聖書の内容は真実ですか

2.4. 聖書は神様の御霊によって書かれています

 いつの時代もキリスト教会は聖書の奥義を「聖書は御霊によって書かれた」と表現してきました。この言葉は使徒パウロの「テモテへの第二の手紙」(3章16節)に基づいています。それによれば、聖書(当時それは旧約聖書を意味していました)とは「神様が息を吹きかけたもの」すなわち神様の御霊が満たしているものなのです。しかし、これはどういう意味なのでしょうか?   

教義を純正に保とうとした、宗教改革のすぐ後の時代の理解

 ルター派の教義を純正に保とうとした時代には「聖霊様が聖書の内容を聖書記者に口述なさった」と理解されました。そして、それに基づいて「聖書は正確で誤りのない知識の源泉であり、聖書に描かれている出来事の年代、動物や自然の記述などについてもそれは同じである」という結論が導き出されました。神様からの語りかけには関心を示さず自らの罪や神様の恵みの問題と真剣に取り組まない人々は聖書をたんなる「索引事典」として利用しました。そして、東方の諸民族の王たちや出自など自分に興味のある事柄を調べたり、世界が誕生してからどのくらい時間が経過しているか具体的な計算を試みたり、未来を予言しようとしました。そうして得られた結果は疑いなく正しいものとみなされ、その当時の世界観の一部に加えられました。   

聖書を歴史に基づいて理解しようとする現代の知的傾向

 時が経ち、あらゆる点で聖書に権威を求めることで作り上げられた世界観に対して、科学は次々と疑問を投げかけるようになりました。これは前述した世界観をもつ人々を大きく動揺させました。自然科学者や歴史学者が一般の人々をそれなりに説得できる理論によって旧来の世界観を覆し始めたのです。科学と聖書の間の緊張関係は科学的な聖書批判となって具体化し、聖書についての理解を改めて考え直す機会を人間に与えました。それらの考え方はおおよそ次の4つに大別できます。

聖書についての4つの理解の仕方

  ① 聖書は他の書物と同様に生み出された

 この考えかたによれば、聖書は神様に関する人間による物の見方を含んでおり、聖書記者たちもまた「時代の子」であったので聖書が書かれた時代の影響の下にあった、とされます。彼らは彼らの生きていた時代に書かれていたように書き、話されていたように話した、というのです。信仰をもたない人にとってこうした理解の仕方は自明だと思われるでしょう。また、神を信じ自らをキリスト教徒と自認する人の中にも同じような考えかたをする人がいます。彼らは神の存在を信じています。しかし、「聖書記者たちは自分流に神との出会いを解釈しようとした。だから、信心深い人々の話に耳を傾けるようにして彼らの話にも耳を傾けることはできる。しかし、彼らの考えを丸ごと受け入れる必要など毛頭ない」などと言います。「イエスはたしかに他の人間よりも優れていた。しかし、彼のメッセージは当時の間違った世界観を鵜呑みにしていた単純な人々を通して現代まで伝えられた。だから、聖書を歴史に照らし合せて読む時には聖書に対して批判的な態度をとるのは当然である。また、今私たちが生活している現代社会では通用しないと感じられる聖書の箇所は容赦なく切り捨ててよい」と彼らは考えます。

 このような考えかたは宗教間の対話においてしばしば見受けられますし、人々が様々なメディアで自分の意見を述べる際の自明の大前提になっている場合も多いです。そして、深く考えることもなく、使徒パウロが新約聖書の手紙の中で書いていることをたんなる人間の言葉であるとみなしたり、「イエスもいろいろな面でその時代の子であった」と結論してみたり、あるいはそれとは逆に「イエスは私たちの時代とそぐわないようなことを言ったはずがない。だから、たとえば結婚についての教えや人が地獄に落ちる可能性などについての彼の言及は彼自身の教えを正しく伝えるものではない」などと主張したりします。    この考え方によれば、聖書は何ら特別な権威をもつ書物ではなく、他の宗教的な書物群と均質に比較できるものである、ということになります。

  ② 神様は御自身を歴史の中で啓示なさった

 「活ける神様は歴史の中で働きかけて御自身を啓示なさる」という考えかたがあります。それによれば、神様が長期にわたる様々な戦いを通じて真理と救いの御業を成就なさった劇的な歴史が聖書の中には記されていることになります。この一連の出来事は口伝され、書写され、神学的な意味づけがなされ、聖書としてまとめられて現代の私たちにまで伝えられてきました。そして、この過程は誤りや思い違いがつきものの人間の歴史の一部であるがゆえに、聖書を歴史的に研究し評価することは可能である、というのです。

