ハバクク書2章

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

主の御心はいつか必ず実現する

義人は生きる 「ハバクク書」2章1〜4節

「2:1わたしはわたしの見張所に立ち、
物見やぐらに身を置き、
望み見て、彼がわたしになんと語られるかを見、
またわたしの訴えについて
わたし自らなんと答えたらよかろうかを見よう。
2:2主はわたしに答えて言われた、
「この幻を書き、
これを板の上に明らかにしるし、
走りながらも、これを読みうるようにせよ。
2:3この幻はなお定められたときを待ち、
終りをさして急いでいる。それは偽りではない。
もしおそければ待っておれ。
それは必ず臨む。滞りはしない。
2:4見よ、その魂の正しくない者は衰える。
しかし義人はその信仰によって生きる。」
(「ハバクク書」2章1〜4節、口語訳)

1章12〜17節で自らの嘆きをあらわにした後で、ハバククは神様の返答を待ち始めます(2章1節)。「詩篇」5篇3節や次に引用する「ミカ書」にも、同じように神様を信頼しつつ返答を待つ姿勢が描かれています。

「しかし、わたしは主を仰ぎ見、わが救の神を待つ。
わが神はわたしの願いを聞かれる。」
(「ミカ書」7章7節、口語訳)

旧約の預言者たちは神様によって任命された「見守る者」(「エゼキエル書」33章7節)や「見張びと」(「イザヤ書」21章8節)でした。主の預言者として彼らには、迫りくる数々の危険についてイスラエルの民に警告する使命が与えられていました。預言者ハバククはイスラエルにではなくバビロニアに対して主からの裁きが下ることを待ち望んでいます。

神様は預言者ハバククに幻を通して答えてくださいました。それによると、バビロニアはいずれ必ず裁きを受けることになります。ただし、それは今すぐではなく、神様がお選びになった時に実現するのです(2章3節)。神様の御計画通りに物事が進んでいくことは、新約聖書の「ヨハネによる福音書」16章4節や「ガラテアの信徒への手紙」4章4節などにも書かれています。事実、バビロニアが自らの悪行に対する罰を受けたのはそれから約60年も経ってからでした。紀元前539年にペルシアがバビロニアを滅亡させたのです。バビロニアが覇権を誇ったのは約70年間という短さでした。

ハバククは啓示された予言を板の上に書き記すように主から指示されました(2章2節)。この板は木製かあるいは当時のメソポタミアでたくさん用いられていた粘土製であったと思われます。粘土板には火で焼かれるとかえって板の強度が増すという利点があります。ハバククの生きていた時代の文書が私たちの現代にまで保存されてきたことには、この板がかつて火事にさらされたであろうことが関係しています。たしかに預言の言葉は時の経過とともに失われてよいものではありませんでした。なぜならば、予言が実現するまでにはかなりの時が経過することがわかっていたからです(2章3節)。これと関連する聖書の箇所としては「イザヤ書」30章8節、「出エジプト記」24章12節、「申命記」4章13節、「列王記上」8章9節などがあります。

ハバククの見た幻すなわち予言は走りながらでもそれを読み取ることができるくらいきわめて明瞭に書き記されるべきものでした(2章2節)。御言葉の伝道者は走りながらでさえもそのメッセージをはっきりと宣べ伝えることができなければならないのです。

待つこと(2章3節)が苦手な人は何かと忙しい現代人の中には大勢いるのではないでしょうか。しかし、人間が神様のタイム・スケジュールを早めることはできません。むしろ、私たちは「待つ」という態度を習得して、神様からいただいた約束を信頼し続ける忍耐を自らに乞い願うべきなのです。これについては次の「ローマの信徒への手紙」の箇所も参考になります。

「なぜなら、世界を相続させるとの約束が、アブラハムとその子孫とに対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるからである。もし、律法に立つ人々が相続人であるとすれば、信仰はむなしくなり、約束もまた無効になってしまう。いったい、律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない。このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。だから、彼は義と認められたのである。」 (「ローマの信徒への手紙」4章13〜22節、口語訳)

