洗礼

7.13. 洗礼とは何でしょうか?

 新約聖書で洗礼は「新生の洗いと聖霊様による新化」と呼ばれています(「テトスへの手紙」3章5節)。洗礼が「洗い」と呼ばれるのは水を用いて洗礼が授けられるからです。洗礼における「新生」を理解しようとする際には、教会を「キリストの体」あるいは「キリストのぶどうの木とその枝」としてイメージするのが最も適切でしょう。

キリストへの結び付き

 キリスト信仰者になることは優良な木に接木されること(「ローマの信徒への手紙」11章17節)や、キリストの一員になること、キリストと共に成長することなどに比較することができるでしょう。このことが洗礼を通して実現するのです。私たちは洗礼においてキリストの教会の一員となり、教会の最も奥深い本質にキリストと共に結び付けられるのです(「ローマの信徒への手紙」6章5節)。そして、この新しい命を生み出し保ってくださるのが聖霊様です。

神様の御業

 洗礼は神様の御業です。「神様の御名によって洗礼を受けることは、人間ではなく神様から洗礼をいただくということです。たとえ人間の手を通してなされるとしても、洗礼は本当に神様御自身による御業なのです」、とルターは「大教理問答書」で述べています。私たち人間にはなしえず支配もできない出来事が洗礼を通して起きています。それは神様が御自分の約束を洗礼の聖礼典に結び付けてくださったからなのです。それは聖礼典の基となる御言葉の力によるものでもあります。

洗礼はそれを授ける者には関わりなく有効です

 洗礼を通して働きかけるのは神様御自身です。それゆえ、たとえ洗礼を授ける人間が不信仰なふさわしくない牧師であったとしても、洗礼は有効なのです。人間の罪が洗礼を無効にすることはできません。教会が分裂している悲しむべき状態も洗礼自体を無効にすることはできません。洗礼が新約聖書で定められたイエス・キリストによる規定に従って施行されるものであるかぎり、その洗礼を受けた人は、その誰もがキリスト教会に結び付けられています。このことは洗礼がどの教派のキリスト教会で施行されたかには関係がありません。そういうわけで、他教派の教会で洗礼を受けた人がルター派教会に移籍するときに、再度洗礼を受ける必要は決してありません。ただし、移籍者に対してルター派教会の信仰告白について教える必要はあります。人はある一定の規則に従って教会の一員になります。堅信礼が必要になる場合もあるでしょう。しかし、洗礼を再び施す必要はいかなる場合でもまったくありません。むしろそれは、あってはならないことなのです。

7.14. 洗礼の賜物

洗礼は私たちを救います

 私たちが洗礼でいただくものは「救い」という一言であらわすことができます。罪の赦しと永遠の命を賜るキリストからは真の命が発しています。この命に私はあずかるのです。私たちは「生まれながらの罪人」です。なぜなら、神様に対して絶えず敵意を抱かせる罪の腐敗が私たちの人間性の中には染み付いているからです。ルター派の信条によれば、この腐敗は「染み付いている」のであって、人間の本質そのものと同じではないことに注意しましょう。「原罪」と呼ばれるこの腐敗からキリスト信仰者が最終的に解放されるのは信仰のうちに死を迎え、復活する時です。洗礼において私たちは罪の赦しの影響の下に閉じ入れられます。私たちは「恵みの王国」なるキリスト教会の一員になります。この王国の基となっているのはキリストの贖いの御業です。この国で私たちは「際限なき罪の赦し」に出会うことになります。私たちは普通の意味での誕生を通してこの堕落した人間世界の成員になります。しかし、洗礼を通して神の御民なるキリスト教会の会員に加えられるのです。

7.15. 洗礼の賜物が受洗者に義務付けること

 洗礼の設定辞は「父と子と聖霊の御名によってすべての国民に洗礼を施し、主が命じられたいっさいのことを守るように教えることによって、彼らをキリストの弟子としなければならない」と命じています(「マタイによる福音書」28章18~20節)。

キリストと共に新しい命を活きるために私たちは受洗しました

 ルター派の理解によれば、私たちは洗礼を通して教会の一員になった時にキリストの弟子とされたのです。神様は私たちが賜った命の意味を理解できるようになさいました。また、神様は私たちが各自受けた召命を遂行するのに必要な力をくださいました。私たちはこの世での人生をキリストと共に活きるという可能性を与えられたのです。パウロの表現を借りるなら、私たちは「キリストの死の中へと洗礼を受けている」のです。キリストは私たちの負債を肩代わりし、私たちの罪の呵責を担ってくださいました。キリストを十字架送りにした一切の原因(つまり私たち自身の罪)は私たちの内においても裁かれて抹殺されるべきであることを私たちは認めて告白します。私たちが洗礼を受けたのは「新しい命の中を歩むため」言い換えれば「復活されたキリストと共に新しい命を活きるため」です。私たちの内には窒息させ抹殺しなければならない存在があります。それは自己中心な「古い人」です。しかしその一方で、私たちには日々新しい命の中へ起き上がる存在もあります。それは神様の御前に活きることを喜ぶ「新しい人」です(「ローマの信徒への手紙」6章1~11節)。

 このような生活は「洗礼に基づく人生」とか「洗礼における鍛錬」とでも呼べるでしょう。それは実は「日々の悔い改め」と同じことなのです。

7.16. 幼児洗礼について

幼児洗礼はいつごろから行われていたのでしょうか?