 こうした視点から聖書を読む人たちは「聖書の中にある伝承には誤りが含まれていて、その本来のメッセージが変化してしまっている」などと主張します。キリスト教の信仰にとって核心的な事柄についてさえ疑いを差し挟むリベラルな学者もいるものの、一般的に見ると、歴史的な視点に立つ批判的な聖書学においても「聖書の伝承とりわけ福音書は歴史的に見ても基本的に信頼できる」という学問的な結論を下してきたと言えます。    「神様がその御言葉を伝える人々を通して、具体的な歴史的状況の中で人間に語りかけてこられたことは信じるが、そのメッセージは間違いやすい人間の活動を通して伝えられたものなので、聖書に含まれるそのような誤りは修正されなければならない」と主張する人たちがいます。彼らは御霊によって動かされる人々が存在することや、神様が御霊を通して歴史の中で働きかけてこられたことは信じています。しかし彼らは一方で、御言葉が書かれた時に(すなわち私たちに伝えられている今の形の聖書の言葉が記された時に)御霊の働きがあったことは受け入れようとしません。この点で、彼らの考えかたは伝統的なルター派の信仰とは異なっています。

 ③ 聖書は神様の誤謬のない御言葉である

 ①や②と正反対のこの考え方は「聖書の中にあるすべての言葉は神様の御霊の働き(ラテン語でinspiratioといいます)によって生まれた」とするもので、約二百年間ルター派の教会の中で当然のこととされてきました。混同を避けるために、「言語霊感説」とも呼ばれるこの考え方がいわゆる「根本主義」(英語でFundamentalism)とは本質的に異なるものであることをここで指摘しておきます。「根本主義」は聖書の権威を否定するリベラルな神学に対抗するためにキリスト教の「根本」(ラテン語でfundamentum)に対する過度のこだわりを示します。そして、聖書は歴史的にも自然科学的にも些細な点にいたるまで誤謬を含まないことを強調します。

 ④ 聖書は神様が望まれた通りに形作られた

 この考えかたによれば、聖書の御言葉は御霊によって生み出されたものです。しかし、それは聖書が書かれた時に起きた「御霊による働き」(ラテン語でinspiratio)のみを指しているわけではありません。換言すれば、そのような御霊の働きによって神様が用意なさった救いと神様には直接関係のない細部の描写に至るまで誤りを含まない聖書を私たち人間は所有している、とは必ずしも考えないのです。もちろん一方では、この立場は、細部において聖書は誤りを含んでいる、と積極的に主張したりもしません。

 この考えによると、御霊の働き(inspiratio)は神様がすべての民族とあらゆる時代のために救いのメッセージをお与えになっている事実に具現化しています。そして、このメッセージが現代の私たちにまで歪曲されることなく伝えられてきているのはたしかです。これが実現したのは、聖書が形成されていく全過程(御言葉の口承、文書化、編集、どの文書が聖書として認められるかを制定する正典化)を神様が終始導いてくださったからです。この過程の各段階において、神様は御霊を通して様々な方法で決定的な影響を及ぼされました。こうして聖書は「なるべきかたち」となりました。聖書全体を適切なやりかたで読む人々に対して、神様が用意なさった救いと神様御自身とについて正しい解き明かしを提供できるような書物として、聖書は今のかたちとなったのです。神様の語りかけを聴き取るためには、聖書を正しい姿勢で読む必要があります。神様は私たちに聖書を歴史学や生物学の教科書としてお与えになったのではありません。また、聖書は未来を予言する託宣の書として与えられているのでもありません。もしも聖書をそのような目的のために使うなら、たとえば歴史的あるいは生物学的な問題について神様から明瞭な答えをいただけるかどうか、私たちはいつまでたっても確信を持つことができないでしょう。聖書のもつ特別な使命は、神様が用意してくださった救いを私たち人間に伝えること、神様の御業を私たちが歴史を通して知り学ぶこと、私たちが各人またグループで神様の御業を実行していくことです。聖書が伝える神様の救いのメッセージは、歴史、物語、詩、歌、箴言などに分類される枠組みの中でそれぞれのジャンルに合うようにして埋め込まれています。これらの枠組みの中には昔の世界観に関係する記述が含まれています。聖書において歴史は略述を取り入れた文体で描かれたり、あるいは主要な一連の出来事の羅列として記述されたりすることがよく見受けられます。そして、それらの出来事の時代的な前後関係にはさほど考慮が払われていない場合もあります。ですから、そうした記述を専門的な学術論文と同じように読むことはできません。もちろん、ある種の文体をまとった描写が言葉の最も深い意味で真実をついており正しいこともありえますし、真理についてのイメージを生き生きと伝えることもできます。そのような意味で聖書の歴史記述は真実なのであり、それを現代的な意味での学術文献のように利用するのは適切ではありません。ですから、聖書の記述の些細な一部を拡大することで得られるイメージが学術的により正確なものであるとは短絡的に結論できないのです。

 ③と④の聖書理解に共通しているのは、聖書の形成過程全体をこの世における神様の御業として把握している点です。この観点のおかげで「聖書は神様が用意された救いと神様とについて正しいイメージを提供している」と私たちは確信できるのです。 聖書を細かく分割し全体から切り離して読むのではなく、まさにその全体を通じて聖書のメッセージを学ぶ時、神様の子らであるキリスト信仰者は心安らかに信頼しつつ「聖書を通して語られる神様は常に正しいお方である」と宣言することができるのです。

2.5. 聖書自体は聖書についてどのように理解していますか?