「見よ、その魂の正しくない者は衰える。
しかし義人はその信仰によって生きる。」
(「ハバクク書」2章4節、口語訳)

「ハバクク書」のこの箇所は新約聖書で三回も引用されています(「ローマの信徒への手紙」1章17節、「ガラテアの信徒への手紙」3章11節、「ヘブライの信徒への手紙」10章38節)。そして、この短い一節は1517年に始まった宗教改革の標語になりました。

「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。」
(「ローマの信徒への手紙」1章17節、口語訳)

宗教改革者マルティン・ルターはこの御言葉から「信仰による義」を発見したのです。

「ハバクク書」2章4節で「信仰」と訳されている言葉は「信頼」とも訳せます。どちらの言葉も内容的にはほとんど相違がありません。次に引用する「ヘブライの信徒への手紙」にあるように、神様からいただいた約束への信頼は信仰にほかなりませんし、神様からいただいた約束に対する信頼は信仰なしには成り立ちません。

「「もうしばらくすれば、
きたるべきかたがお見えになる。
遅くなることはない。
わが義人は、信仰によって生きる。
もし信仰を捨てるなら、
わたしのたましいはこれを喜ばない」。
しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。」
(「ヘブライの信徒への手紙」10章37〜39節、口語訳)。

バビロニアを嘲る歌 「ハバクク書」2章5〜20節

「2:5また、酒は欺くものだ。
高ぶる者は定まりがない。
彼の欲は陰府のように広い。
彼は死のようであって、飽くことなく、
万国をおのれに集め、
万民をおのれのものとしてつどわせる」。
2:6これらは皆ことわざをもって彼をあざけり、
あざけりのなぞをもって彼をあざ笑わないだろうか。
すなわち言う、
「わざわいなるかな、
おのれに属さないものを増し加える者よ。
いつまでこのようであろうか。
質物でおのれを重くする者よ」。
2:7あなたの負債者は、にわかに興らないであろうか。
あなたを激しくゆすぶる者は目ざめないであろうか。
その時あなたは彼らにかすめられる。
2:8あなたは多くの国民をかすめたゆえ、
そのもろもろの民の残れる者は皆あなたをかすめる。
これは人の血を流し、
国と町と、その中に住むすべての者に
暴虐を行ったからである。
2:9わざわいなるかな、
災の手を免れるために高い所に巣を構えようと、
おのが家のために不義の利を取る者よ。
2:10あなたは事をはかって自分の家に恥を招き、
多くの民を滅ぼして、自分の生命を失った。
2:11石は石がきから叫び、
梁は建物からこれに答えるからである。
2:12わざわいなるかな、
血をもって町を建て、
悪をもって町を築く者よ。
2:13見よ、もろもろの民は火のために労し、
もろもろの国びとはむなしい事のために疲れる。
これは万軍の主から出る言葉ではないか。
2:14海が水でおおわれているように、
地は主の栄光の知識で満たされるからである。
2:15わざわいなるかな、
その隣り人に怒りの杯を飲ませて、これを酔わせ、
彼らの隠し所を見ようとする者よ。
2:16あなたは誉の代りに恥に飽き、
あなたもまた飲んでよろめけ。
主の右の手の杯は、あなたに巡り来る。
恥はあなたの誉に代る。
2:17あなたがレバノンになした暴虐は、あなたを倒し、
獣のような滅亡は、あなたを恐れさせる。
これは人の血を流し、
国と町と、町の中に住むすべての者に、
暴虐を行ったからである。
2:18刻める像、鋳像および偽りを教える者は、
その作者がこれを刻んだとてなんの益があろうか。
その作者が物言わぬ偶像を造って、
その造ったものに頼んでみても、
なんの益があろうか。
2:19わざわいなるかな、
木に向かって、さめよと言い、
物言わぬ石に向かって、起きよと言う者よ。
これは黙示を与え得ようか。
見よ、これは金銀をきせたもので、
その中には命の息は少しもない。
2:20しかし、主はその聖なる宮にいます、
全地はそのみ前に沈黙せよ。」
(「ハバクク書」2章5〜20節、口語訳)

