第10章 永遠の命

 人生の最終局面を迎えた時、あなたにはどういう運命が待ち受けているのだろう。
 「それですべて終わるだけだよ」と言う人たちもいるし。
 木が倒れれば、朽ち果てるだけか。
 ともし火が深い暗闇の中に消え果てるようにして、あなたも消えていくのかな。
 もしかしたら、あなたの命は死んでからも続くのかもしれない。
 でも、彼らはどうなってしまうんだろう。
 あの常軌を逸した人々が核兵器に手を伸ばして人間の世界全体を終わらせてしまうとしたら。
  あるいは、世界全体が凍りついて生物がすべて死滅してしまうかもしれない。
 それとも、やっぱり結局はキリストが言われている通りになるのかな。
 そうだとしても、死んだ後にはどうなるんだろう。
 どこに死んだ人々はいるんだろう。
 いつか本当に最後の裁きが来るのかな。
 そして、いったいどうなるだろう。

10.1. すでに、ここで

不死と永遠の命は同じものではありません

 キリスト信仰者の理解によれば、「永遠の命」とは、お墓に入った後でようやく始まるようなものではありません。それはすでにここで始まっているのです。イエス様は「私を信じる者は永遠の命をもっている」と言われています(「ヨハネによる福音書」5章24節)。その人はすでに死から命へと移行しているのです。こうなる理由は(すでに何度も強調してきたことですが)信仰がキリストとの交わりを意味し、キリストが私たちをその命に与らせてくださるからです。そして、この命は決して死ぬことがない命なのです(「ヨハネによる福音書」11章25節)。新約聖書において「永遠の命」という言葉は「魂の不滅」のことではありません。たしかに人として生まれ出た者はもはや決して消え去ることがありません。人は「神様のかたち」として創造されています。そしてそれは「永遠への想い」が人の心に組み込まれていることを意味します(「コヘレトの言葉」3章11節)。しかし、神様と人との間の正しい関係が崩れ去った後の世界においては、ただたんに死ぬことによってその本来の関係性が回復することはありません。それを修復することができるのが「罪の赦し」なのです。キリストへの信仰におけるこの新しい命のことを聖書は「永遠の命」と名づけています。神様の御国に属する他のすべての事柄と同様に、永遠の命はこの世の生活の中では隠されています。人は新約聖書が適切にも「卑しいからだ」と名づけているかたちを有しています(「フィリピの信徒への手紙」3章21節)。人間の本性には罪が染み付いており、それゆえに人は必ず死ななければならない存在です。しかし、信仰のうちに死ぬ時になってようやく人はその本性に染み付いている「病原体」から解放されるのです(「ローマの信徒への手紙」8章10節)。人間性に付随しているこの基礎的な欠陥のことをキリスト教では「原罪(生まれながらの罪)」と呼んでいます。

10.2. 死

死とは、キリストへの奉仕を余儀なくされている敵です

 キリスト信仰者にとって「死」の中には互いに矛盾して見える二つの面があります。一方では、死は「敵」です。それは神様の創造された世界を破壊します。新約聖書は死について「地上の幕屋が瓦解する」という表現を用いています(「コリントの信徒への第二の手紙」5章1節)。死は苦しく、しばしば醜悪で恐ろしいものなので、私たちが死に対して嫌悪を覚えるのはいわば当前だともいえます。

 しかし他方では、死について聖書は「死よ、お前の勝利はどこにあるのか?死よ、お前のとげはどこにあるのか?」とも言っています(「コリントの信徒への第一の手紙」15章55節)。今や死はその先の尖った部分がへし折られ、その暗さと恐ろしさを失っています。死とはキリスト信仰者がこの世から離れてキリストと共にいることができることでもあり、パウロが言っているように「そうであるほうがはるかに望ましい」ことを私たちキリスト信仰者は知っているからです(「フィリピの信徒への手紙」1章23節)。

10.3. 死者の居場所は?

