第4章 創造主、創造、被造物

 神様は人間を本当に「変なもの」にお造りになったと思うなあ。
 自分のことばかりではなくて、もうちょっと周りのことを思いやるような存在として神様は人間をお造りになれなかったのかしら?
 あるいは神様が人間を創造しなかったのだとしたら?
 私たちはみな猿の子孫だって言い張っている人たちもいるけれど。
 でも、私たち人間は猿よりもたちが悪いよね。

4.1. 天地創造

天地創造の物語をどのように読んではいけないか

 天地創造の記述を読む際には、神様が聖書を通して私たちに語られる独特のやりかたを思い起こさなければなりません。このやりかたについては今まで扱ってきました。考察対象としては興味深いが実生活では役に立たない内容を講義する教授の語り口と神様の私たちへの語りかけとはまったく異なっています。むしろ、神様の御言葉は重大な決断を迫られている集会での発言に似ています。神様の御言葉には「律法と福音」と呼ばれる二つの側面があります。それは神様の意志と救いの御業に関するメッセージです。そして、このことを念頭においた上でこれから取り上げる旧約聖書の冒頭を飾る天地創造の記述も読むべきなのです。

 もしも私たちが天地創造を百科事典の記事であるかのように読むならば、神様が私たちに言われたいことを正しく把握することはできません。ところが、実際にはこのようなやりかたで天地創造の記述は読まれることがしばしばありました。神様の御言葉の特質である「律法と福音」に興味を示さない人々が聖書の冒頭の箇所から見出したことといえば、一般の人が全宇宙の誕生を概説する科学的な啓蒙書の内容程度のものでした。今でもなお、このようにして天地創造の記述を読む人たちが絶えません。

自然科学と天地創造

 もしも旧約聖書の天地創造の記述を前述のやりかたで読むならば、解決が困難な様々な問題にたちまちぶつかることになります。たとえば、科学が提供する世界観や全宇宙の誕生についての理論などは科学的知識が増大するにつれて絶えず変化し続けます。それら常に更新される科学的世界観と聖書に語られている天地創造とはどのような関係にあるのでしょうか。疑問が次から次へと湧いてきます。

 神様は天地創造の記述をそのようなやりかたで読むために与えてくださったのではありません。神様は私たちに世界の誕生過程を記した「日誌」のような科学的概説を与えるおつもりはなかったのです。たとえば、聖書の冒頭の2つの章にはふたつの創造の記述があります。そして、それらふたつの天地創造の記述は統一して整合的に読むようには書かれていないようにも見えます。細部において多少なりとも歴史や学問に関連をもつ諸事象は神様の伝えたいメッセージの「枠組み」(たとえば、特定の空間や時間など)を提供するものではありますが、神様が語りたい事柄自体ではありません。キリスト信仰者として私たちはこれと同じことを天地創造の記述にも見てとることができるでしょう。もちろん人間はこれらのことについても研究する自由があります。歴史的・科学的研究においては神様が人間に付与された理性的な理解力を用いるのが適切であるともいえます。しかし、神様は聖書をそうした研究を手っ取り早く進める近道になるようないわば「科学的索引辞典」としてお与えになったのではありません。聖書を通して神様はそのようなことよりも大切な事柄について語っておられるのです。

 旧約聖書冒頭を飾る天地創造の記述は大まかであり、創造の具体的な進展過程についても隙間が残されています。ですから、それは天地創造に関する科学的な意味で厳密な知識を得るための基礎文献にはなりえません。天地創造の記述は半ば曖昧さに包まれたものだからです。いつか私たちがそのことをよりよく理解できるようになる時がおそらく到来するであろうことを待ち望みつつ、その時までは態度を保留しておくのが賢明だといえましょう。

天地創造の伝えるメッセージ

 しかし、上で述べたことは「天地創造とは大昔の人々の世界観を私たちに伝える古い作り話である」という意味ではありません。実は、その逆なのです。神様は天地創造の記述のスタイルを自ら選び、その中に御自分の伝えたいメッセージを配置なさったのです。そのメッセージとは、律法と福音を含んだ御言葉であり、神様が私たちに世界の誕生や創造の御業について知ってもらいたい事柄であり、科学的世界観の変遷の影響を被らずに誰もがいつでもどこでも読んで理解できる事柄です。

 それでは、このメッセージはどのような内容を含んでいるのでしょうか?