この箇所は導入部とバビロニアに対する五つの災いの託宣を含んでいます。ついにバビロニアの悪行に裁きが下されるのです。
1)貪欲(6節)
2)周辺諸民族からの搾取に基づく建築事業の推進(9節)
3)悪行(12節)
4)暴虐(15節)
5)偶像礼拝(19節)
(19節で「わざわいなるかな」という表現が18〜20節の中心部に置かれていることにも注目しましょう。)

2章5節は口語訳では「また、酒は欺くものだ。」で始まりますが、クムラン洞窟から見つかった「ハバクク書」版に従って「富」と訳される場合もあります。たしかに後者のほうが文脈的には自然に見える表現ではあります。しかし、多くの国語の翻訳において旧約聖書の底本になっているBiblia Hebraica Stuttgartensiaでは「酒」のほうを本文に採用しています。

かつてあるフィンランド人神学者は「この世の信仰告白は短いたった一語からなる。それは「飽くことなく」(2章5節)という言葉だ」と指摘したことがあります。これについては「箴言」30章15〜16節や「エゼキエル書」16章28〜29節などが参考になります。

いわゆる先進国では「経済的な成長はこれからもずっと続いていくはずである」という不確かな希望を信奉することが人々の間での暗黙の了解になっているように見えます。しかし、世界全体を見渡してみると、このような考え方が実際にはただの思い込みにすぎないものであるのは明らかです。

エルサレムがまだ陥落していなかった預言者ハバククの時代にバビロニアがちょうど勢力を拡大しつつあったことをここで思い起こしましょう。しかし、そのバビロニアの覇権も約70年間続いたにすぎません。この世の栄華は儚いものです。

2章6節には最初の「わざわい」の託宣が出てきます。同じような託宣の例としては「イザヤ書」5章8〜23節、「マタイによる福音書」23章13〜33節、「ルカによる福音書」6章24〜26節、「ヨハネの黙示録」9章12節、11章14節を挙げることができます。

2章8節は、悪がさらなる悪をもたらし、暴力がさらなる暴力をまきおこすことを指摘しています。この視点は以下に引用する新約聖書の「マタイによる福音書」や「ガラテアの信徒への手紙」の箇所にも出てきます。

「そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。」
(「マタイによる福音書」26章52節、口語訳)

「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。」
(「ガラテアの信徒への手紙」6章7節、口語訳)

このような悪の連鎖反応すなわち悪循環は、悪に対して悪をもって報復することによってではなく、逆に善をもって応答することによってのみ、断ち切られることが可能です。

バビロニアの壮大な建築事業は他の諸民族から搾取し略奪することによって推進されていました(2章9節)。そして、それは「我が国は決して他国に敗北することがない」という傲慢な思い込みに基づいていました(2章9節)。しかし、主は奢り昂る者に裁きの託宣を下されます。このことについては「イザヤ書」14章4〜15節や次に引用する「オバデヤ書」3〜4節などが参考になります。

「岩のはざまにおり、高い所に住む者よ、
あなたの心の高ぶりは、あなたを欺いた。
あなたは心のうちに言う、
「だれがわたしを地に引き下らせる事ができるか」。
たといあなたは、わしのように高くあがり、
星の間に巣を設けても、
わたしはそこからあなたを引きおろすと
主は言われる。」
(「オバデヤ書」3〜4節、口語訳)

悪行を積み重ねて築き上げられた楼閣は脆く、結局は灰燼に帰してしまいます(2章12〜13節)。人であれ国であれ神様から離れて生きるかぎり一切の労苦は無益です。

「万軍の主はこう言われる、
バビロンの広い城壁は地にくずされ、
その高い門は火に焼かれる。
こうして民の労苦はむなしくなり、
国民はただ火のために疲れる」。」
(「エレミヤ書」51章58節、口語訳)。