イエス様は「聖書には何と書いてありますか」と聞き手の注意を促すのが常でした。

「あなたがたは読んだことがないのですか」
(「マタイによる福音書」22章31節)

 イエス様や使徒たちが聖書(旧約聖書)をどうとらえていたかは新約聖書から知ることができます。彼らにとって聖書は絶対的な権威でした。イエス様は常に聖書を引用して語られました。たとえば、イエス様は「出エジプト記」(3章15節)を引用して、「神様が死者の復活について「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神です」と言われたのをあなたがたは読んだことがないのですか?」と言われ、それから「神様は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのです」と説明なさいました(「マタイによる福音書」22章31節)。また、「 ダヴィデは「主は私の主に言われました。私があなたの敵たちをあなたの足下に置く時まで、私の右に座していなさい」と聖霊のうちにあって言いました」ともおっしゃられました(「マルコによる福音書」12章36節)。ダヴィデの箇所は「詩篇」110篇からの引用です。

旧約聖書はキリストについて証しています

 聖書(すなわち旧約聖書)はキリストについて語っている、という視点に私たちは新約聖書全体を通じて繰り返し出会います。たとえば、二人の弟子たちはエマオへの旅の途中でイエス様に出会いました。イエス様は律法や預言書を通して彼らを教え、御自分について聖書全体には何と書いてあるかを説明なさいました(「ルカによる福音書」24章27節)。イエス様は復活なさった後で使徒たちに自らの姿をあらわされた際に「私についてモーセの律法や預言書や詩篇に書いてあることは必ずすべて実現する」ことを彼らが理解できるようにしてくださいました(「ルカによる福音書」24章44~45節)。「モーセの律法」とは旧約聖書の中のはじめの5つの書物、すなわち「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」をさしています。「預言書」とは旧約聖書の中の預言者たちの活動を記した書物をさします。それは「士師記」にはじまり「サムエル記」や「列王記」などユダとイスラエルの王国の歴史に関する書物群および「イザヤ書」などの預言書をすべて含んでいます。要するに、旧約聖書に含まれる各書物にはそこに書いてある通りに実現することになっている一連の事柄が記されているのです。そして、それはイエス・キリストにおいて実現しました。このことのゆえに、旧約聖書は「イエス様の光」を通して読まなければその真の意味が理解できないように構成されているのです。「神様の約束はすべてこの方(すなわちイエス・キリスト)において「その通り」になりました。それゆえ、この方を通して神様への「アーメン」が私たちを通して(神様に)栄光を帰するのです」とパウロは書いています(「コリントの信徒への第二の手紙」1章20節)。「モーセの書」を読む人の心には覆いがかかっていますが、人がキリストのほうへ心を向け、聖書が書かれた本当の目的を理解するようになった時に、その覆いはキリストにあってはじめて消え去る、ともパウロは言っています(「コリントの信徒への第二の手紙」3章14~16節)。同じことを「ヘブライの信徒への手紙」も次のように教えています。律法は来るべき善きことの影をたずさえてはいるものの、その真のかたちを備えているものではありません(10章1節)。それに対して、この世に来られたキリストは旧約聖書に書いてある事柄たとえば犠牲を捧げることや大いなる贖罪の日やメルキゼデクの意味などを私たちに示してくれました。

聖書は私たちのために生まれました

 旧約聖書に書いてあることは「私たちへの訓戒として書かれています」(「コリントの信徒への第一の手紙」10章11節、「ローマの信徒への手紙」15章4節)。新約聖書はこのことを何度も繰り返し強調しています。預言者たちの言葉がはじめて人の口や書物を通して伝えられた時、それを聞いた人々がすぐにその本来の意味を完全には理解できなかったことには、それなりの目的があったのです。

そのゆえ、御言葉の「言葉遣い」が決定的に大切な意味をもっている場合があります

 今まで述べてきたようなやりかたに従って聖書を読む者にとって、聖書の「言葉遣い」は決定的に重要な意味をもっています。なぜなら、かつて御言葉として発せられた時点では本来の意味が十分に伝わらなかった事柄を明確に教えるためにこそ神様は聖書(すなわち旧約聖書)を今の形で人間にお与えになった、という確信がイエス様と使徒たちが旧約聖書を読んで引用する姿勢から伝わって来るからです。この考えかたは、先ほど私たちが取り上げた「今私たちに語りかけている聖書がその形を取るに至った全過程を神様は導いてくださった」という考えかたと同じものです。