死から命へ

10.1. すでに、ここで

不死と永遠の命は同じものではありません

 キリスト信仰者の理解によれば、「永遠の命」とは、お墓に入った後でようやく始まるようなものではありません。それはすでにここで始まっているのです。イエス様は「私を信じる者は永遠の命をもっている」と言われています(「ヨハネによる福音書」5章24節)。その人はすでに死から命へと移行しているのです。こうなる理由は(すでに何度も強調してきたことですが)信仰がキリストとの交わりを意味し、キリストが私たちをその命に与らせてくださるからです。そして、この命は決して死ぬことがない命なのです(「ヨハネによる福音書」11章25節)。新約聖書において「永遠の命」という言葉は「魂の不滅」のことではありません。たしかに人として生まれ出た者はもはや決して消え去ることがありません。人は「神様のかたち」として創造されています。そしてそれは「永遠への想い」が人の心に組み込まれていることを意味します(「コヘレトの言葉」3章11節)。しかし、神様と人との間の正しい関係が崩れ去った後の世界においては、ただたんに死ぬことによってその本来の関係性が回復することはありません。それを修復することができるのが「罪の赦し」なのです。キリストへの信仰におけるこの新しい命のことを聖書は「永遠の命」と名づけています。神様の御国に属する他のすべての事柄と同様に、永遠の命はこの世の生活の中では隠されています。人は新約聖書が適切にも「卑しいからだ」と名づけているかたちを有しています(「フィリピの信徒への手紙」3章21節)。人間の本性には罪が染み付いており、それゆえに人は必ず死ななければならない存在です。しかし、信仰のうちに死ぬ時になってようやく人はその本性に染み付いている「病原体」から解放されるのです(「ローマの信徒への手紙」8章10節)。人間性に付随しているこの基礎的な欠陥のことをキリスト教では「原罪(生まれながらの罪)」と呼んでいます。

10.2. 死

死とは、キリストへの奉仕を余儀なくされている敵です

 キリスト信仰者にとって「死」の中には互いに矛盾して見える二つの面があります。一方では、死は「敵」です。それは神様の創造された世界を破壊します。新約聖書は死について「地上の幕屋が瓦解する」という表現を用いています(「コリントの信徒への第二の手紙」5章1節)。死は苦しく、しばしば醜悪で恐ろしいものなので、私たちが死に対して嫌悪を覚えるのはいわば当前だともいえます。

 しかし他方では、死について聖書は「死よ、お前の勝利はどこにあるのか?死よ、お前のとげはどこにあるのか?」とも言っています(「コリントの信徒への第一の手紙」15章55節)。今や死はその先の尖った部分がへし折られ、その暗さと恐ろしさを失っています。死とはキリスト信仰者がこの世から離れてキリストと共にいることができることでもあり、パウロが言っているように「そうであるほうがはるかに望ましい」ことを私たちキリスト信仰者は知っているからです(「フィリピの信徒への手紙」1章23節)。