 教会ではその歴史の始まりから子どもに洗礼を受けていたことが知られています。185年頃生まれた神学者オリゲネスは「教会は子どもに洗礼を授ける習慣を使徒たちから受け継いだ」と言っています。

幼児洗礼が聖書的である理由

 新約聖書には幼児洗礼についての直接な言及はありません。実はそれは当然なことなのです。当時の状況は私たちの時代の「海外伝道」における状況に似ています。子どもに洗礼を授ける前にキリスト信仰者の親が必要とされるのが普通のケースでしょう。幼児洗礼の根拠として引用されるイエス様と子どもたちとの出会いを描いた聖書の箇所(「マルコによる福音書」10章13~16節)が教会において幼児洗礼の慣習の基として読まれ理解されてきたというのは歴史的な事実です。もちろん一方では、「洗礼で何が起きているか知らないままで受洗するのは何か益があるのか」という疑いの声が当時もありましたし、今も聞かれます。前記の聖書の箇所においてイエス様の弟子たちは「先生を子どもたちへの祝福などでわずらわせるにはおよばない」と考えていたのでしょう。しかし、神様を信じてその周りに集う人々には神様との交流の場が与えられます。そして、イエス様は小さい子どもも神様の御国を継いで、この交流の場の中に加わるという望みをはっきりとお示しになったのです。

 信仰とは本質的に「神様との交わり」です。先ほどの聖書の箇所にもあったように、イエス様は小さい子どもにも信仰を与えることができます。神様の御国は彼らにも関わりがあります。ただし、子どもはその自然な誕生を通してではなく、キリストの贈り物(洗礼)を通して御国にかかわるようになります。それゆえに、教会はそのはじめから小さい子どもたちにも洗礼を授けてきたのです。もしもかりに幼児洗礼が無効だったとしたら、聖書に従って教える教師は幼児洗礼を受けた者の中には一人として存在しなかっただろうし、ルターに始まる宗教改革も実現しなかったに違いありません。このことについてはルター派の信条書も語っている通りです。

洗礼は必要不可欠のものでしょうか?

 「洗礼を受けていない子どもや洗礼を受けることができなかった人が死後どうなってしまうのか」という問題に私たちは答えることができません。なぜなら、神様はこの問題について聖書でその答えを明示しておられないからです。もしも私たちが「子どもは洗礼を受けなくても救われる」と言うなら、聖書の教えを超えてしまいます。それゆえに「アウグスブルク信仰告白」はこの主張を斥けています。しかし一方で、私たちには「洗礼を受けていない人は地獄に落ちる」と言い放つ権利もありません。神様は私たちを恵みの手段に結び付けられました。しかし、神様御自身については必ずしもそうであるとは言えません。聖書を通して私たちが知っているのは、洗礼を受ける者はキリストに結び付けられる、ということです。それゆえ、キリスト信仰者の親にとって我が子を神様に抱っこしていただくようにするのは喜びなのです。いつもと同様に、ここでもまた私たちは神様に感謝し、神様の約束に信頼しつつ、神様が命じた通りに行います。そして、「神様の贈り物は洗礼以外の方法でもいただけるのではないか」などとつぶやいたりはしません。

洗礼を受けることは「養子になること」にたとえることができます

 洗礼を受けることは「養子になること」にたとえることができます。養子になった子どもは新しい父親を得ます。また、その結果として「遺産の相続権」を得ます。遺産の相続権は子ども自身がそれについて知るようになるずっと以前から有効です。そして、いつか遺産を実際に相続して守る責任を担うべき時がやってきます。もしもそうでないならば、たとえ遺産を相続する権利があったとしても、その遺産には何の益もありません。同じことが洗礼を通して私たちがいただいた「神様の子どもとしての地位」についても言えます。私たちはそれをはじめはまったくの贈り物として受けています。それから、徐々にそれを意識して受け取るようになりますし、またそれを正しく用いていくのが当然でもあります。しかし、受洗者たちの中にはこの贈り物を軽んじる者もいます。しかし、天の御父はそのような子どものことをも決してお忘れにはならず、変わることなく彼らの父でありつづけてくださいます。