4.2. 神様はすべての源泉です

宇宙全体は神様が創造なさったものです

 旧約聖書の天地創造の記述では「神様」という言葉が繰り返し登場します。たとえば、「神様は造られた」、「神様は言われた」、「神様は分けられた」、「神様は行われた」、「神様は置かれた」、「神様は祝福された」というように。すべて地の上にあり私たちを取り巻いている宇宙の中に存在するものは神様の御手が形作られたものです。「地とそれに満ちるもの、世界とその中に住むものたちは主のものです」(「詩篇」24篇1節)。「主が仰せられるとその通りになり、命じられると堅く立てられたのです」(「詩篇」33篇9節)。神様にはこれらすべてのものに目的と計画を用意なさっています。「あなたがすべてをお造りになったので、それらはあなたの御意志に沿って存在しまた創造されたのです」(「ヨハネの黙示録」4章11節)。

4.3. すべてには存在目的があります

私たちが存在しているのは意味のないことではありません

 この世界はでたらめに偶然に誕生したのではありません。天地創造の記述は神様が御言葉の力によって光を輝かせ、地を形作られ、海や大陸を生き物で満たし、最後には人を造られた過程を描写しています。これらすべてを神様はご覧になって「よし」とされ、意義深いものとなさったのです。

4.4. 神様は宇宙全体の秩序をお定めになりました

自然法則は神様の御意志のあらわれです

 天地創造の記述によると、神様は地と海を互いに分け隔てて天空の星それぞれに名を付与されました。「主はこれらをとこしえに堅く定め、超えることのできない律法をお定めになった」と「詩篇」148篇6節にあります。「ヨブ記」には、神様が扉で海を閉じ込め、朝日に自らの場所を指し示し、雲を数え、山ヤギの出産の時期を知っておられる様子を詩の形で描写されています(38章8、12、37、39節)。現代風に言えば、神様はまず物質を構成する最小の基本粒子(素粒子)を精緻に創造なさり、電子が原子核の周りを動き回るようにさせ、それらを用いて私たちの世界の全現象を細胞レヴェルにいたるあらゆる活動を含めて構成してくださった、ということになります。そのようにしてできあがった細胞は生命の基本的な構成要素であり、私たち人間の考えや詩心や愛情の基礎を形作っています。自然の全秩序において私たちは神様の力と計画と目的に出会います。

 自然界の法則は神様の創造的な御意志を明示しています。「あなたたちは目を高く上げてどなたがこれらのものを創造したかを見なさい。この方は万象を数えてひきいだし、すべてをその名で呼ばれます。その勢いは偉大で、またその力は強く、この方からは一人たりとも見失われるものはありません」(「イザヤ書」40章26節)と「イザヤ書」は語っています。

 神様は自然の多様な物理法則を設定なさった方でもあるので、それら諸法則の支配主でもあられます。そして、それら諸法則は御自分が定めたものなので、神様は必要に応じてそれらを変更することもできます。ここで、前章の奇跡についての考察を思い起こしましょう。

4.5. 天地創造と進化

進化論が天地創造への信仰を否定することになるとは限りません

 天地創造の記述は創造が段階を踏んで一歩一歩行われたことを語っています。地には植物が生えはじめ、海には生き物が満ち、鳥は天空を飛びまわるようになり、地上には動物たちが種類に応じて出現しました。そして、最後に創造の御業の頂点、被造世界の冠として人間が登場しました。ここで心に留めておかなければならないことがあります。今私たちは天地創造の記述スタイルをある種の観点から大まかに扱っているだけなので、答えがもともと見つからない事柄に関しては答えを無理に案出すべきではない、ということです。時間の経過とともにある生物が別の生物へと変わってきたとする「進化論」と呼ばれる仮説があり、それを科学的真理として受け入れている現代人は大勢います。彼らはいわば「進化論信仰者」なのです。仮にこの仮説が科学的に正しいとされたとしても、聖書の天地創造の記述が真理性は揺るぎません。進化論は神様の創造の順序に関するひとつの仮説にすぎないからです。神様は地や海に植物やその他の生き物を種類に従って生じさせました。これらのものがその多様さを伴って一遍に生み出されたのか、それとも遺伝子レヴェルで起きた一連の変化によって徐々に生じたのかということは、私たちがこの問題を信仰の視点から見るときにはたいした意味を持っていません。あらゆる変化の過程には絶えず神様の御意思が働いている、というキリスト教信仰に基づく確信は、神様の創造の御業を否定する不信仰とは正反対のものだからです。

4.6. 創造の御業は今も継続しています

神様は創造の御業を継続することによって万物を維持してきました

 自然の中で起きるすべての出来事は神様の絶えざる創造の御業である、と聖書は教えています。これには地質学が扱う自然界の事象も含まれています。たとえば「詩篇」には「山々は立ち上がり、谷々はあなたがそれらのために定められたところに沈んだ」(「詩篇」104篇8節)と書いてあります。また、これには季節の移り変わりと自然の新生も含まれています。これについても「詩篇」には「あなたはその天宮から山々に水を注がれます。地はあなたの御業の実をもって満たされます。あなたは家畜のために草を生えさせ、また人の必要のために植物を与えて、地から食物を産出させます。人の心を喜ばす葡萄酒、その顔をつややかにする油、人の心をしっかり支えるパンなどです」(「詩篇」104篇13〜15節)と記されています。あらゆる出来事が神様の偉大なる創造の多様な一連の現象として提示されています。峡谷の泉から野生のロバは喉の渇きをいやし、木は養分を補給し、コウノトリは杉の木に巣を作る、というように。「あなたが御霊を遣わされるとき、それらは造られます。あなたは地の面を新たになさいます」(「詩篇」104篇30節)。