いずれバビロニアが滅亡するという預言の中には世界宣教の予言も含まれています(2章14節)。バビロニアの滅亡は同時に神様の圧倒的な力のしるしでもありました。これはイスラエルの民がモーセに率いられてエジプトの地を脱出した時の出来事を思い起こさせます。

「民の逃げ去ったことが、エジプトの王に伝えられたので、パロとその家来たちとは、民に対する考えを変えて言った、「われわれはなぜこのようにイスラエルを去らせて、われわれに仕えさせないようにしたのであろう」。それでパロは戦車を整え、みずからその民を率い、また、えり抜きの戦車六百と、エジプトのすべての戦車およびすべての指揮者たちを率いた。主がエジプトの王パロの心をかたくなにされたので、彼はイスラエルの人々のあとを追った。イスラエルの人々は意気揚々と出たのである。エジプトびとは彼らのあとを追い、パロのすべての馬と戦車およびその騎兵と軍勢とは、バアルゼポンの前にあるピハヒロテのあたりで、海のかたわらに宿営している彼らに追いついた。 パロが近寄った時、イスラエルの人々は目を上げてエジプトびとが彼らのあとに進んできているのを見て、非常に恐れた。そしてイスラエルの人々は主にむかって叫び、かつモーセに言った、「エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか。わたしたちがエジプトであなたに告げて、『わたしたちを捨てておいて、エジプトびとに仕えさせてください』と言ったのは、このことではありませんか。荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです」。モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。主はモーセに言われた、「あなたは、なぜわたしにむかって叫ぶのか。イスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい。あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい。わたしがエジプトびとの心をかたくなにするから、彼らはそのあとを追ってはいるであろう。こうしてわたしはパロとそのすべての軍勢および戦車と騎兵とを打ち破って誉を得よう。わたしがパロとその戦車とその騎兵とを打ち破って誉を得るとき、エジプトびとはわたしが主であることを知るであろう」。」
(「出エジプト記」14章5〜18節、口語訳)

しかし、これがより深いかたちで実現するのは、世界宣教が成し遂げられてキリストがこの世に再臨されサタン(悪魔)の横暴が最終的な裁きを受けるという未来の出来事においてです。これについては新約聖書の「ヨハネの黙示録」17章1節〜19章4節に記されています。

「ハバクク書」2章14節には水が海をすっかり覆うという比喩がでてきます。次の「イザヤ書」の箇所にも同様の表現がみられます。

「彼らはわが聖なる山のどこにおいても、
そこなうことなく、やぶることがない。
水が海をおおっているように、
主を知る知識が地に満ちるからである。」
(「イザヤ書」11章9節、口語訳)

これは主なる神様の圧倒的に強大な力をあらわしています。しかも、それは世界中隅々にまで及びます。全地に満ちる主の栄光については「民数記」14章21節や「イザヤ書」6章3節にも記されています。

「ハバクク書」2章15節からわかるように、人前で裸をさらすことについて旧約の時代の人々は多くの現代人とはまったく異なる考え方をしていました。旧約の時代の考え方は大洪水が終わった後にノアが飲酒で酩酊した際の出来事によくあらわれています。

「箱舟から出たノアの子らはセム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人はノアの子らで、全地の民は彼らから出て、広がったのである。さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、彼は言った、
「カナンはのろわれよ。
彼はしもべのしもべとなって、
その兄弟たちに仕える」。
また言った、
「セムの神、主はほむべきかな、
カナンはそのしもべとなれ。
神はヤペテを大いならしめ、
セムの天幕に彼を住まわせられるように。
カナンはそのしもべとなれ」。」
(「創世記」9章18〜27節、口語訳)