7.17. 洗礼という契約

神様は人間と「洗礼という契約」を結ばれました

 神様が私たちに洗礼を通して授けられた「神様の子どもである権利」を「洗礼の契約」と呼びます。神様がイスラエルの民の神となり、イスラエルの民は神の民になる、という契約を神様がイスラエルの民と結んでくださったように、神様はキリスト信仰者ひとりひとりとも契約を結んでくださいました。この契約は、神様が私たちの父となり私たちを御自分の子にしようと望んでおられることを意味しています。この契約を信じ続けるかぎり、私たちはこの契約にとどまりつづけることができます。信仰を保ち続けるためには、信仰を生み出し保持してくれる恵みの手段(御言葉(の説教)と聖礼典)にあずかれる場に、とりわけ教会での礼拝に参加し続ける必要が有ります。

私たちの側でこの契約を破る場合も起こり得ます

 もしも私たちが御言葉や聖餐や祈りを拒むようなら、私たちはもはや「洗礼の中」に活きてはいません。私たち人間の本性にはいとも当前のごとく神様から遠ざかろうとする傾向が染み付いています。上述の場合にはこのような罪の傾向が力を得てしまいます。そして、そのような人からは神様の御心に聴き従おうとする姿勢がなくなっていきます。また、神様の御心に適うと以前ならわかっていたことにも故意に反抗するようになります。

 これは「洗礼の恵みを見失った状態」と呼ぶことができるでしょう。洗礼の恵みを見失った人間は乾き切って死んでしまうぶどうの木の折れた枝のような存在であり、命を与えるはずの血が行き渡らなくなった体の一部分のようなものです。聖書の他のイメージを用いるなら、その人はいわば「放蕩息子」なのです。その人は洗礼を受けているので、洗礼の恵みを見失った状態になっても依然として「キリスト教徒」と呼ばれてはいます。それはしかし、浮気をした夫ないし妻がそれでもまだ形式上は結婚しているために「夫」ないし「妻」と呼ばれているのと同じことです。神様はその人をキリスト信仰者として正式に召してくださいました。ですから、その人はキリスト信仰者であるべきなのです。その人はキリストを信仰する人間としての責任を委ねられており、キリストを信仰する者としていつかは必ず自分の人生を清算しなければならない時がきます。しかし、洗礼の恵みを見失った人間は「乾いた枝」であり「死んだ肢体」であり「家出した放蕩息子」になってしまっているのです。

そのような場合にも、神様は契約に対して忠実を貫かれます

 そのような場合にも、神様の側から見ると洗礼の契約はずっと有効なままなのです。それゆえ、この世で生きているかぎり、人には神様のもとに戻る機会がいつも残されています。こうして今や私たちは「方向転換」というテーマに導かれます。それについては次章で扱うことにしましょう。

7.18. 北欧のルター派の教会と幼児洗礼

 北欧のルター派の教会で一般的な幼児洗礼の慣習は、受洗する幼児の親が我が子のキリスト教教育に積極的に携わることを前提としています

 北欧におけるルター派の教会は通常「国民教会」というかたちをとっています。この国民教会には国民の大部分が属しており、教会は福音を全国民に伝えることをその使命としています。国民教会は幼児洗礼に基づいて成り立っています。子どもたちは「主が命じられたすべてのこと」を守るのを教会の中で学んでいくために、生まれて間もない頃に洗礼を受け、教会の一員になります。信仰教育は受洗した子どもの家庭の協力を前提としています。それゆえ、もしも親の大多数がキリスト教の教育を施さなかったり、教会の提供する信仰教育を自分の子どもに受けさせる意欲を失ったりする場合には、国民教会は危機的状態に陥ります。実際、北欧の国民教会制度はいまやそのような状態にあると言えます。たとえば、学校がルター派の教会の信条に基づくキリスト教の教育を子どもに提供する可能性はかなり減少しました。こうした状況の下で教会は洗礼の教えを自分で増やす必要が出てきています。キリスト教の教育は幼児洗礼に基づいてなされるべきです。もしも教会のほうで洗礼の教えを含むキリスト教の教育を子どもたちに適切に提供するつもりがないのなら、教会における幼児洗礼の慣習を正当化することは難しくなります。

北欧のルター派の教会については「本当に信じている人々の集まり」というよりも「イエス・キリストへの信仰へと招かれている人々の集まり」というほうが的確です

 国民教会が幼児洗礼に基づいて構成されている以上、「洗礼を受けた者全員が受洗の時の真のキリスト信仰者の状態を大人になってからも保ち続ける」とは事実上言えなくなります。福音ルーテル教会は、神様が弟子として召し出し教会の一員としてくださった人々すべての集まりです。「真のキリスト信仰者」とは、キリストへの信仰の中で活きている人のことです。国民教会に属する各個教会には信仰的には死んでいる教会員も活きている教会員も含まれています。国民教会が現在抱えている大問題は、教会員の大多数、さらには各個教会の責任者の大多数までが福音から離れてしまっていることです。国民教会は、もしも自らに委ねられた使命を厳粛に受け止める気があるならば、「福音」すなわち「悔い改め」を宣べ伝えることを決してあきらめるべきではありません。