私は正しく生きているでしょうか

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

神様は人を「御自分のかたち」として創られました。それは、神様は人をある事柄に関しては「神様と似たもの」となさった、という意味です。「神様のかたち」である人は、神様が知っておられるのと同じように、何が正しくて何がまちがっているかを知っていました。神様のかたちとして人は、悪を避け正しく行動しなければならないことを理解し、また常に正しく行動しました。神様のかたちとして創られたということは、自分の行いについて神様に対して責任を負うということでもあります。神様は御自分のかたちに対して、神様のなさるように生きていたか、正しいことを行ってきたか、厳しく吟味するように要求なさいます。

ところが、はじめの人であるアダムとエバが罪の中に堕落するという事態が起きました。その結果、人は正しく生きる能力を失ってしまいました。罪の堕落が起きたため、私たち人間はするべきではないことを行うようになり、しかもそれをせずにはおられなくなってしまいました。たとえそうすることが間違っているとわかっている場合であっても、です。たとえどれほど違った生き方をしようと自分で努力しても、です。罪の堕落の招いたもうひとつの結果として、何が正しく何が間違っているかを知る人の能力がたいへんあやふやなものになってしまいました。また私たちの心の奥底も、罪の堕落の結果として罪によって汚されてしまっているため、正しいことを間違ったこととみなしたり、間違っていることを正しくみなしてしまったりするほど歪んでいます。しかも、実際にもそのようにしばしば実行してしまうのです。それゆえ、何が正しく何が間違っているかについての知識を私たち自身の「外側」から得る必要があるのです。たしかに罪の堕落はすでに起きてしまいました。とはいえ、私たちは依然として「神様のかたち」でもあります。私たちには正しいことと間違っていることに関わる理解が、たとえそれがどれほど曇ってしまっているとしても、やはり残っており、私たちは自分の行なったことについて神様に対して責任を負うことになるのです。

罪の堕落は人を神様のかたちとして創造なさった方を汚しはしませんでした。創り主なる神様は何が正しく何が間違っているか、人の罪の堕落の前でも後でも変わることなく御存知であり、常に正しく活動なさっています。しかも、神様は正しいことと間違っていることに関わる知識を御自分のものだけに留めておくことはなさいませんでした。神様はこれらの事柄についても、私たちに御言葉を賜ることによって語りかけておられます。この意味は次のふたつにまとめられます。

1)聖書を私たち人間に与えてくださったのは神様です。
そして、神様が御自分で創造なさった人間に対して言われたい内容を御自分で選ばれた人々が書き取るようになさったのです。聖書には、正しいことと間違っていることに関して聖書の立場を明確にしている箇所が数え切れないほどたくさんあります。それらは、何が正しく何が間違っているか正確に知っておられる神様御自身の立場の表明でもあるのです。それゆえ、本来の正誤の感覚が曇ってしまっている私たち人間は聖書の御言葉に注意深く聴き従っていくべきなのです。

2)神様御自身がこの世に来られました。
そして、この出来事はイエス様が人としてお生まれになった時に実現しました。イエス様は神様の御言葉であり、神様御自身なのです。イエス様の中で、天地の主が話し、教え、活動し、働きかけておられるのです。それゆえ、イエス様が正しいことと間違っていることとについて教えておられることは、同時に神様の教えでもあります。それゆえ、「何が正しいか」を問うときには「イエス様はどのように考えておられるか」について問うべきなのです。それを知るときに、私たちは神様の立場を知ることになります。イエス様のお考えについては、聖書から知ることができます。まさしく聖書はイエス様についての書物なのですから。

何が正しく何が間違っているかについて聖書が語っていることは、人間が心の中でぼんやりと理解している事柄に対応しています。聖書が命じたり禁じたりしていることを聞くときに、あたかも私たちの心の中で誰かが「これは本当だよ」と言っているかのように感じるものです。たとえ人がそのあとで聖書の教えに反抗するようになったとしても、それは変わりません。これはどうしてでしょうか。それは、聖書が私たちの創り主による書物であり、私たちが「私たちの創り主のかたち」であるからなのです。人間ひとりひとりの中にある「何か」が、私たちの創り主が正しいことと間違っていることについて語っておられる事柄に対応しているのです。このことは、私たちが聖書の命じる事柄を周囲の人々にもはっきりと語ったり、それに従って活動したりするように励ましてくれることでしょう。