 同様の視点をイエス様も新約聖書で提示なさっています。神様は野の草を装って、栄華を極めたソロモンでさえ見劣りするほど立派な衣装を野の花々に与えてくださるのです(「マタイによる福音書」6章29~30節)。

 これらの記述は、自然の内在的因果関係に対する無知のゆえに案出された原始的な想像の所産などではありません。聖書に基づく天地創造信仰は現代の自然科学の知識では未だ説明が困難な事象を一時しのぎ的に補完する便宜上の説明などではありません。もともと人間は自然を詳細に探求する傾向をもっています。そして、「詩篇」の記者は自然のあらゆる事象を「神様の創造の御業」として受け止めているのです。

 人間の感覚で把握可能な自然現象に関して、キリスト信仰者は無神論者や懐疑論者と同じように理解しています。低気圧や肺炎などについて、キリスト信仰者は他の人々と一緒に同じ自然法則の存在を信じています。しかしその一方で、キリスト信仰者は「神様が日々の糧を祝福し、病気の時に助け、地の産物を守ってくださるように」といったお祈りをします。キリスト信仰者は自然の大いなる総体の細部にわたって神様が働きかけてくださることを信じているからです。

4.7. 人間

「神様のかたち」として

 創造の御業全体の頂点であると同時に終点でもあったのは人間です。人間の創造は、神様がそれまでのすべての創造の御業を越える決定的に何か新しい存在を造られたことを意味しています。人は「神様のかたち」、「神様に似たもの」として他のすべての被造物を支配するために創造されました。

 神様は、私たち人間がそれ以外の被造物とは決定的に異なる生き物として創造されたことを「天地創造」の記述を通して知らせてくださったのです。このことを告げているのが「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造ろう」(「創世記」1章26節 )という御言葉です。わかりやすくいえばこの御言葉は「人間は神様が存在することを知ることができる」という意味です。人間は神様と一緒にいることができます。宗教改革者マルティン・ルターが「モーセの十戒」についての説明で言っているように、人間に与えられている仕事は、神様に感謝し、賛美をささげ、仕え、忠実を守ることです。「神様のかたち」として造られた人間は信じることも祈ることもできるのです。

同時に「塵に等しいもの」として

 人間の置かれている立場はきわめて独特です。本来人間は、神様に感謝し賛美をささげ仕え忠実を守るような存在ではありません。むしろ、そのような者になることを神様から期待され、人としての職務を委ねられている、と言ったほうが適切でしょう。人間は本性的には他の被造物と同様に大自然の一部である、というのが聖書の教えるところです。「あなた(人)は土から取られたのだから、あなたは塵だから、あなたは塵に帰る」(「創世記」3章19節)。もともと人は「土から取られた」存在です。私たちが死ぬ時に神様は私たちを再び土の塵に帰します(「詩篇」90篇3節)。人間の体が無機的な自然と同じ諸元素から構成されていることを現代の私たちは昔に比べてはるかに正確に把握しています。同じ知見に基づいて、人間が死ぬ時にその体を構成していた同じ原子や分子が新しい結合物をまったく新しいやりかたで構成することは原則的に可能であることになります。

 現代の科学は人間を自然の大いなる全体性の一部としてとらえます。この見方はそれ自体としては聖書に反する主張ではありません。しかし、聖書は人間について科学よりも多くのことを知っています。神様は人間を「魂の所有者」として、より正確に言えば「魂」として造られました(「創世記」2章7節)。

4.8. 魂

魂は人間のある一部分ではありません

 聖書は魂について描写していません。魂はそれだけを他から分離できるような人間の構成部分ではないからです。体と魂を持った人間そのものを「魂」と呼ぶ場合があります。人間を魂と呼ぶのは、人が神様とどのような関係にあるかがその人の命に決定的な意味を持っているからです。また、人間は死を通していずれこの世から永遠の世界へと移行するからでもあります。

魂は私たちに神様と結びつく可能性を与えるものです

 人間をこのような「永遠の生命体」にしているのは、人間が何かしら他の生物よりも優れた消滅しない精神的な本質をもっているからではありません。ほかでもなく人間が神様の子どもとなり、神様を知り、神様の語りかけに耳を傾け、神様に信頼して祈り、神様を信じて愛するようになることを神様御自身が切に望んでおられるからなのです。中世のローマ・カトリック教会のスコラ神学者たちは魂の本質をめぐる理論を構築しました。それを批判したマルティン・ルターは魂が何であるかという問題は人間には知りえない事柄であることを強調しました。それは神様やその御意志と同じく奥義に属することであり、私たち人間の知識や理性によっては把握できないものだからです。