 「あなたは再び塵に戻らなければならない」
(「創世記」3章19節)。

死者を墓に葬る祝福の儀式で述べられるこの御言葉は、具体的には棺の中にある遺体をさしています。人々が墓地で別れの挨拶をするときに、キリスト信仰者の親族たちは「安らかに休みなさい」という言葉を聞くことになるでしょう。この言葉にはさらに「復活の朝まで」という続きがあります。これらの言葉はキリスト信仰者が何を信じているかをよくあらわしています。

身体は塵になりますが、それは私たちの本当の自分ではありません

 復活の朝はいつか必ず訪れます。そのときには墓で休息していた死者たちが起き上がり、救い主と出会うことになります。キリスト教では死者に敬意が払われ、墓はきれいに整えられます。その一方で、遺体は、あたかもそれが後に残された故人のすべてであるかのように大げさな関心の対象にはなりえません。ところが、愛する者の眠る墓に執着しすぎるあまり、それを整えることに過剰なこだわりを示す人たちも中にはいます。このことは、彼らが死者の復活を信じる心の余裕をもっていない表れなのかもしれません。キリスト信仰者の信仰に特徴的なのは、実際に死者が墓地にいるとは信じていないことです。墓の中で朽ちていく遺体は故人の真の自己ではありません。それは神様の定めに従って崩れて再び塵に戻っていくべきものなのです。

死者たちは神様の御手のうちにあります

 それでは死者たちはどこにいるのでしょうか?この疑問に対する最善の答えは「神様の御手のうちに」というものです。これはこの世では最終的な解答を知りえない疑問に無理な返答を試みない答えかたです。それでも、この答えには最も大切な点が十分に表現されています。復活を待つ間、死者たちがどのようなところにいるのか、彼らはいわゆる「過渡的場所」にいるのか、という疑問について聖書にはごく短い暗示的箇所が記されているにすぎません(「ペテロの第一の手紙」3章19節)。有限の時間の世界から永遠の世界への移行は、死んでいる本人にとっては「待機」ですらない可能性もあります。私たちは「時間」を放棄して、神様の「時間なき世界」へと移り行くのです。あるいは、この「過渡的場所」を「死者の国」と言い直してもよいかもしれません。信仰者にとってこの場所は、十字架上のイエス様が一緒にはりつけにされた強盗のひとりに対して言われた「パラダイス」へと変わります(「ルカによる福音書」23章43節)。とはいえ、キリスト信仰者にとってこれらの疑問は欠くことができないほど大切なものであるともいえません。キリスト信仰者は、死んだ後でも自分が神様の御手のうちにいることを知っています。そして、「死も生も、天使も支配者も、現在のものも未来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにおける神様の愛から私たちを引き離すことはできない」ことを知っています(「ローマの信徒への手紙」8章38~39節)。

10.4. 世の新生

時は短いです

 聖書によれば、世界はいつか「新生」を経験することになります(「マタイによる福音書」19章28節)。キリストが人を立ち上がらせて新しいかたちをお与えになったときにその人が新しい命をもってよみがえるのと同じく、全世界もまたいつかは変化の時を迎えます。イエス様のメッセージには本質的にすでにこうした考えがはっきり表現されています。天の御国は近づきました。「かの日」が近づいてきているのです(「マルコによる福音書」1章15節、「ヘブライの信徒への手紙」10章25節)。

 現代のこの世的な考えかたに慣れた人々にとって、イエス様の福音の中でこの箇所ほど奇妙で驚くべきものは他に見当たらないほどです。私たちはこの世界の「年齢」を億単位で計算したり「宇宙はこれからも限りなく続く」と考えたりするのに慣れています。「命が終わりなく続く」という考えは「私たちが存在しているのにはそれなりの意味がある」という感慨をいだかせます。しかしその一方で、核戦争によって人間の世界が自滅してしまう可能性がありうることを思うと、すべてが一挙に無意味なものとなってしまう最悪の破滅がいつか来るかもしれないという嫌な予感が私たちを襲うこともあります。