かつてソヴィエト連邦では聖書の命じている事柄を教えることは禁止されていました。聖書は廃棄処分され、聖書の教えは人間が自ら案出した様々な教えに取って代えられました。しかも、それらの新しい教えは聖書の教えよりもずっと優れているものである、と人々は感じたのです。ところが、それからどのようなことが起きたでしょうか。国民は盗んだり嘘をついたり周りの人を無視して生活したりすることを学習してしまいました。国の経済も大きく混乱してしまい、以前の「敵国」からの援助なしには立ち行かなくなりました。さらには、そうした援助があったにもかかわらず、経済状況は依然として厳しいままでした。豊かな自然もすっかり破壊されてしまいました。これがソヴィエト連邦の結末でした。聖書やその命じている内容が無視されている場所ではどこであれ、それと同じようなことが起こります。聖書は人間に最上の生活の教えを与えてくれます。たとえば携帯電話などといった機械製品を使用するときに、その製造元が与えた製品の使用法を無視していると、その製品はまもなく壊れてしまいます。そして、聖書においては、この世界の「製造元」が語りかけておられるのです。当然ながら、この「製作者」は自分が創った世界において、できるかぎり多くのものができるかぎりよい状態を維持するためにはどのように生きていくべきなのか、知悉しておられます。

正しいことと間違っていることについての聖書の教えの一切は「愛の二重命令」に言い尽くされています。

「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神様を愛しなさい。自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい。」
(「マタイによる福音書」22章37、39節)。

「愛さなければならない」ということについて言えば、私たち人間は皆、間違いなく賛同することでしょう。しかし、「愛とは何か」という点に関しては意見が分かれるでしょう。「愛とは何であるのか。そして、多様な状況下にあっていかに愛を実践していくべきなのか」ということに関しては、私たちの「外部」から説明してもらえない限り、私たちは知ることができません。そして、まさに聖書という「私たちの外部」においてその説明が与えられているのです。聖書の中にある他の諸々の戒めはこの「愛の二重の戒め」を補足説明するものです。旧約聖書の十戒はこの愛の命令をすでにかなり広範囲にわたって説明しています。第一戒から第三戒までは「神様を愛するとはどのようなことか」を説明しています。つまり、私たち人間が他の神々(偶像)に仕えたりしないこと、神様の御名を軽々しく用いたりしないこと、安息日を聖とすることです。第四戒から第十戒までは「隣り人を愛するとはどのようなことか」を説明しています。つまり、両親を敬うこと、殺さないこと、姦淫をしないこと、盗まないこと、偽証しないこと、他の人のものを欲しないことです。

聖書には他にもたくさんの戒めがあります。それらもまた「神様や他の人を愛するとはどういうことか」を説明しています。聖書は人がすべてのことについて神様に感謝するように命じています(「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章18節)。神様に感謝することは神様を愛することだからです。聖書は「税金を払わなければならない」と教えています(「ローマの信徒への手紙」13章5~7節)。たとえそれが高すぎると感じられる場合であっても、です。税金をごまかして申告をするのは他の人たちに対する愛の欠如のあらわれなのです。

イエス様が地上で何を行われたか、どのように活動されたか、何を話されたか、ということから、私たちは「神様と隣り人を愛することが具体的にはどういうことであるか」を知ります。イエス様のうちにおいては神様御自身が活動されていました。そして、神様は愛の戒めを決して破棄なさいません。私たちだったらこうはしなかっただろう、と思われるような状況にあっても、イエス様は愛をもって正しく活動されました。「何が愛であり、どのように活動すべきか」を考えるときには、「イエス様だったらこのような状況でどのようになさるだろうか」と考えてごらんなさい。そして、イエス様がなさるのと同じように行ってみてください!そうすることで、あなたは愛を示すことになります。

私の友人はあるとき不倫に関する教会の教えについてインタヴューを受けました。質問者は3度も違う表現と違う根拠を持ち出しては自分が行っている不倫を正当化しようとしました。私の友人が「聖書には第六戒がある」と3度繰り返して答えたところ、その質問者は気分を害して、「あなたたちの中にはもっと事情に通じている専門家はいないのか」と尋ねました。不倫に対して聖書のとる立場があまりにも不快なものだったので、質問者はそれをわきへ斥け、自分にとってもっと都合のよい答えを聞きたくなったのです。聖書の多くの戒めはそれらがまさしく「私たちが聞きたくないようなメッセージ」であるため、私たちにとって受け入れるのが難しいものなのです。なぜなら、聖書が言っていることとは違うことを私たち自身が行っているからです。それで、「もうこのような聖書の戒めは従う必要がないだろう」と人々が口を揃えて言ったりするケースがしばしば起こるのです。