魂と体は相反するものではありません

 体と魂の関係を考察する時に何よりもまず銘記すべきなのは、キリスト教信仰は、物質的で汚れた下等な欲望に満たされた「体」と、より優れた精神的な「魂」とを正反対なものとして対置させない、という点です。私たち人間の内部において、体と魂との間にこのような単純な境界線を引くことはできません。私たちがこの世で人生を歩み続けるかぎり、体と魂はひとつの全体をなしています。体も魂も神様に仕えることができますし、神様からの罪の赦しを受けることもできる善き存在なのです。しかし、もしも人間が神様に自らを委ねていない場合には、「魂の命は人間の内部で体よりも優れた部分である」などとはとうてい主張できません。むしろ、逆であると言えましょう。

人間の価値

 「人間はかけがえのない大切な存在だ」と私たちは断言することができます。そして、この主張の根底には、神様の創造の御業への絶対的な信頼があります。人間は「神様のかたち」であり、神様が造って愛を注いでくださる対象です。それゆえに、人間は皆が同じようにかけがいのない存在なのです。人々を各々の実力や才能や性格といった基準によって計測するなら、彼らの間には多様な差異が見出されることでしょう。にもかかわらず、ある点において人間は皆同じ立場なのです。それは、神様が人間を御自分の子どもとして造られた、という点です。それゆえ、それぞれの人を、たとえその人が誰であろうとも、神様の目には等しく尊い兄弟姉妹として接するべきである、ということになります。お年寄り、体の調子が悪い人、病気の人、体に障害がある人、気難しい人など、人は十人十色ですが、皆が人間としてかけがいのない価値をもっています。ですから、人の命に危害を加えることは許されません。また、人は愛と配慮を享受する権利をもっています。

4.9. 被造物の支配権

人間に理性が与えられているのは被造物世界を適切に支配するためです

 創造の御業への信仰には、神様は人間が自然界を支配するようになさった、という意味も含まれています。「あなたはこれ(人間)に御手の御業を治めさせ、すべてのものをその足の下におかれました」(「詩篇」8篇7節)。

 この点で、人間はこの世において他のあらゆる生き物から区別されることになります。人間は道具を発明し、動物を飼いならし、自然の力を利用して上述の御言葉を実現していきます。

 独創的で生産的な仕事をすることは人間が神様から受けた使命のひとつです。技術を革新し、機械を設計し、発電所を建設し、道路を敷設するときに、人間は神様の意志を実現します。自然を研究することも神様の意志にかなっています。もちろん、これらすべてのことについて人間が環境破壊など間違った方法をとる場合もあります。なぜそうなるかというと、人間がもっている力は神様が人間創造の際に人間に与えた善き力や精神的な力だけではないからです。

4.10. 天使たち

神様を賛美し神様に仕える天使たちやその他の諸霊が存在します

 人間は神様の地上での創造の御業の頂点をなす存在です。しかし、この創造の御業は私たちを取り囲む宇宙のみに限定されてはいません。神様を知り賛美し神様に仕える他の生命体がいる「別の世界」が実在することを聖書は教えています。イエス様の教えの中では天使の存在は自明の前提となっています(「マタイによる福音書」18章10節、26章53節)。また、命の与え主である神様に対して跪いて崇めるおびただしい数の諸霊について使徒パウロはその名をあげて言及しています(「コロサイの信徒への手紙」1章16節)。そして、神様による人間の救いに関わる聖書の様々な出来事のうちでも特に重要な局面においては天使たちが神様のメッセージを伝える使者として登場しています。「天使」という言葉は本来「使者」という意味をもっていることを、ここで指摘しておきます。聖書は天使本人にではなく天使の伝えているメッセージの内容のほうに関心を示しています。これは聖書ならではともいえる特徴のひとつです。聖書は天使そのものについては短く言及するだけです。ですから、キリスト信仰者は天使や諸霊についての知識を闇雲に求めて深みに嵌り詮索を続けるのは神様の御意志ではないことを確認しましょう。そして、聖書に与えられている情報だけで満足することにしましょう。

 とはいえ、ひとつ確実なことがあります。神様は虚空の宇宙の遥か彼方でひとり孤独に鎮座している「イデア」のような存在とはまったく違うということです。それとは逆に、神様の世界が生き生きとした生命体、賛美、喜び、奉仕、交わりで満ち満ちていることを聖書は私たちに予感させてくれます。

4.11. 悪

悪と悪魔

 「悪」は人間の存在と理解を超えた世界に由来するものです。それゆえ、私たちはその起源についてごくわずかな知識しか有していません。

 聖書は悪の力が現実に存在することを非常に明確に語っています。この悪はたんに人間の抱えている意志や理解や能力の欠点や欠如などではなく、自らの意志と計画を持って行動する個体の力なのです。イエス様はこの力を「サタン」と名づけています。この言葉はもともとヘブライ語で「敵」や「反対者」を意味します。それに対応するギリシア語の言葉は「ディアボロス」で「責め立てる者」や「蔑む者」という意味です。