人前で裸をさらす状態は「ハバクク書」においてはバビロニアが諸国民を裸同然になるまで徹底的に掠奪し尽くしたことの比喩として用いられています。次に引用する「列王記下」の箇所はバビロニアがエルサレムを制圧した時の状況を伝えています。

「バビロンの王ネブカデネザルの第十九年の五月七日に、バビロンの王の臣、侍衛の長ネブザラダンがエルサレムにきて、主の宮と王の家とエルサレムのすべての家を焼いた。すなわち火をもってすべての大きな家を焼いた。また侍衛の長と共にいたカルデヤびとのすべての軍勢はエルサレムの周囲の城壁を破壊した。そして侍衛の長ネブザラダンは、町に残された民およびバビロン王に降服した者と残りの群衆を捕え移した。ただし侍衛の長はその地の貧しい者を残して、ぶどうを作る者とし、農夫とした。
 カルデヤびとはまた主の宮の青銅の柱と、主の宮の洗盤の台と、青銅の海を砕いて、その青銅をバビロンに運び、またつぼと、十能と、心切りばさみと、香を盛る皿およびすべて神殿の務に用いる青銅の器、また心取り皿と鉢を取り去った。侍衛の長はまた金で作った物と銀で作った物を取り去った。ソロモンが主の宮のために造った二つの柱と、一つの海と洗盤の台など、これらのもろもろの器の青銅の重さは量ることができなかった。一つの柱の高さは十八キュビトで、その上に青銅の柱頭があり、柱頭の高さは三キュビトで、柱頭の周囲に網細工とざくろがあって、みな青銅であった。他の柱もその網細工もこれと同じであった。 侍衛の長は祭司長セラヤと次席の祭司ゼパニヤと三人の門を守る者を捕え、また兵士をつかさどるひとりの役人と、王の前にはべる者のうち、町で見つかった者五人と、その地の民を募った軍勢の長の書記官と、町で見つかったその地の民六十人を町から捕え去った。侍衛の長ネブザラダンは彼らを捕えて、リブラにいるバビロンの王のもとへ連れて行ったので、バビロンの王はハマテの地のリブラで彼らを撃ち殺した。このようにしてユダはその地から捕え移された。」
(「列王記下」25章8〜21節、口語訳)

「ハバクク書」2章16節の「主の右の手の杯」という表現は「主の怒りの杯」と意訳される場合もあります。たしかに神様の杯から飲むことは、聖書における一般的な用法によれば、神様の裁きの下に置かれること、すなわち、神様の怒りの杯から飲むことを意味しています。その例としては、旧約聖書ならば「イザヤ書」51章17、22節、「エレミヤ書」25章15〜17節、「哀歌」4章21節など、また新約聖書ならば「ヨハネの黙示録」14章10節、16章19節などを挙げることができます。

神様は全ての被造物すなわち万物の主です。「ハバクク書」2章17節によれば、「レバノンになした暴虐」に対しても主による裁きが下されることになります。例えば「イザヤ書」14章8節もそれに関連して理解することができます。バビロニアによる暴虐さは「石は石がきから叫び、梁は建物からこれに答える」(2章11節)という比喩からも窺えるほど凄惨極まるものでした。

2章18〜20節では神々の彫刻や鋳像などの偶像を礼拝することがどれほど愚かなことかが示されています。偶像は見ることも聞くことも助けを差し伸べることもできません(「イザヤ書」44章8〜20節にも詳細な記述があります)。偶像には命の息は少しもありません(2章19節、「詩篇」135篇15〜17節)。

活きておられる真の神様の御前では神様以外のすべての者は黙るべきなのです。これについては「ハバクク書」2章20節の他にも「イザヤ書」41章1節、「ゼカリヤ書」2章17節や次の「ゼパニヤ書」の箇所にも記されています。

「主なる神の前に沈黙せよ。 主の日は近づき、 主はすでに犠牲を備え、 その招いた者を聖別されたからである。」
(「ゼパニヤ書」1章7節、口語訳)


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