時の短さは命に目的を与えます

 新約聖書の考えかたはこれとは逆です。「時は短く、キリストはこの世を終わらせるために来られる」というこの考えかたこそが、この世に四散しているキリスト信仰者の現実に対して深い意味を与えます。苦しみと不正はいつか終わり、本来の意味で唯一「命」の名に値する真の命がようやく勝利を収める時がいつか必ず来ます。この世界の最終局面を迎えた時に、ようやくこの世界もあるべきはずの「本来のかたち」に変わるのです。

創造主は被造物世界を支配なさっている唯一のお方です

 しかし、これは一体可能なことなのでしょうか?この壮大な宇宙がいつか胡散霧消してしまうようなことがありえるのでしょうか?

 信仰と不信仰が互いにまったく異なるやりかたで同一の真実と向き合う場所に、私たちはここでふたたび出会います。キリスト信仰者と不信仰者とは、たとえば物質の構成や、物質自体に大爆発を引き起こすほどの巨大なエネルギーが蓄えられているという(常人の理解をはるかに超える)物理的事実について、ほぼ同様の知識を習得しています。神様を信じる人は「神様は物質の内蔵するエネルギーを物質内部に押さえ込んでおく力も、それを物質から解放する力もおもちである」と考えます。原子核物理学の時代に生きる私たちにとって、これに関する聖書の御言葉は物理的に観察可能な対象になってきているともいえ、それゆえ数世代前の時代とはまったく違う現実味を帯びるものとなっています。一例として「ペテロの第二の手紙」3章8~13節をあげることができるでしょう。かつて「存在せよ!」という言葉を発して全世界を創造なさった神様は、その一方では世界の存在そのものに対して限界を設け、それを滅ぼしたり他のものに代替したりすることもできます。キリスト信仰者はこのようなものとして神様の本質や全能性を理解し、それについても信仰告白します。

この世の進展に伴い、悪も展開していきます

 聖書に記されている未来の展望には驚くべき点がもうひとつあります。時代が進むにつれてこの世で人間がより善い存在になっていくと聖書は教えていない、というのがそれです。人間が大規模な事業さえも成し遂げることができるようになるという歴史的発展のことを、聖書は知っています。しかしその一方で、神様と悪との間の争いが次第に激しさを増しながら絶えず展開されていく様子もまた人間の歴史には刻まれてきたし、これからもそうであることを、聖書は私たちに語っています。時が経つにつれて、悪は神様との戦いに対していっそう多大の戦力を投入するようになります。あたかもそれを反映するかのように、戦争はより残酷なものになり、破滅的状況は悲惨を極め、国家権力は自己の絶対化と神様への反抗的な態度とを鮮明にしていきます。人類の歴史の最終的な局面では、キリスト教会は迫害の下でカタコンベに潜って集会を開くほかない小さな群れとなっていくのかもしれません。

大災害の只中にあっても決して消えることのない希望

 しかし、上述のことさえも命を無意味なものにはできません。逆です。実はそれらの出来事はまもなく春が訪れることを示すしるしなのです。朝は近づいています。「かの日の」朝です。その日には、私たちの存在の真の目的があきらかにされるのです。「これらのことが起こり始めたなら、身を起こし、頭をもたげなさい。あなたがたの贖いが近づいているのですから」とイエス様は言われました(「ルカによる福音書」21章28節)。

 これはしかし、いつ世界の終末が訪れるのかをあらかじめ計算して予測できるという意味ではありません(「マルコによる福音書」13章32節以降)。その日は思いがけない時に来ることを新約聖書は強調しています。人々が恐怖心にとらわれて力を失ったり、生き残りをかけた戦いの中で憎しみの思いにとらわれたりして心をかたくなにしていく中で、イエス様の弟子であるキリスト信仰者は心安らかに生活を続けることができます。イエス様が来られようとしているのだから、すべてのことには意味があるし、結局はすべてがよい結果をもたらすことを彼らは知っているからです。このことは非常事態や突発事故が起きたときに幾度となく再確認されてきた歴史的な体験でもあります。