そもそも聖書の中には「古びた戒め」などというものがあるのでしょうか。言い換えると、現代の世界ではもはや従う必要がなくなったような戒めがあるのでしょうか。私たちよりも優れた回答者である「神様の御子」がこのことについても正しい答えを教えてくださっています。

「私はあなたがたにまことのこと*(脚注1)を告げます。天地が消え去るまでは、すべてが成るまでは、律法から一点(脚注2)、一画(脚注3)もすたることはありません。」
(「マタイによる福音書」5章18節)。

聖書は神様の御言葉です。神様は変わりません。神様が言われた事柄も変わりません。神様が罪と定められたことは罪です。それはかつて罪であったし、今も罪であるし、これからも罪であり続けます。たとえ私たちが「なぜそれがもはや罪ではないのか」についてもっともらしい説明をこしらえたとしても、です。あるいは、たとえ私たちが行っていることがあまりにも一般に行き渡っていて、もはやそれが罪とはみなされていないか、少なくとも悪質の罪であるとはみなされていない場合であっても、です。神様をうそつき呼ばわりするのは神様を侮蔑することです。「(自分たちにとって都合の悪い)聖書の言葉のこの部分とあの部分はもはや有効性を失っている」などと考える者は、神様をうそつき呼ばわりしているのです。ここでは「私たち人間は全員が罪に堕落した存在であるがゆえに、正しいことと間違っていることに関する私たちの理解のほうがおかしくなっている」ということを強調するのが大切です。人間とは違って、神様は決して堕落しません。さらに、神様は小さい罪と大きな罪とを分け隔てないことも覚えておいたほうがよいでしょう。神様の命じられることを破るとき、私たちは常に大きな罪を犯しているのです。それがたとえ私たち自身にとってはどれほどとるに足りない些細なことに感じられたとしても、です。「地獄の火に投げ込まれるのが当然なのは人殺しだけではありません。他の人を馬鹿呼ばわりする者もそうです」、とイエス様は教えてくださいました。神様の目には小さい罪も大きな罪です。そして、その逆ではありません。

たしかに聖書には私たちキリスト教信徒には直接関わりがない事柄もあります。かつて神様はイスラエルの民のみが従わなければならなかった旧約に属する数々の戒めをお与えになりました。犠牲をささげることに関する多くの規定はそのような戒めですし、「血を避けよ」という聖書の禁止命令も旧約の民に与えられた戒めです。聖書自身「新約が結ばれた以上、これらの規定はもはや私たちには関わりがない」と言っています(脚注4)。なぜなら、これらの規定の目的は実のところたったひとつだけだからです。それは、人間を罪の呪いから解放して人間に義をもたらすことです。神様の御子は十字架での死によって世界全体をその罪の呪いから解放し、皆のために義を備えてくださいました。それゆえ、モーセの律法の多くの規定にはもはや従う必要はないし、また従うべきではありません。それらに依然として従い続けることはイエス様の死を侮蔑することです。なぜなら、それは自らの行いによって救いを獲得しようとする試みだからです。しかし、救いとはイエス様が私たちのためにすでに確保してくださっているものであり、それを得るために私たちが何かを行う必要はまったくありません。救いはイエス様が私たちに賜物として与えたいと望まれているものなのです。

アダムとエバのいた楽園で悪魔は人間が神様の御言葉を疑うように仕向けることに成功しました。悪魔は神様の明瞭な命令を迂回する言い訳を捏造し、人間が罪を行うようにさせました。同じようにして悪魔は今でも人々に働きかけています。神の言葉のある特定の箇所については真に受ける必要がないのさ、というこじつけを悪魔はひねりだします。聖書を軽視するようそそのかしたり、聖書の教えていることとは異なることを行うように助言したりする「声」は悪魔の声です。たとえその声が教養や理性や愛に満ちたものに感じられるとしても、です。この問題の核心には「悪霊との戦い」があります。私たちは神様なる聖霊様に聴き従っているでしょうか、それとも、悪魔の言うことを受け入れてしまっているでしょうか。神様の御霊は私たちを聖書に結び付けようとします。それに対して、悪魔は私たちを聖書から引き離そうとします。 