悪の起源をめぐる推測

 どのようにしてサタンが悪の存在になったのか、私たちにはわかりません。聖書に基づいて言えることは、人間が生まれる以前に、神様の造られた生き物たちの間で神様からの離脱を試みる反乱が起こったということです。イエス様が地上で生活していた当時のユダヤ世界では「イザヤ書」14章における預言はこの状況を指しているものと理解されていました。この章には神様に比肩する存在になろうとして逆に深く堕落してしまった光輝く明けの明星についての言及があります。神様の被造物の中の何者かが自分勝手に指令を出し、自らの意志によって神様の意志に反抗する行動に出た、すなわち「悪を行った」と私たちは推量することができます。同様のことを仄めかしている箇所はイエス様の御言葉の中にもあります。イエス様は「悪魔は真理に立つ者ではない」(「ヨハネによる福音書」8章44節)と言われます。悪魔は真理以外のものを選んだため「偽りの父」となり、あらゆる悪の大本になったということなのかもしれません。それにしても、「いかにして悪魔は悪魔になったのか」とか「なぜ悪魔のような存在がそもそも創造されたのか」といった疑問には明瞭な答えが見つかっていません。キリスト教は論理的に見て矛盾のない一貫した理論などではなく、真理と真理をめぐるあらゆる謎をくまなく描写するものであること、を私たちはこの問題を通して再確認することになります。

私たちの生活している世界に働きかけている二つの力

 悪魔は存在します。その意志は世界中いたるところで神様の御意志と対立しています。そのせいで、神様の御意志に反した出来事が毎日たくさん起きているのです。もしも悪魔の存在そのものを否定するならば、もともと悪魔が引き起こした出来事の責任を神様に押し付けるほかなくなります。この世では絶えざる戦いがあります。神様に敵対する者たちからの間断なき攻撃に対して、造り主なる神様が様々なやりかたで被造物世界を守り、正しくよいことを保護してくださっています。この不可視の現実を抜きにしてこの世で起きている様々な出来事を正しく理解するのは不可能です。悪の力は神様の善き創造の御業を台無しにして消去することばかりを念じています。イエス様によれば、悪魔は「初めから人殺しである」(「ヨハネによる福音書」8章44節)からです。

4.12. 罪への堕落と原罪

罪への堕落

 本来、人間は損得勘定抜きで自発的に神様を愛する善き存在として造られた、と聖書は教えています。しかし、あらゆる点で神様の御計画を台無しにしようと目論む悪魔は、最初の人間たちが神様からいただいた「自立した生き物として活きる」という意志と権利を誤用するように教え込み、神様の御意志よりも自分らの行きたい道を勝手に選ぶように仕向けました。その時に起きた出来事は神様の用意なさった道からのたんなる一時的な逸脱ではありません。それは人間の心と本質が悪に向かって開かれたことと、神様に徹底抗戦を挑む者である悪魔が人間に自分の目印を刻印するのを許してしまったことを意味しています。人間は以前に神様の御霊をいただいていたのに、罪の中に堕落したせいで、今度は悪の霊を受けることになってしまったのです。

人間性の中に住む悪

 創世記3章にある「罪の堕落」の記述は具体的な状況の下で最初の人間たちに起きたことを正確に伝えようとしている、と多くのキリスト信仰者は確信しています。この記述をたんなる比喩とみなす人々さえも、悪が人間性に感染してしまうきっかけとなった事情をその記述から読み取っています。現代的な言いかたをするなら、人間はいわば誤ってプログラムされてしまったのです。人間が他者を犠牲にしてまで己の欲望を実現しようとする自己中心的な心の傾向をもっているのは誰の目にも明らかな事実です。私たちには悪を行う傾向があるのです。この傾向は様々な形でいかにも自然に実行されるので、人間は悪を行うのが当然である、という感じさえします。私たちには他者を攻撃する欲望、他者の失敗や不幸を喜ぶ心、冷酷さ、偽りを言う心、その他にも多くの似たような悪の心があります。福音ルーテル教会にとって最重要な信条といってよい「アウグスブルク信仰告白」が教えているように、私たち人間には神様への正しい信仰がない、というのは最悪な事態です。さらに、私たちは世俗的な平和が乱されたり、信仰のない者が困惑したり、自らの生きかたが批判されたりすることを恐れています。私たちはこれらが起こることのほうを神様の御意志を破ることよりも恐れているのです。私たちの信仰は疑心暗鬼、不満、報酬をねだる心、信仰と矛盾するその他多くの事柄によって汚されてしまっています。

「原罪」「肉」「罪の腐敗」「古い人」は同じ内容を意味しています

 神様に対して怒りをもつ自己中心的な人間の心の動きは「原罪」と呼ばれます。原罪について聖書は多くの場合「肉」という言葉を用いています。この言葉はその聖書的な背景を知らない人たちに誤解を生むことがしばしばあります。肉はたんに肉体を意味していると思われることがよくありますが、そういう意味ではありません。原罪を意味する言葉として「罪の腐敗」という表現も一般的です。この言葉は私たち人間の本質が罪に由来する腐敗に感染してしまっている状況を的確に表現しています。

 罪の腐敗は「古いアダム」と言われることもあります。自分たちの腐敗した性質を私たちはアダムからいわば「遺産」として引き継いでいるのです。私たちの中にある「古い人」、堕落した人間、神様に疑念を抱き自らの力や栄光や快楽に固執する人間が私たちの自己の一部を構成しているのです。

4.13. 罪とは何ですか?