この世に対する私たちの責任が減ることはありません

 いくら来るべき時への希望があるからといって、今直面している日常の義務をないがしろにしてよいことにはなりません。一切を破壊し尽くさんとする諸力に対する神様の戦いは、この世の終わりの時までずっと続いていきます。この戦いの中でなすべき自らの義務をキリスト信仰者は自覚しています。それは、大きな試練に耐え抜くために、小さな事柄についても誠実に対応していくことです。すべてがだめになっていくように見える時でも、自分に委ねられた召しに従って活動し続けるべきなのです。キリストが今まさにこの世に戻って来られようとしているのかどうか、私たちは知りません。信仰に導かれたキリスト信仰者が、国際的な司法組織での仕事、国々の兵器の保有量を制限する事業、核兵器の拡散を防止する任務、その他、世界を脅かすカタストロフィーを阻止するための職務に就いていくのは自然な成り行きです。この世の終わりがいつ来るのかを決めるのは、神様であって私たちではありません。「キリスト信仰者は、明日がこの世の終わりの日だと信じている場合にも、今日はりんごの木を植える」という、ルターのものとして伝えられている言葉があります。

10.5. キリストの再臨(パルーシア)

キリストは栄光につつまれて再臨なさいます

 福音によると、キリストは「終わりの日」に一切の支配権を手中に収められます。しかしこの度は誰にもはっきりとわかる形で、キリストはこの世に戻って来られます。キリストがこの世に来られる理由は、初回の時がそうであったように御自分が私たち人間の一員となるためではなくて、私たちを神なる御自分と似た者にするためです。キリストが栄光に包まれてこの世に帰って来られることを、新約聖書はキリストの「パルーシア」と名づけています。このギリシア語の言葉は福音全体の基調をなす概念です。このことは教会の暦や礼拝式文にも明瞭に示されています。

 パルーシアにおいて、神様の御国は「力の中で」設立されます。「古い世」の時期はついに過ぎ去り、神様はすべてを新しくなさいます。そして、古い世とはまったく異質な「新しい世」が誕生します。神様がこの新しい世をいかなるものとして創造なさるのか、私たちは知りません。しかし、新しい世には「義が住む」ことがわかっています(「ペテロの第二の手紙」3章13節)。そこにはもはや悲しみも叫びも痛みもありません(「ヨハネの黙示録」21章1~4節)。イエス様の御言葉によれば、天と地は消え去ります(「マルコによる福音書」13章31節)。しかしその一方で、「新しい天と新しい地」、すなわち新しい宇宙に関する約束が私たちには与えられています。

10.6. 復活

肉体をもった人間が具体的なかたちをとって新しいからだをともなう命へと復活します

 「キリストのもの」すなわちキリストの命にすでにこの世で与っている人たちは、キリストが戻って来られる時に「キリストと似たかたち」となり、来るべき世における命に与ることになる、と福音は私たちに教えます。すなわち、この世での命と来るべき世で生きられるべき命の間にはある種の相関関係が存在しているのです。かつて生きていた人たちも、キリストが戻って来られる際に地上でまだ生きている人たちも、皆が一様にこの新しい命に与ることになります。死んでいる人たちにとって、これは復活を意味します。かつて死んだその同じ人が新しい命の中へ起き上がるからです。この地上で生きていた「私」という性格をもった一個人は、新しい世で生きる「私」と同一のものです。新約聖書はまた、完全な変化が起こることを強調しています。「死ぬべき者が不死を身にまとう」のです。まったく新しい存在様式が古い存在様式にとってかわります。それと同時に、まさしくこの死ぬべき人間が新しいかたちを得るのです(「コリントの信徒への第一の手紙」15章51節以降)。「使徒信条」など、キリスト教会の信仰告白を原語で読むと、そこには「肉のよみがえり」(ラテン語でcarnis resurrectio)という表現がでてきます。この言葉を誤解してはいけません。ここでいう「肉」とは「原罪」のことではないのです。実に、この原罪にかかわる部分こそが復活において最終的に滅ぼされるものです。同様に「からだのよみがえり」という表現も誤解を招きやすいものだといえます。

