与えることのできない事象に遭遇することがあります。神様に関する私たちの知識の中に緊張を強いる要素や表面的な矛盾が含まれていることは、神様が私たち人間の思考の産物ではないことを示しています。
それが矛盾を含んでいるように見えるからという理由で神様への信仰を捨てる人は「神は人間が理性によって理解でき承認できるような存在であるべきだ」と思い込んでいるとも言えます。しかし、神様は人間の思想の産物などではなく真実なのです。そして、その一部分についてのみ私たちは自らの理解力や知識の範囲内で知ることができるのです。かりに私たちが自らの思考に頼ることで「神様はどのような存在でなければならないか」ということを明確にできるのならば、そのような「神」は真なる神様ではありません。
やむをえない理由から答えが得られないままになる疑問も多数あります
キリスト信仰者にも答えることのできないような「神様に関する問題」がひとつならず存在します。「悪は何に由来するのか」とか「神様の全能と愛はこの世の中に実在する苦しみとどのように調和するのか」といった疑問に対して答えようとするとき、私たちはどこまでも推測の域を超えることができません。生存中ついに福音を聞く機会のなかった人々に対して神様はどのような態度を取られるのか、たとえば、そのような人々は天国に行けるのか、それとも地獄に行くのか、私たちは知りません。私たちと同じように神様との関わりをもつ生命体が生息している惑星が地球の他にもあるのかどうか、私たちは知りません。神様やその御計画について私たちが知っていることは、聖書の中の啓示に基づくものに限られます。聖書は、私たちがこの世で生きている間に神様について知る必要がありまた実際に知ることが可能なすべてのことを含んでいます。
聖書は神様について語るときにイメージや象徴(シンボル)を用います。「象徴」とはそれ自体が描いているのではない何かを代わりに表す「しるし」や「比喩」のことです。象徴自体にはそれが代表しているものを直接思い起こさせるものは何もありません。たとえば、ある言語においては文字と音が対応しています。日本語のひらがなはその一例です。その一方では、「十字架」がキリストやキリストへの信仰をあらわしているように、象徴がその象徴しているものへの「ほのめかし」を含んでいる場合もよくあります。聖書の中の象徴についてもこれと同じことが言えます。それらは様々な譬えや引用として登場します。聖書において神様は「父」、「牧者」、「王」、「岩」、「城」などと呼ばれています。これらのイメージを間違って理解してはいけません。自然からとられた表現は、人間の生活からとられた譬えよりも誤解する危険が少ないと言えます。後者の種類の譬えを間違って理解すると、神様を人間と同じような存在とみなして、たとえば「雲の端っこに座って地上を眺めている長い髭を生やしたおじいさん」のような存在としてイメージ化してしまう危険があります。
神様は人間と接するときに、人間の声で話したり人間の姿になったりすることができます。神様が私たち人間の世界へと下って来てナザレ人イエスとして「私たちの只中に住まわれた」(「ヨハネによる福音書」1章14節)時に、神様は実際にそうなさったのです。聖書によれば、このことは神様がその神性を保ちつつもまったく新しい姿になられたこと、「神様のかたち」(「フィリピの信徒への手紙」2章7節)を人間の姿へと変えたことを意味しています。
一般的に言って、私たちは神様を自分に都合の良い視覚的なイメージで描き出すことはできません。しかし、これは神様が抽象的で空疎な存在であることを意味しません。その逆です。人が神様と躍動する関係を保っている場合、神様の本質はその人の生活において他の何よりも豊かな内容と真実を備えた存在として開示されます。神様の本質は測り知れないほど莫大な財宝と繊細な意味とに満ちているので、この世の人生から借用された表現だけではとうてい描き尽くせるものではありません。
私たちは聖書が啓示している神様の本質を「神様は聖である」と「神様は愛である」というふたつの標語であらわすことができるでしょう。