行いによる罪とは、ある事柄を無視する罪でもあり、具体的に何か悪いことを行う罪でもあります

 「罪」という言葉は、真っ当な人間生活から逸脱した具体的な行いや振る舞いを指すものとして使われることが多いでしょう。もちろん、そのような行いも罪です。キリスト教的な表現を用いるなら、このような行いは「行いによる罪」と名づけられます。行いによる罪には、外面的な犯罪や無頓着な振る舞いだけではなく、神様の禁止したことを行ったり、神様が行うように命じたことを無視したりして神様の戒めを破る人間のあらゆる欲望、考え、言葉遣い、行いなどが含まれています。

原罪は私たちの内部にあって、私たちがいかなる存在であるかを示しています

 神様の御命令に反していることはすべて罪です。それは「私たちが何を行うか」ということだけではなく「私たちは何であるか」という問題でもあります。私たちには神様を捨てて悪を行う傾向があります。このこと自体がすでに罪なのであり、私たちを罪深い存在(罪人)にしているのです。

 ここで、「私たちはこれほど罪深い者なのだから、どうしようもないではないか」と言いたくなるかもしれません。しかし、人間を不当に処罰する口実を得るために神様が人間の心のあら探しをすることはありません。実は、神様の善なる意志から外れているものは、そのすべてが罪なのです。罪とは、私たちを神様の近くにいるのにふさわしくない者にしたり、私たちが神様の御許にいるのを望まなくさせたりすることで、私たちを神様から引き離そうと働きかける何かです。罪は、私たちを神様の御国に不適格な者にしてしまう、人間性に染み付いている特質なのです。

 それゆえ、罪は実に深刻な問題なのです。もしもこの問題がたんに外面的な行いに関するものであるならば、おそらく私たちはそれを捨てることで状況を変えることができるでしょう。最も大切な戒めでもある第一の戒めは、私たちは神様を真に心から愛さなければならない、というものです。これと同じくらい大切なもうひとつの戒めは、イエス様が言われているように、私たちは自分たちを愛するように隣り人をも愛さなければならない、というものです。神様と共に歩む人生はこれらの戒めに基づいています。しかし、私たちは戒めを守れるような者ではありません。そのような人間になろうと真剣に努力するときに、私たちはそれが不可能であることに気づきます。そのときにようやく私たちは、神様に受け入れていただくために神様の戒めに従おうといくら自分で努力しても、人間にはそれがどうしてもできない、という人間の原罪性に関わるキリスト教の教えが正しいことを認めるようになるのです。

 これは私たちの人生にとって大きな問題です。しかし、この問題は天地創造に関わるキリスト教の信条だけでは解決できないのです。

4.14. 人間は同時に悪い存在でも善い存在でもあります

人間性の中には神様の善き創造の御業の痕跡と罪による腐敗の痕跡の両方が残っています

 人間は神様によって造られた存在です。しかしその一方で、人間は罪によって腐敗した存在でもあります。それでも、「人間は隅々まで悪い」と信じてしまうのはまったく間違っています。なるほど人間の中には罪の腐敗があります。とはいえ、そのせいで人間が何も善いことができなくなってしまうことはありません。ルーテル教会の信条書によれば、人間は神様から理性を授かっているので、ある程度までは表面的に正しく生活することができるし、社会の中で正義を実現したり、人間的な美徳として周囲の尊敬を受けるのが当然であることを実行したりすることができます。人間の中で神様のよき創造の御業がなされてきたことを証するような事柄が人間存在にはあります。たとえば自然を支配する力、物を生産するために使用される道具を開発する力、社会を形作る力、理路整然とした法律を制定する力、身近にいる人々を自然に愛する力、家庭や学問や人間社会のために大きな犠牲を払う力などです。しかしその一方で、人間の中には罪や悪の引き起こした事柄もあります。それによって人間が行えるはずのよい事柄でさえ何度となく台無しにされてしまいます。たとえば、人間は自らの技術力を破壊的な兵器の製造にも利用します。これまで人間が形成してきた社会は、どういうわけか住民たちが不満を募らせては腐敗してしまう社会でした。また、人間は正義や神様の御意志に反する不当な法律を制定して人々を苦しめ搾取の対象にしてきました。

目立たない形で神様のための働きをする人々がいます

 今まで見てきたように、人間社会の生活や歴史は神様とサタンの間の絶えざる戦いの舞台という様相を呈しています。この戦いで神様は御自身のために人々を利用します。彼らの中には、神様を信じていないものの、神様からの賜物である理性と創造力を正しく活用する人々も含まれます。それゆえ、社会問題の解決や世界の改善に関してなら、キリスト信仰者は善き良心を維持しながら無神論者や教会の批判者とも協力することができるのです。この世の事柄に限って言えば、人は誰でも、たとえキリストを知らず神様が存在することを信じていない場合でさえも、創造に際して神様からいただいた善き賜物を用いて善を行うことが可能なのです。

4.15. なぜ神様は悪が起きることを容認なさっているのでしょうか?