 ここでいう「よみがえり」とは、私たち人間を構成している物質のことについてではありません。私のからだは「朽ちないものの中でよみがえる」新しいからだへと場所を譲らなければならないのです。

「肉のからだが蒔かれ、霊のからだがよみがえるのです」
(「コリントの信徒への第一の手紙」15章42、44節)。

「まったく新しくされた世において、人間は具体的な個人として新しい生へとよみがえる」という信仰を、私たちはキリスト教の信仰としてしっかり守っていきます。

10.7. 裁き

裁きはギリシア語で「クリーシス」といい「選り分けること」を意味します

 この世の時と来るベき世の時の間の境界には「大いなる裁き」が位置しています。新約聖書において、裁きは「選り分けること」を意味します。「人の子はすべての国民を選り分けるでしょう」(「マタイによる福音書」25章32節)とイエス様は最後の裁きについて言っておられます。この裁きは、明確に二分されるグループのどちらか一方に人がひとりひとり振り分けられるような選別とは異なるものです。裁きを決める基準点は、いささかの曖昧さも残さないで単純に表現することができます。すなわち、人がキリストとの交わりの中にいるかどうか、キリストの命に与っているかどうか、という基準点です。キリストと共に生きる命は、この地上では目に見えるようなものではありません。なぜなら、それはしばしば私たちの弱いところに隠れているものだからです。人は、信仰者の真似をしてあたかも自分がキリストと共に生きているかのように見せかけてみたり、外面を取り繕ったりすることはできます。しかし、裁きの時には、その人とキリストとの本当の関係が疑問の余地なく目に見える形で明らかにされます。キリストのからだの一員、まことのぶどうの木の枝である人たちもいますし、そうではない人たちもいます。手元のランプに油がちゃんと入っている人たちもいますし、入っていない人たちもいます(「マタイによる福音書」25章1〜13節)。

この世で福音に触れる機会のなかった人たちが死んだ後に救われる可能性について

 この世で生きている間に福音と出会う機会のなかった人たちにどのような救いの可能性が残されているのか、私たちは知りません。イエス様が陰府で死者たちに福音を宣教されたであろうことを新約聖書は示唆しています(「ペテロの第一の手紙」3章19節、4章6節)。このことについて様々な推測をしたり、希望を抱いたりすることはできます。しかし、神様がこのことについて私たちに知らせてくださらなかったのにはそれなりの意図があったことを私たちは心に留めておかなければなりません。国内および国外で福音を宣べ伝えるために、神様は私たちを召してくださったのです。福音のメッセージが人々の心の中に入るようにするために、私たちは自分にできることを行わなければなりません。そして、他のことはすべて神様にお任せすればよいのです。

すでにこの世にいる間になされる選択

 この世においてキリストを拒絶した者が永遠の世において悪い結果を伴う道を選択してしまっていることを新約聖書は明瞭に告げています。「来るべき世に移った後でおもむろに態度を改めればよいのだし、そのような機会も与えられるだろう」などとうそぶいてはなりません。この点に関して、人間には自らの選択によって来るべき世での己の身の振りかたに決定的かつ最終的に働きかけるチャンスが与えられているのです。神様と共に永遠に生きることを耐え難いものと感じて拒む人も中にはいるかもしれません。人々が天国や神様のことを汚す不適切な言葉遣いをする場合にも、神様への彼らの反抗心があらわれています。

