死者はどこにいますか

10.3. 死者の居場所は?

 「あなたは再び塵に戻らなければならない」
(「創世記」3章19節)。

死者を墓に葬る祝福の儀式で述べられるこの御言葉は、具体的には棺の中にある遺体をさしています。人々が墓地で別れの挨拶をするときに、キリスト信仰者の親族たちは「安らかに休みなさい」という言葉を聞くことになるでしょう。この言葉にはさらに「復活の朝まで」という続きがあります。これらの言葉はキリスト信仰者が何を信じているかをよくあらわしています。

身体は塵になりますが、それは私たちの本当の自分ではありません

 復活の朝はいつか必ず訪れます。そのときには墓で休息していた死者たちが起き上がり、救い主と出会うことになります。キリスト教では死者に敬意が払われ、墓はきれいに整えられます。その一方で、遺体は、あたかもそれが後に残された故人のすべてであるかのように大げさな関心の対象にはなりえません。ところが、愛する者の眠る墓に執着しすぎるあまり、それを整えることに過剰なこだわりを示す人たちも中にはいます。このことは、彼らが死者の復活を信じる心の余裕をもっていない表れなのかもしれません。キリスト信仰者の信仰に特徴的なのは、実際に死者が墓地にいるとは信じていないことです。墓の中で朽ちていく遺体は故人の真の自己ではありません。それは神様の定めに従って崩れて再び塵に戻っていくべきものなのです。

死者たちは神様の御手のうちにあります

 それでは死者たちはどこにいるのでしょうか?この疑問に対する最善の答えは「神様の御手のうちに」というものです。これはこの世では最終的な解答を知りえない疑問に無理な返答を試みない答えかたです。それでも、この答えには最も大切な点が十分に表現されています。復活を待つ間、死者たちがどのようなところにいるのか、彼らはいわゆる「過渡的場所」にいるのか、という疑問について聖書にはごく短い暗示的箇所が記されているにすぎません(「ペテロの第一の手紙」3章19節)。有限の時間の世界から永遠の世界への移行は、死んでいる本人にとっては「待機」ですらない可能性もあります。私たちは「時間」を放棄して、神様の「時間なき世界」へと移り行くのです。あるいは、この「過渡的場所」を「死者の国」と言い直してもよいかもしれません。信仰者にとってこの場所は、十字架上のイエス様が一緒にはりつけにされた強盗のひとりに対して言われた「パラダイス」へと変わります(「ルカによる福音書」23章43節)。とはいえ、キリスト信仰者にとってこれらの疑問は欠くことができないほど大切なものであるともいえません。キリスト信仰者は、死んだ後でも自分が神様の御手のうちにいることを知っています。そして、「死も生も、天使も支配者も、現在のものも未来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにおける神様の愛から私たちを引き離すことはできない」ことを知っています(「ローマの信徒への手紙」8章38~39節)。