神様は罪人が一人でも滅びるのを望まれません

 「もしも神が存在するなら、どうして神は世界にこれほど大量の悪が起きることを許しているのか」という疑問をもつ人が大勢います。ところが、人間が引き起こす悪をよく調べてみると、「神様は憐れみ深い方だからである」というのがその疑問への答えであることがわかります。万能なる神様はすべての破壊、不正、苦難をいつでも瞬時に止めさせることができます。しかし、もしも神様が政治的腐敗や戦争に関してばかりではなく、家庭での喧嘩や仕事場での不愉快な振る舞いや他人の苦しみを無視する態度など、ありとあらゆる苦難に関しても終止符を打つ場合、いったいどれくらいの人がその後に残されるのでしょうか?神様はこのような形で全能性を発動したいとは思われないのです。そのかわり、神様は人間に御自分への確固たる信頼をもたせることによって働きかけようとなさいます。神様はこの働きかけを、一方では創造の際に私たち人間の良心に植え付けた律法、善い力、能力を通して実行し、他方では御自身の愛の力によって私たち人間に賜る御言葉を用いて遂行なさいます。とはいっても、神様のこの働きかけは自動的に実現するものではありません。神様は「御自分のかたち」としてお造りになった人間をその実現のために活用なさるのです。そのために、私たち人間には物事を解決したり選択したりする可能性が与えられているのです。このように、人間生活の歴史は常に緊張をはらんだドラマなのであり、そこでは私たちめいめいが神様とサタンの間の戦いの只中に配置されていることになります。

なぜ不幸な出来事が私たちに起こるのでしょうか?

 自然災害や病気や農作物の不作など自然法則に起因する苦難を扱うとき、問題の難易度はさらに上がります。私たちは先に、自然法則は神様の御意志の表出である、と言いました。ということは、自然の中で起きることはすべて神様の御意志にかなったことなのでしょうか?このような疑問に私たち人間は最終的な答えを与えることができません。聖書には二つの異なった答えを示唆する箇所があります。神様は不幸も人間に与える場合がある、と旧約聖書の登場人物たちは確信していました。不幸の問題を聖書的に扱う際には、これが出発点となります。神様の御言葉が直接的な根拠を与えます(たとえば「イザヤ書」45章7節)。不幸をめぐる問題への答えを模索する試みはすでに古代キリスト教会において見られます。「不幸は神様がそうなるのを許された結果の出来事である。その目的は、一方では神様をないがしろにしている人々に対する警告や処罰を下すことであり、他方では神様を信じる人々の信仰を強めるための試練を与えることである」という考えかたです。それによると、不幸とは偶然ではなく、運命の不可避な結末でもありません。

 たしかにイエス様はある病気に関して「サタンの引き起こしたもの」と言っておられます(「ルカによる福音書」14章16節)。しかし、これも神様のお許しの下になされた不幸であることを覚えましょう。パウロは「被造物すべてが滅びの隷属の中でうめいており、そこから神様がいつか解き放ってくださるのを待ち望んでいる」と告げています(「ローマの信徒への手紙」8章19節以降)。自然の中で神様の御意志に反対し神様に挑戦してくる破壊者の仕業に見える出来事を目の前にする場合にも、私たちキリスト信仰者はパウロと共に次のように堅く信仰を守るべきです。「神様は反抗者たちよりも力が強く、滅ぼす力と戦っているときにも常に事の推移を先導して、自分自身を神様の護りに委ねる人々にとってよい結果をもたらしてくださる」(「ローマの信徒への手紙」8章28節)。

 全能なる神様は不幸な出来事にも目的を与えてそれらをよいものに変えることができます。不幸が降りかかったときに神様のもとに避難するかどうか、にすべてはかかっています。古来のキリスト信仰者の一般的な経験によれば、不幸は人を苦い思いで満たすか、あるいは悔い改めへと導くかのどちらかです。過去を振り返って「なぜこんなことがよりにもよって私に起きてしまったのか?」と問うのは意味がありません。不幸は何らかの道徳的な基準によって、犯罪に釣り合う罰として不幸の犠牲者に降りかかるものではないからです。しかしそれとは逆に「なぜ、どういう意味で、何を目的にして、神様は私をこのような不幸に陥らせたのか」と問うことはできます。あるとき弟子たちはイエス様に「先生、この人が目の見えない者として生まれたのは誰が罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」と問いました(「ヨハネによる福音書」9章2節以降)。それに対して、イエス様は「本人が罪を犯したのでもなく、またその両親が犯したのでもありません。そうではなく神様の御業がその人の中にあらわれるためです」と答えられました。私たちが自らに降りかかる不幸について確信してもよい事柄は結局ひとつだけです。不幸な出来事が私に起きるのをお許しになる際に神様は善き目的をもっておられる、ということです。不幸が起きるのを容認なさる理由が何であれ、起きた不幸によって神様が御自分の御業を公に示し、私にも他の人にも祝福となる何かを私を通して実現する機会を大切に思われているのはたしかです。