10.8. ふたつの可能性

神様と一緒の生活と、神様なしの生活

 永遠の世で私たちの前に開かれる二つの可能性は、この世の時におけるものと同じです。すなわち、神様と共に生きるか、それとも神様なしで生きるか、ということです。ただし、永遠の世においては、これら二つの選択肢の間には決定的な相違が生じます。この世の時においては、誰であれ神様なしでは一瞬たりとも生きることができません。この世では、人は皆、創造主が善き賜物を豊かに与えて休みなく働きかけてくださる世界の中で生きています。「大いなる選別」がなされた後には、それとは逆に「神様のいない世界」が「神様のおられる世界」と並存するようになります。「神様のいない世界」とは、神様の善き御業が完全に締め出されている世界のことです。このことに関連してイエス様は幾度も様々なイメージを多用なさいました。それらのイメージが共通して語っているのは、神様のいない「悪の世界」の実在についてです。

神様と共に生きることは霊的な永遠の命です

 神様と共に生きることは「永遠の命」と呼ばれます。それに対して、神様なしで生きることは「永遠の死」と呼ぶことができるでしょう。神様と共にいる永遠の命がすでにこの世で始まった「キリストへの信仰に基づく命」の延長線上にあるのと同様に、永遠の死は、人の心が神様から離れ去り神様なしで生きようとする、いわゆる「霊的な死」の延長線上にあるとみなすことができます。この霊的な死からは人生の方向転換(悔い改め)によって救われることができます。人生の方向転換はこの世にいるかぎりは可能だからです。このことを表しているのが「恵みの時」という言葉です。この言葉は、人がまだ神様の恵みの影響下にある時のことをさしています。しかし、永遠の死、すなわち神様と人間との最終的な離別は、死んでしまった後から事後的に取り消すことができません。イエス様の御言葉の啓示によれば、人が永遠の死の状態から救われることはもはやありません。

死者たちについて心を騒がせる必要はありません

 それでは、どれだけ多くの人が救われるのでしょうか?イエス様にもこの質問が向けられたことがありました。イエス様はこの問いに対して「狭い戸口から入るように努めなさい」という率直な励ましによって答えられました(「ルカによる福音書」13章23節以降)。死者たちをめぐる問題は神様にお委ねしましょう。彼らの救いについて神様ほど心を砕いてくださっているお方が他にいないのは確かなのですから。神様が行われたよりも多くのことをできるような人は誰もいません。生きている人々のことを配慮し愛し祈ることのほうが、私たちにとってはいっそう大切なことなのです。

10.9. 永遠の命

永遠の命とは、神様の御許で神様の子らに与えられている、言葉では表現できない救いの幸いと栄光の輝きのことです。そこで神様の子らは神様を面と向かって見つめ、永遠の賛美を神様に捧げます

 神様の御国において、人が生きている本来の目的、すなわち、中断もなく破綻もない神様との交わりが実現します。このような生活がはたしてどのようなものなのか、私たちは「人生の最良の瞬間」にそれとなく推し量ることができるだけです。それは仏教的な極楽などとは違うし、無への消滅や受け身の平安とも異なります。神様の御国は半ば理想化された抽象的な世界などではありません。それは具体的に存在するものなのです。そこではいろいろなことが起こり、いろいろな生き物がおり、歌があり動きがあり命に満ちています。それは、私たちがこの世の人生で想像しうる最大の富、幸福、美、変化などをはるかに超えた実在なのです。この新しい生活環境を描写する際に、まず聖書は二つの異なる分野からのイメージを援用しています。そのひとつは「礼拝」であり、もうひとつは最高の美を湛える「自然」です。このことは決して偶然ではないでしょう。神様の御国はこの地上では「礼拝において、ある特定の瞬間に」私たちに近づいてきます。その時には、神様がすべてを満たし、私たちは神様の中で活かされます。また神様の御国は繊細極まりない構成美を有する被造物の中にも反映しています。「そこには諸国民の光栄と数々の貴重品とが携えられてくる」と聖書は言っています(「ヨハネの黙示録」21章26節)。これらの御言葉に基づいて私たちは、「習慣、音楽、詩、リズム、景色、建築など私たちがこの地上で出会ってきた最上のものはすべて、実のところ、神様の御国の中で私たちが出会うことになるもの(天国で出会うときにはさらに素晴らしくしかも不思議な親しみを覚えるもの)を内に含んでいたことが後になって判明する」という想像をめぐらしてみることもできるでしょう。さらに、私たちがこの世で信仰生活を送っていた時には「まだ十分に納得のいく説明を受けていない」と感じていたいくつもの事柄が、天国ではすっかり明らかにされます。そこでは、すべてについて説明がなされ、すべてがはっきりし、すべてが自明なものとして理解できるものに変わり、探求しえない深遠さがまったく残らないほど完全にわかるものになります。

