もしも「万事においてその罪が赦される」というなら、どうして罪を行うことがいけないのでしょうか。

フィンランド語原版執筆者: 
マヌ・ルオソ(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

罪がどれほど危険な力であるか、きちんと理解するのは人間には困難です。
罪の破壊力がいかに凄まじいものか、本当に理解しているのなら、上記のような質問が出てくるはずがありません。

罪の本質は 、人に命を与え救ってくださる神様から私たちを引き離す点にあります。
無条件に私たちを愛し私たちのために犠牲となられた唯一の真の神様に対して、どうして人は反抗を企てたりするのでしょうか。

罪は、それを行う者とその周りにいる人々とを傷つけます。
故意に罪を行うことは、罪深い私たちの身代わりとしてイエス様が受けられた十字架の死の苦しみを軽んじることです。
人間があまりにも自己中心的であり神様に対して不従順だからこそ、イエス様は十字架で死ぬことになったのです。
いかに人間が罪深いか、また、その罪の赦しのためにどれほど大きな血の代価が要求されたか、ということが多少なりともわかった人は、もはや平気で罪を犯し続けることはできなくなるでしょう。

いかなる場合であれ、罪は生命そのものに対する犯罪です。
罪と命との因果関係がはっきりとは見えないケースでも、それは変わりません。
罪は 、その罪を行った者自身にも他の人々にも悲惨な結果を招くものです。
人は故意に罪を犯すと、その良心が汚されて、生きる希望が瞬く間に失われていきます。

キリスト信仰者は、洗礼を通して暗闇から光へと移されており、神様の助けによって罪や悪に対して戦うよう召されていることを、覚えておきましょう。

「信仰と正しい良心とを保ちながら、りっぱに戦いぬきなさい。
ある人々は、正しい良心を捨てたため、信仰の破船に会った。」
(聖書のテモテへの第一の手紙1章19節)

神様、どうか私を罪とあらゆる悪からお守りください。 私の行いと生き方があなたの御心にかなうものとなるように、私を指導してください。