4.16. 私を造ってくださったのは神様です

天地創造を信じる際の最重要ポイント

 使徒信条の第1項目(「天地の造り主、全能の父である神様を私は信じます」)についての「小教理問答書」での説明で、ルターは天地創造自体についてはあまり多くを語りません。「私は神様が私をすべてのものとともに造られたことを信じます」とこの説明は始まります。それから次に「体と魂、目と耳と体のすべての諸部分、理性とすべての感覚」という「神様が私に与えてくださったもの」について語ります。さらにルターは、神様が私を含むこれら一切を保ち、私に「生きるために必要なすべてのものを日々豊かに与え、あらゆる危害から保護し、またすべての悪から防御し救い出してくださる」と宣言します。しかも、これらすべての御業を神様は「私自身の功績や値打ちに依存するものとしてではなく、父としての純粋な善性と憐れみによって」行われるのです。「これらすべてのことについて私は(またしても「私」です!)神様に感謝し、神様を賛美し、また奉仕し、服従するのです」。

 このような説明によってルターは使徒信条の第1項目で知るべき最重要事項を扱っています。この信条は世界の成り立ちを一般的に教えているだけではありません。私が生きている目的、この世での私の立場、権利、可能性、および私が神様に対して負っている義務についての神様から私へのメッセージなのです。

 このことを私は日常生活の確実な指針として銘記するべきです。生きている私は朝目覚めます。私の命は神様からの賜物です。神様は今この瞬間も私の心臓が脈打ち、私の脳が私自身を意識するように事細かく配慮してくださっています。神様はたった今私が取り組むべき課題を私にお与えになります。神様は今日私が出会うことになる人々を私が赴こうとしているところに引率なさいます。私が今もっている知識や能力や才能は神様が私にお与えになったものです。すべては神様からの贈り物なのであり、私はそれらについて神様に感謝しつつお仕えするために責任をもって用いるべきなのです。暗闇で一瞬輝きを放っては消え失せる火花などとは異なり、私はこの世にひととき偶然に生きているのではありません。神様の不変の愛の対象として、永遠の世界への帰還を待つ神様の子どもとして私は造られたのです。私が神様の被造物世界の一部をなしていることは、これほど大きな意味をもっているのです。天地創造信仰がいかに大切で豊かな意味をもつものかがこれで少し明らかになったのではないでしょうか。

1)天地創造の記述に関する様々な読み解きかたの例を挙げてください。

2)キリスト教に基づくときに自然法則はどのように理解できますか?

3)「神様が創造の御業を今も続けておられる」というとき、それは具体的にはどういう意味でしょうか?

4)キリスト信仰者として私たちは進化論についてどのように考えることができるでしょうか?

5)キリスト教的な考えかたによると、人間は主に二つの要素から構成されています。 それらは何ですか? また「魂」とは何でしょうか?

6)人間を動物から区別するものは何でしょうか?

7)天地創造への信仰に基づくとき、技術的な進歩や生産物についてどのように考えることができるでしょうか?

8)「罪」とはどういう意味でしょうか? また「行いによる罪」、「原罪」、「犯罪」とはどういう意味でしょうか?

9)新約聖書で用いられている「肉」という言葉はどういう意味でしょうか?

10)キリスト教の理解によれば、人間は悪い存在なのでしょうか?

11)キリスト信仰者として私たちは自然災害やその他の不幸な事故についてどのように考えることができるでしょうか?

1)「天地創造」に関連する聖書の以下の箇所を読んでください。
「創世記」1章1節~2章7節
「詩篇」65篇9~14節、139篇13~16節、147篇7~8節
「ヨブ記」9章1~10節、12章7~16節、28章23~28節、34章13~15節、36章11~17節
「創世記」を除く上記の箇所では、神様が今も継続されている善き創造の御業と比較して、世のはじめの天地創造について、どれだけ多くのことが語られているでしょうか?
自然界の出来事はどのように理解されているでしょうか?
自然界における神様の御業について、上記の聖書の箇所からメモを作成してください。

2)以下の各テーマについて考えるときに、天地創造へのキリスト教信仰と無神論的な世界観との間にはどのような違いがあらわれてくるでしょうか?
A) 病気
B) 自分の両親や兄弟姉妹
C) 日々の糧(生きるために必要なもの)
D) 何かを作り出すことに携わる仕事

3)次の福音の箇所を読んでください。
「マタイによる福音書」13章18~19節、24~28節、36~39節
「ルカによる福音書」11章15~22節、13章10~17節
「ヨハネによる福音書」8章44節
それから次にあげる質問に答えてください。
A) 「悪」はどのような名で呼ばれていますか?
B) 悪は人間的な性質や自然の力や意志を有する個体として認識できる存在でしょうか?
C) 悪が引き起こした結果とみなせるものとしては、どのような例を挙げられますか?