「神様は人類の歴史においてなさったようにする他なかったのだ」ということを、そのとき私は理解するようになります
(「コリントの信徒への第一の手紙」13章12節)。

そして、神様が行われたことが、本来なら私たちがそのような報いをいただくには値しないはずの「憐れみ深く測り知れない愛の奇跡」であったことが、その時には理解されることでしょう(「ヨハネの第一の手紙」3章2節)。「ヨハネの黙示録」は永遠の命におけるこのあふれるほどの幸いを、すなわち、神様は「在る」というお方であることから来る幸いを多くの賛美に満ちたある箇所で「賛美、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが世々限りなく、私たちの神様にありますように、アーメン」と表現しています(「ヨハネの黙示録」7章12節)。

1)キリスト教信仰によると、「永遠の命」という言葉はどのような意味をもっていますか?

2)永遠の命はいつ始まりますか?

3)キリスト教信仰によると、人間が死に対してとる態度にはふたつあります。 それらはどのようなものですか?

4)新約聖書が語る「かの日」とはどういう意味ですか?

5)次の二つの事柄について聖書が語る「来るべき出来事」とはどのようなことでしょうか? A)世界の歴史について B)教会について

6)「再臨(パルーシア)」とはどういう意味でしょうか?

7)次の三つの言葉の聖書的な意味を説明してください。 A)体の死 B)霊の死 C)永遠の死

7)「来るべき世の命」を描写する際に聖書が用いているイメージに特徴的な事柄を挙げてみてください。

1)すべての人間には共通して腐敗したところがあります。それについて語っている次に挙げる聖書の箇所を読んでください。そして、次の三つの質問に関して別の言葉で説明し直してみてください。
A)この腐敗はどのようなものでしょうか。
B)この腐敗のせいでどのような結果が生じますか。
C)この腐敗を何らかの方法でいつか最終的に完治させることができるのでしょうか。
「ローマの信徒への手紙」7章21~25節、8章10~11節
「コリントの信徒への第一の手紙」15章50~57節
「フィリピの信徒への手紙」3章20~21節

2)次にあげる福音書の箇所をよく読んでください。そして、人が永遠に滅びることが起こりうることについて、イエス様がそれらの箇所で言及なさっているかどうかを調べてください。もしもイエス様がそれについて述べておられる場合には、どのような場合に人は永遠に滅びることになるのかを考えてみてください。
「マタイによる福音書」5章20~30節
「ルカによる福音書」13章1~17節
「ヨハネによる福音書」5章21~30節

3)イエス様は「あなたがたが私の兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたことはすべて、すなわち私にしたのです」(「マタイによる福音書」25章40節より)と言われました。イエス様は「最も小さい兄弟」いう言葉で何を意味しておられるのでしょうか?次の箇所を参照してください。
「マタイによる福音書」12章48~50節、28章10節
「ヘブライの信徒への手紙」2章11節
「ローマの信徒への手紙」8章29節
「マタイによる福音書」10章30~42節
「マルコによる福音書」9章41~42節

4)次にあげる聖書の箇所で、イエス様は永遠の命についてどのようなことを言われたいのでしょうか?できればグループで話し合ってみてください。
「マタイによる福音書」19章29~30節、24章46~47節、25章21、23節
「マルコによる福音書」12章23~25節
「ルカによる福音書」12章37~38節、42~44節