命じられていることや禁じられていること「すべて」が聖書に基づいているわけではありません。人間が自分で作り出し、従うことを強要してくる「言い伝え」が今もたくさんあります。そして、人間が作った命令に神様の御言葉に等しい位置を与え、それに従うことを要求するのは、神様の御言葉を侮蔑するのと同じことです。なぜなら、その際に人間の意見が神様の御言葉と同等のものであるとみなされているからです。あなたが何かをやるように要求されたり、何かをやらないように禁じられたりするときには、聖書のどの箇所に基づいてこのような命令や禁止がなされるのかを尋ねてごらんなさい。もしもそのような箇所が見つからない場合には、そのような命令に従う必要はないのです。

神様の戒めを破ることは危険です。それには3つの理由があります。

1)神様は聖なるお方です。
神様の御言葉を無視することは神様の神聖さを傷つける行為です。神様は長い間にわたって人間たちの愚かな行いを耐え忍んでこられました。しかし、遅かれ早かれ神様が怒りを示される時がきます。神様の怒りはすでにこの世においてある個人に向けられることもあれば、ある国民全体に向けられることもあります。しかし最終的には、この世が終わり、皆が神様の御前に立ち、裁きが始まる時に、神様の怒りは神様の戒めを侮蔑してきた者たちに向けられることになります。

2)神様の戒めを破ることによって人は神様から引き離されていきます。
罪は人の良心を汚します。そして、疚しい良心で生きている者は神様を避けるようになります。人間は神様の戒めを破れば破るほど、それだけ遠く神様から離れていきます。これは人の身の上に起こりうる最悪の事態です。なぜなら、本来人は神様と共に生きるために創られた存在だからです。神様の戒めを無視する態度をとる人は神様から最終的に隔離されてしまいます。これが「滅び」と呼ばれるものです。

3)神様の戒めはいわば「生きることの法則」そのものなのです。
ですから、もしもこの法則に従うならば、それに従わない場合にくらべて、この世においてはるかにより善い生き方をすることができるのです。

神様の律法は「どうすれば正しく生きられるか」について教えます。それに加えて、戒めにはもうひとつの大切な使命があります。それらは「私たちがどのような存在であるか」をありのままに示す鏡のようなものでもあるのです。「私はどのように生きるべきであるのか」ということを耳にするとき、人は「私は正しく生きているのか」という難しい問題の前に立たされます。正直に自分自身およびその生活を省みる人なら誰であれ、自分は正しく生きてこなかったことを認めるほかないでしょう。ある人はあるやり方で、またある人は別のやり方で、また各人が多くのやり方で神様の戒めを破ってきたのです。神様はこうした生き方を憎んでおられます。それゆえ、私たちは皆が各々、神様の厳しい裁きを受けるのが当たり前である存在なのです。

「フィンランドには罪人(つみびと)が少ないね」と、日本で伝道していた宣教師が帰国した際に言いました。これは「私たちフィンランド人はあまりにもよい人になったため、もはや罪人とは呼べない」という意味ではありません。その人が言いたかったのは「フィンランド人は自分自身を罪人とはみなしていない」ということです。その宣教師はフィンランド国内を伝道してまわったときに、人々が福音に対して驚くほどわずかしか興味を示さないことに気が付いたのです。「この国では人々が自らの邪悪さを理解せず、それゆえ、恵みの必要も感じないから、そうなのだろう」とその人は結論しました。フィンランドには罪人があまりにも少なく、それゆえ福音を求めている人もとても少ないことがどうしてか、私にはわかるような気がします。神様の律法について宣べ伝えられることがあまりにも少なすぎるのです。あるいは、人間がまるで自分の力で神様の戒めを完全に守ることができるかのような錯覚を与えるやり方で、神様の律法が宣べ伝えられているからです。律法の使命は、人をとらえてその罪をあらわにし、その人もまた他のすべての人と同様に罪人であり本来なら滅びるのが当然な存在であることを明確に示すことにあります。そして、このことを理解した者は福音を渇望するようになります。

「神様の戒めを宣べ伝えるべきではない。必要なのは優しい福音だけなのだから」、と考えている人たちもいます。これは正しくありません!もしも神様の御言葉が私たちに正しい理解を教えてくれなければ、正しいことと間違っていることに関する私たちの理解は前よりもいっそう曖昧になってしまいます。私たちは一瞬ごとにイエス様を必要としているのです。そして、とりわけこのことを理解するためにこそ、私たちには神様の戒めが必要なのです。律法によらなければ、私たちは自分の生き方によって神様を喜ばせることができるほどよい人であるかのように自分について思い込むようになってしまいます。しかし、このような思い込みのすぐそばには滅びが待ち受けているのです。律法はこの思い込みをなぎ倒します。そして、私たち自身の真実の状態、すなわち私たち自身の邪悪さを明らかに示してくれます。そして、私たちが自らの罪の赦しを願い求め、またそれをいただけるようにと、私たちをイエス様の御許に追いやるのです。

律法は必要です。しかし、律法は誰も救いません。なぜなら、神様に受け入れていただけるのに十分値するほど神様の律法を完全に実行できる人は誰もいないからです。それでは、何が救ってくれるのでしょうか。それは福音です。神様の福音はイエス様と十字架についてのメッセージです。神様の御子は全人類のすべての罪の受けるべき裁きを身代わりに引き受けてくださいました。そのおかげで、私たちは裁かれずに済みます。イエス様は御自分を贖罪の犠牲としてささげられました。そのおかげで、私たちはすべての罪を神様に赦していただいているのです。イエス様は神様の律法をそのはじめからおわりまで完璧に実行なさいました。このゆえに、神様は「イエス様に避けどころを求める者」を御自分にとってふさわしい者とみなしてくださるのです。彼らは自らの生き方によっては神様にとってふさわしい者などではありえないにもかかわらず、です。イエス様は十字架で死ぬことによって神様の恵みを私たちのために確保してくださいました。それに守られて、私たちは聖なる神様の御前においても滅ぼされることなく立ち続けることができるのです。神様の恵みは「キリストのもの」である者にとって守りなのです。「キリストのもの」というのは、キリストに所属するものとなるべく洗礼を授けられ、キリストを信じている人のことです。救いは賜物です。私たちはそれを何かの報酬として受け取ることはできないし、またその必要もありません。この賜物は、それを受け入れたい人なら誰であっても代価なしにいただけるものです。しかも、その人がどのような存在であるか、とか、その人は何を行うことができるのか、ということとはまったく関係なしに、です。自分が罪人(つみびと)であり裁きを受けるのが当然であることを理解した者は、全人類を罪の呪いから解放してくださったお方であるイエス・キリストについての福音を受け入れます。律法は、それがどのように宣べ伝えられようとも、イエス様への信仰を生み出しはしません。それを可能にするのは福音のみです。私たちは信仰を通して救われますが、その信仰を強めてくれるのは、律法ではなく福音です。

私はどこから神様の御心を満たす力を得るのでしょうか。「どのように生きるべきか」について正確に厳しく知らされたとしても、私にはそのような元気は出てきません。力を与えてくれるのは福音だからです。すなわち、どれほどたくさん神様が私を愛してくださったのか、また今も愛してくださっているのか、福音を通して私はたしかに知っているのです。神様からの賜物として永遠の命をいただく人は、神様に感謝するものです。神様に感謝するということは、日常生活の中で神様の御心を実現することです。福音から、すなわち、ひたすら神様の恵みのみによって私は救われるというメッセージから、私は神様の御心に適う生き方を切望する力と意志とをいただきます。私に対して信じられないほど善くしてくださるお方である私の父なる神様に対して、私は忠実でありたいと願います。その一方では、私たちが決して完全になることはありえず、また完全に近づくことすらありえないことを、私は心に刻んでおく必要があります。

信仰が生活にある種の制限を加えるのはたしかです。キリスト教信徒として生きることは、神様を畏れることです。神様を畏れることは、私が神様に完全に依存している存在であること、すなわち、私の命は神様が私に与えてくださる事柄、神様の私に対する憐れみ深さによって完全に左右されるものであると理解することです。ですから、私は神様を怒らせたいとは夢にも思いません。もしも私が神様を怒らせて、そのまま悔い改めないままでいるならば、神様は私を決して認めてはくださらないでしょう。そして、私にはありとあらゆる悪いことが起こるでしょう。神様は御言葉が無視されることを憎まれます。それゆえ、私には神様の御心を無視して生きていくような真似はとてもできません。そんなことをすれば聖なる神様を怒らせることになるし、それを私は深く恐れているからです。このようにして、信仰は私たちの生き方にある種の制限を与えます。私は自分がしたい放題の生き方をすることはできません。しかし、神様の戒めが定める限界は「善き限界」なのです。それは命を守ってくれるからです。そして、もしもそれに従うならば、多くの悪を避けることができるのです。  


脚注1) 原語では「アーメン」。
脚注2) 原語では「イオータ」(ギリシア語の小さなアルファベット。英語のiに相当)。
脚注3) 原語の意味はアルファベットに付けられる「小さな飾りの記号」。たとえばイオータ・スプスクリプトゥム(ある種の長母音のアルファベットの下についている非常に小さなイオータ記号のこと)。
脚注4) 「ヘブライの信徒への手紙」10章。